9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
11 わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。
12 わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。
13 いったい、あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何か。ただ、このわたしがあなたがたに負担をかけなかったことだけではないか。この不義は、どうか、ゆるしてもらいたい。
14 さて、わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりである。わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
11 I have made a fool of myself, but you drove me to it. I ought to have been commended by you, for I am not in the least inferior to the “super-apostles,” even though I am nothing. 12 I persevered in demonstrating among you the marks of a true apostle, including signs, wonders and miracles. 13 How were you inferior to the other churches, except that I was never a burden to you? Forgive me this wrong!
14 Now I am ready to visit you for the third time, and I will not be a burden to you, because what I want is not your possessions but you. After all, children should not have to save up for their parents, but parents for their children.
+++ +++ +++
AIでは、「この手紙では、苦しみの中での慰め、和解、使徒としてのパウロの務めなどが強く語られます。特に冒頭では、神が苦しみの中にいる人を慰めてくださる方として述べられています。 (bible.or.jp)」と説明されている。
また、Wikipediaでは、「第12章では「第三天まであげられた」という神秘体験について、自分に与えられた「とげ」について述べられている。この書簡では他のどれよりもパウロが自分自身について多く語っている」とされている。
ダマスカスでの途上で、イエスの霊の出現によって回心したパウロは、イエス・キリストの教えの伝道を開始したが、そのパウロの伝道生活での教えが現れれている。
「子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである」というのは、神様への信仰において、親の立場にある人間が、子の立場にある人間より、責任を担わなければならない、ことを教えている。
イエス・キリストの霊や聖霊によって、信仰心を高められた人間は、まだそうでない人間より、多くの責任がある。信仰者としての模範を示すべきだということです。
それは、「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘ん」ずるという、信仰者の覚悟につながるのです。
世の中では、自分を守るために強く出たり、相手を抑えるために侮辱し、敵を迫害し、追い込む人間が多い。それは、イエスの教えに反している以上、信仰者は「弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まり」を甘んじて受けるべきだと述べているのです。
つまり、悪魔の影響下の世の中で、信仰者は弱者の立場に甘んじなければならない。しかし、その時、霊界から天使たちが信仰者を助けてくれて、この世的な意味ではなく、霊的な意味で信仰者は強い立場に立つことができるのです。その結果、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」という立場を得ることができる。信仰によって弱い立場になった時に、天使たちが霊界から助けてくれて、強い立場になるということです。
神様は、自分の信者を見捨てられることはなく、信者を助けるために、天使を遣わされるのです。しかし、悪魔はいつでもその手先となった人間を見捨てるものです。悪魔の力を借りて強者だと思っていた者も、悪魔に見捨てられ、弱者の立場に落とされ、その姿を見て悪魔は笑うのです。
つまり、本当は強い親が、そのような信仰者としての模範を示すことで、後に続く子供の立場の人間は、信仰の意味を悟るのです。
そして、「たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがない」という信仰者の自信を持てるようになるのです。
パウロは、イエス・キリストの霊によって助けられているとの自信があったので、この世では弱者の立場になることも恐れなかったのです。
2026年10月2日金曜日
2026年10月1日木曜日
あなたの宝のある所には、心もある (マタイによる福音書 第 6 章) (where your treasure is, there your heart will be also)
19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイによる福音書 第 6 章)
19 “Do not store up for yourselves treasures on earth, where moths and vermin destroy, and where thieves break in and steal.
20 But store up for yourselves treasures in heaven, where moths and vermin do not destroy, and where thieves do not break in and steal.
21 For where your treasure is, there your heart will be also.
+++ +++ +++
このイエス・キリストの言葉、「あなたの宝のある所には、心もある」は、印象深い教えです。
また、「虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」という教えは、この世ではなく、死後の霊界の天国に自分の宝をたくわえよ、という教えです。
神様や、イエス・キリストの教え、聖霊や大霊の教えに従って生きる人の心は、既にこの世を離れており、その人の心は、この世ではなく、霊界の天国にあることになる。その人の心は、もはやこの世の損得、上下関係、好き嫌いの考えを去って、神様の判断、基準がその人の価値観を決めている。その人の心が霊界の天国にあれば、もはや、この世の何物によっても脅かされることはない。
そういう人は、この世で喪失感や孤独、絶望、恐怖、失意、混乱などには襲われない。悪魔ですら、もはやその人を誘惑できないし、攻撃すらもできないのです。自分の宝が、悪魔も手が出せない天国にあれば、安心して神様の教えに従って、生きていくことができる。
これが、人間にとって最良のベストの生き方なのです。
この世では、人は自分の宝、たいていは、その人の命や財産、富をもたらすさまざまな秘密、人間関係、特権や地位、肩書にこだわる。そして、それらを守るために、悪魔と手を握ってすら、自分の宝を守ろうとする。社会で全員がそのような生き方をしていれば、社会全体が地獄になる。
しかし、自分の宝が天国で神様や天使に守られていることを知っている者は、悪魔の誘惑や計略、脅しには耳を貸さない。まさに、大船に乗ってこの世の激流を渡っているのです。
仏教では、全ての欲望と執着を離れよと教える。最後に人間が執着するものは、自分の命です。自分の命を守ろうとして、人はあらゆる悪を必要悪だとして正当化する。だから、もはや個人の命のない世界が、仏教では最高の境地だとされている。
しかし、そうすると神様すら存在しない世界が最高の世界だということになる。そこには、悪魔は存在しないが、人間の心も存在せず、神様を讃える天使もおらず、神様すら存在しない。要するに、全ての存在するものを否定することになる。
神様は「私はあって、ある者である」とご自分のことを人間に知らされた。つまり、全て存在するものは、神様が存在するから存在することになる。だから、神様が存在しようと意志されたから天国や霊界が生じ、その下に物質界や人間界が存在するのです。人間は、その神様の意思の中で存在が許されたものであり、最初からその存在は、神様に依存しているのです。
だから、神様のいる天国に、人間にとっての一番大事な宝、つまり、自分の命を置いておくのが当然であり、最も安全な生き方だということになる。
このイエスの教えは、「神とは何か」や「人間の価値判断の源は何か」いう問題や、「人間を脅かすものとは何か」などという。根本的な問題と関係する。
つまり、全ての問題は、神様が直接支配されている霊界の天国にいれば解消する。世の中でさまざまなことで悩んでいても、天国と言う自宅に帰れば、全ての問題が解決するようなものです。その自宅に神様がおられるからだ、というのがイエス・キリストの教えなのです。
ただし、どんな教えを聞いても、心の底で、或は、魂の中で万物の創造主、支配者、所有者の神様のご威光を認めない人間は、それが理解できず、自己中心の考えに陥り、やがては、悪魔と手を組んで、間違った、或いは、狂った生き方をするようになる。
そうならないように、イエス・キリストは、まず、霊界とこの世の真理を人間の教えておられるのです。
「自分の宝は天国に積み、天国のことを常に考えよ」という教えです。この意味で、そのような人間は、この世の存在というより、霊界の天国の住人だということになる。そして、そういう人間は、この世でも無意識で霊能力が使えるようになる。
ただし、そのような霊格は、人格がそうであるように、無限の段階があり、無限の態様がある。霊界からこの世を監視している天使たちにとって、この世は見飽きることはないのだろう。それが、人間は人生を楽しむべきだという教えにもつながるが、そのような世界を離れてこそ、神様に近づけるのだという教えもある。
結局、人間は自分の宝を抱えて、神様の恵みの中で平安に生きるのが、幸福だということになる。その最低条件が、神様やイエス・キリスト様への信仰心を持つことなのです。
神様やイエス・キリストの言葉は、人間なら直観で分かるようにできている。よく考えて見れば、イエス・キリストの教えは、全く当然のことなのです。宝は安全な所に積むべきなのです。
20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。(マタイによる福音書 第 6 章)
19 “Do not store up for yourselves treasures on earth, where moths and vermin destroy, and where thieves break in and steal.
20 But store up for yourselves treasures in heaven, where moths and vermin do not destroy, and where thieves do not break in and steal.
21 For where your treasure is, there your heart will be also.
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このイエス・キリストの言葉、「あなたの宝のある所には、心もある」は、印象深い教えです。
また、「虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい」という教えは、この世ではなく、死後の霊界の天国に自分の宝をたくわえよ、という教えです。
神様や、イエス・キリストの教え、聖霊や大霊の教えに従って生きる人の心は、既にこの世を離れており、その人の心は、この世ではなく、霊界の天国にあることになる。その人の心は、もはやこの世の損得、上下関係、好き嫌いの考えを去って、神様の判断、基準がその人の価値観を決めている。その人の心が霊界の天国にあれば、もはや、この世の何物によっても脅かされることはない。
そういう人は、この世で喪失感や孤独、絶望、恐怖、失意、混乱などには襲われない。悪魔ですら、もはやその人を誘惑できないし、攻撃すらもできないのです。自分の宝が、悪魔も手が出せない天国にあれば、安心して神様の教えに従って、生きていくことができる。
これが、人間にとって最良のベストの生き方なのです。
この世では、人は自分の宝、たいていは、その人の命や財産、富をもたらすさまざまな秘密、人間関係、特権や地位、肩書にこだわる。そして、それらを守るために、悪魔と手を握ってすら、自分の宝を守ろうとする。社会で全員がそのような生き方をしていれば、社会全体が地獄になる。
しかし、自分の宝が天国で神様や天使に守られていることを知っている者は、悪魔の誘惑や計略、脅しには耳を貸さない。まさに、大船に乗ってこの世の激流を渡っているのです。
仏教では、全ての欲望と執着を離れよと教える。最後に人間が執着するものは、自分の命です。自分の命を守ろうとして、人はあらゆる悪を必要悪だとして正当化する。だから、もはや個人の命のない世界が、仏教では最高の境地だとされている。
しかし、そうすると神様すら存在しない世界が最高の世界だということになる。そこには、悪魔は存在しないが、人間の心も存在せず、神様を讃える天使もおらず、神様すら存在しない。要するに、全ての存在するものを否定することになる。
神様は「私はあって、ある者である」とご自分のことを人間に知らされた。つまり、全て存在するものは、神様が存在するから存在することになる。だから、神様が存在しようと意志されたから天国や霊界が生じ、その下に物質界や人間界が存在するのです。人間は、その神様の意思の中で存在が許されたものであり、最初からその存在は、神様に依存しているのです。
だから、神様のいる天国に、人間にとっての一番大事な宝、つまり、自分の命を置いておくのが当然であり、最も安全な生き方だということになる。
このイエスの教えは、「神とは何か」や「人間の価値判断の源は何か」いう問題や、「人間を脅かすものとは何か」などという。根本的な問題と関係する。
つまり、全ての問題は、神様が直接支配されている霊界の天国にいれば解消する。世の中でさまざまなことで悩んでいても、天国と言う自宅に帰れば、全ての問題が解決するようなものです。その自宅に神様がおられるからだ、というのがイエス・キリストの教えなのです。
ただし、どんな教えを聞いても、心の底で、或は、魂の中で万物の創造主、支配者、所有者の神様のご威光を認めない人間は、それが理解できず、自己中心の考えに陥り、やがては、悪魔と手を組んで、間違った、或いは、狂った生き方をするようになる。
そうならないように、イエス・キリストは、まず、霊界とこの世の真理を人間の教えておられるのです。
「自分の宝は天国に積み、天国のことを常に考えよ」という教えです。この意味で、そのような人間は、この世の存在というより、霊界の天国の住人だということになる。そして、そういう人間は、この世でも無意識で霊能力が使えるようになる。
ただし、そのような霊格は、人格がそうであるように、無限の段階があり、無限の態様がある。霊界からこの世を監視している天使たちにとって、この世は見飽きることはないのだろう。それが、人間は人生を楽しむべきだという教えにもつながるが、そのような世界を離れてこそ、神様に近づけるのだという教えもある。
結局、人間は自分の宝を抱えて、神様の恵みの中で平安に生きるのが、幸福だということになる。その最低条件が、神様やイエス・キリスト様への信仰心を持つことなのです。
神様やイエス・キリストの言葉は、人間なら直観で分かるようにできている。よく考えて見れば、イエス・キリストの教えは、全く当然のことなのです。宝は安全な所に積むべきなのです。
「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」 (ヨハネによる福音書 第 10 章) (The good shepherd lays down his life for the sheep.)
11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
19 これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
20 そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
21 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。(ヨハネによる福音書 第 10 章)
11 “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. 12 The hired hand is not the shepherd and does not own the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. 13 The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep.
14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me— 15 just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep. 16 I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. 17 The reason my Father loves me is that I lay down my life—only to take it up again. 18 No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father.”
19 The Jews who heard these words were again divided. 20 Many of them said, “He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?”
21 But others said, “These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?”
+++ +++ +++
AIによれば、「「牧師」に「牧」という字がつくのは、キリスト教の聖書において、キリストが自らや指導者を「羊を飼う羊飼い(牧者)」に例えたことに由来します」とされている。
なお、「聖書で「羊飼い」とは、神やイエスが民を導き守る存在を表す比喩です。実際の職業名であると同時に、霊的指導者の象徴としても使われます」とされている。
さらに、「旧約・新約を通して、羊飼いは「羊=神の民」を世話し、守り、導く者のイメージで語られます。(hiroshima.repo.nii.ac.jp) 神ご自身が「わたしはあなたがたの羊飼い」と表現される箇所があり、神の配慮と保護を示します(詩篇23篇など)(jh.aoyama.ed.jp)」と説明しており、さらに、「新約聖書では、イエスが「良い羊飼い」として、自分の羊を知り、そのために命を捨てる方として描かれます(ヨハネ10章)。(christianpure.com) 迷った一匹を探し出す羊飼いのたとえは、罪人を探し出し、連れ戻す神の愛を表します(マタイ18章、ルカ15章)。(luther.repo.nii.ac.jp)」と述べている。
実際、福音書では、イエス・キリストは、「多く(100匹)の羊の中から1匹が囲いの中から迷い出たとしても、良い羊飼いは、他の99匹を囲いの中に置いておいて、その失われた1匹を探しに行く」とも述べておられる。
多くの羊がいるので、1匹の羊の世話に時間をかけていられない、と言って、どの1匹の羊の面倒も見ないようでは、100匹のどの羊の面倒も見ないことになる。つまり、数が多いので1つも相手にできない、だから、何もしないというふざけた言い訳です。
これは、教師が、学校には多くの生徒がいるから、一人一人の生徒には時間をかけて面倒を見れない、と言って、どの生徒の相談にも応じないようなものです。つまり、一人の生徒を指導しない教師は、全員の指導もしないものです。
つまり、集団の大きさを口実にして、集団の構成員の一人一人の面倒を見ない、呆れた指導者がいる。彼らは、面倒を見たり、相談に応じるという責任を放棄しているのです。
それとは逆に、誠意のある指導者・管理者は、他の大勢をいったん自由にしておいて、集団から離れて迷った一人の人間を救い出そうとするものです。
世の中の誘惑や悪の罠にはまって、教会から離れた元信者を救い出して、神様の教えの下に連れ帰るのが、神父や牧師や務めです。他の信者は教会に残しておいて、神父・牧師は世の中の荒波に入って行って、その迷い出た信徒を救い出すのが彼らの務めなのです。
しかし、そういう面倒な元信者のことは無視することが多い。自分たちの評価や教会の評判が上がることだけを気にかけているような宗教的指導者は、個々の信者の苦しみや悲しみは無視する。要するに、人間的に未熟な人間が、学校でよい成績を取ったというだけで、高い地位を与えられても、誰も救わないし、社会の役にも立たない。
仏教や神道、又は、キリスト教系の学校で良い成績を取ったからといって、良い宗教人になれるとは限らない。
信者を救うためであれば、自分の命を捨てる覚悟のある宗教的指導者が必要なのです。
「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの言葉は、人間社会の全ての組織や団体の指導者にあてはまることです。
「良い羊飼い」になれ、というのがイエス・キリストの与える教訓です。
また、一家の主人も一人の羊飼いなのです。家族の一人ひとりのために命をかけるのが、一家の主人なのです。
12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
19 これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
20 そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
21 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。(ヨハネによる福音書 第 10 章)
11 “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. 12 The hired hand is not the shepherd and does not own the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. 13 The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep.
14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me— 15 just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep. 16 I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. 17 The reason my Father loves me is that I lay down my life—only to take it up again. 18 No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father.”
19 The Jews who heard these words were again divided. 20 Many of them said, “He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?”
21 But others said, “These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?”
+++ +++ +++
AIによれば、「「牧師」に「牧」という字がつくのは、キリスト教の聖書において、キリストが自らや指導者を「羊を飼う羊飼い(牧者)」に例えたことに由来します」とされている。
なお、「聖書で「羊飼い」とは、神やイエスが民を導き守る存在を表す比喩です。実際の職業名であると同時に、霊的指導者の象徴としても使われます」とされている。
さらに、「旧約・新約を通して、羊飼いは「羊=神の民」を世話し、守り、導く者のイメージで語られます。(hiroshima.repo.nii.ac.jp) 神ご自身が「わたしはあなたがたの羊飼い」と表現される箇所があり、神の配慮と保護を示します(詩篇23篇など)(jh.aoyama.ed.jp)」と説明しており、さらに、「新約聖書では、イエスが「良い羊飼い」として、自分の羊を知り、そのために命を捨てる方として描かれます(ヨハネ10章)。(christianpure.com) 迷った一匹を探し出す羊飼いのたとえは、罪人を探し出し、連れ戻す神の愛を表します(マタイ18章、ルカ15章)。(luther.repo.nii.ac.jp)」と述べている。
実際、福音書では、イエス・キリストは、「多く(100匹)の羊の中から1匹が囲いの中から迷い出たとしても、良い羊飼いは、他の99匹を囲いの中に置いておいて、その失われた1匹を探しに行く」とも述べておられる。
多くの羊がいるので、1匹の羊の世話に時間をかけていられない、と言って、どの1匹の羊の面倒も見ないようでは、100匹のどの羊の面倒も見ないことになる。つまり、数が多いので1つも相手にできない、だから、何もしないというふざけた言い訳です。
これは、教師が、学校には多くの生徒がいるから、一人一人の生徒には時間をかけて面倒を見れない、と言って、どの生徒の相談にも応じないようなものです。つまり、一人の生徒を指導しない教師は、全員の指導もしないものです。
つまり、集団の大きさを口実にして、集団の構成員の一人一人の面倒を見ない、呆れた指導者がいる。彼らは、面倒を見たり、相談に応じるという責任を放棄しているのです。
それとは逆に、誠意のある指導者・管理者は、他の大勢をいったん自由にしておいて、集団から離れて迷った一人の人間を救い出そうとするものです。
世の中の誘惑や悪の罠にはまって、教会から離れた元信者を救い出して、神様の教えの下に連れ帰るのが、神父や牧師や務めです。他の信者は教会に残しておいて、神父・牧師は世の中の荒波に入って行って、その迷い出た信徒を救い出すのが彼らの務めなのです。
しかし、そういう面倒な元信者のことは無視することが多い。自分たちの評価や教会の評判が上がることだけを気にかけているような宗教的指導者は、個々の信者の苦しみや悲しみは無視する。要するに、人間的に未熟な人間が、学校でよい成績を取ったというだけで、高い地位を与えられても、誰も救わないし、社会の役にも立たない。
仏教や神道、又は、キリスト教系の学校で良い成績を取ったからといって、良い宗教人になれるとは限らない。
信者を救うためであれば、自分の命を捨てる覚悟のある宗教的指導者が必要なのです。
「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの言葉は、人間社会の全ての組織や団体の指導者にあてはまることです。
「良い羊飼い」になれ、というのがイエス・キリストの与える教訓です。
また、一家の主人も一人の羊飼いなのです。家族の一人ひとりのために命をかけるのが、一家の主人なのです。
2026年9月29日火曜日
「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」 (“A prophet is not without honor except in his own town, among his relatives and in his own home.” )
イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、
9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。
10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。
11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、
13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。 (マルコによる福音書 第 6 章)
2 When the Sabbath came, he began to teach in the synagogue, and many who heard him were amazed.
“Where did this man get these things?” they asked. “What’s this wisdom that has been given him? What are these remarkable miracles he is performing? 3 Isn’t this the carpenter? Isn’t this Mary’s son and the brother of James, Joseph, Judas and Simon? Aren’t his sisters here with us?” And they took offense at him.
