2026年10月15日木曜日

悪しき者の恐れることは自分に来り、正しい者の願うことは与えられる (箴言 第 10 章) (What the wicked dread will overtake them; what the righteous desire will be granted.)



17 教訓を守る者は命の道にあり、懲らしめを捨てる者は道をふみ迷う。
18 憎しみを隠す者には偽りのくちびるがあり、そしりを口に出す者は愚かな者である。
19 言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。
20 正しい者の舌は精銀である、悪しき者の心は価値が少ない。
21 正しい者のくちびるは多くの人を養い、愚かな者は知恵がなくて死ぬ。
22 主の祝福は人を富ませる、主はこれになんの悲しみをも加えない。
23 愚かな者は、戯れ事のように悪を行う、さとき人には賢い行いが楽しみである。
24 悪しき者の恐れることは自分に来り、正しい者の願うことは与えられる。
25 あらしが通りすぎる時、悪しき者は、もはや、いなくなり、正しい者は永久に堅く立てられる。(箴言 第 10 章)

17 Whoever heeds discipline shows the way to life,
but whoever ignores correction leads others astray.
18 Whoever conceals hatred with lying lips
and spreads slander is a fool.
19 Sin is not ended by multiplying words,
but the prudent hold their tongues.
20 The tongue of the righteous is choice silver,
but the heart of the wicked is of little value.
21 The lips of the righteous nourish many,
but fools die for lack of sense.
22 The blessing of the Lord brings wealth,
without painful toil for it.
23 A fool finds pleasure in wicked schemes,
but a person of understanding delights in wisdom.
24 What the wicked dread will overtake them;
what the righteous desire will be granted.
25 When the storm has swept by, the wicked are gone,
but the righteous stand firm forever.
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「箴言(しんげん)」とは、AIで「旧約聖書にある知恵の書の一つです。人がどう生きるとよいかを、短い言葉や教えの形で伝えています(bible.or.jp)」とされている。

Wikipediaでは、「これによれば箴言は前3世紀には正典化されたことになるが、その後5世紀はその地位には揺らぎがあった。その経過はバビロニア・タルムードに収録されている」と説明されている。

箴言では、神様の教えとして、「悪しき者の恐れることは自分に来り、正しい者の願うことは与えられる。あらしが通りすぎる時、悪しき者は、もはや、いなくなり、正しい者は永久に堅く立てられる」と、善を推奨し、悪を退けている。

善悪の考えは、人間には生まれつき与えられている。ただし、自分の欲望を満たすために、人は多くの悪を受け入れるようになる。自分の欲望を満たすための悪と、善なる神様の教えに従って善を追求する心が、人間の一生を決めることになる。

自分の欲望を満たすというのは、自然な心だが、そのために弱者、小さき者、愚かな者を犠牲にするのは悪だという考えが、本来の人間には備わっている。

1つのパンを、貧しい者と分け合うというのが、自然な生き方です。しかし、悪魔は人間の心に入り込み、貧しい者を無視し、自分の空腹を満たすことしか考えないような生き方をさせる。さらには、富を自分の幸福のためにだけ使うという心を持たせて、神様の教えに反する生き方をさせる。

そのような社会では、利己主義的な人間ばかりになり、社会の発展は失われ、社会は分裂する。悪魔は、神様の作られた人間同士が争い、傷つけ合い、憎み合うのを見て喜ぶ。人間同士が互いに、不幸にし合うのが悪魔の願うところなのです。

しかし、全知全能にして全善なる神様は、善を行う者を助け、悪をなす者を抑えられる。箴言では、「悪しき者の恐れることは自分に来り、正しい者の願うことは与えられる」として、神様が悪を行う者には災いを与え、善を行う者の願いはかなえると述べている。ただし、目先の欲望や、自分の幸福を考える者は、他人を不幸にしてでも、自分の利益を追求する。そのような生き方が当然だということ自体が間違っているのです。

神様を崇める宗教では、必ず善を推奨し、悪を抑止する。天国は善人が死後に行くところであり、悪人は地獄に行くというのが、人間の宗教に共通して見られる教えです。

この単純な真理、即ち、神様は善であり、悪を排斥されるというのが、人間の魂に書き込まれた神様の教えなのです。人間界の基本的な法則です。神様は善を報われる。悪人は追放される。この単純な教えに従うのが人間の正しい生き方だと信じて、神様と善を愛するのが、本来の人間の生き方なのです。

この教えの延長上に、イエス・キリストの教えもある。ユダヤ教では、キリスト教が生じる以前から、この善悪の考えを明確にしていた。そして、神様は善を推進されるお方だとの明確な意識があった。

他の宗教では、大霊が信者を救ってくれるという信仰はあるが、霊界の支配者でもある神様は、善を推奨される存在だということが曖昧になっている。悪人でも、自分は大霊によって救われたいと願う。そして、自分の欲望を満たしてくれる悪魔に従おうとする。

だから、悪魔に富をもたらす力があると考えれば、善を推奨する真実の神様より悪魔を愛するようになる。隣人愛を求める神様より、自己の欲望を満たしてくれる悪魔を好む人間は多い。だから、世の中は不幸な人間が多くなる。そのような、状況から人間を救おうというのが、イエス・キリストなのです。

日本の弥生時代に、このような人間の本質と社会社会の本質を見抜いていたユダヤ教は、日本人でも学ぶ価値がある教えです。

仏教の教えも、悪を為すな、正しく生きよということですが、善悪に対する判断は、キリスト教の方が徹底している。ただし、どちらも悪を為す者は、死後の霊界で地獄に落ちるということに変わりはない。

愛と善を愛し、憎しみと悪を憎むのが本来の人間なのです。愛を愛し憎しみを憎みのが、本来の人間なのです。


2026年10月14日水曜日

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」 (マタイによる福音書 第 11 章) (Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart)


25 そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。
26 父よ、これはまことにみこころにかなった事でした。
27 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子を知る者は父のほかにはなく、父を知る者は、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほかに、だれもありません。
28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。(マタイによる福音書 第 11 章)

25 At that time Jesus said, “I praise you, Father, Lord of heaven and earth, because you have hidden these things from the wise and learned, and revealed them to little children. 26 Yes, Father, for this is what you were pleased to do.

