2026年8月29日土曜日

「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」 (ルカによる福音書 第 7 章) (“I tell you, I have not found such great faith even in Israel.”)


イエスはこれらの言葉をことごとく人々に聞かせてしまったのち、カペナウムに帰ってこられた。
2 ところが、ある百卒長の頼みにしていた僕が、病気になって死にかかっていた。
3 この百卒長はイエスのことを聞いて、ユダヤ人の長老たちをイエスのところにつかわし、自分の僕を助けにきてくださるようにと、お願いした。
4 彼らはイエスのところにきて、熱心に願って言った、「あの人はそうしていただくねうちがございます。
5 わたしたちの国民を愛し、わたしたちのために会堂を建ててくれたのです」。
6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。
8 わたしも権威の下に服している者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。
9 イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた群衆の方に振り向いて言われた、「あなたがたに言っておくが、これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」。
10 使にきた者たちが家に帰ってみると、僕は元気になっていた。 (ルカによる福音書 第 7 章)

7 When Jesus had finished saying all this to the people who were listening, he entered Capernaum. 2 There a centurion’s servant, whom his master valued highly, was sick and about to die. 3 The centurion heard of Jesus and sent some elders of the Jews to him, asking him to come and heal his servant. 4 When they came to Jesus, they pleaded earnestly with him, “This man deserves to have you do this, 5 because he loves our nation and has built our synagogue.” 6 So Jesus went with them.

He was not far from the house when the centurion sent friends to say to him: “Lord, don’t trouble yourself, for I do not deserve to have you come under my roof. 7 That is why I did not even consider myself worthy to come to you. But say the word, and my servant will be healed. 8 For I myself am a man under authority, with soldiers under me. I tell this one, ‘Go,’ and he goes; and that one, ‘Come,’ and he comes. I say to my servant, ‘Do this,’ and he does it.”

9 When Jesus heard this, he was amazed at him, and turning to the crowd following him, he said, “I tell you, I have not found such great faith even in Israel.” 10 Then the men who had been sent returned to the house and found the servant well.
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これは、イエス・キリストが、ローマ軍の将校(百卒長)の僕(しもべ)が病気になったときに、その将校が神様への信仰心があることに気が付いて、その僕の病を癒したときの話です。

イエスは、「これほどの信仰は、イスラエルの中でも見たことがない」と述べて、このローマ軍の将校の信仰心をほめ、その信仰心のゆえに、彼の召し使いが癒されたという話しです。

つまり、神様への信仰心はユダヤ人に限らず、人類に共通の問題だということを明らかにされたのです。

Wikipediaによれば。「ローマ人は、紀元前6世紀から ギリシアの影響を受けて、ローマ古来の神々をギリシア神話の神々と同一視する、いわゆる「ギリシア語への翻訳」が行われた。その結果、下記の「主な神々」の欄に記したように、ローマ固有の神に対応するギリシアの神が決まっていったのである。さらに、ギリシア神話の物語を積極的にローマ神話へ取り入れたため、ローマ神話はギリシア神話と密接な関係を持つようになった」と、ローマ人の信仰について述べている。

ユダヤ人とは異なった宗教観を持っていたローマ人であったが、宗教を超えた神様への信仰心を、イエスが重視していたのが分かる。

この世は一つであるように、死後の世界の霊界も1つであり、全ての死者の魂は、死後、霊界に入るというのが、当時のユダヤ人やイエス・キリストの考えであったことが分かる。当然、これは日本人にも当てはまる。日本人が、神道や仏教の神仏を信仰していたとしても、死後の世界は霊界だという考えは同じです。そして、全霊界を支配しているのが、万物の創造主である神様だというのが、ユダヤ・キリスト教であり、この創造主の下に多くの霊が存在し、仏教や神道の神仏もそのような大霊だと考えるのが正しい。キリスト教では、聖霊や天使、聖者や信徒の霊が霊界にいることになる。

仏教の菩薩や阿弥陀、ブッダやヒンズー教の神の上に、全霊界を支配する神様がおられるという考えは仏教徒やヒンズー教徒にとっては、受け入れがたいが、霊界の存在を認めれば、そこを支配する最高神の存在を認めるべきです。

また、八百万(やおろず)の神を認める日本の神道でも、Wikipedia によれば、「造化の始めとなったのは天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神であり、万物の祖はイザナギ・イザナミであると観念されている」と記されている。全ての事物に神と言う超越的な存在の影響を認めるということは、その上の支配者である万物の創造主を認めることになる。そのような神の呼び名は異なっていても、この世と霊界の支配者の神様という考えは受け入れられる。

つまり、民族によって神の呼び名や概念が異なっていても、この世の存在を認めるように、死後の霊界の存在を認めるのが人類の共通意識であり、そのような世界を支配する存在として、万物の創造主を認めるのが自然なのです。

そういう意味で、イエス・キリストは、支配者のローマ人の軍人にも神様への信仰心がって当然と考えられた。そして、神様への信仰心という点では、ユダヤ人もローマ人も同じだと考えられたのです。

実際、死後の霊界から見れば、この世は万物の創造主が霊的エネルギーで、霊界から造られたものだということが分かる。霊界の下の物質界に生きる人類が、分断されて共通の神概念を持てないというのは霊界から見れば未熟だということになる。