4 Jesus said to them, “A prophet is not without honor except in his own town, among his relatives and in his own home.” 5 He could not do any miracles there, except lay his hands on a few sick people and heal them. 6 He was amazed at their lack of faith.
Then Jesus went around teaching from village to village. 7 Calling the Twelve to him, he began to send them out two by two and gave them authority over impure spirits.
8 These were his instructions: “Take nothing for the journey except a staff—no bread, no bag, no money in your belts. 9 Wear sandals but not an extra shirt. 10 Whenever you enter a house, stay there until you leave that town. 11 And if any place will not welcome you or listen to you, leave that place and shake the dust off your feet as a testimony against them.”
12 They went out and preached that people should repent. 13 They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them.
+++ +++ +++
予言者は、その故郷では尊敬されない、という「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」というイエス・キリストの言葉は、よく知られている。
また、予言者は、その家族や親族によっては尊敬されない、という「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」という言葉もよく知られている。
さらに、弟子を各地に派遣されるときに、「つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように」と命じられたこともよく知られれている。つまり、ホームレスとして伝道せよ、ということです。
そして、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい」と、落ち着いて一軒の家で伝道することを命じ、周囲をきょろきょろと見て歩くようなことをしてはならない、と教えておられる。
最期に、「あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」と、人々が弟子たちに敬意を払わなかったときに備えて、警告も与えている。
イエスの教えに従った弟子たちは、各地の村や町で伝道し、「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とされている。
今でも、キリスト教会は、基本的にこの教えに従って、神父、修道士、修道女などを各地に派遣している。1979年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサなども、質素な姿で、身の回りの物だけをもって、世界を旅していた。
しかし、イエスは、冗談で弟子たちを人々への伝道のために派遣するのではなく、神様の教えを延べ伝えるという、厳粛で真剣な聖なる行いとして、弟子を派遣するのです。そこでは、神の教えに反対する者もいる。どんな、妨害や無視や、冷笑にあうかも分からない。そときに、弟子たちが動揺しないように、そのような場合に備えて、「彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」と、取るべき態度を教えている。
つまり、弟子たちの背後には、イエス・キリストがおり、イエスの背後には神様の霊や聖霊がいることに自信を持って、堂々と威厳をもって反対者に接することを教えている。誰もが、神様の言葉を聞いて喜ぶものではないことを、前もって教えておられるのです。
そして、弟子たちは「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とされている。人々の心から悪霊を追い出し、人々の病もいやしてやれば、人々は精神的にも、肉体的にも苦痛から救われる。救われた人々は、弟子たちの伝えるイエス・キリストの言葉を信じ、キリスト教が成立するようになったのです。
要するに、イエス・キリストの周到な作戦と、弟子たちに与えられた必要な霊能力によって、イエス・キリストの教えは人々に広まり、キリスト教は成立するようになったのです。
悪魔の影響の下にある、人間社会に神様の言葉を伝えるのが、いかに困難であり、伝道者の持ち物から、反対者への対応の仕方まで、イエスは教える必要があったのです。
今でも、カトリック教会は、このイエス・キリストの教えに従うという伝統を守っている(衣服も千年以上前の衣服に従っている)。他方、アメリカのプロテスタントの牧師などは、現代的なビジネス・マンの姿をして、伝統にはこだわらない姿勢を見せている。いづれにしても、人間の霊や魂の問題は不変であり、2千年前のイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。
神様も悪魔も、何千年前から変わっておらず、イエス・キリストの教えも不変なのです。人間は、生まれて、生きて、そして、死ぬものなのです。人間は、霊界から魂をもって、この世に生まれ、この世で生きて、やがて、この世で死に、魂は霊界に戻るのです。つまり、霊が死んで消滅することはない。ただし、神様が地獄の悪魔を消滅させるときは、悪魔によって地獄に連れ込まれた人間の霊も地獄と共に消滅することになる。そのときに、出来るだけ多くの人間の霊を自分と共に消滅させようとするのが、悪魔の狂った試みなのです。悪魔は、神様によって消滅させられることは承知しているが、神様によって作られた人間を、できるだけ多く道連れにしようと考えているのです。
だから、地獄に行く人間は、悪魔のように狂っていくのです。神様に消滅させられながら、神様のご威光を少しでも損なった気になって消滅していくのです。自殺する人間が、自分の自殺によって神様の威厳が損なわれたと考えて、喜びながら死ぬようなものです。
悪魔の教えに従って、この世の富や名声を得た最後に、悪魔に取り付かれた人が出会うのは、地獄で狂った悪魔なのです。
これに反して、神様の信仰者は、天国で永遠の命と幸福を得るのです。これが、霊的なキリスト教の教えなのです。
2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、
9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。
10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。
11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、
13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。 (マルコによる福音書 第 6 章)
2 When the Sabbath came, he began to teach in the synagogue, and many who heard him were amazed.
“Where did this man get these things?” they asked. “What’s this wisdom that has been given him? What are these remarkable miracles he is performing? 3 Isn’t this the carpenter? Isn’t this Mary’s son and the brother of James, Joseph, Judas and Simon? Aren’t his sisters here with us?” And they took offense at him.
4 Jesus said to them, “A prophet is not without honor except in his own town, among his relatives and in his own home.” 5 He could not do any miracles there, except lay his hands on a few sick people and heal them. 6 He was amazed at their lack of faith.
Then Jesus went around teaching from village to village. 7 Calling the Twelve to him, he began to send them out two by two and gave them authority over impure spirits.
8 These were his instructions: “Take nothing for the journey except a staff—no bread, no bag, no money in your belts. 9 Wear sandals but not an extra shirt. 10 Whenever you enter a house, stay there until you leave that town. 11 And if any place will not welcome you or listen to you, leave that place and shake the dust off your feet as a testimony against them.”
12 They went out and preached that people should repent. 13 They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them.
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予言者は、その故郷では尊敬されない、という「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」というイエス・キリストの言葉は、よく知られている。
また、予言者は、その家族や親族によっては尊敬されない、という「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」という言葉もよく知られている。
さらに、弟子を各地に派遣されるときに、「つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように」と命じられたこともよく知られれている。つまり、ホームレスとして伝道せよ、ということです。
そして、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい」と、落ち着いて一軒の家で伝道することを命じ、周囲をきょろきょろと見て歩くようなことをしてはならない、と教えておられる。
最期に、「あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」と、人々が弟子たちに敬意を払わなかったときに備えて、警告も与えている。
イエスの教えに従った弟子たちは、各地の村や町で伝道し、「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とされている。
今でも、キリスト教会は、基本的にこの教えに従って、神父、修道士、修道女などを各地に派遣している。1979年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサなども、質素な姿で、身の回りの物だけをもって、世界を旅していた。
しかし、イエスは、冗談で弟子たちを人々への伝道のために派遣するのではなく、神様の教えを延べ伝えるという、厳粛で真剣な聖なる行いとして、弟子を派遣するのです。そこでは、神の教えに反対する者もいる。どんな、妨害や無視や、冷笑にあうかも分からない。そときに、弟子たちが動揺しないように、そのような場合に備えて、「彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」と、取るべき態度を教えている。
つまり、弟子たちの背後には、イエス・キリストがおり、イエスの背後には神様の霊や聖霊がいることに自信を持って、堂々と威厳をもって反対者に接することを教えている。誰もが、神様の言葉を聞いて喜ぶものではないことを、前もって教えておられるのです。
そして、弟子たちは「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とされている。人々の心から悪霊を追い出し、人々の病もいやしてやれば、人々は精神的にも、肉体的にも苦痛から救われる。救われた人々は、弟子たちの伝えるイエス・キリストの言葉を信じ、キリスト教が成立するようになったのです。
要するに、イエス・キリストの周到な作戦と、弟子たちに与えられた必要な霊能力によって、イエス・キリストの教えは人々に広まり、キリスト教は成立するようになったのです。
悪魔の影響の下にある、人間社会に神様の言葉を伝えるのが、いかに困難であり、伝道者の持ち物から、反対者への対応の仕方まで、イエスは教える必要があったのです。
今でも、カトリック教会は、このイエス・キリストの教えに従うという伝統を守っている(衣服も千年以上前の衣服に従っている)。他方、アメリカのプロテスタントの牧師などは、現代的なビジネス・マンの姿をして、伝統にはこだわらない姿勢を見せている。いづれにしても、人間の霊や魂の問題は不変であり、2千年前のイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。
神様も悪魔も、何千年前から変わっておらず、イエス・キリストの教えも不変なのです。人間は、生まれて、生きて、そして、死ぬものなのです。人間は、霊界から魂をもって、この世に生まれ、この世で生きて、やがて、この世で死に、魂は霊界に戻るのです。つまり、霊が死んで消滅することはない。ただし、神様が地獄の悪魔を消滅させるときは、悪魔によって地獄に連れ込まれた人間の霊も地獄と共に消滅することになる。そのときに、出来るだけ多くの人間の霊を自分と共に消滅させようとするのが、悪魔の狂った試みなのです。悪魔は、神様によって消滅させられることは承知しているが、神様によって作られた人間を、できるだけ多く道連れにしようと考えているのです。
だから、地獄に行く人間は、悪魔のように狂っていくのです。神様に消滅させられながら、神様のご威光を少しでも損なった気になって消滅していくのです。自殺する人間が、自分の自殺によって神様の威厳が損なわれたと考えて、喜びながら死ぬようなものです。
悪魔の教えに従って、この世の富や名声を得た最後に、悪魔に取り付かれた人が出会うのは、地獄で狂った悪魔なのです。
これに反して、神様の信仰者は、天国で永遠の命と幸福を得るのです。これが、霊的なキリスト教の教えなのです。
2026年9月28日月曜日
「知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」 (ルカによる福音書 第 11 章) (You yourselves have not entered, and you have hindered those who were entering.”)
46 そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。
47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。
52 あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。
53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、
54 イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。(ルカによる福音書 第 11 章)
46 Jesus replied, “And you experts in the law, woe to you, because you load people down with burdens they can hardly carry, and you yourselves will not lift one finger to help them.
47 “Woe to you, because you build tombs for the prophets, and it was your ancestors who killed them. 48 So you testify that you approve of what your ancestors did; they killed the prophets, and you build their tombs. 49 Because of this, God in his wisdom said, ‘I will send them prophets and apostles, some of whom they will kill and others they will persecute.’ 50 Therefore this generation will be held responsible for the blood of all the prophets that has been shed since the beginning of the world, 51 from the blood of Abel to the blood of Zechariah, who was killed between the altar and the sanctuary. Yes, I tell you, this generation will be held responsible for it all.
52 “Woe to you experts in the law, because you have taken away the key to knowledge. You yourselves have not entered, and you have hindered those who were entering.”
53 When Jesus went outside, the Pharisees and the teachers of the law began to oppose him fiercely and to besiege him with questions, 54 waiting to catch him in something he might say.
+++ +++ +++
AIでは、「アベルは創世記で、兄カインに殺された人物です。聖書の中では、アベルは最初に殺された正しい者として理解されます。なので「アベルの血」は、ただ一人の死ではなく、罪のない者が流した血の始まりを表しています。 (babelbible.net)」とされている。また、「イエスはここで「アベルの血からザカリヤの血まで」と言っています。これは、聖書の最初期に殺されたアベルから、旧約の最後の方に出てくるザカリヤまでを並べて、神に仕える人が一貫して拒まれ、殺されてきた歴史全体を示す言い方です。 (churchofjesuschrist.org)」と説明されている。
特に、印象深いイエス・キリストの指摘は、「律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」という箇所です。
これは、今の世の知識人やエリートにもあてはまります。人々が真理を知ることを妨げ、自分自身も真理を極めようとしない各方面の学者への批判です。
だから、都市伝説や陰謀論の形で、一般人が世の中の真実を見極めようとする。しかし、その真実は覆い隠されていることが多い。それでも、「真実はいずれ人々に知られる。隠されていることで、公に知られないものはない」と、イエスは述べている。真実の力の恐ろしさです。
だから、苦労し、悟りを得た修行者のことは、やがて人々に知られる。人知れず、真理を追究し、力を得た研究者のことも、いつかは人々に知られる。また、真実の信仰者も、いづれ世の中に現れる。「灯りは、寝台の下ではなく、燭台の上に置かれる」ものだからです。これが、神様が定められた、この世の法則なのです。それを邪魔するのが、悪魔に魂を売ったエリートや富裕層なのです。
UFO研究家の矢追純一は、支配者は一般人に真実を教えない。UFO・宇宙人の真実を、世界のエリートや権力者は隠していると述べている。エリートは、秘密を自分たちのものにして、一般人には知らせないのが昔から普通だという。アメリカで人々がUFO・宇宙人の真実を求めて政府と戦う人が絶えないのは、キリスト教の伝統のせいです。矢追自身は、クリスチャンではなく、ニヒリストだが、真実を見抜いていることになる。
そういう隠れた真実を人々に知らせて、社会の闇から人々を解放し、自由を与える働きもイエスはしていたことになる。
政界でも、経済界でも、ビジネス界でも、宗教界や学会でも、権力者やエリートしか知らない秘密というものがある。それを明らかにするのが、キリスト教精神に基づく文化をもつ欧米の伝統なのです。都市伝説も陰謀論も、キリスト教の伝統のある欧米のジャーナリズムから生まれたものです。
日本でも、第二次大戦での敗戦で、日本の旧支配層が放逐されるまで、一般人は闇に置かれていた。戦後は、アメリカのキリスト教に基づく自由の精神が導入され、真実を明らかにする自由が一般人にもたらされたのです。(ただし、まだ天皇家を中心とする隠れた支配層が日本に存在し、社会を陰で支配しようとしている。彼らの影響から脱するには、日本人はもっとキリスト教を学ぶべきです。)
しかし、この自由は、一般の日本人が戦って得たものではなく、キリスト教精神の自由の国のアメリカと、天皇神道を強制されていた日本の戦いの結果、日本は敗戦し、日本がアメリカの支配下に置かれて実現したものなのです。そして、戦後はアメリカの民主主義にならった現日本国憲法が採用され、今日のように日本は平和と繁栄を謳歌できたのです。まさに、ケガの功名で日本社会は解放されたのです。ここに、神様の神慮を見るのが信仰なのです。このキリスト教精神は、アメリカ経由で日本にもたされたので、日本人はアメリカを尊敬しているのです。
ただし、今も、中国や北朝鮮のように、自由のない独裁国家がアジアにあり、ある意味では、その国の民衆の社会的な開放が求められている。戦前の日本社会から解放された戦後の日本人が、自由と発展を享受できたように、彼らもキリスト教精神で解放される必要がある。これが、正しい歴史観であり正しい歴史認識なのです。
それでも、欧米のキリスト教自体が、行き詰まり、腐敗し、堕落している現在、真のキリスト教精神を受け継ぐのは、独自の霊性に満ちた日本だという主張をする宗教家もいる。神道や仏教の霊性を認める日本人の中にも、霊的にキリスト教を認める日本人はいる。日本人の宗教家の鈴木大拙が、クリスチャンの神秘家スエーデンボルグの著作を研究したのも、その例です。
日本人は、さらに霊性を深め、キリスト教を理解し、その恩恵に与るために、聖書を研究すべきです。そして、イエス・キリストが言うように、それを妨げる勢力と戦わなければならない。彼らの背後には悪魔がいるのです。だから、エリートや富裕層は信用できない。
そういう意味で、神様の恵みを人々が得るために、日本独自の世界史的な存在意義があるのです。
47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。
52 あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。
53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、
54 イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。(ルカによる福音書 第 11 章)
46 Jesus replied, “And you experts in the law, woe to you, because you load people down with burdens they can hardly carry, and you yourselves will not lift one finger to help them.
47 “Woe to you, because you build tombs for the prophets, and it was your ancestors who killed them. 48 So you testify that you approve of what your ancestors did; they killed the prophets, and you build their tombs. 49 Because of this, God in his wisdom said, ‘I will send them prophets and apostles, some of whom they will kill and others they will persecute.’ 50 Therefore this generation will be held responsible for the blood of all the prophets that has been shed since the beginning of the world, 51 from the blood of Abel to the blood of Zechariah, who was killed between the altar and the sanctuary. Yes, I tell you, this generation will be held responsible for it all.
52 “Woe to you experts in the law, because you have taken away the key to knowledge. You yourselves have not entered, and you have hindered those who were entering.”
53 When Jesus went outside, the Pharisees and the teachers of the law began to oppose him fiercely and to besiege him with questions, 54 waiting to catch him in something he might say.
+++ +++ +++
AIでは、「アベルは創世記で、兄カインに殺された人物です。聖書の中では、アベルは最初に殺された正しい者として理解されます。なので「アベルの血」は、ただ一人の死ではなく、罪のない者が流した血の始まりを表しています。 (babelbible.net)」とされている。また、「イエスはここで「アベルの血からザカリヤの血まで」と言っています。これは、聖書の最初期に殺されたアベルから、旧約の最後の方に出てくるザカリヤまでを並べて、神に仕える人が一貫して拒まれ、殺されてきた歴史全体を示す言い方です。 (churchofjesuschrist.org)」と説明されている。
特に、印象深いイエス・キリストの指摘は、「律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」という箇所です。
これは、今の世の知識人やエリートにもあてはまります。人々が真理を知ることを妨げ、自分自身も真理を極めようとしない各方面の学者への批判です。
だから、都市伝説や陰謀論の形で、一般人が世の中の真実を見極めようとする。しかし、その真実は覆い隠されていることが多い。それでも、「真実はいずれ人々に知られる。隠されていることで、公に知られないものはない」と、イエスは述べている。真実の力の恐ろしさです。
だから、苦労し、悟りを得た修行者のことは、やがて人々に知られる。人知れず、真理を追究し、力を得た研究者のことも、いつかは人々に知られる。また、真実の信仰者も、いづれ世の中に現れる。「灯りは、寝台の下ではなく、燭台の上に置かれる」ものだからです。これが、神様が定められた、この世の法則なのです。それを邪魔するのが、悪魔に魂を売ったエリートや富裕層なのです。
UFO研究家の矢追純一は、支配者は一般人に真実を教えない。UFO・宇宙人の真実を、世界のエリートや権力者は隠していると述べている。エリートは、秘密を自分たちのものにして、一般人には知らせないのが昔から普通だという。アメリカで人々がUFO・宇宙人の真実を求めて政府と戦う人が絶えないのは、キリスト教の伝統のせいです。矢追自身は、クリスチャンではなく、ニヒリストだが、真実を見抜いていることになる。
そういう隠れた真実を人々に知らせて、社会の闇から人々を解放し、自由を与える働きもイエスはしていたことになる。
政界でも、経済界でも、ビジネス界でも、宗教界や学会でも、権力者やエリートしか知らない秘密というものがある。それを明らかにするのが、キリスト教精神に基づく文化をもつ欧米の伝統なのです。都市伝説も陰謀論も、キリスト教の伝統のある欧米のジャーナリズムから生まれたものです。
日本でも、第二次大戦での敗戦で、日本の旧支配層が放逐されるまで、一般人は闇に置かれていた。戦後は、アメリカのキリスト教に基づく自由の精神が導入され、真実を明らかにする自由が一般人にもたらされたのです。(ただし、まだ天皇家を中心とする隠れた支配層が日本に存在し、社会を陰で支配しようとしている。彼らの影響から脱するには、日本人はもっとキリスト教を学ぶべきです。)
しかし、この自由は、一般の日本人が戦って得たものではなく、キリスト教精神の自由の国のアメリカと、天皇神道を強制されていた日本の戦いの結果、日本は敗戦し、日本がアメリカの支配下に置かれて実現したものなのです。そして、戦後はアメリカの民主主義にならった現日本国憲法が採用され、今日のように日本は平和と繁栄を謳歌できたのです。まさに、ケガの功名で日本社会は解放されたのです。ここに、神様の神慮を見るのが信仰なのです。このキリスト教精神は、アメリカ経由で日本にもたされたので、日本人はアメリカを尊敬しているのです。
ただし、今も、中国や北朝鮮のように、自由のない独裁国家がアジアにあり、ある意味では、その国の民衆の社会的な開放が求められている。戦前の日本社会から解放された戦後の日本人が、自由と発展を享受できたように、彼らもキリスト教精神で解放される必要がある。これが、正しい歴史観であり正しい歴史認識なのです。
それでも、欧米のキリスト教自体が、行き詰まり、腐敗し、堕落している現在、真のキリスト教精神を受け継ぐのは、独自の霊性に満ちた日本だという主張をする宗教家もいる。神道や仏教の霊性を認める日本人の中にも、霊的にキリスト教を認める日本人はいる。日本人の宗教家の鈴木大拙が、クリスチャンの神秘家スエーデンボルグの著作を研究したのも、その例です。
日本人は、さらに霊性を深め、キリスト教を理解し、その恩恵に与るために、聖書を研究すべきです。そして、イエス・キリストが言うように、それを妨げる勢力と戦わなければならない。彼らの背後には悪魔がいるのです。だから、エリートや富裕層は信用できない。
そういう意味で、神様の恵みを人々が得るために、日本独自の世界史的な存在意義があるのです。
食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった (マタイによる福音書 第 14 章) (The number of those who ate was about five thousand men, besides women and children.)