27 “All things have been committed to me by my Father. No one knows the Son except the Father, and no one knows the Father except the Son and those to whom the Son chooses to reveal him.

28 “Come to me, all you who are weary and burdened, and I will give you rest. 29 Take my yoke upon you and learn from me, for I am gentle and humble in heart, and you will find rest for your souls. 30 For my yoke is easy and my burden is light.”

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AIによれば、「くびきは、牛など二頭をつなぐ木の道具で、「支配・服従」「課せられた重荷」の象徴です。(biblexika.com)
当時は、律法を守る義務や宗教的要求、社会的な重圧を「くびき」と呼ぶこともありました。(biblexika.com)
「負いやすい」「軽い」の意味
原語には「親切な・快い・その人にぴったり合う」というニュアンスがあり、「全く負担ゼロ」という意味ではありません。(sunrisechapel.net)
イエスのくびきは、イエス自身が共に負い、柔和でへりくだった主に導かれるので、私たちを押しつぶさず、むしろ成長と休みを与えるものだと解釈されます。(sanpaolo.jp)」と説明されている、

世の中のしきたりや義務などによって、生活で負担を感じている人も多い。そういう人に、イエス・キリストが人々に要求することは、決して人に負担になるものではなく、そのような社会の重圧から解放するものだと仰っておられるのです。

これは、一般の人として生活したものでなければ、言えない言葉です。富裕層やエリートは、召し使いや部下に重荷を背をわせて、自分たちは楽な生活をしている。今でも、社会の下積みの人間、低所得者などは、きつい。汚い、厳しい仕事を要求されることが多く、生活のためには、そのうような仕事をしなければ給金も得られなくなり、生活に困るので、いやいやながらも、苦しい仕事をしなければならない。これは。社会の下積みをしたことのある人間でなければ、言えない言葉です。

会社でも、経営者、管理者、事務の仕事は、面倒な現場で作業をする苦労をしなくてもすむ。また、「先生」と呼ばれる医師、弁護士、教師、指導者、専門家や芸術家、宗教家になれば、現場での苦労をせずに、楽をして大きな報酬を得ることができる。また、議員や首長、役人、官僚になれば、面倒な仕事をせずに、大きな報酬が保証されることになる。さらに、人に指示する立ち場になれば、優越感にひたれるし、人から尊敬も得られ、精神的にも楽に生活することができる。

そのような、得をする立場、人の上に立つ立場には誰でもなりたと思う。そのような社会階層の中で下の立場になったものでなければ、理解できないことも多い。そういう現場の苦労をして、組織の階層を上がって行くのが、伝統的な世のなかの仕組みです。

しかし、イエス・キリストは、そういう生活や社会での苦労から人々を解放すると言っておられるのです。

これは、世の中の真実が分からないために、無駄な苦労をしたり、人に騙されたりするからです。そういう世の中の真実を、イエスは、神様が「知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」と述べて、神様が欲のない純粋な子供の眼には正しく映るようにされたと感謝しておられる。なまじ、知恵者や利口者には見抜けない、巧妙な世の中の利害関係や利権関係でも、純粋な子供の眼には見えるということです。

世の中の複雑で、難しい問題に惑わされて無駄な苦労をする人間も多いが、そのような世の中の仕組みを見抜いたイエスは、人々に無駄のない、効果的なやり方を教え、互いに協力する心をもたせて、互いの重荷を分担し、特に弱者を助けることで、全体の士気が上がり、重くつらい状況も皆で切り抜けられるようにされたのです。

「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というのは、イエスの教えるやり方を学べば、人々の心は安らぎ、精神的な重荷も下すことができ、魂に開放感を得て、希望をもって生きて行けることを意味している。

逆に、生活の必要性で人々を支配して、他人に重荷を背をわせ、精神的に人々を支配して、優越感にひたりながら、自分たちは快適で快楽を追求する生活を送る富裕層やエリートには、イエスは厳しい言葉を与えている。

弱者に対する同情心や愛がなければ、人間社会は発展しないことを意味している。欧米発の民主主義や福祉の心などは、このイエス・キリストの精神から来ているのです。

ただし、ブッダのように、人々の精神的苦痛を解決しようとする仏教にも、慈悲という考えによって、人々を互いに救うようにさせるという教えがある。真の宗教は、この世の苦痛から人々を救い、生活の重荷を軽減し、心と魂を解放し、精神的な自由を与えるものなのです。

この意味で、富裕層やエリートが得られる安楽や開放感は、他人に重荷を背をわせて得たものであり、その富や地位を巡って争いを誘発させるものであり、富裕層やエリートは、人々の心から平和を奪い、魂のやましさを生み出し、人々は、人に悪をなしても無感覚になり、他人を差別して、自己正当化を図るようになる。

そのような、社会のしきたりや、集団悪とそれがもたらす社会的な良心の呵責などが、潜在的に人々を苦しめている。そのような、社会や制度の暗黒面からも、人々を解放して、罪の意識のない人生を送れるようにして下さるのが、イエス・キリストの教えなのです。

これを、社会や人々の心の中の闇や重荷に光をあてて問題を解決すると言い換えても良い。そして、解決方法は単純であり、複雑な問題の扱いになれた識者や学者ではなく、幼な子のような純粋な心には、直感的に分かるものだと述べておられるのです。

2026年10月13日火曜日

するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」 (マタイによる福音書 第 4 章) (Jesus said to him, “Away from me, Satan! For it is written: ‘Worship the Lord your God, and serve him only.’”)

