2026年8月10日月曜日

「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」 (ルカによる福音書 第 11 章) (How much more will your Father in heaven give the Holy Spirit to those who ask him!”)

 

11 あなたがたのうちで、父であるものは、その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与えるだろうか。
12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカによる福音書 第 11 章)

11 “Which of you fathers, if your son asks for a fish, will give him a snake instead? 12 Or if he asks for an egg, will give him a scorpion? 13 If you then, though you are evil, know how to give good gifts to your children, how much more will your Father in heaven give the Holy Spirit to those who ask him!”
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父親は、子供に「その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与える」ことはない、と父親の自然な愛情を譬えにして、イエス・キリストは、同じように天の父親である神様は、子である人間たちにも自然な愛情を持っていると述べておられる。

神様は、父が子を愛するように、子である人間を愛しておられる。この信頼関係が、キリスト教の基礎なのです。

だから、子である人間は、子が父を愛するように神様を信頼してよいと述べておられるのです。

つまり、人間は願い事があれば、神様に祈ってもよい、という意味です。そのとき、イエス・キリストの名で神様に願えば、願い事は必ずかなうと信ぜよというのが、イエスの教えなのです。

問題は、神様に願ったことが叶っているのに、そのことに人間が気が付かないという場合が多いことです。あることのためにカネが必要なので、神様にカネを求めたとしても、神様がカネではなく、他の方法でその問題を解決してくれるかもしれない。しかし、カネを得られなかった信者は願い事が叶わなかったと考えるかもしれない。しかし、カネ以外の手段で問題は解決している場合があるのです。

また、旅行をするのに、時間通りに空港に着けるように神様に祈ったとしても、なぜか時間に間に合わなかった場合、神様が願いをかなえてくれなかったと考えるかもしれない。しかし、乗る予定の飛行機が事故を起こして多くの乗客が亡くなった場合、自分は神様に助けられているのに、それには気が行かない場合もある。

つまり、神様は、卵を求める子供に蛇を与えないどころか、卵以上に安全でおいしいものを与えて下さっているのに、それに気づかず感謝しない子供のようなものである信者がいるということを述べておられるのです。

日本でも、年末年始に神仏に祈る人間は多いが、その直接的な願いには神仏はこたえずに、別の思いがけない形で願いにこたえてくれることがある。典型的なのは、幸せになるために、カネを神仏に求めた場合です。神仏は人間を幸福にしてはくれるが、カネは与えないという場合がある。目的を達成するのに、より愛のある形で達成させてくれる場合がある。又は、その目的よりも、もっと愛のある目的を実現させて頂く場合がある。問題は、人間の願い事だけでなく、その願う意図や目的、それを実現する手段の内容や、その影響、効果、副作用だということです。

自分の夢を叶えるために、社会に悪影響を及ぼすことを願っても、それは実現しない。別の形で夢を叶えて下さるのが神様なのです。あるいは、そのような夢が、愛と信仰から離れている場合、善の神様は、その願いを受け付けない場合がある。人間が愛と信仰心を取り戻すまでは、その願いや祈りにこたえらない場がある。

つまり、神様は人間の欲望にこたえるのではなく、欲望を捨てた願いを待っておられる、そして、人間が欲望を捨てたとき、その願いは神様によって叶えられるということです。これは、心霊研究家でもあった、工学博士で発明家であった故政木和三の主張と同じです。欲望を捨てた願いとは、人間的な願いではなく、神聖な願いだということです。つまり、聖霊が扱うような願いだということです。

いずれにしても、イエス・キリストは、とにかく神様に祈れば、それが神聖で自然な願いであれば、神様はきいて下さると述べておられる。また、強く願うだけの神聖で自然な理由があれば、神様は必ずこたえて下さると述べておられるのです。

これが、霊的なキリスト教の信仰なのです。