14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。
15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。
16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。
17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。
18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。
19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。(マタイによる福音書 第 14 章)
14 When Jesus landed and saw a large crowd, he had compassion on them and healed their sick.
15 As evening approached, the disciples came to him and said, “This is a remote place, and it’s already getting late. Send the crowds away, so they can go to the villages and buy themselves some food.”
16 Jesus replied, “They do not need to go away. You give them something to eat.”
17 “We have here only five loaves of bread and two fish,” they answered.
18 “Bring them here to me,” he said. 19 And he directed the people to sit down on the grass. Taking the five loaves and the two fish and looking up to heaven, he gave thanks and broke the loaves. Then he gave them to the disciples, and the disciples gave them to the people. 20 They all ate and were satisfied, and the disciples picked up twelve basketfuls of broken pieces that were left over. 21 The number of those who ate was about five thousand men, besides women and children.
+++ +++ +++
AIによれば、「五千人の給食は、聖書の中でもとても有名なパンの奇跡です」と記されている。また、「イエスが五つのパンと二匹の魚で、多くの人を食べさせた出来事です。食べた人は、女と子どもを除いておよそ五千人とされています。さらに、食べ終わったあとには十二のかごいっぱいのパンくずが残りました (bible.com)」とされている。
これは、イエス・キリストが霊能力で、パンや魚を空中から取り出したものと考えられている。つまり、物品(パンや魚)の出現や移動を霊能力で起こして、パンや魚を人々に与えたと解釈される。
この能力があったイエスとその弟子の一行は、必要があれば、食物を空中から取り出すことが出来て、飢えることがなかったことが分かる。しかし、イエスは、病を癒された人たちが、感謝の念からイエスの一行を、自宅でお礼に食事を提供したので、それを食して生きていたとも考えられる。イエスは、人々の感謝の心を、彼らがお礼として出す食事をして受け取っていたのです。
病気を癒された人たちが、お礼として、イエスたちに食事を振るまえなくても、イエスたちは困ることはなかった。イエスにお礼をしたい人たちの感謝の念を尊重して、彼らが与える食事をとっていたことが分かる。
AIでは、さらに「この場面のパンは、ただの食べ物というだけでなく、神の恵みが人に十分に与えられることを表すものとして読まれることが多いです。ヨハネ福音書では、この出来事のあとにイエスが命のパンについて語る流れにもつながります (bible.com)」とされている。
しかし、5千人の人、全員に食物を与えるというのは、大きな出来事なので、福音書の作者は印象深く記述している。イエス・キリストがユダヤ人の王になれば、民衆は飢えから解放されたはずだということも分かる。この奇跡の後では、イエス・キリストの噂は、全ユダヤ人に広がったと思われる。
今でも、物品の移動を行ったり、空中から物品を取り出す霊能者が日本にもいるが、5千人の食事を空中から出現させたり、どこかから、食品を移動させてくるほどの霊能者はいない。そういう意味で、イエス・キリストの霊能力は驚異的です。
まさに、イエス・キリストは一国を支配し管理するだけの力を持っていた。また、必要があれば、天の軍勢をこの世に呼んで、敵国を倒すこともできただろうと思われる。
イエスが、伝道を始める前に、悪魔がイエスに、自分を拝めば、国々を支配させてやると言っていたが、そんな悪魔の助けを借りずとも、イエスは国々を支配できる力があったのです。悪魔がイエスにしたことは、大金持ちに、悪魔を崇めれば、金貨を1枚やると言ったようなものです。悪魔は、イエス・キリストによって道化にされているのです。
しかし、イエス・キリストは、弟子のユダの裏切りがあった時には、権力者と武力で戦かわずに、彼らの計略に従って十字架上の死を受け入れられた。必要なら、何十万という天の軍勢を呼ぶこともできたイエス・キリストが十字架上での刑死を受け入れた方が驚きなのです。だから、イエスの十字架上での死について、2千年間も西欧の神学では議論が続いている。
パレスチナを支配するローマ軍ですら、一掃できたイエス・キリストが、神様の愛を人々に教えるために、身をもって十字架上での刑死を受け入れられたことは、まさに、死をもって平和を愛することを示されたのです。
イエスは、奇跡も起こせず弱かったから、十字架上で死んだのではなく、ローマ軍やユダヤ教の幹部たちを物理的に打ち破る力があったが、それでは、人々に愛と信仰の力を見せられないので、あえて十字架上での死を選ばれたのです。
人々にパンや魚を与えられた時も、単に人々の空腹を癒す目的でなく、もっと大事な、人々に命を与える神様の言葉と愛の力を示されたいと思われたからだと考えられる。
従来の聖書解釈では、神の子としての超能力や霊能力を持ち、ローマ皇帝以上に強かったイエス・キリストの真の姿を見落としている。
15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。
16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。
17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。
18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。
19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。(マタイによる福音書 第 14 章)
14 When Jesus landed and saw a large crowd, he had compassion on them and healed their sick.
15 As evening approached, the disciples came to him and said, “This is a remote place, and it’s already getting late. Send the crowds away, so they can go to the villages and buy themselves some food.”
16 Jesus replied, “They do not need to go away. You give them something to eat.”
17 “We have here only five loaves of bread and two fish,” they answered.
18 “Bring them here to me,” he said. 19 And he directed the people to sit down on the grass. Taking the five loaves and the two fish and looking up to heaven, he gave thanks and broke the loaves. Then he gave them to the disciples, and the disciples gave them to the people. 20 They all ate and were satisfied, and the disciples picked up twelve basketfuls of broken pieces that were left over. 21 The number of those who ate was about five thousand men, besides women and children.
+++ +++ +++
AIによれば、「五千人の給食は、聖書の中でもとても有名なパンの奇跡です」と記されている。また、「イエスが五つのパンと二匹の魚で、多くの人を食べさせた出来事です。食べた人は、女と子どもを除いておよそ五千人とされています。さらに、食べ終わったあとには十二のかごいっぱいのパンくずが残りました (bible.com)」とされている。
これは、イエス・キリストが霊能力で、パンや魚を空中から取り出したものと考えられている。つまり、物品(パンや魚)の出現や移動を霊能力で起こして、パンや魚を人々に与えたと解釈される。
この能力があったイエスとその弟子の一行は、必要があれば、食物を空中から取り出すことが出来て、飢えることがなかったことが分かる。しかし、イエスは、病を癒された人たちが、感謝の念からイエスの一行を、自宅でお礼に食事を提供したので、それを食して生きていたとも考えられる。イエスは、人々の感謝の心を、彼らがお礼として出す食事をして受け取っていたのです。
病気を癒された人たちが、お礼として、イエスたちに食事を振るまえなくても、イエスたちは困ることはなかった。イエスにお礼をしたい人たちの感謝の念を尊重して、彼らが与える食事をとっていたことが分かる。
AIでは、さらに「この場面のパンは、ただの食べ物というだけでなく、神の恵みが人に十分に与えられることを表すものとして読まれることが多いです。ヨハネ福音書では、この出来事のあとにイエスが命のパンについて語る流れにもつながります (bible.com)」とされている。
しかし、5千人の人、全員に食物を与えるというのは、大きな出来事なので、福音書の作者は印象深く記述している。イエス・キリストがユダヤ人の王になれば、民衆は飢えから解放されたはずだということも分かる。この奇跡の後では、イエス・キリストの噂は、全ユダヤ人に広がったと思われる。
今でも、物品の移動を行ったり、空中から物品を取り出す霊能者が日本にもいるが、5千人の食事を空中から出現させたり、どこかから、食品を移動させてくるほどの霊能者はいない。そういう意味で、イエス・キリストの霊能力は驚異的です。
まさに、イエス・キリストは一国を支配し管理するだけの力を持っていた。また、必要があれば、天の軍勢をこの世に呼んで、敵国を倒すこともできただろうと思われる。
イエスが、伝道を始める前に、悪魔がイエスに、自分を拝めば、国々を支配させてやると言っていたが、そんな悪魔の助けを借りずとも、イエスは国々を支配できる力があったのです。悪魔がイエスにしたことは、大金持ちに、悪魔を崇めれば、金貨を1枚やると言ったようなものです。悪魔は、イエス・キリストによって道化にされているのです。
しかし、イエス・キリストは、弟子のユダの裏切りがあった時には、権力者と武力で戦かわずに、彼らの計略に従って十字架上の死を受け入れられた。必要なら、何十万という天の軍勢を呼ぶこともできたイエス・キリストが十字架上での刑死を受け入れた方が驚きなのです。だから、イエスの十字架上での死について、2千年間も西欧の神学では議論が続いている。
パレスチナを支配するローマ軍ですら、一掃できたイエス・キリストが、神様の愛を人々に教えるために、身をもって十字架上での刑死を受け入れられたことは、まさに、死をもって平和を愛することを示されたのです。
イエスは、奇跡も起こせず弱かったから、十字架上で死んだのではなく、ローマ軍やユダヤ教の幹部たちを物理的に打ち破る力があったが、それでは、人々に愛と信仰の力を見せられないので、あえて十字架上での死を選ばれたのです。
人々にパンや魚を与えられた時も、単に人々の空腹を癒す目的でなく、もっと大事な、人々に命を与える神様の言葉と愛の力を示されたいと思われたからだと考えられる。
従来の聖書解釈では、神の子としての超能力や霊能力を持ち、ローマ皇帝以上に強かったイエス・キリストの真の姿を見落としている。
「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか」 (使徒言行録 第 8 章) (“May your money perish with you, because you thought you could buy the gift of God with money!)
14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。
15 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
16 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
17 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。
18 シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、
19 「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。
20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。
21 おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。
22 だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。
23 おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
24 シモンはこれを聞いて言った、「仰せのような事が、わたしの身に起らないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい」。
25 使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。(使徒言行録 第 8 章)
14 When the apostles in Jerusalem heard that Samaria had accepted the word of God, they sent Peter and John to Samaria. 15 When they arrived, they prayed for the new believers there that they might receive the Holy Spirit, 16 because the Holy Spirit had not yet come on any of them; they had simply been baptized in the name of the Lord Jesus. 17 Then Peter and John placed their hands on them, and they received the Holy Spirit.
18 When Simon saw that the Spirit was given at the laying on of the apostles’ hands, he offered them money 19 and said, “Give me also this ability so that everyone on whom I lay my hands may receive the Holy Spirit.”
20 Peter answered: “May your money perish with you, because you thought you could buy the gift of God with money! 21 You have no part or share in this ministry, because your heart is not right before God. 22 Repent of this wickedness and pray to the Lord in the hope that he may forgive you for having such a thought in your heart. 23 For I see that you are full of bitterness and captive to sin.”
24 Then Simon answered, “Pray to the Lord for me so that nothing you have said may happen to me.”
25 After they had further proclaimed the word of the Lord and testified about Jesus, Peter and John returned to Jerusalem, preaching the gospel in many Samaritan villages.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストの十字架上での死の後、イエスの使徒たちが、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わして伝道を行ったときの話です。
そこで、シモンという者が、ペテロとヨハネが手を人々の上においたところ、彼らは聖霊を受けたのを見て、その力を与えてくれるように彼らに頼んだところ、シモンの信仰が十分でないのを批判したという話しです。
シモンがペテロたちの霊能力を得るために、カネを出そうとしたのをペテロたちが責め、それをソモンが受け入れたということです。
1900年前の頃、人々は霊の問題に敏感であり、イエスの使徒たちは、霊能力によって人々に聖霊を与えていたことが分かる。聖霊を与えられれば、人々は病が治り、さまざまな不幸から脱することができ、悪霊に取り付かれずにすんだのです。そのような霊能力を得たいと思うシモンのような人も多かったろうが、彼らも使徒の忠告によって、正しい信仰心をもつようになったということです。
イエスなき後に、使徒たちが熱心にイエスの言葉を伝道していた様子が分かる。そのときに、人々に聖霊を与えるというのが、伝道の具体的な中身だったことが分かる。そして、カネは悪魔の手段だという認識が、使徒たちにあったことが分かる。「神を選ぶか、カネを選ぶかだ」という、イエス・キリストの教えが生きていたことが分かる。
今の新興宗教でも、教祖は霊能力を示すこともあるが、それを寄付などを集めるために使ったり、カネを出した信者を優遇するような、イエス・キリストの教えと反することをしている者もいる。そういう新宗教は長続きしない。
ペテロがシモンに言った言葉、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない」と言う厳しい言葉に、当時の伝道の厳しさが現れている。
キリスト教は、本来、このように霊の力を人々に与える宗教だった。ただし、今のキリスト教会は寄付を集めて活動するような組織になっており、カトリックのバチカンも巨額の富を貯めていると言われるし、アメリカでも牧師たちは寄付金を集めるのに熱心です。
AIでは、「キリスト教とカネの関係は深いですが、中心は金もうけではなく、お金との向き合い方です。聖書や教会の実践では、主に献金、貧しい人への支援、お金への執着への警戒の3つが大きな柱です (bible.or.jp)」とされているが、「キリスト教では、お金そのものが悪いというより、お金に支配されることが問題とされやすいです。お金を自分のためだけでなく、隣人や共同体のために使う姿勢が重視されています (christianpress.jp)」とされており、本来のイエス・キリストの教えとはかけ離れている。これでは、やがて教会は富やカネの奴隷となってしまう。
カネを受け入れるような教会には、必ず悪魔が入り込む。20世紀の末に、バチカン銀行が大きなスキャンダルを起こしたこともまだ忘れられていない。アメリカのプロテスタント各派の教会も、牧師による金銭スキャンダルが多い。これは、物質文明の腐敗を表している。
問題をカネで解決するのではなく、愛と信仰心で問題を解決し、聖霊の助けを得て生きていくのが、イエス・キリストの本来の教えなのです。神様とイエス・キリストの敵の悪魔の化身がカネなのです。カネを離れなければ、霊能力は高まらない。
UFOに乗った宇宙人と遭遇した人々は、宇宙人はカネを使わないと述べている。この宇宙には、カネのない社会があり。地球の人類より高い文明を持っている。イエス・キリストの教えは、宇宙規模で成立するのです。だから、霊的な能力を地球の人類が持たなければ、宇宙人と対等に付き合うこともできないと思われる。
日本の霊能者も、宇宙のエネルギーを祈りによって利用すべきことを唱えた、東大医学部卒の医師だった故塩谷信男のような人もいた。非キリスト教徒でも、正しい霊的能力を持っている人もいる。彼らは、正しいキリスト教徒と同等の高い評価を、死後の霊界で受けていると思われる。
イエス・キリストの教えを霊的に受け入れれば、その教えによって、この世でも霊的に救われるのです。カネより神様です。
15 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
16 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
17 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。
18 シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、
19 「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。
20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。
21 おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。
22 だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。
23 おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
24 シモンはこれを聞いて言った、「仰せのような事が、わたしの身に起らないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい」。
25 使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。(使徒言行録 第 8 章)
14 When the apostles in Jerusalem heard that Samaria had accepted the word of God, they sent Peter and John to Samaria. 15 When they arrived, they prayed for the new believers there that they might receive the Holy Spirit, 16 because the Holy Spirit had not yet come on any of them; they had simply been baptized in the name of the Lord Jesus. 17 Then Peter and John placed their hands on them, and they received the Holy Spirit.
18 When Simon saw that the Spirit was given at the laying on of the apostles’ hands, he offered them money 19 and said, “Give me also this ability so that everyone on whom I lay my hands may receive the Holy Spirit.”
20 Peter answered: “May your money perish with you, because you thought you could buy the gift of God with money! 21 You have no part or share in this ministry, because your heart is not right before God. 22 Repent of this wickedness and pray to the Lord in the hope that he may forgive you for having such a thought in your heart. 23 For I see that you are full of bitterness and captive to sin.”
24 Then Simon answered, “Pray to the Lord for me so that nothing you have said may happen to me.”
25 After they had further proclaimed the word of the Lord and testified about Jesus, Peter and John returned to Jerusalem, preaching the gospel in many Samaritan villages.
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これは、イエス・キリストの十字架上での死の後、イエスの使徒たちが、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わして伝道を行ったときの話です。
そこで、シモンという者が、ペテロとヨハネが手を人々の上においたところ、彼らは聖霊を受けたのを見て、その力を与えてくれるように彼らに頼んだところ、シモンの信仰が十分でないのを批判したという話しです。
シモンがペテロたちの霊能力を得るために、カネを出そうとしたのをペテロたちが責め、それをソモンが受け入れたということです。
1900年前の頃、人々は霊の問題に敏感であり、イエスの使徒たちは、霊能力によって人々に聖霊を与えていたことが分かる。聖霊を与えられれば、人々は病が治り、さまざまな不幸から脱することができ、悪霊に取り付かれずにすんだのです。そのような霊能力を得たいと思うシモンのような人も多かったろうが、彼らも使徒の忠告によって、正しい信仰心をもつようになったということです。
イエスなき後に、使徒たちが熱心にイエスの言葉を伝道していた様子が分かる。そのときに、人々に聖霊を与えるというのが、伝道の具体的な中身だったことが分かる。そして、カネは悪魔の手段だという認識が、使徒たちにあったことが分かる。「神を選ぶか、カネを選ぶかだ」という、イエス・キリストの教えが生きていたことが分かる。
今の新興宗教でも、教祖は霊能力を示すこともあるが、それを寄付などを集めるために使ったり、カネを出した信者を優遇するような、イエス・キリストの教えと反することをしている者もいる。そういう新宗教は長続きしない。
ペテロがシモンに言った言葉、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない」と言う厳しい言葉に、当時の伝道の厳しさが現れている。
キリスト教は、本来、このように霊の力を人々に与える宗教だった。ただし、今のキリスト教会は寄付を集めて活動するような組織になっており、カトリックのバチカンも巨額の富を貯めていると言われるし、アメリカでも牧師たちは寄付金を集めるのに熱心です。
AIでは、「キリスト教とカネの関係は深いですが、中心は金もうけではなく、お金との向き合い方です。聖書や教会の実践では、主に献金、貧しい人への支援、お金への執着への警戒の3つが大きな柱です (bible.or.jp)」とされているが、「キリスト教では、お金そのものが悪いというより、お金に支配されることが問題とされやすいです。お金を自分のためだけでなく、隣人や共同体のために使う姿勢が重視されています (christianpress.jp)」とされており、本来のイエス・キリストの教えとはかけ離れている。これでは、やがて教会は富やカネの奴隷となってしまう。
カネを受け入れるような教会には、必ず悪魔が入り込む。20世紀の末に、バチカン銀行が大きなスキャンダルを起こしたこともまだ忘れられていない。アメリカのプロテスタント各派の教会も、牧師による金銭スキャンダルが多い。これは、物質文明の腐敗を表している。
問題をカネで解決するのではなく、愛と信仰心で問題を解決し、聖霊の助けを得て生きていくのが、イエス・キリストの本来の教えなのです。神様とイエス・キリストの敵の悪魔の化身がカネなのです。カネを離れなければ、霊能力は高まらない。
UFOに乗った宇宙人と遭遇した人々は、宇宙人はカネを使わないと述べている。この宇宙には、カネのない社会があり。地球の人類より高い文明を持っている。イエス・キリストの教えは、宇宙規模で成立するのです。だから、霊的な能力を地球の人類が持たなければ、宇宙人と対等に付き合うこともできないと思われる。
日本の霊能者も、宇宙のエネルギーを祈りによって利用すべきことを唱えた、東大医学部卒の医師だった故塩谷信男のような人もいた。非キリスト教徒でも、正しい霊的能力を持っている人もいる。彼らは、正しいキリスト教徒と同等の高い評価を、死後の霊界で受けていると思われる。
イエス・キリストの教えを霊的に受け入れれば、その教えによって、この世でも霊的に救われるのです。カネより神様です。
2026年9月25日金曜日
イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」 (ヨハネによる福音書 第 8 章) (”Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”)
3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕(ヨハネによる福音書 第 8 章)
3 The teachers of the law and the Pharisees brought in a woman caught in adultery. They made her stand before the group 4 and said to Jesus, “Teacher, this woman was caught in the act of adultery. 5 In the Law Moses commanded us to stone such women. Now what do you say?” 6 They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him.