 

さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
5 それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
6 言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
7 イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
11 そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(マタイによる福音書 第 4 章)

4 Then Jesus was led by the Spirit into the wilderness to be tempted by the devil. 2 After fasting forty days and forty nights, he was hungry. 3 The tempter came to him and said, “If you are the Son of God, tell these stones to become bread.”
4 Jesus answered, “It is written: ‘Man shall not live on bread alone, but on every word that comes from the mouth of God.’”
5 Then the devil took him to the holy city and had him stand on the highest point of the temple. 6 “If you are the Son of God,” he said, “throw yourself down. For it is written:
“‘He will command his angels concerning you,
and they will lift you up in their hands,
so that you will not strike your foot against a stone.’”
7 Jesus answered him, “It is also written: ‘Do not put the Lord your God to the test.’”
8 Again, the devil took him to a very high mountain and showed him all the kingdoms of the world and their splendor. 9 “All this I will give you,” he said, “if you will bow down and worship me.”
10 Jesus said to him, “Away from me, Satan! For it is written: ‘Worship the Lord your God, and serve him only.’”
11 Then the devil left him, and angels came and attended him.

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この箇所は、悪魔によるイエス・キリストの試みとされている福音書でもよく知られた場面です。

AIでは、「新約聖書のルカによる福音書4章1節から13節と、マタイによる福音書4章1節から11節に出てきます。イエスは荒れ野で40日間、悪魔から誘惑を受けたと記されています (search.biblegateway.com)」とされています。

また、「マタイは、イエスが悪魔に完全に勝つ姿をはっきり見せる流れです。
ルカは、エルサレムを物語の焦点に置く並べ方になっていて、最後を神殿で終える点が特徴です。これはルカ全体でエルサレムが重要な場所だからだと読まれることがあります (ginza-church.com)」と説明されている。

この世界は、神様、イエス・キリスト、そして、悪魔の3人が主人公だということが、よく分かります。最後になるのが人間です。つまり、人間は神様のおかげで存在し、イエス・キリストの精神によって生きるのだが、悪魔が人間を地獄に連れ込もうとしている。なお、神様の周辺には聖霊や大霊、天使などが、存在するようになるが、これは、神様が霊界を作られたときに、必然的に生まれてきたものだと考えられる。仏教のブッダという大霊に従ってもよいが、その先には万物(ブッダも含む)の創造主の神様がおられるのです。霊的な仏教とは、万物の創造主の神様を認めることでもあります。ただし、この神様を「宇宙の法則」や「霊的な法則」、「何か偉大なもの」と宗教を離れて呼ぶこともある。科学とは、「宇宙の真理」を究めることだという考え方もある。しかし、単純に神様を知ることが科学でもある、と考えることもできる。

また、悪魔は、人間として現れたイエス・キリストすら誘惑し、試し、地獄に引きずりこうもうとする。AIでは、
「イエスは40日の断食の後に、悪魔から主に3つの誘惑を受けます。
誘惑        内容
パンの誘惑     石をパンにしろと言う
権力の誘惑     世の国々を与えると言う
試す誘惑      神に守らせてみろと言う
イエスはそのたびに聖書の言葉で退けたとされています (biblegateway.com)」と述べている。

つまり、人間なら食欲には勝てない、また、権力への誘惑には勝てない、そして、神様の力を試してみたいという誘惑にも勝てない。だから、富裕層になったり、エリートになったり、どれだけ自分に神様から与えられた知恵や力があるのかを誇りたくなる。これは、悪魔の誘惑なのです。

つまり、富裕層、エリート、学者・宗教家・スポーツ選手・芸能人・芸術家など、他人より優れた力があることを誇るものは、悪魔の影響下にあるのです。ただし、経済力や権力を人のために用いたり、芸術やスポーツの才能を人を喜ばせるために高めたり、その道を極めて神様に喜んでもらいたい、というふうに考えるのは、神様も受け入れてくれる。

つまり、神様の存在をただ信じて、欲も出さず、神様の与えてくれた運命を信じて生きることが、人間には求められるのです。つまり、幼児のように、神様の愛を信じて、神様にすがるのが好ましい生き方なのです。悪魔のつけ入るスキのない自然な生き方が望まれる。

人間は、上下、損得、好き嫌いなどの感覚があり、自分を中心に考えるものです。自分を世界の中心に置き、その自分を満たすのが神だと考えるようになる。しかし、全ては神様によって生じており、存在し、神様のご栄光のために自分も存在するのだと考えるのが正しい。自分の全てが、神様のお陰だと考えるべきです。自分を存在させられた神差に感謝するのが正しい生き方です。

また、全ての人間を作ったのは、自分ではなく神様である以上、他人の上にも神様がおり、神様の作った他人も尊重しなければならない。これが、隣人愛の出発点です。神様が人間を存在させたいと考えるなら、自分でなくても誰でも良いことになる。神様が自分を選ぶか、他人を選ぶかは、神様次第なのです。この意味で、人間は謙虚でなければならない。