また、現代の物質文明は民族にかかわらず受け入れらており、その効果を発揮し、全人類が共通の経済観念で統一されているように、全人類も共通の神概念や宗教意識を持ってもおかしくない。

実際、カネという悪魔を人類は共通して崇めているように、万物の創造主の神様を崇めるのが正しい生き方なのです。しかし、悪魔の影響下の人間界では、人間は悪魔の化身のカネを求め、カネや富を崇拝している。この物質文明は、正しくない。だから、人類はカネや富の崇拝をやめて、本来の自然に表れる万物の粗造主の神様への信仰に立ち返るべきなのです。

民族の違いや、その歴史と文化の中で、それぞれ固有の神概念や宗教が生まれて来たが、今の世界経済がカネで支配され、共通の経済システムで支配されているように、神という概念に対して、全人類は共通の考えを持ち、この世と霊界に対して正しい考えをもつべきなのです。

世界の全ての宗教のうちで、人類を代表する宗教に最も近いのが、歴史が示すように、現在の世界文明の主流のキリスト教なのです。この世と霊界の創造主を神様と認めるのが、自然なのです。そのキリスト教がユダヤ人のユダヤ教から発展し、神様がイエス・キリストというユダヤ人の姿をとって現れたことを信じるのがキリスト教なのです。

人類が、霊界の下の物質界の中の人間界の存在であることを認め、霊界を含めた万物の創造主である神様を学ぶのが現在の日本人の義務になる。この万物の創造主の神様を誰が作られたのか、その上に何があるのか、また、どのように神様が生まれたのは、人間の能力では考えることはできないが、そのようなこの世や霊界を超えた力を謙虚に認めるのが、人間として正しい姿なのです。

その第一歩を、ユダヤ・キリスト教を認めることから始めるべきなのです。

この広大な宇宙には、異なる宗教をもった宇宙人もいるだろうが、彼らも万物の創造主の下にいることは間違いない。地球の人類が正しい宇宙観に基づいて、正しく神様に従っていれば、宇宙人やUFOを恐れることもないのです。神差への信仰は宇宙で共通のものなのです。


2026年8月28日金曜日

「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか」 (ヨブ記 第 38 章) (“Who is this that obscures my plans with words without knowledge?”)


この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた、
2 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
3 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
4 わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
5 あなたがもし知っているなら、/だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。
6 その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。」(ヨブ記 第 38 章)

38 Then the Lord spoke to Job out of the storm. He said:
2 “Who is this that obscures my plans
with words without knowledge?
3 Brace yourself like a man;
I will question you,
and you shall answer me.
4 “Where were you when I laid the earth’s foundation?
Tell me, if you understand.
5 Who marked off its dimensions? Surely you know!
Who stretched a measuring line across it?
6 On what were its footings set,
or who laid its cornerstone—
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Wikipedia によれば、「『ヨブ記』は、『旧約聖書』に収められている書物で、ユダヤ教では「諸書」の範疇の三番目に数えられている。ユダヤ教の伝統では同書を執筆したのはモーセであったとされているが、実際の作者は不詳。高等批評に立つ者は、紀元前5世紀から紀元前3世紀ごろにパレスチナで成立した文献と見る・・・『ヨブ記』では古より人間社会の中に存在していた神の裁きと苦難に関する問題に焦点が当てられている。正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。」

また、この文書では、「サタンは、ヨブの信仰心の動機を怪しみ、ヨブの信仰は利益を期待してのものであって、財産を失えば神を面と向かって呪うだろうと指摘する。サタンの試みは、ヨブの無償の信仰及び無償の愛の世界観の否定である。神はヨブを信頼しており、サタンの指摘を受け入れて財産を奪うことを認め、ただし、命に手を出すことを禁ずる・・・」と記されている。

要するに、悪魔は神様に、ヨブは神様から恵みを与えられているから、神様を拝んでいるにすぎないとして、ヨブの信仰心を試すことを提案し、神様は受け入れたという話しです。

結果は、神様がヨブに姿を見せると、ヨブは正しい信仰心を見せて神様を満足させ、悪魔は退散する。

インドでブッダが現れ、中国で孔子が現れ、ギリシアでソクラテスが現れた頃、ユダヤ人はヨブ記を書いて、神様を信仰すべきことを旧約聖書で主張した。悪魔の存在を明確に意識して書かれているのは注目に値する。

人間の心に悪魔が入れば、人間は神様を疑い、神様への信仰心を捨てる。その証拠に、人間は不幸になれば、神様を呪うということを、悪魔は神様に証明しようとして、ヨブを不幸にするが、最後までヨブは神様への信仰心を捨てず、悪魔は敗北する。

それでも、ヨブ記が書かれた後、何世紀も立って、神様がユダヤ人を救うために、自分の子のイエス・キリストを人間界に送らねばならないほど、ローマ帝国の支配のもとで、ユダタ人はローマ帝国がもたらした物質文明の影響の下で、神様への信仰心を失いそうになり、悪魔の手先になろうとしていた。