But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger. 7 When they kept on questioning him, he straightened up and said to them, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone at her.” 8 Again he stooped down and wrote on the ground.
9 At this, those who heard began to go away one at a time, the older ones first, until only Jesus was left, with the woman still standing there. 10 Jesus straightened up and asked her, “Woman, where are they? Has no one condemned you?”
11 “No one, sir,” she said.
“Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”
+++ +++ +++
これは、「姦淫の女」と呼ばれる、福音書でイエス・キリストの憐みが最もよく現れた箇所です。
Wikipediaでは、「罪を犯しながらイエスに許されるこの女もまた、マグダラのマリアに重ねられることも多い。 キリストを描いた映画には好んでこの逸話が挿入される。たとえば『偉大な生涯の物語』(1965年)は、これをマグダラのマリアを紹介するシーンとして使っている。このため、この女性こそマグダラのマリアであると誤解する人が多いが、これが教義として教えられてきたわけではない」とされている。
ある意味で、劇的な情景です。律法学者たちやファリサイ派の人々が、「姦通の現場で捕らえられた女」を連れて来たが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったことで、誰もがその場から立ち去り、その女さけが残されたというのは、映画のワンシーンのような情景です。
そして、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という言葉は、律法学者たちやファリサイ派の人々だけでなく、その女自身が感銘を受けた言葉だったのだろう。石打ちの刑で殺されるかも知れないと思っていたのに、イエスによって命を助けられたのです。それは、神様が許しを与えたということを意味するので、大きな感激を受けたのだろう。そして、以降はその女は生き方を変えたと思われる。
イエス・キリストが世に現れる以前には、このように宗教的な罪を犯したものは、石打ちの刑で殺されるという残酷なことが行われていた。しかし、キリスト教が広まるにつれ、人間社会からそのような残酷さは亡くなって行くことになる。実際、今の日本国憲法の人道主義のルーツは、憲法の基礎となったキリスト教精神のお陰なのです。また、言論の自由や宗教・思想の自由、政治的な立場の自由なども全て憲法の基礎となったキリスト教に負うているのです。
それよりも、悪魔が律法学者たちやファリサイ派の人々を使って、イエスを困らせ、イエスに石打の刑の片棒をかつがせ、イエスが宗教の名による残酷な刑を認めたという事実を作るか、又は、その女を助けて、宗教の掟を無視した異端者だとの評判をとるようにさせた。悪魔は、いずれにしても、イエス・キリストの宗教改革者としての評判を落とそうと考えたのです。
しかし、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いて」、律法学者たちやファリサイ派の人々が落ち着くの待ち、彼らに思わぬ言葉をかけた。宗教の名で罪の女を罰するのなら、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉です。実際、ユダヤ教の教えを何から何まで守って生きている人間はいない。それを、イエスや律法学者たちやファリサイ派の人々自身が一番よく知っている。石打ちでその女を殺した後で、自分も罪人なのに弱い女を宗教の名で殺したことが、明らかになれば、ユダヤ社会から問題にされる。少なくとも、自信を持って「自分は立派なユダヤ教徒だ」とは、言えなくなる。一人の女を殺したがために、自分たちの評判に傷がつくことは受け入れれない。
また、それが残酷な行いであることは、本人たちが百も承知しており、イエスの言葉で我に返り、女を残して立ち去らざるを得なかった。女を殺した後で、イエスから自分たちの宗教的な罪を明らかにされる恐怖心があった。ただし、イエスが、地面に何を書いていたのかは明らかにされていない。
AIでは、「姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられたとき、イエスはまず地面に書き、その後に罪のない者が最初に石を投げなさいと言い、さらにもう一度かがんで地面に書きました。けれども、書いた内容そのものは説明されていません。(search.biblegateway.com)」とされている。
もしかしたら。イエス・キリストは、各人が犯している罪を地面に書いていたのかも知れない。それを、イエスに公表されれば、彼らの評判は地に落ちるし、最悪の場合は、自分たちも石打ちの刑で殺される。彼らは、イエスが自分たちの罪を知っていることに恐怖し、逃げるようにその場を去ったのかも知れない。
いづれしても、彼らはユダヤ教の祭司たちを呼んだりはしなかった。イエスとその女を残して全員が立ち去ったという事実に、彼らがイエス・キリストの霊的な力を見たことが示されている。
イエスは、そういう人間の持つ残酷さが、悪魔の影響であることを認めて、その悪魔の影響から人々を解放しようとしたのです。そのためには、罪を犯した女を許し、怒る人々に理性を散り戻させることが必要だった。女は、「わたしもあなたを罰しない」というイエスの言葉で助けられただけでなく、人々がイエスを恐れるように立ち去ったのを見て、イエスの持つ力を感じたのだろう。人々は、神様の愛とは何かを教えらえた気がして立ち去り、自分たちは悪魔に支配されていると感じたに違いない。
だから、イエス・キリストが地面に書いていたのは、宗教の名で女を殺そうとする人間たちの、宗教的な罪だったと考えられる。それを福音書に書けば、人々が皆、石打ちにされても仕方がない罪人であることが明らかになるので、福音書にも書けなかったのだろう。
このように、書かれない真実は多い。しかし、聖書の福音書は出来るだけ、イエス・キリストにまつわる出来事の真実が書かれていると考えられる。それは、まさに聖霊が天から下って、福音書の作者にくだったからだと考えられる。
今でも、霊感に駆られて文字を書く霊能者や霊媒もいる。2千年間、人々に読まれ続けた聖書は、やはり、そのような霊界からの助けによって書かれたものだと思われる。だから、いくら研究しても、聖書の力は解き明かされない。それでも、本人の宗教には関係なく、聖書を研究することが、今の日本人には必要なのです。
そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう (マタイによる福音書 第 24 章)(when they see the Son of Man coming on the clouds of heaven, with power and great glory)
30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
32 いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
34 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
35 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイによる福音書 第 24 章)
30 “Then will appear the sign of the Son of Man in heaven. And then all the peoples of the earth will mourn when they see the Son of Man coming on the clouds of heaven, with power and great glory. 31 And he will send his angels with a loud trumpet call, and they will gather his elect from the four winds, from one end of the heavens to the other.
32 “Now learn this lesson from the fig tree: As soon as its twigs get tender and its leaves come out, you know that summer is near. 33 Even so, when you see all these things, you know that it is near, right at the door. 34 Truly I tell you, this generation will certainly not pass away until all these things have happened. 35 Heaven and earth will pass away, but my words will never pass away.
36 “But about that day or hour no one knows, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father. 37 As it was in the days of Noah, so it will be at the coming of the Son of Man. 38 For in the days before the flood, people were eating and drinking, marrying and giving in marriage, up to the day Noah entered the ark; 39 and they knew nothing about what would happen until the flood came and took them all away. That is how it will be at the coming of the Son of Man. 40 Two men will be in the field; one will be taken and the other left. 41 Two women will be grinding with a hand mill; one will be taken and the other left.
42 “Therefore keep watch, because you do not know on what day your Lord will come.
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これは、「世の終わり」についてのイエス・キリストの有名な予言の言葉です。
「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来る」という印象的なイエスの再臨を語っておられる。また、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」として、人々が普通に生活をしているときに、それが生じると言っておられる。しかも、「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」として、運命は個人によって異なり、悲劇に陥るものと、苦難を免れるものに分かれると述べておられる。「だから、目をさましていなさい」というのが、この世の最後に対する心がけだということです。
いづれにしても、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで」のように、人々は、危機が迫っていることに気が付かないだろうと述べておられる。
神様が全人類の運命を握っておられ、神様の子のイエス・キリストにすら、その日、その時は知らされていない、というのは、人類に対する厳粛な運命を、神様、ご自身が定められたことを語っている。
しかし、その日には、「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って」現れて、「大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集める」とイエス・キリストは約束しておられる。
即ち、全人類を見殺しにはされず、救われるべき者は救うと約束しておられる。洪水の時に、ノアの一家だけが救われたように、悲惨な最期のときに、誰にも分かるような姿でイエス・キリストは、人類を救うために、この世に再臨されるというのが、キリスト教の信仰なのです。
しかし、救われるのはキリスト教だけだから、人々にキリスト教を受け入れよ、というのが、今までのキリスト教会の姿勢だった。AIでは、「聖書の「世の終わり」は、世界の完全な終滅だけを意味するのではなく、神の裁きのあとに新しい秩序が始まるという考えです。(bible.or.jp)」と述べている。
世の中は、物質文明の発展を目指して、今やAIが人間の能力に追いつこうとしているが、戦争、紛争、経済競争、貧富の格差は拡大するばかりで、異常気象や資源の枯渇など、地球自身が危機に瀕している。特に、核戦争による地球の汚染を心配して、UFO・宇宙人が地球の人類に介入しているとまで言われている。
物質的な幸福と成功を求め、科学・技術の力に頼りながら、精神性を軽んじ、置き去りにしてきた人類は、魂のないコンピュータやAIを使って、その破滅を加速させているように見える。
人間が本来持つ霊性を重んじ、自然の流れを尊重し、宇宙の真理と力に従えというのが、イエス・キリストの教えであり、全てのまともな宗教が教える共通点です。
宗教は何であれ、人間は死後の世界に霊界があることを信じ、悪魔の主導する物欲中心の物質文明を捨てて、霊的な文明に移るべきだというのが、霊的なキリスト教の教えなのです。また、人間の心や精神力は物質にも作用し、自然界だけでなく、人間界も精神力で変えられるとの教えを信じることが、新たな文明の出発点であるべきです。
なお、日本の天皇家は、その霊能力によって国民から崇められる存在だったが、今の天皇家には、もはや霊能力はなく、明らかにキリスト教の霊能力より劣っており、日本の自然災害も防げず、経済も活性化できず、安全保障でも国を救えない。先の日米戦争では、キリスト教国のアメリカに敗戦し、クリスチャンのマッカーサー元帥の草案による、キリスト教精神に基づいた新憲法を受け入れ、戦後は平和と繁栄を謳歌してきた。日本の神道や仏教の精神が世界を主導しているのではない。ユダヤ・キリスト教の精神が世界をけん引している。
だから、日本人も日本の霊性を確保しつつ、世界の主流の一神教を学び、聖書を研究すろのが、歴史的に正しい生き方なのです。
具体的には、キリスト教精神をマスターして、霊能力をもった人間を新天皇として、新たに日本を立て直し、世界を主導すべきです。この新天皇は公募で霊能力者から選ぶべきです。ただし、現天皇家は、「旧天皇家」として政府が保護し、日本文化の伝統を守るべきです。
日本が、イエス・キリストの精神に従った国として世界を主導すれば、世界で停滞するキリスト教を刷新し、世界のリーダーとなれるのです。
UFOの宇宙人から文明の最期を警告された、無農薬のリンゴの栽培家の木村秋則は、「2030年頃に文明の崩壊が始まる」と警告されている。木村は、その前に無農薬農業を広めようと世界で活躍しているが、他の日本人も世界にイエス・キリストの平和の精神を、日本の霊性に従って広めるべきです。そこに、日本人の歴史的な存在価値がある。
ノーベル賞で世界をリードするだけでなく、宗教の面でも日本は世界を主導すべきなのです。そのためには、全国民が聖書を読んで、イエス・キリストの言葉を研究し、霊格を高め、悪魔の罠から脱する必要がある。そに貢献するのが、「このブログ」なのです。
2026年9月24日木曜日
『創造者は初めから人を男と女とに造られ・・・』 (マタイによる福音書 第 19 章) (the Creator ‘made them male and female’)
4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。
6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。
10 弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。
11 するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。
12 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。(マタイによる福音書 第 19 章)
4 “Haven’t you read,” he replied, “that at the beginning the Creator ‘made them male and female,’ 5 and said, ‘For this reason a man will leave his father and mother and be united to his wife, and the two will become one flesh’? 6 So they are no longer two, but one flesh. Therefore what God has joined together, let no one separate.”
7 “Why then,” they asked, “did Moses command that a man give his wife a certificate of divorce and send her away?”
8 Jesus replied, “Moses permitted you to divorce your wives because your hearts were hard. But it was not this way from the beginning. 9 I tell you that anyone who divorces his wife, except for sexual immorality, and marries another woman commits adultery.”
10 The disciples said to him, “If this is the situation between a husband and wife, it is better not to marry.”
11 Jesus replied, “Not everyone can accept this word, but only those to whom it has been given. 12 For there are eunuchs who were born that way, and there are eunuchs who have been made eunuchs by others—and there are those who choose to live like eunuchs for the sake of the kingdom of heaven. The one who can accept this should accept it.”
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「人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」というのは、イエス・キリストの教えの中心となっている。だから、結婚式はキリスト教では祝福すべきものになっている。
しかし、結婚しても離婚するという場合がある。それに対してイエスは、「不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行う」と述べている。つまり、原則として離婚は禁じられている。また、再婚は特に禁じられている。
ただし、「母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある」と述べて、独身者を責めてはならないことも述べている。
18世紀の神秘家で、生きたまま死後の世界、つまり、霊界を見ることを、イエス・キリストの霊によって許されたスウェーデンボルグは、霊界で男女の結婚が神聖なものとして扱われており、男女の霊が一体となるのを見ている。スエーデンボルグは結婚愛について本も書いている。ただし、彼自身は生涯、独身だった。
このため、カトリックでは離婚は禁じられている。この離婚問題を巡って、イギリスのヘンリー8世(1491 - 1547)という王が、バチカンと対立し、英国の教会がカトリック組織から分離し、英国国教会を独立させたことは、よく知られている。つまり、コロンブスの時代からイギリスは、バチカンから独立していたことになる。英国国教会は、教義はプロテスタントで、典礼はカトリックという形を取っている。隣国のアイルランドは、一貫してカトリックなので両国の間には長年にわたる対立がある。
このプロテスタント派とカトリック派の大きな違いは、この離婚問題にある。AIによれば。「プロテスタントでは、離婚は原則として望ましくないが、姦通や悪意ある遺棄など聖書に基づく重大な理由がある場合には離婚と再婚を認めうるという立場が主流です」とされている。
しかし、もっと重要なのは、結婚しないことが罪にあたるのかというと、そうではなく、AIでは、「ローマ法王が独身でいるのは、恋愛や結婚を否定しているからではなく、カトリック教会の聖職者として神と信徒への奉仕に専念するため」とされている。
実際、本当にイエス・キリストの教えに従って生きれば悪魔から攻撃を受け、自分の身を守るだけで精一杯になる。とても、家族や信徒の面倒まで見切れない。さらに、信徒の面倒を見るには、自分の家族のことを犠牲にしなければならなくなる。イエス・キリストですら、伝道をすれば、悪魔の攻撃を受け、ご自分や弟子たちを守るだけで手一杯になり、結婚する余裕もなかった。ただし、イエスの周囲には、多くの女性が従っており、イエスが女性を嫌いだったということはない。イエスも結婚できない、不幸な人間の一人であり、独身者の苦労はよく理解していた。
イエス・キリストご自身の女性関係については、AIでは、「新約聖書の福音書では、イエスと特定の女性が恋愛関係や結婚関係にあったとは書かれていません。一方で、女性の弟子や支援者はいたとされています。代表的なのがマグダラのマリアです。彼女はイエスに同行し、十字架刑や復活の場面でも重要人物として描かれます」と説明されている。また、聖母マリアもイエスの周囲におられたのは、よく知られている。
なお、レオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」の絵で、弟子のヨハネが女性として描かれているという説があるが、AIでは、「女性に見えると言われるのは、長い髪とひげのない若い顔立ちのためです。ただしこれは当時のヨハネ表現として特別おかしいわけではなく、後年の創作や俗説ではマグダラのマリアではないかという説も広まりました」とされている。
悪魔は、結婚した男女を別れさせようとして、さまざまな計略を行うが、イエス・キリストは「神が合わせられたものを、人は離してはならない」として、そのような悪魔に取り付かれて、二人を離婚させようとする人間が現れることを想定して、人々を戒めておられる。
ただし、霊的なレベルで結びついていない夫婦は、死後の霊界では離れ離れになることは、スウェーデンボルグが霊界で見ており、この世での結びつきは永遠ではない。むしろ、霊界では二人の真実が現れて分かれる例が多い。この世では、内面は隠せても、霊界では心の中は隠せないのです。結婚しても、やがて心の中で憎み合う夫婦もいるが、子供のためや、この世のしきたり等でこの世では離婚しない夫婦もいるが、あの世では、そういうこの世の束縛はなくなり、一人ひとりが、その本質に従って生きるのです。
しかし、何よりも重要なのは、神様に仕えることであり、その奉仕に邪魔であれば、独身にならざるを得ない、というのがキリスト教の教えです。配偶者のお陰で神様に救われるということは、稀です。神様と個人の関係が基本なのです。
なお、悪魔は人間の欲望を利用して、人間を神様の教えから遠ざけようとするので、結婚には注意が必要です。しかし、「人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」というのが原則なのです。ただし、イエス・キリスト自身は、独身だったというのが真実のようです。
2026年9月22日火曜日
「目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないから」 (マタイによる福音書 第 25 章) (“Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour.")
そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 (マタイによる福音書 第 25 章)
25 “At that time the kingdom of heaven will be like ten virgins who took their lamps and went out to meet the bridegroom. 2 Five of them were foolish and five were wise. 3 The foolish ones took their lamps but did not take any oil with them. 4 The wise ones, however, took oil in jars along with their lamps. 5 The bridegroom was a long time in coming, and they all became drowsy and fell asleep.
6 “At midnight the cry rang out: ‘Here’s the bridegroom! Come out to meet him!’
7 “Then all the virgins woke up and trimmed their lamps. 8 The foolish ones said to the wise, ‘Give us some of your oil; our lamps are going out.’
9 “‘No,’ they replied, ‘there may not be enough for both us and you. Instead, go to those who sell oil and buy some for yourselves.’
10 “But while they were on their way to buy the oil, the bridegroom arrived. The virgins who were ready went in with him to the wedding banquet. And the door was shut.
11 “Later the others also came. ‘Lord, Lord,’ they said, ‘open the door for us!’
12 “But he replied, ‘Truly I tell you, I don’t know you.’
13 “Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour."