しかし、神を演じる悪魔に騙されて、自分は神、つまり、神を演じる悪魔に愛されているなどと間違って考える人間もいる。悪魔や富やカネを神様だとして崇める人間もいる。拝金主義者になっているのが、文明人だということになる。だから、今の物質文明は、神様の真理から離れているので、いずれ崩壊すると考えらえる。(UFOの宇宙人から、文明は2032年から崩壊すると予言された人間もいる。)

その文明の崩壊の時に、イエス・キリストが再び、この世に現れて人々を救うというのが、本来のキリスト教なのです。そして、霊的な意味を重視すれば、霊的なキリスト教になる。

心霊的なキリスト教も、真実のキリスト教に近い。悪魔の罠にはまってはならないが、心霊的な道からイエス・キリストを理解することも重要なのです。ただし、悪魔も霊的な力を持った存在だということを忘れてはならない。

悪魔の誘惑の恐ろしさを、福音書では警告しているのです。

すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった (マルコによる福音書 第 7 章) (At this, the man’s ears were opened, his tongue was loosened and he began to speak plainly.)

 

32 すると人々は、耳が聞えず口のきけない人を、みもとに連れてきて、手を置いてやっていただきたいとお願いした。
33 そこで、イエスは彼ひとりを群衆の中から連れ出し、その両耳に指をさし入れ、それから、つばきでその舌を潤し、
34 天を仰いでため息をつき、その人に「エパタ」と言われた。これは「開けよ」という意味である。
35 すると彼の耳が開け、その舌のもつれもすぐ解けて、はっきりと話すようになった。
36 イエスは、この事をだれにも言ってはならぬと、人々に口止めをされたが、口止めをすればするほど、かえって、ますます言いひろめた。
37 彼らは、ひとかたならず驚いて言った、「このかたのなさった事は、何もかも、すばらしい。耳の聞えない者を聞えるようにしてやり、口のきけない者をきけるようにしておやりになった」。(マルコによる福音書 第 7 章)

32 There some people brought to him a man who was deaf and could hardly talk, and they begged Jesus to place his hand on him.

33 After he took him aside, away from the crowd, Jesus put his fingers into the man’s ears. Then he spit and touched the man’s tongue. 34 He looked up to heaven and with a deep sigh said to him, “Ephphatha!” (which means “Be opened!”). 35 At this, the man’s ears were opened, his tongue was loosened and he began to speak plainly.

36 Jesus commanded them not to tell anyone. But the more he did so, the more they kept talking about it. 37 People were overwhelmed with amazement. “He has done everything well,” they said. “He even makes the deaf hear and the mute speak.”

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AI によれば、「この章では、外側の作法よりも人の内面が重いテーマとして語られます。とくに前半では、食事前の慣習や言い伝えをめぐって、口先ではなく心が大切だと示されています。(babelbible.net)中盤では、ツロの地方で出会った女性の願いと信頼が描かれます。後半では、耳が聞こえず話しにくい人に向けて、イエスが癒やしを行った場面が記されています(bible.com)」とされている。

このイエス・キリストの「耳が聞こえず話しにくい人に」対する癒しは、イエスの行った癒しの奇跡としてよく知られている。

このような人体に対する癒しの奇跡としては、耳、目、口の機能が失われていた三重苦のヘレン・ケラーが、18世紀のスエーデンの敬虔なキリスト教の神秘家のスエーデンボルグによって救われたことを思い出させる。

19世紀から20世紀のアメリカ人だったヘレン・ケラー(1880 ー 1968)は、スウェーデンボルグの著作を点字で読んで、その内容を理解し、そして霊能力を身に着けて、盲目でありながら、世界中の35か国へ旅して視覚障害者を支持した。世界の障害者権利の擁護者としてよく知られている。これは、スエーデンボルグの神学と霊能力の信憑性を証明する効果としてよく知られている。

スウェーデンボルグによれば、この世で肉体的な欠陥を持っていた者でも、死後の霊界では肉体の正常な機能を取り戻し、五体満足な姿の霊体を持って生きるとされている。

イエスは、そのような肉体の欠陥を、この世で霊能力で救ったということになる、

肉体も物質世界の存在であり、物質や肉体は神様が霊的エネルギーで作ったことを考えると、霊的エネルギーを神様のように扱えたイエスが、盲目の聾者を救えたことも理解できる。

ヘレン・ケラーは、霊視ができて、目が見えなくても、心でこの世の姿を見ていたのだろう。また、霊的に移動ができ、アメリカから海外にも飛んで行って、その様子を知ることができたと思われる。

しかし、スエーデンボルグが、イエス・キリストのような霊能力を持っていれば、ヘレン・ケラーの眼を開かせ、耳も聞こえるようにさせ、また、言葉も話せるようにしたと思われる。

イエス・キリストの霊能力を示す福音書の貴重な記録です。

2026年10月11日日曜日

「何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう」 (ヨハネによる福音書 第 14 章) (You may ask me for anything in my name, and I will do it.)




8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。(ヨハネによる福音書 第 14 章)

8 Philip said, “Lord, show us the Father and that will be enough for us.”
9 Jesus answered: “Don’t you know me, Philip, even after I have been among you such a long time? Anyone who has seen me has seen the Father. How can you say, ‘Show us the Father’? 10 Don’t you believe that I am in the Father, and that the Father is in me? The words I say to you I do not speak on my own authority. Rather, it is the Father, living in me, who is doing his work. 11 Believe me when I say that I am in the Father and the Father is in me; or at least believe on the evidence of the works themselves. 12 Very truly I tell you, whoever believes in me will do the works I have been doing, and they will do even greater things than these, because I am going to the Father. 13 And I will do whatever you ask in my name, so that the Father may be glorified in the Son. 14 You may ask me for anything in my name, and I will do it.

