2026年9月8日火曜日

「人をさばくな。自分がさばかれないためである」 (マタイによる福音書 第 7 章) (“Do not judge, or you too will be judged.")


人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイによる福音書 第 7 章)

7 “Do not judge, or you too will be judged. 2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? 4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
6 “Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and turn and tear you to pieces.
7 “Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. 8 For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened.
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これは、イエス・キリストによる教えの中でも、基本となる印象的な言葉です。

しかし、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」という簡単な教えすら、守って生きているキリスト教徒はほとんどいないのが現状です。実際、現代社会で裁判制度を支持しないキリスト教徒はいない。

法律的な問題でなくても、人間には、必ず自分の思いが叶わないことがある。そして、その阻害要因が他人にあると判断すれば、その他人を恨み、できれば復讐しようとする。そして、復讐された側は、それを恨みに思い、逆に復讐しようとする。逆襲された側は、再度、相手を攻撃する。この復讐の連鎖はどこまでも続く。この復讐劇の出発点は、最初に「人をさばいた」ことにある。だから、イエスは「人を裁くな」と仰ったのです。

特に、悪魔は、人間に間違った判断をさせ、無実の人間を攻撃させることを好む。そして、人間社会を混乱させようとしているから、それを避けるために、軽々しく人を裁くな、ということも意味する。

また、兄弟に非があると判断すれば、兄弟げんかが始まる。たいていは、兄弟の過ちを過大に評価し、責任を兄弟になすりつける。しかし、公平に見れば、兄弟の非は目の中の「ちりやほこり」程度のものであり、自分の方には建物の大きな「はり」ほどの責任があることも多い。だから、「塵や埃」よりも大きな「梁」を見よと教えておられる。つまり、兄弟を責めてはならない、ということです。

「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」というのは、動物と人間の霊格の違いを明らかにしている。本能に従って生きる動物には善悪の区別はない。また、清濁の区別もない。さらに、聖邪の区別もない。ただ、暴力的な力と食欲の大きさだけが理解できる。従って、動物の霊格は決して人間の上にはならない。特に家畜やペットは。人間によって思い通りに飼いならされるが、飼い主を道徳的に判断することもできない。

そのような、動物に「聖なるもの」を与えても無意味だし、「真珠」のような宝物を与えても感謝しない。また、人間には心が腐敗・堕落し、動物なみの心を持っ者もいる。そのような状態の人間に、聖なるものを与えたり、宝物を与えるのは無駄であり、また、時には有害となる。だから、「犬」や「豚」なみの心しかない人間には、宗教的な教えが分かったり。経済的な本当の価値が理解できると思ってはならない、ということです。

むしろ、逆に「犬」や「豚」は、「それらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」と述べて、恩を仇で返すようなことをする、と教えておられる。つまり、「犬」や「豚」の心に悪霊が入り込み、心を許した人間を攻撃する。だから、信仰心のない人間には聖なる話や、救いの言葉をかけてはいけない、という教えになる。そのような動物並みの心しかない人間は警戒せよということです。自然に生きる動物は、聖なるものや人間の宝物には無関心だが、人間の世界に入り込んだ家畜やペットは、むしろ、自然の中にはない人間の宗教や宝物に反感を持つ、ということであり、悪魔に魂を売った人間は聖なるものには反感をもつということです。ただし、これは動物虐待のような取り扱いを認めるものではない。自然を愛する人間の心は、動物にも向けられるべきです。それでも、イエスや弟子たちが、動物のペットを持っていなかったことを忘れてはならない。

つまり、不信仰者を扱うには、専門の宗教的訓練を受けた聖職者が必要になる。「犬使い」や「豚使い」のような専門家が必要です。これは、教育を受ける子供たちには、専門の教師が必要なことに通じる。また、根っからの悪人を扱うには、専門の取締官が必要になる。要するに、人間を軽々しく扱ってはならないのです。子供を育てることの重要さは、この問題に関係する。

しかし、イエスの教えは、人々に希望を与えるものであり、人生訓のような忠告のあとに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と述べて、信仰者が神様に願えば、願えごとは叶うと教えておられる。また、「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる」と、信仰者は積極的に生きていくべきことを教えておられる。