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これは、「10人のおとめのたとえ話」と言われる箇所で、よく知られたイエス・キリストによるたとえ話です。インターネットの「3分でわかる聖書(https://seishonyumon.com/movie/6714/)」では、
「10人の娘のたとえ話は、ユダヤ式結婚の習慣を背景に語られたものです。
(1)ユダヤ式結婚には4つの段階があります。
①婚約、②花婿が花嫁を迎えに行く、③結婚式、④婚宴
(2)このたとえ話は、「花婿が花嫁を迎えに行く」という段階を背景に語られています」とされている。
また、「(1)花婿とは、キリストのことです。
(2)花嫁とは、キリストの花嫁である教会のことです。
(3)花婿と花嫁を迎えに出る10人の娘たちは、再臨の時に地上に住んでいる人々です」と説明されている。
さらに、「(1)10人の娘は、2つのグループに分かれます。
(2)油を持っている5人は信者で、メシアを迎える準備が出来ている人たちです。
①ここでの油は、聖霊の象徴です。
(3)油を持っていない5人は不信者で、メシアを迎える準備が出来ていない人たちです。
①油を持っていないのは、聖霊の内住がない、つまり救われていないということです」と続けている。
そして、「目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないから」と結論づけている。
イエスは、身近な婚宴という目出度い出来事を譬えとして用いて、人々の注意を引き付けている。そして、「油を持っていない5人の娘」には、残酷な結論が生じる、と語っておられる。
要するに、イエス・キリストの再臨の時に備えて、気を引き締めて注意をしていない人は、そのイエスのこの世への再出現から恩恵を得ることはなく、霊界の天国から締め出される、ということです。
イエスは、信者と信仰のない者を半分づつに分けている。世の中には、本当の霊的な信仰をもった人間は、非キリスト教徒を含めて、半分しかいないということです。
神道の信者でも、仏教の帰依者でも、魂の存在を信じ、イエス・キリストの言葉を信じる者は、信者の中に入ると考えるべきです。そのような名目的には他宗教の信者も含めて、霊界の万物の創造主を信じ、救世主イエス・キリストの再臨に備える者は、全体の約半数だというのが、人類の心の中まで見えたイエスの結論なのです。
そして、残りの半数の、イエス・キリストの再臨に備えていない人は、この世の苦難のときに救われず、死後も霊界の天国には受け入れられないのです。残酷な運命ですが、それが事実になるというのが、イエス・キリストの予言なのです。
従って、イエス・キリストの教えを信じる、霊的なキリスト教徒は、絶えず緊張感を持って生きなければならない。だから、ジョークや娯楽を楽しんだり、富や地位を求めたり、自分の欲望の充足を求めるのでなく、いつ危機が生じ、それから人々を救済するために、イエス・キリストが再びこの世に出現するかを待てということです。富や地位がもたらす快適性や快楽性に溺れてはいけない。常に心の底では、緊張感を持っていなければならない。日本語でも、「一瞬先は闇」という諺がある。人生はそのような状況にあるという警告です。
この2千年の間に、文明の崩壊と言う事態は生じなかったが、各個人はそれぞれが人生の危機に直面しながら生きている。個人の死は、その人にとって、この世の終わりを意味し、その瞬間にイエス・キリストの霊と出会えば、霊界の天国へと導かれるが、そうでなければ、やがて地獄に向かわなければならない。
花婿を待つ娘たちという可憐な娘たちでも、信仰心をもたなければ、婚宴の席に着けないという残酷な運命に出会う、という微妙な譬え話を使って、イエス・キリストは深刻な警告を人々に与えているのです。
日本人も、表面の宗教は何であれ、イエス・キリストの言葉を学び、聖書を研究し、物質文明の崩壊に備えるべきなのです。そして、その時には、必ずイエス・キリストが再臨して、信者を救うと信じるのが、霊的なキリスト教なのです。
2026年9月21日月曜日
料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかった (ヨハネによる福音書 第 2 章) (the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine)
2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。(ヨハネによる福音書 第 2 章)
2 and Jesus and his disciples had also been invited to the wedding. 3 When the wine was gone, Jesus’ mother said to him, “They have no more wine.”
4 “Woman, why do you involve me?” Jesus replied. “My hour has not yet come.”
5 His mother said to the servants, “Do whatever he tells you.”
6 Nearby stood six stone water jars, the kind used by the Jews for ceremonial washing, each holding from twenty to thirty gallons.
7 Jesus said to the servants, “Fill the jars with water”; so they filled them to the brim.
8 Then he told them, “Now draw some out and take it to the master of the banquet.”
They did so, 9 and the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine. He did not realize where it had come from, though the servants who had drawn the water knew. Then he called the bridegroom aside 10 and said, “Everyone brings out the choice wine first and then the cheaper wine after the guests have had too much to drink; but you have saved the best till now.”
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これは、「カナの婚礼」と呼ばれるイエス・キリストが最初に行ったとされる有名な奇跡です。
AIによれば、「「カナの婚礼」はヨハネによる福音書2章1節から11節にあります。ガリラヤのカナで婚礼があり、ぶどう酒が足りなくなったとき、イエスが水をぶどう酒に変えました。これはヨハネ福音書で最初のしるしとされています」とされており、さらに、「この出来事では、イエスがただ困りごとを解決しただけでなく、栄光を現したことが大事だと語られます。その結果、弟子たちがイエスを信じたと記されています。(bible.com)
また、日本語の解説では、イエスの「わたしの時はまだ来ていません」という言葉は、後の使命や栄光を先取りして示す表現として読まれることがあります。(note.com)」とされている。
婚姻の宴に招かれたイエスについて書かれたのは、この箇所だけです。母のマリアと共にイエスが出席したことは、イエスが家族との関係を絶ってはいなかったことを明らかにしている。しかし、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」とイエスが述べたのは、イエスに霊が入って、もはや、この世の人間関係を超越した存在として生き始めたことを意味する。この世で最愛の母へすら、一人の女性に対する態度を見せたということは、イエスの伝道活動に、イエスは家族を関わらせる気持ちがないことを意味している。
ただし、イエスが伝道活動を開始したことを知った母マリアは、密かにイエスのことを気遣ってイエスの後をつけていたように思われる。特に、イエス・キリストが十字架の刑を受けた時にも、その十字架の周囲にいて、イエスの最後を見守ったとされる。そして、死に行くイエスは、弟子の一人に、イエスの母の面倒を見るように命じたとされている。いづれにしても、母マリアがイエスの伝道に、何らかの影響を与えていたことは考えられない。
イエスが権力者によって逮捕されたときも、イエスの家族は取り調べられなかった。また、イエスが伝道を開始した当初は、イエスの家族の誰も、イエスが神様の霊的な息子であることや、イエス・キリストの言葉を信じなかったが、やがて聖母マリアは、イエスの死の瞬間に立ち会われたほどに、イエスの言葉を信じられたと考えられる。
なお、超能力や霊能力のあったイエスが、その力を家族のために使って、家族を経済的に救ったり、家族の直面する問題を解決することはなかった。その中で、母マリアと共に出席したカナの婚礼の宴で水をブドウ酒に変える奇跡を行ったことは印象深い。イエスは、最初の奇跡を母の出席する婚礼の席で表され、母の知り合いの面目をたて、ひいては、母も助けたことになる。イエスの母マリアに対する深い愛情と配慮の表れだと見ることができる。
ただし、今後の伝道の厳しさを思って、母マリアにはイエス自身からは遠ざかっているようにとの気持ちを「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と述べたのだろう。だから、イエス・キリストが十字架での死刑を言い渡された時に、当局はイエスの家族を取り調べなかった。イエスは、伝道の厳しい生活や権力者の攻撃から、母マリアや家族を守ったのです。
いづれにしても、この「カナの婚礼」は、イエス・キリストとその家族が関わった唯一の出来事です。なお、イエス・キリストのこの世の父親については、福音書に出てこないため、後世、さまざまな推論が行われている。しかし、神様の送られた聖霊によって母マリアが身ごもったという聖書の説明を信じれば、イエス・キリストは父親は神様だということになり。神の遺伝子やDMAを持って生まれ来たことになる。
なお、AIでは、「イエス・キリストの父親」については、
「キリスト教
キリスト教では、イエスは神の子で、父は神と理解されます。
一方で地上での家族としては、ヨセフが父親役とされる説明が一般的です。 (ja.wikipedia.org)
イスラム教
イスラム教では、イエスはイーサーという預言者です。
とても重要な人物ですが、神の子ではないと考えます。神は唯一で、子をもたないという理解です。 (islamicity.org)
ユダヤ教
ユダヤ教では、イエスを神の子とも救世主とも受け入れない立場が一般的です。
そのため、神がイエスの父であるという説明は取りません。歴史上の人物として見る考え方が中心です」
と説明されている。
いづれにしても、イエス・キリストが、その母のマリアや婚礼などに、無関心ではなかったことが、福音書に表されている。
イエス・キリストは、母マリアに従って誰かの婚礼の席に出席したのは事実なのです。そして、そこで最初の奇跡を起こされたのです。
カトリックや心霊主義の教会では、母マリアの霊的な役割を重視し、母マリアの霊が、以後、人類に出現していると考える。その最大の例が、1917年にポルトガルのファチマで起きたとされる聖母マリアの出言です。
聖母マリアを崇めるのが、カトリックですが、「プロテスタントではマリアは大切な人物ですが、カトリックのように特別に崇敬したり、祈りの対象にしたりすることは一般にしません」とAIでは説明されている。
それでも、多くの人間の女性の中から、イエス・キリストの母になる運命を与えられたのは、唯一、マリアなのです。聖母マリアは、人間として神様から最高の地位を与えらた女性だということになる。イエス・キリストは単なる純粋の人間だったとは言えないが、聖母マリアは、単なる人間の一人だった。
つまり、人間の心を持った聖者が、母マリアだということになる。だから、聖母マリアに人間は親しみを覚えて当然なのです。人生の苦しみや悲しさなどは、聖母マリアはよく理解しているはずです。だから、カトリックのキリスト教徒は、今でも聖母マリアに願いをかけたり、祈ったりするのです。
心霊的には、人類の霊で最高の霊格をもっていて、神様の子のイエス・キリストの母に選ばれたのは、マリアだというこになる。(ただし、イエス・キリストは、単なる人間の霊を持った存在とは言えない。)
3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。(ヨハネによる福音書 第 2 章)
2 and Jesus and his disciples had also been invited to the wedding. 3 When the wine was gone, Jesus’ mother said to him, “They have no more wine.”
4 “Woman, why do you involve me?” Jesus replied. “My hour has not yet come.”
5 His mother said to the servants, “Do whatever he tells you.”
6 Nearby stood six stone water jars, the kind used by the Jews for ceremonial washing, each holding from twenty to thirty gallons.
7 Jesus said to the servants, “Fill the jars with water”; so they filled them to the brim.
8 Then he told them, “Now draw some out and take it to the master of the banquet.”
They did so, 9 and the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine. He did not realize where it had come from, though the servants who had drawn the water knew. Then he called the bridegroom aside 10 and said, “Everyone brings out the choice wine first and then the cheaper wine after the guests have had too much to drink; but you have saved the best till now.”
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これは、「カナの婚礼」と呼ばれるイエス・キリストが最初に行ったとされる有名な奇跡です。
AIによれば、「「カナの婚礼」はヨハネによる福音書2章1節から11節にあります。ガリラヤのカナで婚礼があり、ぶどう酒が足りなくなったとき、イエスが水をぶどう酒に変えました。これはヨハネ福音書で最初のしるしとされています」とされており、さらに、「この出来事では、イエスがただ困りごとを解決しただけでなく、栄光を現したことが大事だと語られます。その結果、弟子たちがイエスを信じたと記されています。(bible.com)
また、日本語の解説では、イエスの「わたしの時はまだ来ていません」という言葉は、後の使命や栄光を先取りして示す表現として読まれることがあります。(note.com)」とされている。
婚姻の宴に招かれたイエスについて書かれたのは、この箇所だけです。母のマリアと共にイエスが出席したことは、イエスが家族との関係を絶ってはいなかったことを明らかにしている。しかし、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」とイエスが述べたのは、イエスに霊が入って、もはや、この世の人間関係を超越した存在として生き始めたことを意味する。この世で最愛の母へすら、一人の女性に対する態度を見せたということは、イエスの伝道活動に、イエスは家族を関わらせる気持ちがないことを意味している。
ただし、イエスが伝道活動を開始したことを知った母マリアは、密かにイエスのことを気遣ってイエスの後をつけていたように思われる。特に、イエス・キリストが十字架の刑を受けた時にも、その十字架の周囲にいて、イエスの最後を見守ったとされる。そして、死に行くイエスは、弟子の一人に、イエスの母の面倒を見るように命じたとされている。いづれにしても、母マリアがイエスの伝道に、何らかの影響を与えていたことは考えられない。
イエスが権力者によって逮捕されたときも、イエスの家族は取り調べられなかった。また、イエスが伝道を開始した当初は、イエスの家族の誰も、イエスが神様の霊的な息子であることや、イエス・キリストの言葉を信じなかったが、やがて聖母マリアは、イエスの死の瞬間に立ち会われたほどに、イエスの言葉を信じられたと考えられる。
なお、超能力や霊能力のあったイエスが、その力を家族のために使って、家族を経済的に救ったり、家族の直面する問題を解決することはなかった。その中で、母マリアと共に出席したカナの婚礼の宴で水をブドウ酒に変える奇跡を行ったことは印象深い。イエスは、最初の奇跡を母の出席する婚礼の席で表され、母の知り合いの面目をたて、ひいては、母も助けたことになる。イエスの母マリアに対する深い愛情と配慮の表れだと見ることができる。
ただし、今後の伝道の厳しさを思って、母マリアにはイエス自身からは遠ざかっているようにとの気持ちを「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と述べたのだろう。だから、イエス・キリストが十字架での死刑を言い渡された時に、当局はイエスの家族を取り調べなかった。イエスは、伝道の厳しい生活や権力者の攻撃から、母マリアや家族を守ったのです。
いづれにしても、この「カナの婚礼」は、イエス・キリストとその家族が関わった唯一の出来事です。なお、イエス・キリストのこの世の父親については、福音書に出てこないため、後世、さまざまな推論が行われている。しかし、神様の送られた聖霊によって母マリアが身ごもったという聖書の説明を信じれば、イエス・キリストは父親は神様だということになり。神の遺伝子やDMAを持って生まれ来たことになる。
なお、AIでは、「イエス・キリストの父親」については、
「キリスト教
キリスト教では、イエスは神の子で、父は神と理解されます。
一方で地上での家族としては、ヨセフが父親役とされる説明が一般的です。 (ja.wikipedia.org)
イスラム教
イスラム教では、イエスはイーサーという預言者です。
とても重要な人物ですが、神の子ではないと考えます。神は唯一で、子をもたないという理解です。 (islamicity.org)
ユダヤ教
ユダヤ教では、イエスを神の子とも救世主とも受け入れない立場が一般的です。
そのため、神がイエスの父であるという説明は取りません。歴史上の人物として見る考え方が中心です」
と説明されている。
いづれにしても、イエス・キリストが、その母のマリアや婚礼などに、無関心ではなかったことが、福音書に表されている。
イエス・キリストは、母マリアに従って誰かの婚礼の席に出席したのは事実なのです。そして、そこで最初の奇跡を起こされたのです。
カトリックや心霊主義の教会では、母マリアの霊的な役割を重視し、母マリアの霊が、以後、人類に出現していると考える。その最大の例が、1917年にポルトガルのファチマで起きたとされる聖母マリアの出言です。
聖母マリアを崇めるのが、カトリックですが、「プロテスタントではマリアは大切な人物ですが、カトリックのように特別に崇敬したり、祈りの対象にしたりすることは一般にしません」とAIでは説明されている。
それでも、多くの人間の女性の中から、イエス・キリストの母になる運命を与えられたのは、唯一、マリアなのです。聖母マリアは、人間として神様から最高の地位を与えらた女性だということになる。イエス・キリストは単なる純粋の人間だったとは言えないが、聖母マリアは、単なる人間の一人だった。
つまり、人間の心を持った聖者が、母マリアだということになる。だから、聖母マリアに人間は親しみを覚えて当然なのです。人生の苦しみや悲しさなどは、聖母マリアはよく理解しているはずです。だから、カトリックのキリスト教徒は、今でも聖母マリアに願いをかけたり、祈ったりするのです。
心霊的には、人類の霊で最高の霊格をもっていて、神様の子のイエス・キリストの母に選ばれたのは、マリアだというこになる。(ただし、イエス・キリストは、単なる人間の霊を持った存在とは言えない。)
2026年9月20日日曜日
わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった (マタイによる福音書 第 11 章) (We played the pipe for you, and you did not dance)
16 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
17 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
18 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
(マタイによる福音書 第 11 章)
16 “To what can I compare this generation? They are like children sitting in the marketplaces and calling out to others:
17 “‘We played the pipe for you,
and you did not dance;
we sang a dirge,
and you did not mourn.’
18 For John came neither eating nor drinking, and they say, ‘He has a demon.’ 19 The Son of Man came eating and drinking, and they say, ‘Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and sinners.’ But wisdom is proved right by her deeds.”
+++ +++ +++
これは、「笛吹けど、踊らず」という言葉の原点です。また、「弔いの歌を歌ったのに、嘆かす」という言葉の原典となった聖書の箇所です。
この言葉は、予言者のヨハネが来ても、「悪霊につかれている」と続き、また、神様の子であるイエス、即ち、人の子が来ても、「罪人の仲間だ」と言って無視したと人々を責めている。
つまり、イエス・キリストは、人々の信仰心がないことを責められたのです。AIでは、「「笛ふけども踊らず」は、新約聖書のたとえに由来するとされます。イエスが人々の反応の鈍さをたとえて、笛を吹いても踊らず、悲しみの歌を歌っても泣かない子どもたちの姿を語った箇所です」とされている。
また、Wikipediaでは、「このことわざは『新約聖書』の「マタイによる福音書」が由来である。ここではイエス・キリストはヨハネの言うことに民衆が耳を傾けようとしなかったことを非難する目的で笛吹けど踊らずであったと述べられた。「ルカによる福音書」にも笛吹けど踊らずという言葉が出てくる。ここではイエス・キリストが、ヨハネのメッセージやイエス・キリストを受け入れない人のことを笛吹けど踊らずであると非難している。このような人は悔い改めることなく主を受け入れないのは自分が正しいとしているからであると指摘している」と説明されている。
また、キリスト教プロテスタント超教派の宣教団体(https://www.newlifeministries.jp/word_from_bible_no2/)では、「ヨハネは食べることも、飲むこともしない、いわば禁欲的に宣教を行っていたのでしょう。そのようなヨハネに対しては「悪霊にとりつかれている」と批判し、一方で、ときに嫌われ者の取税人や罪人とも一緒に食べたり飲んだりしながら宣教を行っていたイエスに対しては「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と悪口を言う。どちらに対しても真摯に耳を傾けようとしない、ヨハネやイエスの宣教の働きに対するそのような人々の態度を、きっとイエスは残念に思っていたのでしょう」と説明されている。
これは、神様を無視した人々が、飲み食い、歌い、踊りなどしているときに、解様の怒りが下ったという、聖書の他の箇所の記述とも関係する。
実際、物質文明の繁栄で、人類が快適性や快楽性を享受している今日、自然破壊や異常気象で、地球は危機に瀕している。神様は、多くの聖者をこれまで人類に送ってきたが、人々は彼らを無視している。
例えば、シャーロック・ホームズの作者のコナン・ドイルは、ホームズ物よりも心霊研究に熱心だったが、人々はその心霊研究を真剣に取り上げてはいない。また、神秘家のスウェーデンボルグは、死の世界、即ち、霊界を見てきて多くの著作を書いたが、スエーデンボルグの神学より、他のオカルト者を取り上げる心霊研究家も多い。真剣な霊的探求はなおざりにされている。
また、リンゴの無農薬栽培家の木村則夫は、UFO内で宇宙人から人類破滅の警告を与えられたが、日本社会は大きく取り上げていない。
今世紀に、物質文明が崩壊することは間違いなく、多くの警告も天から出されているが、神様への信仰心が足りない人類は、「笛吹けど踊らず」の状態なのです。せめて、イエス・キリストの言葉を真剣に見直し、奇跡的に救われるのを祈るべきです。
なお、UFOや宇宙人は、人類の崩壊に関心をもって見守っていることは間違いない。宇宙人も神様の下にあり、地球の人類文明の崩壊は、宇宙にも影響を与えるのです。
2026年9月19日土曜日
「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」 (マタイによる福音書 第 22 章) (“So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”)
17 「それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。
19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。
20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。(マタイによる福音書 第 22 章)
17 "Tell us then, what is your opinion? Is it right to pay the imperial tax[a] to Caesar or not?”
18 But Jesus, knowing their evil intent, said, “You hypocrites, why are you trying to trap me? 19 Show me the coin used for paying the tax.” They brought him a denarius, 20 and he asked them, “Whose image is this? And whose inscription?”
21 “Caesar’s,” they replied.