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「ヨハネによる福音書は」は、AIによれば、「ヨハネによる福音書は、イエスの言葉と意味を深く掘り下げているのが特徴です。日本聖書協会の説明では、イエスを通して神を見るという理解が示されており、教えの中心にイエスの神性が強く置かれています(bible.or.jp)」とされている。

また、Wikipedia では、「本書は「初めに、ことば(ロゴス)があった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」という言葉から始まり、共観福音書とは異なったイエス観を提示している。他の福音書と比較して高度に象徴的かつ文学的な内容であり、発展した神学的考察を含んでいる。『マタイによる福音書』、『マルコによる福音書』、『ルカによる福音書』に次ぐ4つの福音書(イエス・キリストの言行録)の一つである」と説明されている。

2千年前のに日本の弥生時代に、このように「高度に象徴的かつ文学的な内容であり、発展した神学的考察」を行っていた文書が書けたということは、仏典や論語と並んで、人類の知的な成長を表す文化的な意味を持ち、その後、2千年にわたるキリスト教に基づく欧米を中心とする人類の精神的な進化に大いに寄与したと思われる。このような知的な訓練をしてきた、ヨーロッパ人は、それだけ優れていることになる。ただし、1万年の歴史を持つ日本の霊性も、日本に独特の霊能力を与えている。

さらに、このキリスト教の聖書は、霊的な精神性に基づいて書かれており、人間の霊能力を高める効果も持っている。実際、キリスト教に霊的力がなければ、2千年後の今日まで生き残っていなかったと思われる。キリスト教は、神道や仏教のような宗教の1つではなく、人類が認めるべき真理を語っている、人類を代表する真理の教えなのです。

実際に、イエス・キリストに霊的な力があったので、今では、イエス・キリストは世界中でその名を知らない偉人となられたのです。

宗教的にも、人間であったブッダや孔子、マホメットなどとは、イエス・キリストは霊格が異なるのです、霊界には、多くの聖霊や大霊がおられるが、神様の息子だと認められる霊はイエスだけなのです。肉体的人間を宗教の教祖である霊的人間と比較するのも失礼なことです。無限の高さを持つ山でも、標高100メートルの地点はあり、2000メートルの高さの地点もある。だから、無限の高さを持った神様の教えでも、100メートルや2000メートルの高さの人間の宗教と同じだと考えたくなるが、さらに1万メートル、100キロメートル、月や太陽にまで届き、銀河系からも突き抜けた無限の高さがあることを見える人間は少ない。皆、自分の見える範囲でしか理解できないのです。

エヴェレスト山でも、蟻が理解できる小石の高さの高度も含んでおり、さらに、ツバメが飛んで理解できる高さも持っており、また、ジェット機で理解できる高さももっており、さらに、月まで行って初めて理解できる山の高さもキリスト教は持っているのです。蟻やツバメには、自分たちの理解できる範囲の高さまでしか分からないが、エヴェレスト山を越えて月まで、太陽まで超えて、銀河系を超えるような超巨大な山であるキリスト教は、蟻やツバメの能力しかない人間には、小石や富士山くらいのもだとしか理解できない。

どんな偉人や英雄や聖人にも幼児の時代がある。幼稚園児には、そのような偉人、英雄、聖人の幼児時代しか知らなければ、彼を自分と同じような幼児だと思うものです。名人や達人を理解できるのは、それなりに修業と実績を積んだ人間だけです。初段のものには、2段や3段の者、又は、まだ級レベルの者しか理解できない。100段の超名人などは、理解で出来なくて。自分より劣った素人だとしか理解できない。凡人には、超名人はバカやど素人にしか見えない。天才は狂人と紙一重だというが、狂人の集まりには、天才も自分たちと同類だと感じる。

まさに、一般人には、聖人や聖書の有難さは理解できない。

「わたしが父におり、父がわたしにおられる」というイエス・キリストの言葉を、人間の心の中に神様はいると、浅はかに考える者もいるが、これは、イエスのような聖人の心は神様に通じる道があるということであり、有限の人間の中に無限の神様が存在することではない。ただし、有限から無限に通じる道は、イエスのような聖者の中に見出すことができる、という意味なのです。

ましてや、「自分は神だ」などというのは、許されない人間の思い上がりです。悪魔が人間の心に取り付いて、思い上がらせているのです。実際に、カネを神だとして崇める者も多い。悪魔は、神だと考えて生きている人間が大部分です。悪魔にゴマをすって、神様を崇めているつもりの人間の多さには呆れるばかりです。

人間が、イエスと自分を比べるのは、地球の中の小石のような人間が、太陽系や多くの銀河を含む、巨大な宇宙と自分を比べるようなものです。一個の細胞の中の分子の中の原子の中の素粒子が、太陽系よりも大きな巨大な人間と比べるようなものです。霊界の天使たちは、呆れて、相手にする気にもなれないと思う。

しかし、憐み深いイエス・キリスト様は、「わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである」と述べて、イエス以上の力を人間にお与えになっている。さらに、「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである」として、神様の栄光を現わすためであれば、「イエス・キリストの名」を唱えれば、願いは叶うと保証されたのです。

だから、人間はイエス・キリストの名を唱えれば、奇跡を起こすことができると保証されたのです。つまり、人間は超能力を使うことができるが、悪魔でも霊能力を持っていて、人間にそうような力を与えることができる。だから、正しい力の使い方は、神様の栄光を現わすために、超能力や霊能力を使うことだると述べておられる。

