2018年10月5日金曜日

日本の歴史的課題


「なぜ日本はデフレで20年を失ったのか」、「なぜ日本はアメリカと戦争をしたのか」、「なぜ西郷隆盛は西南戦争を起こしたのか」、「なぜ天皇家は続いたのか」こういう議論がしばしば行われる。

しかし、「なぜ、日本は戦後世界第二の経済大国になったのか」、「なぜ日清・日露戦争で勝利したのか」、「なぜ明治維新は成功したのか」、「なぜ、武家政権が成立したのか」は余り熱心に論じらない。

これは、日本民族の本質にかかわる問題だ。日本の歴史の失敗も、成功も基本的な日本人社会の構造に問題がある。そして、この構造を形作ったのは民族の社会構造と精神性だ。

稲作文化を基盤とする社会では集団的秩序が重んじられる。村落のリーダーが損得を判断する際にも、村落の秩序維持に対する配慮が、重要性の判断で大きな割合いを占める。古代には天皇家を中心とする中央の文化的卓越性に基づく権威を認めることで村落のリーダーも、その社会において優越性を維持できる。しかし、平安末期に仏教が民衆のもとに広まると、地域に根差した武家勢力が武力を背景に権威を維持することができるようになった。

この武家の社会支配が800年にわたって日本社会に影響を与えることになる。武力による社会統制は徳川幕府の儒教の採用によって主君への忠誠が絶対のものとなる。明治維新で幕府が倒れても、新政府を牛耳ったのは薩摩・長州などの下級武士だ。支配層における武家の精神は明治から昭和の敗戦まで維持される。

欧米による世界植民地時代に日本は武家の精神をもって開国したわけだ。当然、日本は武家精神をもって厳しい社会統制の下で近代化を遂行し、世界の覇権主義の潮流に出ていくわけだ。武家にとって戦は勝つことも、負けることもあるが、戦いを拒否して社会で権威と信用を失い、支配的な地位を追われるよりは、負け戦でも戦うことで武士の名誉、価値、尊敬、畏怖の念を守れるなら戦おうということになる。従って、武家精神を受け継ぐ戦前の日本の支配層にとって、戦わずにアメリカの圧力に屈するという選択肢はなかった。民衆もそういう武家の精神を基本的に支持していた。そして、真珠湾攻撃が行われ、最終的に日本は300万人の戦死者を出して敗戦する。

戦後は、この武家精神が批判に曝され、代わりにアメリカ式の民主主義が主流になる。しかし、同時に拝金主義のアメリカ社会の風潮も受け入れる。経済界でも愛国や民族の繁栄などという考えは消滅し、近視眼的な利益追求が当然視される。中国の人件費が安ければ、どんどん中国に進出し、あげくの果てには日本国内の人件費も中国並みに引き下げようとする。個人主義、会社主義、業界主義で内部留保は増えるが、日本社会はデフレになっても反省に必要な思想もない。かつての武家支配の強力な秩序維持の枠組みだけが残って、組織全体の利己的な拝金主義に対する反省は生まれない。

この形骸化した枠組みでも、天皇家の権威は利用される。武家が天皇家を廃さなかったように、戦後も官僚、財界、政界のエリートは天皇家の古代からの文化的・精神的権威を秩序維持に利用する。アメリカ式の民主主義、アメリカの自由主義にはキリスト教、神の権威が背後にあるが、そのような一神教のバックボーンを持たない日本は、武家の権威が第二次大戦で失墜してからは、敗戦で色褪せたとはいえ神道と結びつく天皇家の権威に頼るしかない。日本の現代の民主主義、自由主義は表面を流れる潮流だが、その底流では日本人は日本で最も古い権威の皇室を維持することで安心を得る。

日本人は武家の精神と、欧米の近代文化の威力によって日清・日露戦争に勝利したが、それゆえに天皇をかつぐ政府・軍部の利己的な判断による日米開戦には反対しなかった。明治維新以来、政府・軍部への信頼は絶大だった。まさか、真珠湾攻撃・日米戦争が城を枕にしての討ち死になるとは考えなかった。国民が300万人戦死して、アメリカに支配されるような戦争を天皇は許すはずがないと考え、当時の国民の大多数は真珠湾攻撃に喝采した。

戦後は、親米を強くアピールする皇室と共に日本人は親米になる。軍部は瓦解し、武家精神は顧みられなくなる。代わりに、アメリカ式の民主主義、アメリカの自由主義が経済を含めて社会の潮流となる。皇室も戦前の軍部から戦後はアメリカに乗り換える。皇室の権威自体は形骸化する。それでも、無力な皇室をみんなで持ち上げるしかない。

アメリカのように本当の一神教の裏付けのない日本の民主主義、自由主義には危うさがついてまわる。20年間デフレでも企業の内部留保が増えれば、財界も政治家も問題なしとする。なぜなら、それがアメリカ式の経済運営の結果だからだ。国家と民族に及ぼす悪影響は論じられない。グローバリズムもアメリカ発だから盲目的に受けいれる。

アメリカ社会、国家、国民個人の最期の拠りどころは、キリスト教と神への信仰だが、日本には一神教の精神はない。仏教は葬式専門だし、儒教は生活習慣だし、皇室崇拝は形骸化しており、本当のところ日本民族には国土のもたらす自然風土と、縄文時代からの社会的霊性しかない。とても、一神教主流の世界では通用しない。だから、基本的にアメリカ追従となる。アメリカの宗教性は人類の根本原理に近いのだから間違いではない。しかし、いつまでもアメリカの後を歩いていれば、よいというわけではない。これが、日本の課題だ。