このときのイエス・キリストの言動を描いたのが新約聖書です。

人類を代表する民族となったユダヤ人の宗教を旧約聖書で学び、現在の文明の基礎となったキリスト教の新約聖書の福音書を学ぶことが、ブッダやソクラテス、孔子を学び、仏教、ギリシア文明、中国の古典思想、そして、日本神道や日本の霊性を学んだうえで、日本人が学ぶべきことなのです。

そうすれば、日本人も世界の主流のキリスト教を通じて、世界を代表する民族になることができるのです。

今の地球の人類を代表する国民・民族はアメリカ人やユダヤ人ですが、日本人も彼らに肩を並べる力や霊能力があることを世界に示す必要があります。そのために、聖書を学ぶ必要があるのです。

この世の宗教書の中で、神様と人間と悪魔の会話が記載されているという点で、ユニークなのが、このヨブ記なのです。

2026年8月25日火曜日

「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」 (ルカによる福音書 第 17 章) (“Where there is a dead body, there the vultures will gather.”)



27 ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていたが、そこへ洪水が襲ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。
31 その日には、屋上にいる者は、自分の持ち物が家の中にあっても、取りにおりるな。畑にいる者も同じように、あとへもどるな。
32 ロトの妻のことを思い出しなさい。
33 自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである。
34 あなたがたに言っておく。その夜、ふたりの男が一つ寝床にいるならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。
35 ふたりの女が一緒にうすをひいているならば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう。
36 〔ふたりの男が畑におれば、ひとりは取り去られ、他のひとりは残されるであろう〕」。
37 弟子たちは「主よ、それはどこであるのですか」と尋ねた。するとイエスは言われた、「死体のある所には、またはげたかが集まるものである」。 (ルカによる福音書 第 17 章)

27 People were eating, drinking, marrying and being given in marriage up to the day Noah entered the ark. Then the flood came and destroyed them all.
28 “It was the same in the days of Lot. People were eating and drinking, buying and selling, planting and building. 29 But the day Lot left Sodom, fire and sulfur rained down from heaven and destroyed them all.
30 “It will be just like this on the day the Son of Man is revealed. 31 On that day no one who is on the housetop, with possessions inside, should go down to get them. Likewise, no one in the field should go back for anything. 32 Remember Lot’s wife! 33 Whoever tries to keep their life will lose it, and whoever loses their life will preserve it. 34 I tell you, on that night two people will be in one bed; one will be taken and the other left. 35 Two women will be grinding grain together; one will be taken and the other left.” [36]
37 “Where, Lord?” they asked.
He replied, “Where there is a dead body, there the vultures will gather.”
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これは、「神の国はいつ来るのか」と、パリサイ人がイエス・キリストに訪ねた時のイエスの答えです。

イエスは、それは旧約聖書に書かれたノアやロトの場合と同じであると答え、「人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどして」いたが、そのときに、悲劇は起こる、と答えられたのです。

つまり、神の国が来る前に、悲劇が生じるよいうことです。ノアの場合のように、大洪水が生じ、ロトの場合のように、天から硫黄が降って来て人々に悲劇が生じると警告されたのです。

つまり、繁栄の最中に大悲劇が生じるということです。

2011年に東日本大震災が生じた時も、直前まで日本人は平和と繁栄を楽しんでおり、当時の民主党への政権交代などで政治に夢中になっていた。また、1995年の阪神大震災のときも、日本人は当時の社会党から首相が出たので大騒ぎだった。そして、大震災が起きた。これは、日本の左翼政治家への警告だと思われる。

アメリカでも、リベラルの民主党のオバマ政権が8年間続き、オバマが広島を訪問した後に、共和党のトランプが大統領になった。トランプの政権誕生でアメリカが大騒ぎになっている間に、ロシアはウクライナのクリミアに侵攻し、さらに、再び民主党のバイデンが政権を取った時、ロシアは本格的にウクライナに侵略し、今でもウクライナ戦争が続いている。さらに、共和党がトランプの再選で盛り上がっている間に、イスラエルは米軍と一緒にイランを攻撃し、イランの核開発を阻止しようとし、今もイランとイスラエル・米軍は緊張状態にある。

これらの紛争は、やがて第三次世界大戦に通じると思われる。そして、物質文明の崩壊が生じ、そのとき、イエス・キリストが雲に乗って再臨すると信じられている。イエスは、人類を救い、「神の国」が地上に実現すると、キリスト教の信者の多くが信じている。これが、今のキリスト教の終末論の1つです。

いづれにしても、物質文明の繁栄の最中に人々が「飲み、食い、歌い」などしているとき、人類に悲劇が生じることを、2千年前にイエス・キリストは予言していたことになる。

先の大戦も、日本がドイツやイタリアとの三国同盟の成立で盛り上がっていたときに、日本軍が真珠湾を攻撃し、日米戦争が始まった。

そして、イエスは、「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つ」と述べて、利己主義な信仰心のない人間は、命を失うと警告している。

さらに、二人の女や男のうち一人は取り去られると述べて、外に出ている者は、忘れモノを家に取りに返るなと述べておられる。事態は、緊迫するということです。イエスの言葉を思い出して、神様に救いを求めよということです。