無意識にそのような力を使う人間もいるが、いつまでも超能力は発揮できない。神様の栄光を現わすためであれば、使っても良いと仰っておられる。これは、この世は霊的なエネルギーから出来ているという法則に則ったものです。人間の科学は、まだ未熟で霊的エネルギーは解明できない。

神様は、霊的エネルギーをその想念や言葉で使って物質界を造られたのであり、霊格を高めた人間は、神様のような想念で言葉を使って奇跡を起こすことができるのです。これが、聖人が発揮できる霊能力です。ただし、幼子やある意味でバカのように、純粋で素直な心を持っていれば、霊能力を発揮できることもある。霊的な抵抗が少ないからです。

ただし、悪魔も霊能力を使うことができるし、巧妙で危険な存在です。また、宇宙人の中には優れた文明で霊的エネルギーを使える者もいるが、人間とは異なる価値観を持っているので、人間は神様への信仰を離れて、霊能力を使おうとするべきではない。それでも、信仰者は天使が守って下さると考えるのがキリスト教徒なのです。

日本の呪術家などの霊能者や心霊治療家など、霊能力をもった者もいるが、キリスト教の霊能力は彼らを上回るということは、先の日米戦争の結果からも明らかのです。天皇神道は、キリスト教の霊能力に勝てなかったというのが、過去の日米戦争の教訓なのです。

それは、富士山と太陽系や銀河系の大きさを比べるようなものなのです。水鉄砲と原爆を比べるようなものです。子熊と自衛隊の戦いのようなものです。

神様と、人間の力は、無限の差があるのです。死後は、霊界で神様の偉大さを思い知らされて、どんな人間でも、自分が無限の前のゼロだと感じざるを得ない。これを正しく認識するのが、本当の宗教なのです。

そこで、意味があるのは、愛と信仰と真理と善なのです。

だから、そのような世界に近いおさな子をバカにしてはいけないし、弱き者、小さき者、貧しき者、愚かな者を侮ってはいけないのです。銀河級の偉大さを理解できない、細菌のような人間は謙虚に生きるべきなのです。人間はゼロではないとしても、神様のお陰で存在を許されたほとんど無意味な存在なのです。

だから、神様にすがってせめて、大宇宙の中の太陽系になるように修業すべきなのです。

2026年10月10日土曜日

それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた (ヨハネによる福音書 第 13 章) (he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him)


3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、 4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 (ヨハネによる福音書 第 13 章)

3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
9 “Then, Lord,” Simon Peter replied, “not just my feet but my hands and my head as well!”
10 Jesus answered, “Those who have had a bath need only to wash their feet; their whole body is clean. And you are clean, though not every one of you.” 11 For he knew who was going to betray him, and that was why he said not every one was clean.

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これは、ご自分の死が近いことを知ったイエス・キリストが、弟子たちの脚を、彼らの召し使いのように洗ったという、福音書で有名な場面です。

AIでは、「イエスは足を洗った後に、主であり師である自分がそうしたのだから、弟子たちも互いに仕え合うべきだと語っています。これは、立場の高さではなく、愛をもって仕えることの大切さを示す教えとして読まれています (jw.org) 」と、説明されている。

今の教会で神父や牧師が、参会者の脚を洗うことはしない。神父や牧師は、キリスト教系大学の出身者として、参会者より立場が上の者として、参会者を導く立場のものとして、参会者に道徳や宗教の教えを説く。これは、イエスの姿勢とは大きく異なる。

本来、キリスト教は弱き者、小さき者、貧しき者を助ける教えなのです。彼らの上に立つ聖職者のためにある宗教ではありません。ただし、神父や牧師には、イエス・キリストから霊的に受け継いだ神様のご威厳とご栄光を人々に教えるという尊い任務が、イエス・キリストから与えられているので、人々から尊敬されるべきなのです。しかし、人々の上に立つ者だと考えるのは、イエスの教えに反する。むしろ、イエスのように人々の召し使いだとして行動すべきなのです。

しかし、そこまでヘリ下る神父や牧師はいない。それでも、彼らは人を導く、人より上の立場だと思っている。しかし、社会はそこまで聖職者を尊重するわけではない。教会がカネをくれるわけでもなく、生活の面倒を見てくれるわけでもなく、病を治してくれるわけでもなく、法律上の問題を解決してくれるわけでもなく、精神的な苦しさを解決してくれるわけでもなく、社会的な問題を解決してくれるわけでもない。それでも、悪魔が支配する世の中より、ましな世界だと考えて教会に通う人もいるが、教会員も人助けのために教会に来るわけではない。自分の心が安定すれば、それでよいと考える者も多い。また、キリスト教会という社会的に認められた宗教に属することにプライドを持つ者もいる。

神様やイエス・キリストの霊に導かれて教会に行っても、神父や牧師が歓迎してくれるわけではない。単に、キリスト教の宗教的知識や教会維持の管理能力を示しているだけのことも多い。

いわゆる、世間知らずの人間が教会に行ったり、教会の権威を利用しようと思う人や、イエス・キリストの教えを勘違いしている人間も教会にはいる。

悪魔は、教会の中にも入り込み、富裕層の人間を優遇する神父・牧師も多い。社会的な地位のある人が、教会の役員になることも多い。この世の宗教として、キリスト教も社会的な力に頼っている面がある。

それでも、イエス・キリストの言葉は人々を悪魔から解放する力があり、神様の愛と教えは、人々の魂に救いを与える。イエスの愛や神様の教えに救われたと思った人は、神父や牧師を全面的に尊敬しなくても、教会に通うものです。そのような、キリスト教徒がいるから、神父や牧師の生活は成り立っているのであり、教会で救われているのは、信徒ではなく、聖職者の方だとも考えられる。

