23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。
25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。
28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。(使徒言行録 第 11 章)
22 News of this reached the church in Jerusalem, and they sent Barnabas to Antioch. 23 When he arrived and saw what the grace of God had done, he was glad and encouraged them all to remain true to the Lord with all their hearts. 24 He was a good man, full of the Holy Spirit and faith, and a great number of people were brought to the Lord.
25 Then Barnabas went to Tarsus to look for Saul, 26 and when he found him, he brought him to Antioch. So for a whole year Barnabas and Saul met with the church and taught great numbers of people. The disciples were called Christians first at Antioch.
27 During this time some prophets came down from Jerusalem to Antioch. 28 One of them, named Agabus, stood up and through the Spirit predicted that a severe famine would spread over the entire Roman world. (This happened during the reign of Claudius.) 29 The disciples, as each one was able, decided to provide help for the brothers and sisters living in Judea. 30 This they did, sending their gift to the elders by Barnabas and Saul.
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これは、イエス・キリストの教えを信じる者が、「クリスチャンと呼ばれるようになった」ときの経緯を述べている。
「聖霊と信仰とに満ちた立派な人」が、「まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた」ので、その効果が現れてクリスチャンと呼ばれるようになったのです。このように、初期教会は、立派な信徒が時間をかけて人々に説教をしたので、信者が増えていったのです。そして、困窮にある信仰の兄弟たちに、「援助を送る」ようになり、隣人愛が発揮されるようになった。
イエス・キリストの十字架上での刑死後、弟子たちが熱心にイエスの教えを説いたことが、キリスト教の出発点となったのです。そして、互いに助け合うことが、キリスト教会の初期から実践されていた。
ただし、この背後には聖霊に満ちた弟子たちの活躍がある。「聖霊と信仰とに満ち」ることが、天からの助けを得る条件になっている。「聖霊と信仰とに満ち」れば、神様が天使を助けとして送って下さる、ということです。人間の努力だけでは、イエス・キリストの教えは広まらなかった。霊的な助けが伝道には必要なのです。
今の日本でも、さまざまな新宗教が活躍しているが、その教祖たちに霊的な力が働いていなければ、人々は信用しない。宗教とは、霊的な力の働きなのです。ただし、悪魔も霊であり、霊的な力を持っている。教祖たちが、神様の霊に従っているのか、悪魔の霊力に従っているのかを、人々は判断しなければならない。
そこで働くのが、人間が生まれつき持っている善悪の判断です。聖書には、「神は全知全能にして、かつ、全善である」とされている。神様は善であり、悪魔は悪なのです。そして、この道徳的な善悪の違いが、人間の死後の行先が天国になるか、地獄になるかを決めるのです。霊界は、お花畑のような世界だけではなく、究極的には善悪の違いが問われる世界なのです。そして、神様の与える善を追求した者は、愛と真理に満ちた天国に入ることが許される。
他方、悪を受け入れた者は、憎しみと虚偽に満ちた地獄に行くことになる。地獄は、死後の霊が自ら愛と真理に満ちた天国を嫌って行くところなのです。それは、神様が与える罰ではなく、霊が自ら進んで行く所なのです。
しかし、地獄には悪魔が人間の霊を支配しようと待っている。悪魔は人間の霊を苦しめることを喜びとしており、地獄に来た霊たちを苦しめる。そのことが、地獄の苦しみの原因となっている。神様が、人間を罰するために作った世界ではなく、悪魔が人間の霊を扱って、苦しみを与える世界であり、それでも、天国の愛と真理に耐えられない人間の霊は、好んで地獄に行くのです。
なお、霊界では、この世の物質界のような物質的な制限はない。想念で成り立つ世界であり、霊が考えたことは、直ちに実現する。空間や時間の制約はない。だから、カネの力でモノを手に入れる必要はない。誰でも、霊になれば、物質的な富は入手できる。しかし、その物質的な効果はない。所有すること自体の満足感はない。誰でも、大金持ちになれれば、物質的な富は力を失う。問題は、モノに対する所有欲ではなく、他の霊を富で支配したいという欲望になる。つまり、他の霊に対する愛のなさが核心になる。権力も同様です。他の霊に対するむきだしの支配欲が核心になる。地獄では、人間の霊は他の霊を霊的な力で支配しようとしあっている。それは、霊同士の格闘です。まさに、愛なき世界の戦いであり、その世界を支配しているのが悪魔なのです。その意味で、地獄にいる人間の霊にとって、悪魔は彼らの神なのです。
それが、物質界のこの世にも反映し、カネという悪魔の小道具を崇拝し、事実上、悪魔を神として崇める拝金主義が横行し、カネの力で権力を握った者は、隣人に冷酷な扱いをする。憎しみを愛する世界になる。だから、この世では隣人に対する冷酷さがほめられる。ホームレスや貧乏人に厳しく当たることで、悪魔に喜んでもらおうとする。そこでは、他人に対する冷酷さが「かっこいい」として称賛される。エリートや富裕層は、貧しい隣人に冷たくすることで、悪魔に喜んでもらおうとする。これは、真実の神様に従うものから見れば狂気の世界です。
人間は、カネを求める欲に従って物質文明を追求してきた。つまり、悪魔への信仰によって物質文明を発展させて来たので、神様の怒りを買っており、イエス・キリストに見捨てられれば、たちどころに、物質文明は崩壊し、人類は死後の霊界で地獄に行くしかなくなる。それを憐れんだのが、聖母マリアだということになる。他方、悪魔は人間が亡びるのを見て喜ぶ、悪魔はいづれ神様に滅ぼされるのが分かっており、できるだけ多くの人間の霊を道連れにしたいと思っている。
悪魔は、カネで人間を幸福にするように見えながら、それは、偽りの幸福であり、最後には人間を霊的に破滅させて、人間を苦しめて喜ぶ。霊界の天使たちも、そのように悪に従った人間の霊は見捨てる。つまり、地獄に行く悪人の霊は、悪魔に支配され、苦しめられ、他方、天国の天使からは見捨てられ、真理や愛の光のない闇の中で消えて行くことになる。そして、最後は悪魔自身も神様に滅ぼされる。彼らの後には、無だけが残る。
他方、天国に受け入れられた善人の霊は、そこで永遠の命を与えられ、永遠の霊的な幸福を享受できる。これが、イエス・キリストを信じる者の信仰なのです。
つまり、善なる神様から永遠の存在の保証を得るのが、本当のキリスト教の信仰なのです。