そして、「死体のある所には、またはげたかが集まる」と述べられて、悲劇が生じたときには、悪魔や悪霊が集まってきて、さらに、死者の霊を地獄に連れて行こうとする。神様に祈って信仰に頼った者だけが救われるのです。

物質文明の崩壊の混乱期に何が起きるかは分からない。かつては、アトランティス文明が、繁栄の最中で亡んだと言われているが、今はその跡形もほとんどない。

現在の物質文明が今世紀中に亡んで、世界は何百年も暗黒の中に置かれ、やがて、霊的な文明が立ち上がって人類は再興すると、心霊研究家で工学博士の故政木和三などは予測していた。彼は、UFOの宇宙人から警告を売けていたという。

イエス・キリストは、当然、宇宙人も監視しており、宇宙人は霊能力で未来が見えるのかも知れない。イエスが宇宙人を使って人類に警告を与えているとも考えらえる。

この世には、今の人間が理解できないことも多い。しかし、イエス・キリストの言葉を信じ、神様への信仰心を持っていれば、たとえこの世の命を失っても、死後の霊界で信者の魂は救われるのです。

これを信じるのが、霊的なキリスト教です。



2026年8月23日日曜日

「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」 (ルカによる福音書 第 6 章) “Blessed are you who are poor."

 

20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。 (ルカによる福音書 第 6 章)

20 Looking at his disciples, he said:
“Blessed are you who are poor,
for yours is the kingdom of God.
21 Blessed are you who hunger now,
for you will be satisfied.
Blessed are you who weep now,
for you will laugh.
22 Blessed are you when people hate you,
when they exclude you and insult you
and reject your name as evil,
because of the Son of Man.
23 “Rejoice in that day and leap for joy, because great is your reward in heaven. For that is how their ancestors treated the prophets.
24 “But woe to you who are rich,
for you have already received your comfort.
25 Woe to you who are well fed now,
for you will go hungry.
Woe to you who laugh now,
for you will mourn and weep.
26 Woe to you when everyone speaks well of you,
for that is how their ancestors treated the false prophets.
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これは、聖書で有名な「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ」という言葉です。
これを「心の貧しさ」について述べた言葉だという説もあるが、いづれにしても、「貧しい者」に対するなぐさめの言葉です。

物質的に貧しい者は、心も貧しくなるのが普通だからです。彼らは心を豊かにするものを手にれることができず、心も貧しくなる。

全ての宗教で、「貧しさ」を賛美する言葉を明確に示したのはキリスト教の聖書だけだと言ってよい。これは、聖書が物質的な豊かさを危険視していることを示す。物質的な豊かさは、カネによって得られる。従って、これはカネを拒絶せよということになる。

人間は物質的な豊かさを求め、物質的な幸福を求める。そして、精神的な向上や霊的な浄化を軽んじる。また、そのような豊かさを手に入れれば、人間の精神は腐敗し、堕落する。それは、神様を軽んじる心に通じる。

また、「人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは」幸いだと述べ、弟子は悪魔から攻撃を受けるが、そのとき、天使たちから祝福を受け、神様が助けてくれると述べている。

他方、「富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているから」だと述べ、富裕な人々は、天使から助けを得られないことを述べている。重要なのは、心であり、物質的な豊かさは、精神的な幸福を遠ざけるのです。

また、「笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになる」と述べて、幸福な生活をしている人間に警告を与えている。

そして、「人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ」と述べ、物質的な幸福を求める世の中で、人気者になり、称賛を得ることは、精神的で霊的な称賛を意味しないと述べている。

要するに、悪魔の影響下の世の中では、人々は物質的な豊かさを求め、物質的な幸福を求め、物質的な成功を求めるが、それは精神的で霊的な人間性の充実を阻害し、人間性を堕落させ、腐敗させるものだと述べておられるのです。

人間が、精神的に充実しなければ、真の幸福は得られない、また、神様の教えに従って、愛と真実を得なければ、心から満足することはない。カネの力で問題を解決しても、心の満足は得られない。真の問題の解決は、人間の心を満足させるものでなければならない。

物質への愛は、貧しい隣人への愛を奪い、社会的な幸福は、貧しい隣人を無視する心を生み、利己的な成功は他人を無視する。そのような心は、愛のない社会を作り、最後は人間を不幸にする。

だから、この世の幸福や成功を求めてはならない、という教えに通じる。つまり、この世の価値観は、神様によって否定されるのです。物質的な貧しさが、精神的で霊的な豊かさに通じるのです。

キリスト教は、この世の幸福を与えるものではなく、この世の成功を保証するものではないのです。ただ、精神的で霊的な自由を与え、真実の幸福に近づけるものなのです。だから、本質的にキリスト教会がカネを集める必要はないし、寄付を求めることもないのです。

従って、キリスト教は、本来、「貧者の宗教」であり、物質的な貧しさを賛美するものなのです。だから、この世のエリートや富裕層には受け入れられないものなのです。悪魔の助けで成功することは、人間の幸福には通じない。

それでも、世界中でキリスト教が普及していることは、この原則的な教えが、人々の真の幸福につながるものであることを証明しているのです。


2026年8月22日土曜日

「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである」 (ヨハネによる福音書 第 14 章) (And I will do whatever you ask in my name, so that the Father may be glorified in the Son.)