聖霊によって聖職者となった人間もいるが、そのような聖職者には神様が特別な任務を与えているので、信徒一般には伺い知れない。地味で信徒からも人気のない神父・牧師の中に、そのような霊的に優れた聖職者がいるものです。

キリスト教は、本当に神様によって守られた来たものでなければ、2千年間も続かなったのです。仏教もブッダの教えに霊的な威力がなければ、2500年間も続かなかった。孔子の教えにも真実がなければ、2500年間も続かなかった。日本の神道も、日本人の霊性に即していなければ、1500年も続いていない。



真実の教えは歴史に残るが、その教えに悪魔が入り込めば、やがて人々から消えて行く。宗教の教えは、毎日がテストなのです。

上の者が、下位の者の召し使いとなって、脚を洗うというのは、王様が最下位の召し使いの召し使いとなることであり、大統領や首相が最もランクの低い官僚の召し使いとなることであり、企業のトップが最下位の社員の召し使いになることであり、学校の校長が最低の生徒の召し使いになることであり、大学の学長や教授が新入学生の召し使いになることであり、スポーツのチャンピオンが最も記録の悪い選手の召し使いになることであり、最も富裕な金持ちがホームレスの召し使いになることであり、最も優れた学者が最もできの悪い凡人の召し使いになることです。

神様の子のイエス・キリストが、その弟子にすぎない人間の足を洗うということは、それくらい革命的なことだったのです。

つまり、この世の序列は悪魔の影響で生じたものだということを理解せよ、という教えです。

死後の霊界では、この世の序列は意味を失い、誰もが平等になる。しかし、悪魔はこの世では序列を作り、人々に互いに優越感を持たせて、愛のない社会を促進している。ただし、霊界では霊格の差によってその位置が決まる。弱き者、小さき者、貧しき者が、霊界では尊重される。この世の、価値判断と霊界の価値判断は逆なのです。

この世では、自分を第一に考えるが、霊界では神様への信仰が第一に評価される。

この世の自分を捨てよ、というのがイエス・キリストの教えなのです。自分が消えれば、聖霊が表に出てきて、神様のご威光が輝く。それを、喜びとするのが、真の霊的なキリスト教徒なのです。

人々を作られた神様に敬意を払って、人々の召し使いになれ、というのがイエス・キリストの教えなのです。

これは、普通の人にできることではない。しかし、死を前にしたイエス・キリストは、最後の教えとして弟子たちに、この最高難度の教えを与えられたのです。この教えの前には、悪魔も沈黙せざるを得ないのです。

神様の子、イエス・キリストが悪魔に取り付かれた人間の召し使いとなった以上、悪魔もイエス・キリストの足を洗わなければ、たちどころに、神様によって消滅させられるのです。ただし、狂った悪魔は消滅を選ぶと思われる。あとには、救われた霊が残るのです。



「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」 (マタイによる福音書 第 14 章) (“Take courage! It is I. Don’t be afraid.”)


22 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。
23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24 ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
25 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
26 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
32 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
33 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。 (マタイによる福音書 第 14 章)

22 Immediately Jesus made the disciples get into the boat and go on ahead of him to the other side, while he dismissed the crowd. 23 After he had dismissed them, he went up on a mountainside by himself to pray. Later that night, he was there alone, 24 and the boat was already a considerable distance from land, buffeted by the waves because the wind was against it.
25 Shortly before dawn Jesus went out to them, walking on the lake. 26 When the disciples saw him walking on the lake, they were terrified. “It’s a ghost,” they said, and cried out in fear.
27 But Jesus immediately said to them: “Take courage! It is I. Don’t be afraid.”
28 “Lord, if it’s you,” Peter replied, “tell me to come to you on the water.”
29 “Come,” he said.
Then Peter got down out of the boat, walked on the water and came toward Jesus. 30 But when he saw the wind, he was afraid and, beginning to sink, cried out, “Lord, save me!”
31 Immediately Jesus reached out his hand and caught him. “You of little faith,” he said, “why did you doubt?”
32 And when they climbed into the boat, the wind died down. 33 Then those who were in the boat worshiped him, saying, “Truly you are the Son of God.”

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この湖の上を歩くイエス・キリストの情景は、AIでは、「この場面は、恐れの中でもイエスを信頼することを示す物語として読まれることが多いです。特にペトロの場面は、信仰と不安の揺れがよく表れているとして知られています (sanpaolo.jp)」と、されている。

心霊的には、霊能力で空中に浮揚する人もいます。特に、19世紀に活動したスコットランド出身の心霊霊媒師 ダニエル・ダングラス・ホーム(Daniel Dunglas Home)のことはよく知られています。ホームは、アメリカに渡り、霊能力を発揮するようになり、イギリスに返って霊能力を人々に示し、ヨーロッパ中で有名になりました。

ホーム(ヒューム)についてはシャーロック・ホームズ物の作家のコナン・ドイルは「ダニエル・ヒュームの空中浮揚について。頭の良いはずの推理小説家コナン・ドイルが、「明るい光の中で、しかも社会的地位の高い複数の目撃者の眼前で、百回以上も空中浮揚してみせた」と記しています」とされている(Yahoo知恵袋)。ホームの実験には、キューリ夫人などの科学者も立ち会って、霊能力を観察している。

霊能力者については、チベットでも空中歩行する僧がいるとされる。また、日本のヨガ行者の成瀬雅春は、1983年に空中浮揚の連続写真が『サンデー毎日』に掲載されている。