「求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」というのは、信仰者だけでなく。全ての人間の共通の運命なのです。つまり、人間は心をこめて求めれば、それに世の中がこたえるようにできているのです。人間の意欲、想念のもつ力は大きいのです。ただし、信仰心がなければ、与えらえたことも理解できないし、門を開けてもらったことにも気が付かないことがある。

「求める」エネルギーや「探す」エネルギーは、周辺の状況に働きかけ、それに対応するように環境が変わるのです。そもそも、子供が食事を求めるのを無視するような親はいない。学生が志望して入学してくれば、それにこたえるのが学校です。また、仕事を求めて入社してきた人間には、仕事を与えるのが会社なのです。一人の人間の精神的エネルギーは、この世や霊界を動かすほどの力を持つのです。その例が、世界宗教を打ち立てたイエス・キリストの心なのです。

また、人間が、この世で信仰心に従って、生きようという意欲を見せれば、それに応えるのが神様、聖霊、天使なのです。

このイエス・キリストの前半の教えや忠告に従う信者には、後半の希望の言葉が与えられるのです。

ただし、悪の世界も同様です。悪事を愛する者には、悪魔が扉を開いてくれる。善や愛を憎むものには、腐敗や堕落への道が開き、地獄への道が開くのです。悪魔も大きな想念を持っている。これは、警戒すべきです。ただし、天使の力の前には悪魔は無力です。

要するに、天国を愛する者には、天国への道が開かれ、地獄を愛する者には、地獄への道が開かれるのです。この世は、天国を願う者と地獄を好む者が混在する世界なのです。ただし、死後は両者の世界は明確に分かれ、合い交わることはない。神様は、悪魔と同じところにはおられないのです。


2026年9月7日月曜日

大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた (ヨハネによる福音書 第 11 章) (Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!”)


37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。

38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。 (ヨハネによる福音書 第 11 章)

37 But some of them said, “Could not he who opened the eyes of the blind man have kept this man from dying?”
38 Jesus, once more deeply moved, came to the tomb. It was a cave with a stone laid across the entrance. 39 “Take away the stone,” he said.
“But, Lord,” said Martha, the sister of the dead man, “by this time there is a bad odor, for he has been there four days.”
40 Then Jesus said, “Did I not tell you that if you believe, you will see the glory of God?”
41 So they took away the stone. Then Jesus looked up and said, “Father, I thank you that you have heard me. 42 I knew that you always hear me, but I said this for the benefit of the people standing here, that they may believe that you sent me.”
43 When he had said this, Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!” 44 The dead man came out, his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face.
Jesus said to them, “Take off the grave clothes and let him go.”
45 Therefore many of the Jews who had come to visit Mary, and had seen what Jesus did, believed in him.

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Wikipediaによれば、「『ヨハネによる福音書』11章によれば、ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスと一行は、ラザロが葬られて既に4日経っていることを知る。イエスは、ラザロの死を悲しんで涙を流す。イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて出てきた。このラザロの蘇生を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画し始めた。カイアファと他の大祭司はラザロも殺そうと相談した。(ヨハネ12:10)」となっている。

これは、イエス・キリストが死人を蘇らせた話として有名です。しかし、これを知ったユダヤ人の指導者たちはイエスを殺害する決意を固める。人を生き返らせる力のあるイエスを殺しても、自分の力で生き返るはずだから、無駄なことだと考えられるのに、彼らはとにかく一度は殺さなければならない、と考えた。彼らには悪魔が取り付いているから、無駄なことでも、やろうと考えるのです。

所詮、悪魔は神様がおくられる天使には勝てない。ましてや、神様の子といわれるイエス・キリストには勝てない。だが、イエスは人間として現れているので、人間としては殺すことができる。たとえ、霊的に生き返っても、神様に対する嫌がらせにはなる。悪魔は、どんな無駄に見えることでも、神様の栄光を傷つけたいのです。

その結果、人間としてのイエス・キリストは悪魔の罠にはまって十字架上で殺害されるが、再び霊界から人間として姿を現し、弟子たちを勇気づけ、イエスの教えはさらに広まっていくことになる。しかし、そのまま地上に生き続ければ、さらに悪魔の攻撃が続き、世界がめちゃくちゃになる。だから、一度、人間として復活したあとは、イエスは霊界から弟子たちを守り、彼自身の教えが世界に広まるようにしたと考えらえる。