 

9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。(ヨハネによる福音書 第 14 章)

9 Jesus answered: “Don’t you know me, Philip, even after I have been among you such a long time? Anyone who has seen me has seen the Father. How can you say, ‘Show us the Father’? 10 Don’t you believe that I am in the Father, and that the Father is in me? The words I say to you I do not speak on my own authority. Rather, it is the Father, living in me, who is doing his work. 11 Believe me when I say that I am in the Father and the Father is in me; or at least believe on the evidence of the works themselves. 12 Very truly I tell you, whoever believes in me will do the works I have been doing, and they will do even greater things than these, because I am going to the Father. 13 And I will do whatever you ask in my name, so that the Father may be glorified in the Son. 14 You may ask me for anything in my name, and I will do it.
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これは、イエス・キリストの弟子がイエスに、「主よ、どこへおいでになるのか、わたしたちにはわかりません。どうしてその道がわかるでしょう」と尋ねたときに、イエスがこたえた言葉です。

イエスは、「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」と述べて、弟子たちが天国に受け入れられることを保証し、「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである」と続けて、天の神様にイエス・キリストの名で願えば、願い事が叶うと保証されたのです。

これは、神様へのイエスの強い信仰を現したものです。神様は天国に多くの霊を受け入れることができ、イエスの名によって願うことを叶えることで、神様の力とご威光を表され。自らに栄光を与えられると述べておられる。

神とは何かと、人間は考えるが、天国にいて万能の存在であることを明らかにされている。この神様を信じるのが、キリスト教徒なのです。

つまり、人間の思いとは別に神様は存在するのです、万物の創造主である神様は、作られたものである人間の思いでは、神様の全てを完全に理解することはできない。しかし、人間の霊を神様が住まう天国に受け入れてくれるのです。それは、人間を単に救うためではなく、神様ご自身の万能ぶりを示し、そこに栄光を与えるためです。つまり、神様の栄光を現わすのが、神様ご自身の目的なのです。

人間は、全てが自分のために存在していると考えるが、これは間違いです。全ては。神様の力を見せるために存在している。

何かが存在する前に、既に神様は存在していた。何かが存在するために、神様は存在するのではない。無の世界も神様の力の下にあり、人間には理解できない神様の存在がある。だから、旧約聖書の「出エジプト記」には、「神はモーセに言われた,『わたしは,有って有る者』」だと言われた」と記されている。神の存在が、人間にとっては最高の問題なのです。つまり、神様とは何であるかが人間にとって最高の問題なのです。そして、神様ご自身が、「自ら存在するものだ」と述べられた訳です。

つまり、神様は存在という形態を取らなくても存在する。神様が存在しようと思わなければ、霊界もこの世も、宇宙も物質界も人間界も存在しないのです。人間にとっては、全てが「無」の世界だということになる。そのような「無」の一部になり得る人間には理解のできない世界です。

人間は、死後、魂となり、物質界で生きている存在より、高く深い世界に存在することができるようになるが、それでも。それは存在の世界です。その存在の世界の上に、人間では理解できない霊界以上の不思議な世界がある。そこは、神様が霊的な存在を超えて存在する世界です。「無」の向こうの世界です。存在や「無」を超えた世界なのです。霊界に入った人間の霊でも伺い知れない世界です。

人間は、霊界の天国が最高のものだと考えているが、それ以上の不思議な世界があることになる。神様は、存在するか否かを決めることができ、神様が存在することを選んだので霊界やこの世の全てが生じたことになる。つまり、存在するものは全て、この神様の意志の下に成り立っている。

この神様の存在は、神様の栄光が現れたと言うしかない。この存在の力が霊界から物質界まで貫き、人間もその一部として生きている。主役は神様であり、神様による、神様のための、神様の世界が霊界やこの世なのです。従って、人間界も主役は人間ではなく、神様なのです。ましてや、悪魔が主役ではない。

全ては、神様により、神様の御心のままだということです。しかし、人間は無意味であり、無力だというわけではない。神様は人間に神様と同じ自由意志を与えられ、想念という力を与えられた。この存在という世界の中で、人間は神様のような栄光を求めることができる。これが、神様の人間に対する愛の現れなのです。

人間の宗教を超えた世界があり、人間の哲学が考え及ばない世界があり、有限の人間では理解できない無限をさらに超えた世界があるのです。数学の「数」の世界の上に、「論理や法則」の世界があるようなものです。

人間は、究極的には神様の御心に従うしかないのです。これが、神学だと考えるのが霊的なキリスト教なのです。

神様のことなど考えなくても、人間は生きていくことができる。しかし、自分に命と存在を与えてくれる神様のことを知らなければ、地球が球体であることや、地球が太陽の周囲を回る惑星であり、太陽系は天の川銀河系の中の1つの恒星系であり、天の川銀河も大宇宙に存在する何千億個という銀河系の中の1つであることを知らずに、全くの無知で生きるようなものです。

そして、そのような大宇宙の構成を知ることが、人間に力を与えてくれるのです。神様のことを考えることで、人間は力を得るのです。ただし、神様は人間の内側に限定されている存在ではない。自分が神だと考えるものは、この世でも狂っているのであり、霊界では無以下の存在になる。