Then he said to them, “So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”
22 When they heard this, they were amazed. So they left him and went away.
+++ +++ +++
これが、イエス・キリストの言葉としてよく知られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉の出典です。
イエスに敵対するものが、税金()をローマ皇帝に納めるべきかをイエスに質問したときに、イエスがその肖像が刻印された硬貨を示して、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」と答えられたのです。
当時のユダヤ人の住むパレスチナを植民地化していたローマ帝国の当局者は、ユダヤ人から税金を集めていたが、ユダヤ人の中にはそれに反発し、反ローマ帝国の動きもあった。イエスの敵対者は、イエスが税金を当局に払うわなくてもよい、と答えることを期待していたのだろう。そうすると、イエスはローマ帝国に反対する者であり、当時の支配者への反逆者であることが明確になり、当局に逮捕されても仕方がないことになる。その口実を彼らは得ようとしていたと思われる。
また、イエスが税金を払うべきだと答えれば、権力に追随する者として、ユダヤ人の民衆から軽蔑を買い、イエスの評判は落ちると考えていた。
どう答えても、イエスは苦境に立たされる。イエスの敵対者(ローマ帝国の支配者やユダヤ教の宗教幹部)は、イエスを抹殺しようとして、そのような難問をイエスに与えたのです。
それに対して、イエスは誰もが思わなかった答えをした。それが、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」という言葉なのです。
つまり、イエスは、権力者には逆らってはならないから、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返せ」と述べられたが、この世には権力者よりも力のある神様がおられる、ということを、「神のものは神に返せ」という言葉で人々に思い出させたのです。
ローマ皇帝の肖像が刻印された貨幣は、ローマ皇帝のものなのは明らかです。だから、それを税金としてローマ当局に支払うことは自然だという理屈は誰でも分かる。しかし、自分たちが苦労して稼いだカネを、税金としてローマ当局に取られるのは、ユダヤ人には気に入らない。だから、イエスは、権力者のローマ当局に密かに仕返しをするのをユダヤ人に煽るようなことを言うかも知れないと、イエスの敵対者は期待していたのだろう。それを当局に通報すれば、イエスの逮捕につながる。つまり、イエスがユダヤ人の間で人気を得ようとすれば、当局には反逆者となるし、逆に、ローマ当局に迎合すれば、ユダヤ人の民衆から軽蔑され、人気を失う。
、
それに対して、イエスは、権力者には逆らうべきではないが、この世の権力者よりも、もっと力があるとユダヤ人なら誰もが考える神様を持ち出してきて、「神のものは神に返せ」と言われたのです。
イエスの敵対者たちの計略は、宙に浮いて、その企みは失敗したことになる。それは、イエスは権力者への恭順を示しつつ、ユダヤ人にむしろ神様のことを考え、ローマ皇帝に対する忠誠と同等の強い信仰心を神様に示すべきだと述べたからです。この世のことよりも、神様への信仰心が大事だと、イエスは人々に教えたので、それにイエスの敵対者や権力のスパイは、それに対して表立って文句をつけることも、イエスの伝道者としての人気を貶めることもできなかった。
つまり、イエス・キリストは、一方では、権力者とは表立って敵対したり、波風を立てることなく生きるようにとユダヤ人に教え、他方では、ローマ帝国の支配に苦しむユダヤ人に、神様という強い味方がいることを忘れるなとのメッセージを与えたのです。これは、腰抜けのインチキ宗教家にできることではない。結局、権力側も民衆も、このイエスの言葉を受け入れざるを得ない。ローマ帝国といえども、ユダヤ人にローマ人の宗教を強要しても、心の底からの信仰心は得られないことは承知しているからです。政治的にローマ帝国に逆らうなというイエスの言葉には、当局者もつけいる隙はない。イエスは、ローマ軍によるパレスチナの支配を認めたことになるからです。
ユダヤ人の民衆の方は、この言葉によって、この世の政治よりも神様への信仰心が大事だということを思い出させられた。そして、伝道者としてのイエス・キリストの人気や評判は、ますます高まることになった。
なお、2千年前の当時、日本では稲作の弥生文化が始まった頃だが、地中海沿岸のローマ帝国では、貨幣経済が生まれており、ユダヤ人社会でも貨幣経済が進み、貨幣で税金が集めらていたのは注目すべきです。
AIでは、「日本の最初の貨幣として一般に挙げられるのは、和同開珎です。708年に作られた、日本初の本格的な流通貨幣とされています」と述べている。日本よりも、700年も前に南ヨーロッパのローマ帝国では、貨幣経済が始まっていた。だから、2千年前の新約聖書も現代人には理解しやすい。カネに悪魔が取りつく感覚は、今の人間でも理解できる。カネにまつわる人間の欲も、当時も同じなのが現代人にもよく理解できる。
イエス・キリストが弟子のユダに裏切られたのも、ユダのカネに対する欲望からだという話しも理解しやすい。
それよりも、敵対者がスパイを送り込むという方に注目すべきです。敵対者は巧妙な質問をしたり、狡猾な罠をしかけてくるのは、2千年前も今も変わらない。
人間のやること、考えることは、2千年前も今も変わらない。これが、聖書の新約聖書の福音書が、現代でも分かりやすく読める理由なのです。(他にも、それ以前の「ギリシア文化やインド発の仏教、中国の儒教なども、普遍的な人間性に関する教えなので、今でもよく理解されている。また、ユダヤ教と重なる旧約聖書も、キリスト教につながるものとして理解できる。)
さらに、悪魔が2千年前と同じように、神様やイエス・キリストを信じる人を攻撃し、罠にかけようとしているのも変わらないのです。とにかく、カネという悪魔の小道具には執着せずに、信者は神様のことを第一に考えよというイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。
なお、今の日本では消費税が大きな話題になっているが、税金のことより、日本的霊性を高めることが重要です。税金が日本国を円滑に動かすのに必要であれば、政府に払うべきであるが、日本人の霊的・精神的な救済や幸福に必要な日本的霊性も重要です。
その霊性を世界的な視野から眺めると、日本人も世界の主流であるキリスト教への理解を深めることが重要です。日本の神道や仏教の霊性を探求すれば、霊界の支配者としての万物の創造主を崇拝するようになる。そして、その万物の創造主は、イエス・キリストの教えを説くキリスト教の神様だとうのが結論なのです。
つまり、「カイザル(皇帝)」の代わりに、「日本の神仏(天照大御神やブッダなど)」を置き換えても同じことです。「日本の神仏を崇める宗教に寄付をしても良いが、万物の創造主の神様へも礼拝をせよ」ということになる。これが、霊的なキリスト教なのです。
18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。
19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。
20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。(マタイによる福音書 第 22 章)
17 "Tell us then, what is your opinion? Is it right to pay the imperial tax[a] to Caesar or not?”
18 But Jesus, knowing their evil intent, said, “You hypocrites, why are you trying to trap me? 19 Show me the coin used for paying the tax.” They brought him a denarius, 20 and he asked them, “Whose image is this? And whose inscription?”
21 “Caesar’s,” they replied.
Then he said to them, “So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”
22 When they heard this, they were amazed. So they left him and went away.
+++ +++ +++
これが、イエス・キリストの言葉としてよく知られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉の出典です。
イエスに敵対するものが、税金()をローマ皇帝に納めるべきかをイエスに質問したときに、イエスがその肖像が刻印された硬貨を示して、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」と答えられたのです。
当時のユダヤ人の住むパレスチナを植民地化していたローマ帝国の当局者は、ユダヤ人から税金を集めていたが、ユダヤ人の中にはそれに反発し、反ローマ帝国の動きもあった。イエスの敵対者は、イエスが税金を当局に払うわなくてもよい、と答えることを期待していたのだろう。そうすると、イエスはローマ帝国に反対する者であり、当時の支配者への反逆者であることが明確になり、当局に逮捕されても仕方がないことになる。その口実を彼らは得ようとしていたと思われる。
また、イエスが税金を払うべきだと答えれば、権力に追随する者として、ユダヤ人の民衆から軽蔑を買い、イエスの評判は落ちると考えていた。
どう答えても、イエスは苦境に立たされる。イエスの敵対者(ローマ帝国の支配者やユダヤ教の宗教幹部)は、イエスを抹殺しようとして、そのような難問をイエスに与えたのです。
それに対して、イエスは誰もが思わなかった答えをした。それが、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」という言葉なのです。
つまり、イエスは、権力者には逆らってはならないから、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返せ」と述べられたが、この世には権力者よりも力のある神様がおられる、ということを、「神のものは神に返せ」という言葉で人々に思い出させたのです。
ローマ皇帝の肖像が刻印された貨幣は、ローマ皇帝のものなのは明らかです。だから、それを税金としてローマ当局に支払うことは自然だという理屈は誰でも分かる。しかし、自分たちが苦労して稼いだカネを、税金としてローマ当局に取られるのは、ユダヤ人には気に入らない。だから、イエスは、権力者のローマ当局に密かに仕返しをするのをユダヤ人に煽るようなことを言うかも知れないと、イエスの敵対者は期待していたのだろう。それを当局に通報すれば、イエスの逮捕につながる。つまり、イエスがユダヤ人の間で人気を得ようとすれば、当局には反逆者となるし、逆に、ローマ当局に迎合すれば、ユダヤ人の民衆から軽蔑され、人気を失う。
、
それに対して、イエスは、権力者には逆らうべきではないが、この世の権力者よりも、もっと力があるとユダヤ人なら誰もが考える神様を持ち出してきて、「神のものは神に返せ」と言われたのです。
イエスの敵対者たちの計略は、宙に浮いて、その企みは失敗したことになる。それは、イエスは権力者への恭順を示しつつ、ユダヤ人にむしろ神様のことを考え、ローマ皇帝に対する忠誠と同等の強い信仰心を神様に示すべきだと述べたからです。この世のことよりも、神様への信仰心が大事だと、イエスは人々に教えたので、それにイエスの敵対者や権力のスパイは、それに対して表立って文句をつけることも、イエスの伝道者としての人気を貶めることもできなかった。
つまり、イエス・キリストは、一方では、権力者とは表立って敵対したり、波風を立てることなく生きるようにとユダヤ人に教え、他方では、ローマ帝国の支配に苦しむユダヤ人に、神様という強い味方がいることを忘れるなとのメッセージを与えたのです。これは、腰抜けのインチキ宗教家にできることではない。結局、権力側も民衆も、このイエスの言葉を受け入れざるを得ない。ローマ帝国といえども、ユダヤ人にローマ人の宗教を強要しても、心の底からの信仰心は得られないことは承知しているからです。政治的にローマ帝国に逆らうなというイエスの言葉には、当局者もつけいる隙はない。イエスは、ローマ軍によるパレスチナの支配を認めたことになるからです。
ユダヤ人の民衆の方は、この言葉によって、この世の政治よりも神様への信仰心が大事だということを思い出させられた。そして、伝道者としてのイエス・キリストの人気や評判は、ますます高まることになった。
なお、2千年前の当時、日本では稲作の弥生文化が始まった頃だが、地中海沿岸のローマ帝国では、貨幣経済が生まれており、ユダヤ人社会でも貨幣経済が進み、貨幣で税金が集めらていたのは注目すべきです。
AIでは、「日本の最初の貨幣として一般に挙げられるのは、和同開珎です。708年に作られた、日本初の本格的な流通貨幣とされています」と述べている。日本よりも、700年も前に南ヨーロッパのローマ帝国では、貨幣経済が始まっていた。だから、2千年前の新約聖書も現代人には理解しやすい。カネに悪魔が取りつく感覚は、今の人間でも理解できる。カネにまつわる人間の欲も、当時も同じなのが現代人にもよく理解できる。
イエス・キリストが弟子のユダに裏切られたのも、ユダのカネに対する欲望からだという話しも理解しやすい。
それよりも、敵対者がスパイを送り込むという方に注目すべきです。敵対者は巧妙な質問をしたり、狡猾な罠をしかけてくるのは、2千年前も今も変わらない。
人間のやること、考えることは、2千年前も今も変わらない。これが、聖書の新約聖書の福音書が、現代でも分かりやすく読める理由なのです。(他にも、それ以前の「ギリシア文化やインド発の仏教、中国の儒教なども、普遍的な人間性に関する教えなので、今でもよく理解されている。また、ユダヤ教と重なる旧約聖書も、キリスト教につながるものとして理解できる。)
さらに、悪魔が2千年前と同じように、神様やイエス・キリストを信じる人を攻撃し、罠にかけようとしているのも変わらないのです。とにかく、カネという悪魔の小道具には執着せずに、信者は神様のことを第一に考えよというイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。
なお、今の日本では消費税が大きな話題になっているが、税金のことより、日本的霊性を高めることが重要です。税金が日本国を円滑に動かすのに必要であれば、政府に払うべきであるが、日本人の霊的・精神的な救済や幸福に必要な日本的霊性も重要です。
その霊性を世界的な視野から眺めると、日本人も世界の主流であるキリスト教への理解を深めることが重要です。日本の神道や仏教の霊性を探求すれば、霊界の支配者としての万物の創造主を崇拝するようになる。そして、その万物の創造主は、イエス・キリストの教えを説くキリスト教の神様だとうのが結論なのです。
つまり、「カイザル(皇帝)」の代わりに、「日本の神仏(天照大御神やブッダなど)」を置き換えても同じことです。「日本の神仏を崇める宗教に寄付をしても良いが、万物の創造主の神様へも礼拝をせよ」ということになる。これが、霊的なキリスト教なのです。
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」 (マタイによる福音書 第 19 章) (it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God”)
16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 (マタイによる福音書 第 19 章)
16 Just then a man came up to Jesus and asked, “Teacher, what good thing must I do to get eternal life?”
17 “Why do you ask me about what is good?” Jesus replied. “There is only One who is good. If you want to enter life, keep the commandments.”
18 “Which ones?” he inquired.
Jesus replied, “‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, 19 honor your father and mother,’[c] and ‘love your neighbor as yourself.’[d]”
20 “All these I have kept,” the young man said. “What do I still lack?”
21 Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”
22 When the young man heard this, he went away sad, because he had great wealth.
23 Then Jesus said to his disciples, “Truly I tell you, it is hard for someone who is rich to enter the kingdom of heaven. 24 Again I tell you, it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
25 When the disciples heard this, they were greatly astonished and asked, “Who then can be saved?”
+++ +++ +++
これは、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という良く知られたイエス・キリストの言葉の出典です。
この言葉は、明確に、富に対するイエスの警戒を表しています。悪魔の影響下のこの世では、カネや富を多く持って、自分の欲望を満たすことで幸福を得られると考える人は多い。つまり、拝金主義がはびこっている。それを否定したのがイエスの教えなのです。
金持ちになれば、この世で幸福になれる。富はこの世に天国をもたらす、と考えるのが、この世の常識です。それが、神様の教えに反しているとイエス・キリストは教えているのです。つまり、清貧生活の称賛です。
また、イエスは救いを求める青年に対して、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と述べたが、その青年は金持ちだったので、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った」と聖書は述べている。この世に生きる人は、普通、富やカネを捨てられない。従って、「天に宝を持つ」ことはできない、というのがイエスの教えなのです。これは、本当は革命的な教えなのです。つまり、「カネより神様」を求めるべきだというのが、イエス・キリストの教えなのです。
この世の富を捨てて生きるには、強い信仰心を持って、神様の言葉を追求しなければならない。だから、イエスは「人は神と富に兼ね仕えることはできない。神を選ぶか、富を選ぶか、どちらかだ」と述べて、人間は神様を選ばなければならないことを明確に述べておられる。世界の宗教で、このようにこの世の富を否定した宗教は他にない。キリスト教が一番、信用できるのは、この点にかかっている。
実際、この世で生きながら死後の霊界を見てきた18世紀の神秘家のスウェーデンボルグや現代の臨死体験者によれば、霊界ではカネは無用です。霊界では、想念が全てをもたらすので、念じれば全ての富を得られる。しかし、全ての霊が富のもたらすものを得ることができるので、霊界では貧富の差がなくなる。
霊界では、他の霊に対する優越感を求める心と支配欲がけが剥き出しになる。隣人愛のない心がむき出しになる。この世での、富を求める心の本質が明らかになる。つまり、悪魔の支配を求める心がむき出しになり、そのような魂は霊界の天国には受け入れられない。
つまり、この世で富の力で幸福にった人間は、霊界の天国には入れない。この世で、富の力で成功した人間、有名になった人間は、全てあの世で天国には入れない。だから、ラクダが針の穴を通るより、金持ちが天国に入るのは難しいとイエス・キリストは教えておられるのです。
彼らは、このような神様の愛と信仰と善の光に耐えられず、霊界の闇に移動する。そこは悪魔が支配する地獄です。この世のエリートや富裕層は、霊界の地獄で、皆、悪魔の奴隷になる。だから、生きながら死後の霊界を見ることを、イエス・キリストから許されたスエーデンボルグは、地獄で、生きている間は富裕層やエリートであった多くの人間の霊を見ている。また、この世で宗教家や聖職者であった人間にも会っている。
逆に、生きている間に、素直に神様の教えに従って生きた貧しい人は、「宝を天国に積んだ」ことになり、霊界で満足を得られ、魂は救われる。この意味で、キリスト教は貧者の宗教であり、清貧生活を讃えるものなのです。このような主張をする宗教は他にはない。
日本の仏教でも、悟りを得るには、欲を捨てて精神生活をし、厳しい修行に耐えなければならないと教えている。しかし、真実の悟りとは、この世は悪魔の影響下にあり、悪魔の化身がカネであり、拝金主義は悪魔教だということです。富を持てば、持つだけ、人の心は神様の教えから遠ざかる。それを理解するのが悟りなのです。
さらに、富を愛するよりも、悪を愛する心を持つ人間がいる。愛よりも憎しみを愛する人間もいる。これは、狂った人間の魂であり、それだけ、悪魔に魂を売った人間の姿です。富やカネは彼らにとって、神様に対する憎しみを表す小道具なのです。このように、人間が本来持つ自然な宗教心を憎むのが悪魔であり、或いは、その追随者や召し使い、手下、奴隷なのです。
だから、本質的に富やカネで幸福にはなれないのです。悪魔は、神様が生んだ人間を苦しめて喜ぶ。だから、カネを与えてこの世で幸福にした人間も、霊界では苦しめて喜ぶ。悪魔は神様に勝てないことを知っているからこそ、神様が造られた人間を苦しめて喜ぶ。それは、悪魔に魂を売って、生きている間に幸福になった人間も、死後は、悪魔に苦しめられることを意味する。悪魔は、自分に従う者も、そうでない者も、人間である限り、死後の霊界では苦しめようとする。
だから、神様の子のイエス・キリストは、人間に物質的な幸福を求めて、悪魔に魂を売るなと教えておられるのです。
また、聖母マリアは、余りに多くの人間の魂が地獄に行くのを悲しんで、この世に霊体で現れて、人間に警告を発してられる。これが、今も世界各地で見られる聖母マリアの出現なのです。
聖書は、このように、神様と悪魔の関係を理解しなければ、理解できない。単なる、道徳を書いた書物ではない、
全知全能にして、全善なる神様は、人間が悪魔の罠から逃れて、清貧生活を送り、愛と真理と善を愛することを命じておられるのです。これを信じるのが、霊的な「真実のキリスト教」なのです。
「燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」 (ルカによる福音書 第 8 章) (they put it on a stand, so that those who come in can see the light)
16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。
17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。 (ルカによる福音書 第 8 章)
16 “No one lights a lamp and hides it in a clay jar or puts it under a bed. Instead, they put it on a stand, so that those who come in can see the light. 17 For there is nothing hidden that will not be disclosed, and nothing concealed that will not be known or brought out into the open. 18 Therefore consider carefully how you listen. Whoever has will be given more; whoever does not have, even what they think they have will be taken from them.”