霊の力は物質界の法則を超えるので、霊能力が働けば、引力に打ち勝って人は空中浮揚や水上歩行ができる。この力を持ったキリスト教の修道士や修道女のことは、昔からヨーロッパでよく知られていた。

たとえば、「17世紀のイタリアの神学者ジョセフ・グランヴィルは、空中礼拝なるものを行っていたという。
毎週日曜になると、イタリア南部コペルティーノの町にある小さな礼拝堂は人で溢れかえり、ジョセフは壇上で説教を終えると、厚い信仰心の証として、おもむろに片足を上げ、スッと体を空中に浮かせたという。
その際、ジョセフは何かに取り憑かれたかの如く、まるで怪鳥の様な叫び声を上げたそうで、彼は両手を広げて、羽ばたく様にゆっくり動かしながら、体を天井の近くまで舞い上がらせると、人々の頭上を横切り、祭壇の十字架の周りを回転し、やがてそのまま教会の窓から外へ飛び出したそうだ。
ジョセフは、「自分は飛ぼうと思って飛んでいるのではなく、ただ神を慕って祈りを捧げている内に自然と体が宙に舞うのです」と語ったそうだ。
その言葉を裏付けるかの様に、ジョセフが空中礼拝出来るのは、教会の敷地内だけであったそうだ。
また、奇声を発する理由は本人にも分からなかった(https://daimaohgun.web.fc2.com/mystery/miseiri/unfiled024.html)」という話しや、修道女のマリア・デ・レオンについては、「修道院で生活していたとき、多くの奇跡が彼女の身に起きた。彼女が持っていた聖母マリアの姿が描かれた祈りのメダイが幾つかの破片に砕けてしまったことがあったが、数日後には自然に修復されていた。空中浮遊をしたエピソードは他の修道女によって記録が残されている。また、他の神秘家と同様にエクスタシーを経験したことがあった。このとき、彼女の顔から光が差しているのが見えた。また、彼女の身体から著しい熱が、特に聖餐を受け取ったときに発せられたという報告もあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3)」とされている。

竹下節子の著作では、このようなキリスト教の修道士や修道女の話が取り扱われている。「ここで私たちは、初めてのフランスに出会う。合理主義でおしゃれなフランス人のたましいの奥には、土くさい神秘主義者が生きている。日本の女性が初めてその神秘のフランスの奥に触れ、それを本に書いた(https://www.arsvi.com/b1990/9403ts.htm)」と『パリのマリア――ヨーロッパは奇跡を愛する』は紹介されている。

キリスト教は、福音書に書かれているように、本来、霊的な力を持ったイエス・キリストの伝道を描いた書であり、キリスト教は霊的な宗教なのです。

ただし、D.D.ホームのようなキリスト教とは関係のない霊能者の存在も知られている。また、心霊治療家のハリー・エドワーズ(Harry James Edwards、1893年5月29日 – 1976年12月7日)のような敬虔な20世紀の心霊治療家のこともイギリスでは、よく知られている。

この世の物質界は、万物の創造主の神様が、霊界の霊的エネルギーを、その想念と言葉で作られたものだということを信じれば、このような奇跡が生じても不思議はない。

カトリックのバチカンでは、このような奇跡が信仰心の結果だと認めれた時は、そのような奇跡を起こした人物を聖者として認めている。フランスの「ルルドの奇跡の泉」も、バチカンが認めており、また、1917年のポルトガルでの「ファチマの太陽の奇跡」もローマ法王によって認められている。

チベットの奇跡を起こす僧や20世紀のインドの超能力者のサイババのことなども世界ではよく知られており、日本の空海などの奇跡もよく知られている。奇跡や霊能力はキリスト教に限らない。

念力スプーン曲げのイスラエル人のユリ・ゲラーや日本人の超能力者は、宗教とは関係ないが、霊的な力が無意識にでも扱えた例です。

現代科学では、このような超能力・霊能力は科学的な再現性がないとして認めていないが、現代科学より歴史の古いキリスト教の聖書に記載されているイエスの奇跡を求めるキリスト教は、本来、霊的な奇跡を基盤とする宗教なのです。

ユリ・ゲラーが1970年代に日本のテレビで超能力を示したとき、日本中で何万人の子供たちが、スプーン曲げなどの超能力を示したという。しかし、キリスト教の修道院などのような宗教的に隔離された環境にいなければ、その能力を守ることができず、やがて、そのような超能力は失われていく。特に、人間の欲が霊能力の邪魔になると思われる。清貧生活が奇跡を起こすカギになる。知られざる超能力者も、まだ多く日本にいるはずです。ただし、奇跡を起こす神父や牧師は、まだ、日本では知られていない。

この点、阪大工学部の発明家の故政木和三が、超能力の研究に取り組んだのが印象深い。政木は日本の神仏の力を信じるようになったという。また、東大医学部卒の故塩谷信男も、心霊治療を研究し、大峰山の霊と交流したという。このような霊的な力を解明すれば、ノーベル賞を超える成果が出ると思われるが、まだ、科学信仰の世の中なので、オカルトの分野として、世の中では軽んじられている。

要するに、物質文明から霊的な文明に人類が以降しなければ、これ以上の人類の発展は期待できない。

UFOの宇宙人が、そのような人類がいずれ(2030年頃)危機に瀕すると特定の人々(木村秋則など)に警告してきたことや、聖母マリアの霊が19世紀から世界各地に出現して、文明の崩壊について警告してきたことも思い出される。

異常気象や第三次世界大戦が近い状況を考えれば、このような霊的観点から人類は、歴史を反省し、物質文明に終止符を打つべきなのです。