だから、せめてイエス・キリストの弟子のように、神様とは何だろうと考える必要があるのです。これは、仏教でも同じですが、キリスト教の方が神様に正確に焦点を当てていると考えるべきです。

どちらにしても、人間は存在する限り、神様のことを研究しなければならない。無や地獄に陥らないためです。

2026年8月21日金曜日

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」 (マルコによる福音書 第 10 章) (It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”)

 

23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。

24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 (マルコによる福音書 第 10 章)

23 Jesus looked around and said to his disciples, “How hard it is for the rich to enter the kingdom of God!”
24 The disciples were amazed at his words. But Jesus said again, “Children, how hard it is to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
26 The disciples were even more amazed, and said to each other, “Who then can be saved?”
27 Jesus looked at them and said, “With man this is impossible, but not with God; all things are possible with God.”
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これは、貧富についてのイエス・キリストの言葉です。

「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」というのが、イエスの率直な言葉です。宗教者が、貧富についてこれほど明確に述べた例はないと思います。

ただし、ブッダも人々に全ての執着心を捨てよと述べて、富に対する執着を捨てることを勧めておられる。他方、現代にいたるまで、宗教の教祖、宗教団体のトップなどは、豊かな生活をしていると人々に思われている。また、実際に巨額の布施や寄付金を集めて無税で贅沢な生活をしている宗教の教祖や団体のトップは多い。

例えば、政府が天皇神道を強制していた戦前には、天皇は物質的、経済的に何不自由のない生活をしていたし、巨額の資産を持っており、戦後も政府の予算から巨額の経済的援助を受けている。天皇が、個人的には質素な生をしていると言っても、巨額の資金を政府から得られるという前提があり、天皇という日本社会で最高の地位を法的に保証された上で、人々に富を見せつける必要のない環境での質素さてあり、本当の貧しさではない。

むしろ、質素な生活をすることで、一般国民(貧しい者が多い)の尊敬を得ようという意図が見える。質素さや、貧しさの意味が分かっていれば、天皇という地位を捨てて、一般人として生きていくべきです。いづれにしても、事実上、戦前のように、今も天皇は天皇神道の教祖なのです。

日本が80年以上前に、日米戦争や日中戦争を始めたのも、当時は皇帝という主権者の地位にあった天皇が、戦争を禁じなかったからです。法的には、当時の主権者(天皇)の責任です。軍人や政治家、一般人には当時は主権はなかったのです。だから、当時の軍部は天皇を洗脳して軍国主義を受け入れさせ、日米戦争やや日中戦争に突入していったのです。そして、300万人という国民が戦争で命を失い、それ以上のアジアの人々に犠牲を出した。しかも、昭和天皇は占領軍の総司令官のマッカーサー元帥の寛大な処置によって生き永らえ、戦後も国家の象徴と言う日本社会の最高の地位にある。天皇がかつての日本の主権者として、戦争被害にあった国民に謝罪したことは一度もない。天皇は軍部に操られていただけだという考えが一般的になっている。しかし、真実は、戦前は天皇は日本の主権者として権力を行使できる地位にあったのです。人の良い国民につけこんで、今も事実上の最高権力を主有している。天皇がテレビで「某国との戦争もやむなし」と言えば、また戦争が生じる可能性がある。天皇の扱いが戦後の日本の最大の課題だったのに、国民は天皇マジックで沈黙させられている。これが、戦後の日本の最大の課題なのです(だから、本当に霊能力を持った人物を新天皇に選ぶべきだということになる(現在の天皇家は旧天皇家として優遇するとしても))。

マッカーサー元帥との関係でいえば、天皇家は1500年にわたって政治的権力者の武家のトップを、宗教的権威で懐柔して来た歴史があり、新たな日本の権力者となった米軍のマッカーサー元帥に取り入る手練手管は、心得ていたと思われる。「自分は殺されてもよいが、国民は救ってやってくれ」と、天皇は元帥に言ったというが、それが本等の気持ちなら、まず天皇位を退位するのが本当だった。ただの、一人の日本人として戦争責任に向き合うべきであり、元帥にそういう大芝居を打つ必要はなかった。元帥はそれを見抜いていたとしても、天皇の日本人に対する影響力を考慮して天皇を処分することはなかった。

(ただし、元帥は、天皇から皇帝としての権力は、はく奪する新憲法を日本に与えることにした。これが、戦後の民主主義日本の始まりなのです。キリスト教徒のマッカーサー元帥が作った国になったと言える。日本の支配者が、天皇を利用した旧軍部から、天皇を管理するアメリカ軍に変わったのです。キリスト教の光で、日本人の心は照らされ、自由が人々に与えられたのです。)

なお、この天皇の言葉は、当時、まだ天皇家による洗脳から抜け出せない国民は騙せても、キリスト教の教育を受けてきた元帥には、本当は通用しない言葉です。天皇は元帥に金融証券などを差し出して、「これを国民のために使ってくれ」と言ったと言われているが、本当に敗戦して貧困の中に投げ出された国民を救う気持ちがあれば、自ら国民に与えるべきだった。戦争被害者を皇居に招くべきだった。しかし、天皇家は戦後は自らの生き残りに専心していたのです。