+++ +++ +++
これも、有名なイエス・キリストの教えです。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられる」というのは、単にこのよの法則のようなものではなく、信仰心のことを述べておられるのです。
真の信仰心を持った者は、さらに信仰心を高める機会を与えられ、ますます信仰心を強めることになるが、表面だけの信仰心しかない者は、その小さな信仰心を失うような誘惑などに会って、さらに信仰心が小さくなる、という意味です。
この世的には、ある思想を持てば、さらにその考えを強めるような機会に恵まれ、ある方向性を持って生きてゆけば、さらに、その方向に推し進めるような機会に出会うということを意味するが、心がその方向から外れれば、ますますその方向への執着心がなくなるということを意味する。
また、「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」とは、政治的な陰謀論や社会的な事件の暴露を肯定するかのような言葉です。日本語でも、「火のない所に、煙は出ない」と言いますが、隠し事はいつかは、人々に知られるということです。また、UFO問題などでも、アメリカ当局によるUFOの隠蔽工作のディスクロージャ活動とも関係する。真実は、いずれ明らかになるはずです。(UFO問題についいては、アメリカのアルテミス計画で明らかになると期待されている。)
そういう隠された真実を暴くのが、ジャーナリストや報道機関の役割であり、民主主義の社会では、重要な役割を担っている。報道関係者は社会のエリートだという考えもこころから生じている。
また、個人が社会の眼から隠れて、人に言えないようなことをやっていても、いずれは明るみに出されるという社会的な法則もある。「全てのひとを永久に騙すことはできないし、同時に誰をも全て騙すことはできない」という法則もある。真実を見抜く人は、どこかにいるものであり、「人の口に壁は立てられない」という言葉もあり。「裸の王様」のたとえ話にように、王様が裸であることを少年が見抜いて公言したように、真実はいつかは人々に知られるのです。
宗教の教祖が、私生活では堕落した生活を送り、寄付金などを毎日、数えるような生活をしていれば、霊能力も薄れ、いかがわしい噂が立ち、信者はやがて離れていく。
イエス・キリストが伝道生活に入ってからは、毎日24時間、弟子たちが身近にいて、イエスの私生活も監視していて、イエスには秘密がなかったので、新約聖書の福音書はイエスの真実の姿を記していると考えられる。それは、超能力者・霊能力者としてのイエス・キリストの姿なのです。
「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない」というのは、神様から霊的能力を与えられた者は、社会で誰にも知られず生きてゆくのではなく、必ず、人々を救うために、神様から与えられた力を世の中で発揮するということを意味する。
だから、貧しい大工であったイエスも、神様から与えられた癒しの力などを使って、人々を救い始められたのです。
また、欧米のキリスト教社会では、過去2千年にわたって、キリスト研究が行われており、隠されていたイエスやキリスト教にかかわる事実が多く発見されている。このような、知的な伝統がヨーロッパ文化のレベルの高さを生み出したものであり、東洋や日本には見られないヨーロッパ文化の進歩をもたらしたのです。
日本の神道や仏教は文明を高めるというよりも、日本人の感性を深める働きをして、ヨーロッパ文化とは異なる方向を向いていたが、宗教者の修業の内容や、日本の霊性の内容は、宗教関係者だけでなく、幅広く一般人にも知られるようになっている。
まさに、精神世界でも「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」ということです。
だから、キリスト教の探求や研究もつきることはない。(これは、仏教や神道でも同じです。)
ただし、個人の秘密や個人情報を握って脅迫をするようなことは、今の社会でも認められていない。イエスの言う秘密の顕在化と個人情報の保護は、別問題です。なお、誰も知らない社会の秘密を知ることで、優越感に浸る人もいるが、それを公にすることで公共の福祉と安全を促進できるのであれば、イエスの言葉に従って、無償で開示すべきであり、そうでないなら、社会の安定のために秘密は守るべきです。
2026年9月16日水曜日
「ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである」 ("...to others I speak in parables, so that, “‘though seeing, they may not see; though hearing, they may not understand.’")
10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)
10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,
“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’
11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.
+++ +++ +++
AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。
しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。
「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。
「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。
「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。
しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。
また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。
仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。
人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。
それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。
しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。
これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。
イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。
これが、霊的なキリスト教なのです。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)
10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,
“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’
11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.
+++ +++ +++
AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。
しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。
「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。
「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。
「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。
しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。
また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。
仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。
人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。
それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。
しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。
これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。
イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。
これが、霊的なキリスト教なのです。
2026年9月15日火曜日
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」 (マタイによる福音書 第 9 章) (“It is not the healthy who need a doctor, but the sick.")
10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
+++ +++ +++
これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
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これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。
すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (使徒言行録 第 9 章) (“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied.)
3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。 (使徒言行録 第 9 章)
3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying. 12 In a vision he has seen a man named Ananias come and place his hands on him to restore his sight.”
13 “Lord,” Ananias answered, “I have heard many reports about this man and all the harm he has done to your holy people in Jerusalem. 14 And he has come here with authority from the chief priests to arrest all who call on your name.”
15 But the Lord said to Ananias, “Go! This man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 16 I will show him how much he must suffer for my name.”
17 Then Ananias went to the house and entered it. Placing his hands on Saul, he said, “Brother Saul, the Lord—Jesus, who appeared to you on the road as you were coming here—has sent me so that you may see again and be filled with the Holy Spirit.” 18 Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. He got up and was baptized, 19 and after taking some food, he regained his strength.
19 and after taking some food, he regained his strength.
Saul spent several days with the disciples in Damascus. 20 At once he began to preach in the synagogues that Jesus is the Son of God.
+++ +++ +++
これは、「サウロの回心」と言われる聖書で有名な箇所です。
Wikipediaによれば、「ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い」とされている。
なお、サウロがいつパウロと呼ばれるようになったのかについては、AIでは、「回心した瞬間に急に改名したというより、使徒言行録13章9節からパウロ名義が本文で主に使われ始めたと考えるのが自然です 」と回答している。
いずれにしても、霊となったイエス・キリストが、霊界からこの世のパウロに影響力を及ぼされたのです。このように、キリスト教は霊的な現象が基本となって発展してきた宗教なのです。それは、日本の仏教や神道、修験道などと同じです。
さて、パウロは、その後、熱心にイエスの教えを伝える信徒となった。新約聖書には、パウロが各地の信徒に書き送った書簡が何通も採用されている。Wikipediaでは、「パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている」とされている。
ただし、パウロは、生存中のイエスを知らないので、イエスの12弟子の中には含まれていないが、回心のときのように、霊界から直接にイエス・キリストから言葉をかけられた人間として重要です。ただし、パウロ独自の宗教的判断がその書簡には書かれていると思われるので、18世紀に生きながら霊界を見ることを、霊界の神様(又は、主であるイエス・キリスト) から許されたスウェーデンボルグは、パウロについて、その『霊界日記』の中で、 「彼(パウロ)はその「書簡」の中で、主(イエス・キリスト)が教えたことの一言も述べていないし、主のたとえ話の一つさえも引用していない。したがって、彼は主の生涯や主の説教から何も受け入れていない」と批判的に述べている。
AIでも、「スウェーデンボルグの神学はキリスト教理解に大きな影響を与え、パウロへの批判的言及もある」とされている。
いずれにしても、パウロは新約聖書を通して、キリスト教の発展に大きな影響を与えた人物です。しかし、霊界を見たスウェーデンボルグが、パウロを批判しているので、今の一般のキリスト教会では、カトリックでもプロテスタントでも、スエーデンボルグに代表される心霊的なキリスト教は受けいれられていない。パウロへの批判は、現在のキリスト教会では受け入れられない。逆に、12弟子の一人であったペテロを初代ローマ法王として、カトリックでは崇めている。ペテロとパウロは、キリスト教の大聖者なのです。
要するに、キリスト教自体が出発点は心霊的な宗教だったのです。むしろ、心霊主義から離れた今のキリスト教会の方が、本来のイエス・キリストから遠ざかっているとも考えられる。
今の教会に行くのも良いが、キリスト教研究は各人が独自にしなければならない。
ダマスコへの途上で、パウロにイエス・キリストの霊が呼びかけたような霊的な経験をすれば、その本人もイエスの正しい教えを理解できるだろうが、まだ、そのような霊的現象は、少数の例外を除いて、ローマ法王にも、普通の神父や牧師にも起こっていない。
スウェーデンボルグが、神様(又は、主であるイエス・キリスト)の霊から霊界を見ることを許されたことを信ずる者と、信じない者の違いが、現代のキリスト教理解の差になって現れている。
しかし、まず聖書を読まなければ、そのような判断も出来ない。日本人は、まず聖書を学ぶべきです。また、スエーデンボルグの著作も読むべきです。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。 (使徒言行録 第 9 章)
3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying. 12 In a vision he has seen a man named Ananias come and place his hands on him to restore his sight.”
13 “Lord,” Ananias answered, “I have heard many reports about this man and all the harm he has done to your holy people in Jerusalem. 14 And he has come here with authority from the chief priests to arrest all who call on your name.”
15 But the Lord said to Ananias, “Go! This man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 16 I will show him how much he must suffer for my name.”
17 Then Ananias went to the house and entered it. Placing his hands on Saul, he said, “Brother Saul, the Lord—Jesus, who appeared to you on the road as you were coming here—has sent me so that you may see again and be filled with the Holy Spirit.” 18 Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. He got up and was baptized, 19 and after taking some food, he regained his strength.
19 and after taking some food, he regained his strength.
Saul spent several days with the disciples in Damascus. 20 At once he began to preach in the synagogues that Jesus is the Son of God.
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これは、「サウロの回心」と言われる聖書で有名な箇所です。
Wikipediaによれば、「ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い」とされている。
なお、サウロがいつパウロと呼ばれるようになったのかについては、AIでは、「回心した瞬間に急に改名したというより、使徒言行録13章9節からパウロ名義が本文で主に使われ始めたと考えるのが自然です 」と回答している。
いずれにしても、霊となったイエス・キリストが、霊界からこの世のパウロに影響力を及ぼされたのです。このように、キリスト教は霊的な現象が基本となって発展してきた宗教なのです。それは、日本の仏教や神道、修験道などと同じです。
さて、パウロは、その後、熱心にイエスの教えを伝える信徒となった。新約聖書には、パウロが各地の信徒に書き送った書簡が何通も採用されている。Wikipediaでは、「パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている」とされている。
ただし、パウロは、生存中のイエスを知らないので、イエスの12弟子の中には含まれていないが、回心のときのように、霊界から直接にイエス・キリストから言葉をかけられた人間として重要です。ただし、パウロ独自の宗教的判断がその書簡には書かれていると思われるので、18世紀に生きながら霊界を見ることを、霊界の神様(又は、主であるイエス・キリスト) から許されたスウェーデンボルグは、パウロについて、その『霊界日記』の中で、 「彼(パウロ)はその「書簡」の中で、主(イエス・キリスト)が教えたことの一言も述べていないし、主のたとえ話の一つさえも引用していない。したがって、彼は主の生涯や主の説教から何も受け入れていない」と批判的に述べている。
AIでも、「スウェーデンボルグの神学はキリスト教理解に大きな影響を与え、パウロへの批判的言及もある」とされている。
いずれにしても、パウロは新約聖書を通して、キリスト教の発展に大きな影響を与えた人物です。しかし、霊界を見たスウェーデンボルグが、パウロを批判しているので、今の一般のキリスト教会では、カトリックでもプロテスタントでも、スエーデンボルグに代表される心霊的なキリスト教は受けいれられていない。パウロへの批判は、現在のキリスト教会では受け入れられない。逆に、12弟子の一人であったペテロを初代ローマ法王として、カトリックでは崇めている。ペテロとパウロは、キリスト教の大聖者なのです。
要するに、キリスト教自体が出発点は心霊的な宗教だったのです。むしろ、心霊主義から離れた今のキリスト教会の方が、本来のイエス・キリストから遠ざかっているとも考えられる。
今の教会に行くのも良いが、キリスト教研究は各人が独自にしなければならない。
ダマスコへの途上で、パウロにイエス・キリストの霊が呼びかけたような霊的な経験をすれば、その本人もイエスの正しい教えを理解できるだろうが、まだ、そのような霊的現象は、少数の例外を除いて、ローマ法王にも、普通の神父や牧師にも起こっていない。
スウェーデンボルグが、神様(又は、主であるイエス・キリスト)の霊から霊界を見ることを許されたことを信ずる者と、信じない者の違いが、現代のキリスト教理解の差になって現れている。
しかし、まず聖書を読まなければ、そのような判断も出来ない。日本人は、まず聖書を学ぶべきです。また、スエーデンボルグの著作も読むべきです。
2026年9月13日日曜日
「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」 (マタイによる福音書 第 20 章) ( “So the last will be first, and the first will be last.”)
天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 第 20 章)
20 “For the kingdom of heaven is like a landowner who went out early in the morning to hire workers for his vineyard. 2 He agreed to pay them a denarius[a] for the day and sent them into his vineyard.
3 “About nine in the morning he went out and saw others standing in the marketplace doing nothing. 4 He told them, ‘You also go and work in my vineyard, and I will pay you whatever is right.’ 5 So they went.
“He went out again about noon and about three in the afternoon and did the same thing. 6 About five in the afternoon he went out and found still others standing around. He asked them, ‘Why have you been standing here all day long doing nothing?’
7 “‘Because no one has hired us,’ they answered.
“He said to them, ‘You also go and work in my vineyard.’
8 “When evening came, the owner of the vineyard said to his foreman, ‘Call the workers and pay them their wages, beginning with the last ones hired and going on to the first.’
9 “The workers who were hired about five in the afternoon came and each received a denarius. 10 So when those came who were hired first, they expected to receive more. But each one of them also received a denarius. 11 When they received it, they began to grumble against the landowner. 12 ‘These who were hired last worked only one hour,’ they said, ‘and you have made them equal to us who have borne the burden of the work and the heat of the day.’
13 “But he answered one of them, ‘I am not being unfair to you, friend. Didn’t you agree to work for a denarius? 14 Take your pay and go. I want to give the one who was hired last the same as I gave you. 15 Don’t I have the right to do what I want with my own money? Or are you envious because I am generous?’
16 “So the last will be first, and the first will be last.”
+++ +++ +++
これは、「ぶどう園の労務者たち」の譬えとして知られている。「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という言葉の意味は、この世で稀に生じている不思議さを述べたものです。
何事も、目に見える順番は、絶対的なものではまく。目に見えない力によって、順序が覆されるのです。それが、神様による人間の運命への介入なのです。、
人の順番は、ある基準によって定められますが、その基準自体が人間の定めたものである限り、不完全なのです。その基準によって幸/不幸が決められるとき、神様はその結果に干渉されて、隠れた真理や状況に従って、ものごとを正され、順番を変えられるのです。
人間の定めた順番や自然の法則に従った運命では、神様の意図される人間の救済にはつながらないので。そのような法則に介入して、人間の順番を変え、結果の幸/不幸を変えられるのです。
例えば、悪魔に魂を売ってある順番で上位の位置を得ても、神様の教えに従った結果、遅れをとって下位に甘んじている者がいる場合、神様が上位の者より、さらに上位に上げようとされることがある。それが、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という現象になる。
例えば、学校で一番の成績をとっても、世の中で評価されるのは最後の場合もあり、また、財産の獲得で一番多くの資産を得た者が、死後の霊界では全く最低の評価しか得られず、最貧の霊格しか得られないこともある。この世で多くの物質的な幸福を得た人間が、霊界では貧しい生活を強いられる。この世で外見的には、最も充実していた人間が、心の中では、お粗末な考えしかなく、霊的には劣った人間とされる場合もある。
逆に、十字架上で刑死した罪人とされる人間が、やがて世界を制覇する宗教を打ち立てることもある。それが、イエス・キリストなのです。最低の人間である刑死者が、最高の宗教の教祖とされたのです。まさに、世の中の評価で、一番下に置かれ、最後に評価される立場であった者が、一番上に置かれ、最初に評価される者になったのです。
神様の眼で見た評価は、悪魔の影響下のこの世での評価とは反対になる。この世では神様の教えに従って、貧しい生活をしていた者が、霊界では評価されて豊かな生活をするのに反して、この世で悪魔に魂を売って豊かな生活をしていた者は、霊界では神様の支配する霊界の基準によって、全く評価されずに、貧しさの苦労を味わせられる。
この世の評価、順番は、悪魔の影響を受けた世の中の都合で作られたものであり、絶対的な公正さはなく、そこで想定されていた状況を超える理由があれば、神様はその評価や順番に介入されて、先の者を後にし、後のものを先にされるのです。
これは、自然の法則についても、それが働くには多くの前提条件があり、隠れた因子があれば、法則は破られることを意味する。その隠れた因子を研究することで、新たな法則が見つかる。その最大の隠れた因子は、神様の起こされる奇跡なので、従来の科学的な知識では説明がつかない。しかし、その奇跡を説明できるような、新たな理論も神様は同時に授けられるので、それを見出すことが、本当の科学の発展になる。超能力や霊能力の研究は、科学的な手法では限界があるのは、このためです。科学で証明できないからといって、そのような力は存在しないことにはならない。
特に物質界は、霊界の下にあり、霊界の法則が物質界に入ってくれば、物質界を超えた力が物質界でも働くようになり、奇跡となって現れる。イエスがさまざまな奇跡を行ったのも、霊界の力を物質界に及ぼしたからです。
ただし、この世の利害、損得、好悪などに従っている者は、このような奇跡は起こせない。それは、想念によって精神力でこの世の現象に霊的な力を及ぼせるが、この世の欲を求める心では、正しく想念が働かないからです。
この世の順番、法則を破らねばならないと、神様がお考えになれば、それが覆るのです。
神の子のイエスには、それが理解できたので、人々に「(この世の自然界の現象や人間界の評価として)あとの者は(神様の介入があった場合は)先になり、先の者はあとになる」と教えられたのです。
しかし、なぜ神様が介入されるかは、全知全能で全善な神様への信仰心がなければ、理解できない。従って、このイエス・キリストの教えは、多くの神父、牧師、神学者でも理解されていない。
ただし、生きながら霊界を見た18世紀のスウェーデンボルグなどは、霊的に正しい解釈をしている。神様の直接支配される霊界では、悪魔の影響下のこの世での順番とは逆になっていることを見てきたらからです。
2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 第 20 章)
20 “For the kingdom of heaven is like a landowner who went out early in the morning to hire workers for his vineyard. 2 He agreed to pay them a denarius[a] for the day and sent them into his vineyard.
3 “About nine in the morning he went out and saw others standing in the marketplace doing nothing. 4 He told them, ‘You also go and work in my vineyard, and I will pay you whatever is right.’ 5 So they went.
“He went out again about noon and about three in the afternoon and did the same thing. 6 About five in the afternoon he went out and found still others standing around. He asked them, ‘Why have you been standing here all day long doing nothing?’
7 “‘Because no one has hired us,’ they answered.
“He said to them, ‘You also go and work in my vineyard.’
8 “When evening came, the owner of the vineyard said to his foreman, ‘Call the workers and pay them their wages, beginning with the last ones hired and going on to the first.’
9 “The workers who were hired about five in the afternoon came and each received a denarius. 10 So when those came who were hired first, they expected to receive more. But each one of them also received a denarius. 11 When they received it, they began to grumble against the landowner. 12 ‘These who were hired last worked only one hour,’ they said, ‘and you have made them equal to us who have borne the burden of the work and the heat of the day.’
13 “But he answered one of them, ‘I am not being unfair to you, friend. Didn’t you agree to work for a denarius? 14 Take your pay and go. I want to give the one who was hired last the same as I gave you. 15 Don’t I have the right to do what I want with my own money? Or are you envious because I am generous?’
16 “So the last will be first, and the first will be last.”