天皇家の最大の課題は、「生き残ること」です。過去の1500年間にわたって、日本の政治的権力者をうまく扱って成功して来たので、天皇家には権力者を扱う豊富なノウハウがある。キリスト教徒のアメリカ人のマッカーサー元帥に対しては、皇太子の家庭教師としてアメリカ人の女性を選び、またその結婚相手にキリスト教系の大学出身者の女性を選ぶなどして、皇室がキリスト教を受け入れる姿勢を見せて、元帥を安心させている。

一時は、国民の間にもキリスト教ブームが起きたが、やがて、元帥がアメリカの大統領に解任されると、皇室もアメリカの最高権力者は占領軍の司令官ではないことに気づき、日本を去る元帥を見送りもせず、「生き残り戦略」のターゲットをアメリカの大統領に向けるようになった。この1950年台の影響が今も続いており、天皇家は自分たちの生存を保証するのは、アメリカ大統領との友好関係だと理解するようになった。今でも、アメリカ大統領が、先の戦争における天皇の責任を持ち出せば、たちどころに天皇家の権威は失墜する。

まだ、天皇洗脳から抜けきれない日本人は「天皇が日米戦争で苦労して、戦後の新憲法を導入した」と勘違いしているが、天皇は新憲法の成立とは関係がない。命を失うことを心配していた天皇は、「象徴」という地位を、憲法で保障されれば、安心して新憲法を受け入れる気持ちになったのであり、戦前は神格を持った存在として国民の上に立っていたのに、アメリカによる生存保証が得られると分かった時点で「人間宣言」を行い、ただの日本人の一人であるという、当たり前のことを認め、アメリカ政府を安心させた。これは、「もう二度と宗教的権威で国民をアメリカと戦わせることはしません」というアメリカへのメッセージだった。

戦後は、アメリカのキリスト教精神に裏付けられたアメリカ式の民主主義を基盤とする日本国憲法のもとで、日本は平和と繁栄を謳歌し、現在にいたっている。だから、日本人はアメリカに特別な親近感を今も持っている。ただし、これはアメリカの政治力や軍事力のお陰ではなく、アメリカのキリスト教のお陰なのです。

真摯なキリスト教徒の多いアメリカは、キリスト教の威力によって現在も世界の文明を主導し、政治、経済、軍事、文化の点で人類を代表している。ただし、悪魔はアメリカ社会にも入り込み、アメリカのキリスト教は混乱し、文化は反キリスト的な様相も見せている。それでも、オバマやトランプの人気は、キリスト教と関係がある。今でも、アメリカの大統領は、宣誓式で聖書に手をあてて神様に忠誠を誓って大統領職に就任する(ローマ法王に誓うわけではない)。

天皇家を頂点とする日本のエリートや支配層は、そこまでは、キリスト教の神は受け入れられない。日本国民を管理、支配するには、まだ天皇神道が必要だと分かっており、伝統的な神道の精神がまだ重んじられている。

日本社会では、有名人がさらに評価を高め、安全を得るには天皇礼賛が最も効果がある。だから、著名人には天皇崇拝者が多い。

しかし、現在の日本社会の本当の基盤は、現憲法であり、その憲法はキリスト教精神に基づくものなのです。そういう日本の社会は準キリスト教国だとして欧米で認めらており、G7という世界のリーダーの中に日本も選ばれている。伝統的な日本的霊性と合わせて、キリスト教の威力が発揮されているのが現在の日本なのです。つまり、日本人は、神道や仏教の神仏を否定する必要はなく、キリスト教の理解を深めることが求められている。全ては霊的な世界で統一されるのです。

そのキリスト教は、本当は「物質的な富を否定し、かつ、貧しさから人々を救う」宗教だということを、日本人は、改めて理解する必要があるのです。


2026年8月20日木曜日

このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。 (使徒言行録 第 11 章) (The disciples were called Christians first at Antioch.)



 22 このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。

23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。
25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。
28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。(使徒言行録 第 11 章)

22 News of this reached the church in Jerusalem, and they sent Barnabas to Antioch. 23 When he arrived and saw what the grace of God had done, he was glad and encouraged them all to remain true to the Lord with all their hearts. 24 He was a good man, full of the Holy Spirit and faith, and a great number of people were brought to the Lord.

25 Then Barnabas went to Tarsus to look for Saul, 26 and when he found him, he brought him to Antioch. So for a whole year Barnabas and Saul met with the church and taught great numbers of people. The disciples were called Christians first at Antioch.

27 During this time some prophets came down from Jerusalem to Antioch. 28 One of them, named Agabus, stood up and through the Spirit predicted that a severe famine would spread over the entire Roman world. (This happened during the reign of Claudius.) 29 The disciples, as each one was able, decided to provide help for the brothers and sisters living in Judea. 30 This they did, sending their gift to the elders by Barnabas and Saul.
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これは、イエス・キリストの教えを信じる者が、「クリスチャンと呼ばれるようになった」ときの経緯を述べている。

「聖霊と信仰とに満ちた立派な人」が、「まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた」ので、その効果が現れてクリスチャンと呼ばれるようになったのです。このように、初期教会は、立派な信徒が時間をかけて人々に説教をしたので、信者が増えていったのです。そして、困窮にある信仰の兄弟たちに、「援助を送る」ようになり、隣人愛が発揮されるようになった。

イエス・キリストの十字架上での刑死後、弟子たちが熱心にイエスの教えを説いたことが、キリスト教の出発点となったのです。そして、互いに助け合うことが、キリスト教会の初期から実践されていた。

ただし、この背後には聖霊に満ちた弟子たちの活躍がある。「聖霊と信仰とに満ち」ることが、天からの助けを得る条件になっている。「聖霊と信仰とに満ち」れば、神様が天使を助けとして送って下さる、ということです。人間の努力だけでは、イエス・キリストの教えは広まらなかった。霊的な助けが伝道には必要なのです。

今の日本でも、さまざまな新宗教が活躍しているが、その教祖たちに霊的な力が働いていなければ、人々は信用しない。宗教とは、霊的な力の働きなのです。ただし、悪魔も霊であり、霊的な力を持っている。教祖たちが、神様の霊に従っているのか、悪魔の霊力に従っているのかを、人々は判断しなければならない。

そこで働くのが、人間が生まれつき持っている善悪の判断です。聖書には、「神は全知全能にして、かつ、全善である」とされている。神様は善であり、悪魔は悪なのです。そして、この道徳的な善悪の違いが、人間の死後の行先が天国になるか、地獄になるかを決めるのです。霊界は、お花畑のような世界だけではなく、究極的には善悪の違いが問われる世界なのです。そして、神様の与える善を追求した者は、愛と真理に満ちた天国に入ることが許される。

他方、悪を受け入れた者は、憎しみと虚偽に満ちた地獄に行くことになる。地獄は、死後の霊が自ら愛と真理に満ちた天国を嫌って行くところなのです。それは、神様が与える罰ではなく、霊が自ら進んで行く所なのです。

しかし、地獄には悪魔が人間の霊を支配しようと待っている。悪魔は人間の霊を苦しめることを喜びとしており、地獄に来た霊たちを苦しめる。そのことが、地獄の苦しみの原因となっている。神様が、人間を罰するために作った世界ではなく、悪魔が人間の霊を扱って、苦しみを与える世界であり、それでも、天国の愛と真理に耐えられない人間の霊は、好んで地獄に行くのです。

なお、霊界では、この世の物質界のような物質的な制限はない。想念で成り立つ世界であり、霊が考えたことは、直ちに実現する。空間や時間の制約はない。だから、カネの力でモノを手に入れる必要はない。誰でも、霊になれば、物質的な富は入手できる。しかし、その物質的な効果はない。所有すること自体の満足感はない。誰でも、大金持ちになれれば、物質的な富は力を失う。問題は、モノに対する所有欲ではなく、他の霊を富で支配したいという欲望になる。つまり、他の霊に対する愛のなさが核心になる。権力も同様です。他の霊に対するむきだしの支配欲が核心になる。地獄では、人間の霊は他の霊を霊的な力で支配しようとしあっている。それは、霊同士の格闘です。まさに、愛なき世界の戦いであり、その世界を支配しているのが悪魔なのです。その意味で、地獄にいる人間の霊にとって、悪魔は彼らの神なのです。

それが、物質界のこの世にも反映し、カネという悪魔の小道具を崇拝し、事実上、悪魔を神として崇める拝金主義が横行し、カネの力で権力を握った者は、隣人に冷酷な扱いをする。憎しみを愛する世界になる。だから、この世では隣人に対する冷酷さがほめられる。ホームレスや貧乏人に厳しく当たることで、悪魔に喜んでもらおうとする。そこでは、他人に対する冷酷さが「かっこいい」として称賛される。エリートや富裕層は、貧しい隣人に冷たくすることで、悪魔に喜んでもらおうとする。これは、真実の神様に従うものから見れば狂気の世界です。

人間は、カネを求める欲に従って物質文明を追求してきた。つまり、悪魔への信仰によって物質文明を発展させて来たので、神様の怒りを買っており、イエス・キリストに見捨てられれば、たちどころに、物質文明は崩壊し、人類は死後の霊界で地獄に行くしかなくなる。それを憐れんだのが、聖母マリアだということになる。他方、悪魔は人間が亡びるのを見て喜ぶ、悪魔はいづれ神様に滅ぼされるのが分かっており、できるだけ多くの人間の霊を道連れにしたいと思っている。

悪魔は、カネで人間を幸福にするように見えながら、それは、偽りの幸福であり、最後には人間を霊的に破滅させて、人間を苦しめて喜ぶ。霊界の天使たちも、そのように悪に従った人間の霊は見捨てる。つまり、地獄に行く悪人の霊は、悪魔に支配され、苦しめられ、他方、天国の天使からは見捨てられ、真理や愛の光のない闇の中で消えて行くことになる。そして、最後は悪魔自身も神様に滅ぼされる。彼らの後には、無だけが残る。

他方、天国に受け入れられた善人の霊は、そこで永遠の命を与えられ、永遠の霊的な幸福を享受できる。これが、イエス・キリストを信じる者の信仰なのです。

つまり、善なる神様から永遠の存在の保証を得るのが、本当のキリスト教の信仰なのです。