+++ +++ +++
これは、「ぶどう園の労務者たち」の譬えとして知られている。「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という言葉の意味は、この世で稀に生じている不思議さを述べたものです。
何事も、目に見える順番は、絶対的なものではまく。目に見えない力によって、順序が覆されるのです。それが、神様による人間の運命への介入なのです。、
人の順番は、ある基準によって定められますが、その基準自体が人間の定めたものである限り、不完全なのです。その基準によって幸/不幸が決められるとき、神様はその結果に干渉されて、隠れた真理や状況に従って、ものごとを正され、順番を変えられるのです。
人間の定めた順番や自然の法則に従った運命では、神様の意図される人間の救済にはつながらないので。そのような法則に介入して、人間の順番を変え、結果の幸/不幸を変えられるのです。
例えば、悪魔に魂を売ってある順番で上位の位置を得ても、神様の教えに従った結果、遅れをとって下位に甘んじている者がいる場合、神様が上位の者より、さらに上位に上げようとされることがある。それが、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という現象になる。
例えば、学校で一番の成績をとっても、世の中で評価されるのは最後の場合もあり、また、財産の獲得で一番多くの資産を得た者が、死後の霊界では全く最低の評価しか得られず、最貧の霊格しか得られないこともある。この世で多くの物質的な幸福を得た人間が、霊界では貧しい生活を強いられる。この世で外見的には、最も充実していた人間が、心の中では、お粗末な考えしかなく、霊的には劣った人間とされる場合もある。
逆に、十字架上で刑死した罪人とされる人間が、やがて世界を制覇する宗教を打ち立てることもある。それが、イエス・キリストなのです。最低の人間である刑死者が、最高の宗教の教祖とされたのです。まさに、世の中の評価で、一番下に置かれ、最後に評価される立場であった者が、一番上に置かれ、最初に評価される者になったのです。
神様の眼で見た評価は、悪魔の影響下のこの世での評価とは反対になる。この世では神様の教えに従って、貧しい生活をしていた者が、霊界では評価されて豊かな生活をするのに反して、この世で悪魔に魂を売って豊かな生活をしていた者は、霊界では神様の支配する霊界の基準によって、全く評価されずに、貧しさの苦労を味わせられる。
この世の評価、順番は、悪魔の影響を受けた世の中の都合で作られたものであり、絶対的な公正さはなく、そこで想定されていた状況を超える理由があれば、神様はその評価や順番に介入されて、先の者を後にし、後のものを先にされるのです。
これは、自然の法則についても、それが働くには多くの前提条件があり、隠れた因子があれば、法則は破られることを意味する。その隠れた因子を研究することで、新たな法則が見つかる。その最大の隠れた因子は、神様の起こされる奇跡なので、従来の科学的な知識では説明がつかない。しかし、その奇跡を説明できるような、新たな理論も神様は同時に授けられるので、それを見出すことが、本当の科学の発展になる。超能力や霊能力の研究は、科学的な手法では限界があるのは、このためです。科学で証明できないからといって、そのような力は存在しないことにはならない。
特に物質界は、霊界の下にあり、霊界の法則が物質界に入ってくれば、物質界を超えた力が物質界でも働くようになり、奇跡となって現れる。イエスがさまざまな奇跡を行ったのも、霊界の力を物質界に及ぼしたからです。
ただし、この世の利害、損得、好悪などに従っている者は、このような奇跡は起こせない。それは、想念によって精神力でこの世の現象に霊的な力を及ぼせるが、この世の欲を求める心では、正しく想念が働かないからです。
この世の順番、法則を破らねばならないと、神様がお考えになれば、それが覆るのです。
神の子のイエスには、それが理解できたので、人々に「(この世の自然界の現象や人間界の評価として)あとの者は(神様の介入があった場合は)先になり、先の者はあとになる」と教えられたのです。
しかし、なぜ神様が介入されるかは、全知全能で全善な神様への信仰心がなければ、理解できない。従って、このイエス・キリストの教えは、多くの神父、牧師、神学者でも理解されていない。
ただし、生きながら霊界を見た18世紀のスウェーデンボルグなどは、霊的に正しい解釈をしている。神様の直接支配される霊界では、悪魔の影響下のこの世での順番とは逆になっていることを見てきたらからです。
2026年9月12日土曜日
わたしが弱い時にこそ、わたしは強い (コリントの信徒への手紙二 第 12 章) (For when I am weak, then I am strong.)
2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。
3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
2 I know a man in Christ who fourteen years ago was caught up to the third heaven. Whether it was in the body or out of the body I do not know—God knows. 3 And I know that this man—whether in the body or apart from the body I do not know, but God knows— 4 was caught up to paradise and heard inexpressible things, things that no one is permitted to tell. 5 I will boast about a man like that, but I will not boast about myself, except about my weaknesses. 6 Even if I should choose to boast, I would not be a fool, because I would be speaking the truth. But I refrain, so no one will think more of me than is warranted by what I do or say, 7 or because of these surpassingly great revelations. Therefore, in order to keep me from becoming conceited, I was given a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. 8 Three times I pleaded with the Lord to take it away from me. 9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
+++ +++ +++
Wikipediaによれば、この「コリントの信徒への手紙二 」は、「研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである」とされている。
「この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない」というのは、パウロが、まさに霊的な体験をしたことを述べている。
そして、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」と述べている。つまり、霊界の天国に生きたまま受け入れられたことを述べている。
キリスト教の初期の伝道は、このように霊的な体験によってけん引されていたことが分かる。
しかし、何よりも印象的なのは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と述べている箇所である。イエス・キリストを信じる者は、この世的な力、暴力、権力、知識の力、肩書などは使わない。この世の弱者として生きて、この世のエリートには逆らわす、悪意のある人からのさまざまな挑発にも乗らず、常に弱者として平和を求める。しかし、この弱さが神様の言葉に従って生きる強さを与え、愛と信仰にたよって生きる生きる宗教的な強さの源となる。
この世的には、弱いからこそ、誰にも脅威を与えないで、警戒されず、社会の弱者の中に入って行け、この世の弱者と真実の心の交わりができることになる。この弱さが、人間関係での強さを与え、信仰と愛の強さを示せるようになる。このような伝道者は、自分の弱さを隠すために、強者を演じることもなく、周囲に平和をもたらし、人々から強い信頼を得ることになる。
ただし、イエスは、信仰者は「人から見下されてはならない」と、信仰者としての威厳を示すように述べている。卑屈にならず、堂々と神様の教えに従って生きなければならない。つまり、この世の強者におもねたり、忖度することなく、また、媚びたり、機嫌を取ることもなく、富裕層やエリートにも人間同士としての正しい品格のある態度で接しなければならない。
生きて霊界の天国に入れたことが、その自身の源泉なのです。
18世紀の神秘家のスエーデンボルグが、キリストの霊によって、生きたまま霊界に受け入れられたように、パウロも生きたまま、霊界の天国に受け入れられたと思われる。この霊的な体験が、パウロの強さの源となり、この世のどんな苦難も耐えられ。誰よりも霊的に優れているとの自信が与えらえたのです。
今でも、臨死体験をした人は、死後の世界(霊界)を見たことで、密かな自信を得ている。この世で弱者であっても、霊界の真実を得ている隠れた強者として生きている。霊が与える強さは、この世的な強さを上回るのです。だから、肩書も、権力も、富もない弱者が、霊的な力でエリートや富裕層に対抗することができるのです。
それは、文明人が、暴力的な未開人を恐れないのと同じことです。文明社会の威力を知っている文明人は、暴力しか知らない未開人は恐れない。暴力的には弱い文明人が、本当は強いように、神様とイエス・キリストの信仰者は、この世の強者に負けることはない。精神力は、誰にも負けないのが、本当の信仰者なのです。
信仰者の強さの裏付けは、この世の地位や富ではなく、霊的な力なのです。
3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)
2 I know a man in Christ who fourteen years ago was caught up to the third heaven. Whether it was in the body or out of the body I do not know—God knows. 3 And I know that this man—whether in the body or apart from the body I do not know, but God knows— 4 was caught up to paradise and heard inexpressible things, things that no one is permitted to tell. 5 I will boast about a man like that, but I will not boast about myself, except about my weaknesses. 6 Even if I should choose to boast, I would not be a fool, because I would be speaking the truth. But I refrain, so no one will think more of me than is warranted by what I do or say, 7 or because of these surpassingly great revelations. Therefore, in order to keep me from becoming conceited, I was given a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. 8 Three times I pleaded with the Lord to take it away from me. 9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
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Wikipediaによれば、この「コリントの信徒への手紙二 」は、「研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである」とされている。
「この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない」というのは、パウロが、まさに霊的な体験をしたことを述べている。
そして、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」と述べている。つまり、霊界の天国に生きたまま受け入れられたことを述べている。
キリスト教の初期の伝道は、このように霊的な体験によってけん引されていたことが分かる。
しかし、何よりも印象的なのは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と述べている箇所である。イエス・キリストを信じる者は、この世的な力、暴力、権力、知識の力、肩書などは使わない。この世の弱者として生きて、この世のエリートには逆らわす、悪意のある人からのさまざまな挑発にも乗らず、常に弱者として平和を求める。しかし、この弱さが神様の言葉に従って生きる強さを与え、愛と信仰にたよって生きる生きる宗教的な強さの源となる。
この世的には、弱いからこそ、誰にも脅威を与えないで、警戒されず、社会の弱者の中に入って行け、この世の弱者と真実の心の交わりができることになる。この弱さが、人間関係での強さを与え、信仰と愛の強さを示せるようになる。このような伝道者は、自分の弱さを隠すために、強者を演じることもなく、周囲に平和をもたらし、人々から強い信頼を得ることになる。
ただし、イエスは、信仰者は「人から見下されてはならない」と、信仰者としての威厳を示すように述べている。卑屈にならず、堂々と神様の教えに従って生きなければならない。つまり、この世の強者におもねたり、忖度することなく、また、媚びたり、機嫌を取ることもなく、富裕層やエリートにも人間同士としての正しい品格のある態度で接しなければならない。
生きて霊界の天国に入れたことが、その自身の源泉なのです。
18世紀の神秘家のスエーデンボルグが、キリストの霊によって、生きたまま霊界に受け入れられたように、パウロも生きたまま、霊界の天国に受け入れられたと思われる。この霊的な体験が、パウロの強さの源となり、この世のどんな苦難も耐えられ。誰よりも霊的に優れているとの自信が与えらえたのです。
今でも、臨死体験をした人は、死後の世界(霊界)を見たことで、密かな自信を得ている。この世で弱者であっても、霊界の真実を得ている隠れた強者として生きている。霊が与える強さは、この世的な強さを上回るのです。だから、肩書も、権力も、富もない弱者が、霊的な力でエリートや富裕層に対抗することができるのです。
それは、文明人が、暴力的な未開人を恐れないのと同じことです。文明社会の威力を知っている文明人は、暴力しか知らない未開人は恐れない。暴力的には弱い文明人が、本当は強いように、神様とイエス・キリストの信仰者は、この世の強者に負けることはない。精神力は、誰にも負けないのが、本当の信仰者なのです。
信仰者の強さの裏付けは、この世の地位や富ではなく、霊的な力なのです。
2026年9月11日金曜日
太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり・・・ (ヨハネの黙示録 第 8 章) (...a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark)
羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。
2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
7 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
8 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、
9 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。 (ヨハネの黙示録 第 8 章)
8 When he opened the seventh seal, there was silence in heaven for about half an hour.
2 And I saw the seven angels who stand before God, and seven trumpets were given to them.
3 Another angel, who had a golden censer, came and stood at the altar. He was given much incense to offer, with the prayers of all God’s people, on the golden altar in front of the throne. 4 The smoke of the incense, together with the prayers of God’s people, went up before God from the angel’s hand. 5 Then the angel took the censer, filled it with fire from the altar, and hurled it on the earth; and there came peals of thunder, rumblings, flashes of lightning and an earthquake.
6 Then the seven angels who had the seven trumpets prepared to sound them.
7 The first angel sounded his trumpet, and there came hail and fire mixed with blood, and it was hurled down on the earth. A third of the earth was burned up, a third of the trees were burned up, and all the green grass was burned up.
8 The second angel sounded his trumpet, and something like a huge mountain, all ablaze, was thrown into the sea. A third of the sea turned into blood, 9 a third of the living creatures in the sea died, and a third of the ships were destroyed.
10 The third angel sounded his trumpet, and a great star, blazing like a torch, fell from the sky on a third of the rivers and on the springs of water— 11 the name of the star is Wormwood.[a] A third of the waters turned bitter, and many people died from the waters that had become bitter.
12 The fourth angel sounded his trumpet, and a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark. A third of the day was without light, and also a third of the night.
13 As I watched, I heard an eagle that was flying in midair call out in a loud voice: “Woe! Woe! Woe to the inhabitants of the earth, because of the trumpet blasts about to be sounded by the other three angels!”
+++ +++ +++
この「ヨハネの黙示録」とは、Wikipediaによれば、「『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である」とされている。
その中で、最も印象的な部分が、この「苦よもぎ」がでてくるこの世の終末を予言した部分です。「にがよもぎ」とは、元々ロシア語のチェルノブイリニクというヨモギの一種と語呂が似ており、「チェルノブイリ原発事故」を意味していると考えらえています。
「第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて」という部分は、太陽が日本、月がイスラム諸国、星がヨーロッパとアメリカを表すと考えられる。第二大戦での日本の敗北、その後のイスラム諸国とイスラエルの紛争、そして、ヨーロッパやアメリカで始まる近未来の第三次世界大戦を意味しているのではないかと考えらえる。
ただし、「神のみまえに立っている七人の御使」は、まだ、第五、第六、第七のみ使いがいて、第三次世界大戦後も、人類の悲劇が続くと考えられる。第一から第二のみ使いは、1986年の「チェルノブイリ原発事故」以前の、第二次大戦までの世界の悲劇を表していると考えられる。
第四のみ使いからは、20世紀の予言になっていると考えるのが、霊的な「ヨハネの黙示録」の読み方です。
そもそも、なぜこのような予言の書と考えられる「ヨハネの黙示録」が、新約聖書の中に収められたのかは謎です。Wikipediaでは、「『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある」とされている。
また、キリスト教では、「最後の審判」という言葉がよく使われているが、AIでは、「最後の審判」とは「キリスト教で世界の終わりに神が人々を裁く場面を指す言葉です。救われる者と、そうでない者が分けられるという主題です」と述べており、「ヨハネの黙示録」を裏付ける教えとなっている。
18世紀の死後の霊界を見たというスウェーデンボルグによれば、人類は何度も神様によって審判を受けており、18世紀には霊界で「最後の審判」が行われ、人類の不信仰が一掃されたという。霊界の「最後の審判」は、2世紀くらい遅れてこの世の人類に現れるので、21世紀には人類社会に大きな変動が起こると考えられている。
実際に、人類の歴史は、2千年前にイエス・キリストがこの世に出現して以来、文明化が進み、18世紀以降の科学・技術の発展によって、20世紀には、人類は原子力技術を得て、人類滅亡の核戦争が心配されている。さらに、物質文明の暴走によって自然異常が生じて、地球の破壊が進んでいるとの見方もある。AIとコンピュータ技術の進展は、それを加速していると考えられる。
このような、人類の危機について、神の子のイエス・キリストが沈黙しているはずはない。2千年前からイエス・キリストは、今日の人類の悲劇を予測していてもおかしくなく、それを聖霊を用いて、「ヨハネの黙示録」として新約聖書に納めさせたのであろう。
聖書に書かれたイエスの奇跡を信じるように、「ヨハネの黙示録」に神様の意図を感じるのがキリスト教徒なのです。
さもなければ、この黙示録は、「不信仰者への警告を、おおげさな夢物語り」として記した書だということになる。そのような、無意味な書を新約聖書に含めるキリスト教は信用できない、ということになる。
しかし、敬虔なキリスト教徒であったスエーデンボルグは、「ヨハネの黙示録」を霊的な書だとして研究している。そして、人類の霊的な歴史を理解しなければならないと考えている。要するに、人類はアダムとイブの時代やノアの箱舟の時代から、霊的に堕落を続けて来たので、霊界や人間界を刷新し、霊的に浄化する必要があると考えられた神様は、何度も人類に審判を下され、「ヨハネの黙示録」は神様による人類社会の最後の浄化を表すものだということになる。
また、スウェーデンボルグと同時代のイギリスの科学者のニュートンは、独自の聖書の研究によって、「最後の審判」は2060年までは起こらないと書いていた。
いずれしても、21世紀に決定的なことが人類に生じると考えられる。
2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
7 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
8 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、
9 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。 (ヨハネの黙示録 第 8 章)
8 When he opened the seventh seal, there was silence in heaven for about half an hour.
2 And I saw the seven angels who stand before God, and seven trumpets were given to them.
3 Another angel, who had a golden censer, came and stood at the altar. He was given much incense to offer, with the prayers of all God’s people, on the golden altar in front of the throne. 4 The smoke of the incense, together with the prayers of God’s people, went up before God from the angel’s hand. 5 Then the angel took the censer, filled it with fire from the altar, and hurled it on the earth; and there came peals of thunder, rumblings, flashes of lightning and an earthquake.
6 Then the seven angels who had the seven trumpets prepared to sound them.
7 The first angel sounded his trumpet, and there came hail and fire mixed with blood, and it was hurled down on the earth. A third of the earth was burned up, a third of the trees were burned up, and all the green grass was burned up.
8 The second angel sounded his trumpet, and something like a huge mountain, all ablaze, was thrown into the sea. A third of the sea turned into blood, 9 a third of the living creatures in the sea died, and a third of the ships were destroyed.
10 The third angel sounded his trumpet, and a great star, blazing like a torch, fell from the sky on a third of the rivers and on the springs of water— 11 the name of the star is Wormwood.[a] A third of the waters turned bitter, and many people died from the waters that had become bitter.
12 The fourth angel sounded his trumpet, and a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark. A third of the day was without light, and also a third of the night.
13 As I watched, I heard an eagle that was flying in midair call out in a loud voice: “Woe! Woe! Woe to the inhabitants of the earth, because of the trumpet blasts about to be sounded by the other three angels!”
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この「ヨハネの黙示録」とは、Wikipediaによれば、「『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である」とされている。
その中で、最も印象的な部分が、この「苦よもぎ」がでてくるこの世の終末を予言した部分です。「にがよもぎ」とは、元々ロシア語のチェルノブイリニクというヨモギの一種と語呂が似ており、「チェルノブイリ原発事故」を意味していると考えらえています。
「第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて」という部分は、太陽が日本、月がイスラム諸国、星がヨーロッパとアメリカを表すと考えられる。第二大戦での日本の敗北、その後のイスラム諸国とイスラエルの紛争、そして、ヨーロッパやアメリカで始まる近未来の第三次世界大戦を意味しているのではないかと考えらえる。
ただし、「神のみまえに立っている七人の御使」は、まだ、第五、第六、第七のみ使いがいて、第三次世界大戦後も、人類の悲劇が続くと考えられる。第一から第二のみ使いは、1986年の「チェルノブイリ原発事故」以前の、第二次大戦までの世界の悲劇を表していると考えられる。
第四のみ使いからは、20世紀の予言になっていると考えるのが、霊的な「ヨハネの黙示録」の読み方です。
そもそも、なぜこのような予言の書と考えられる「ヨハネの黙示録」が、新約聖書の中に収められたのかは謎です。Wikipediaでは、「『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある」とされている。
また、キリスト教では、「最後の審判」という言葉がよく使われているが、AIでは、「最後の審判」とは「キリスト教で世界の終わりに神が人々を裁く場面を指す言葉です。救われる者と、そうでない者が分けられるという主題です」と述べており、「ヨハネの黙示録」を裏付ける教えとなっている。
18世紀の死後の霊界を見たというスウェーデンボルグによれば、人類は何度も神様によって審判を受けており、18世紀には霊界で「最後の審判」が行われ、人類の不信仰が一掃されたという。霊界の「最後の審判」は、2世紀くらい遅れてこの世の人類に現れるので、21世紀には人類社会に大きな変動が起こると考えられている。
実際に、人類の歴史は、2千年前にイエス・キリストがこの世に出現して以来、文明化が進み、18世紀以降の科学・技術の発展によって、20世紀には、人類は原子力技術を得て、人類滅亡の核戦争が心配されている。さらに、物質文明の暴走によって自然異常が生じて、地球の破壊が進んでいるとの見方もある。AIとコンピュータ技術の進展は、それを加速していると考えられる。
このような、人類の危機について、神の子のイエス・キリストが沈黙しているはずはない。2千年前からイエス・キリストは、今日の人類の悲劇を予測していてもおかしくなく、それを聖霊を用いて、「ヨハネの黙示録」として新約聖書に納めさせたのであろう。
聖書に書かれたイエスの奇跡を信じるように、「ヨハネの黙示録」に神様の意図を感じるのがキリスト教徒なのです。
さもなければ、この黙示録は、「不信仰者への警告を、おおげさな夢物語り」として記した書だということになる。そのような、無意味な書を新約聖書に含めるキリスト教は信用できない、ということになる。
しかし、敬虔なキリスト教徒であったスエーデンボルグは、「ヨハネの黙示録」を霊的な書だとして研究している。そして、人類の霊的な歴史を理解しなければならないと考えている。要するに、人類はアダムとイブの時代やノアの箱舟の時代から、霊的に堕落を続けて来たので、霊界や人間界を刷新し、霊的に浄化する必要があると考えられた神様は、何度も人類に審判を下され、「ヨハネの黙示録」は神様による人類社会の最後の浄化を表すものだということになる。
また、スウェーデンボルグと同時代のイギリスの科学者のニュートンは、独自の聖書の研究によって、「最後の審判」は2060年までは起こらないと書いていた。
いずれしても、21世紀に決定的なことが人類に生じると考えられる。
なお、宇宙人にUFOに連れ込まれた、リンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則は、宇宙人から2030年頃に、人類は決定的な運命に見舞われて文明の崩壊に向かうと警告されている。その他、世界中で宇宙人から警告を受けたという人は多い。宇宙人とキリスト教に関係があるとする説もある。
いずれにしても、「ヨハネの黙示録」がキリスト教の新約聖書の中に含まれていいることは、聖霊の働きによると考えれば、やはり、そこに霊的な意味を見出すのが正しい。
このようなキリスト教の内容を日本人は、その霊性に基づいて研究すべきなのです。それが、日本人に与えられた歴史的課題であり、それが日本の存在意義なのです。
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