ただし、世の中が再び、悪魔の影響で腐敗・堕落し、最後の審判が必要になったときには、イエス・キリストは再度この世に姿を現すと、弟子たちに告げられた。このイエスの再臨の約束を信じるのがキリスト教です。イエス・キリストの刑死後、2千年たっても、まだイエスは再臨していない。この世の終わりのときはいつなのか、最後の審判のときはいつなのかと、2千年間、キリスト教社会では議論されてきた。

しかし、その間、多くの人々は死んでいる。しかし、人間の肉体は死んでも、その魂は霊界で生き続ける。個人にとっては、肉体の死が、その人にとっては最後の審判のときになる。この世の社会は続くが、やがて、社会自体が行き詰まる時が来る、そのときには、イエス・キリストは誰にも分かるように、雲に乗って再来すると言われている。この人間社会への再来を信じるのがキリスト教なのです。

個人は肉体の死とともに、魂が肉体を離れて霊界で生き続けるが、そのときに、神様の最後の審判を受けて天国に受け入れられか否かが決まる。それが個人にとって最後の審判になる。だが、人間の社会全体が神様に裁かれる時が来る。その社会全体の最後の審判の時が、常にキリスト教社会では問題になる。

18世紀の科学者のニュートンと同時代に、霊能者のスウェーデンボルグは、生きたまま霊界を見ることが許され、霊界で最後の審判を見たという。この霊界の出来事は2世紀くらい遅れて、この世の人間界で現れると言われており、21世紀の現在に物質文明の崩壊という形で現れると考えられる。

また、聖書を研究したニュートンは、世の終わりのときは、2060年までは始まらないと結論づけたという。万有引力の発見でニュートンは有名だが、宗教的にはこの予測が有名です。なお、イギリスはカトリック教会ではなく、独自の教会システムを持っている(英国国教会)。日本の天皇がイギリスに留学したということは、日本の皇室が英国国教会を認めたということであり、天皇神道の限界を示している。

なお、日本人の心霊研究家でもあった故・塩谷信男(東大医学部卒)や故・政木和三(阪大工学部卒)は、物質文明の影響による異常気象で人類は21世紀くらいに危機に陥ると述べていた。塩谷はそれを避けるには、各人が塩谷の考案した「正心調息法」を実践して祈るべきだと主張していた。政木は、何百年かの暗黒時代の後、地球の自然が回復し、文明は復活すると述べていた。しかし、近未来に自然大災害が起きることは、両者とも予測していた。

今はAIの発展で科学は頂点を極め、また、アメリカを中心とした月の有人探査も行われようとしており、人類は物質文明をさらに進めようとしているが、異常気象はますます深刻化しており危険水準にある。また、ロシアのウクライナ侵攻やイランとイスラエル・アメリカの紛争も続き、また、中国も覇権主義的な姿勢を変えていない。つまり、第三次世界大戦は避けられそうもない。

つまり、今世紀中には、第三次世界大戦と自然大災害が避けられそうもない。まさに、物質文明の崩壊です。

なお、UFOの宇宙人は地上の人類が核戦争や核事故で滅亡しないように監視しているという説もあるが、宇宙人は人類の歴史には干渉しないという姿勢を取っており、宇宙人が地球を救うということは期待できない。UFOの宇宙人はリンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則にUFOで、人類はこのままでは2030年あたりから滅びに入ると知らせている。

今世紀の物質文明を停止させ、より霊的・精神的な文明に移行するのは人類の責任だということになる。人類が亡んだ後に宇宙人は地球を占領するかも知れないが、人類には宇宙人に対抗する方法はない。(ただし、アメリカ政府の一部は、密かに宇宙人と連絡・交渉しており、地球が亡びれば、彼らはUFOで地球を脱出するつもりだという説はある。)

つまり、人類は今世紀中に自ら自分たちを救う以外に手はない。それでも、イエス・キリストがその際には、雲に乗って出現し、人類を救って下さるというのがキリスト教の教えなのです。

人間は死後も霊界で生きるが、この世の人類が亡びれば、霊界で何が起きるのかは分からない。神様が造られた人間が亡びれば、霊界でも大きな影響が出る。悪魔は人類が亡びれば喜ぶが、聖母マリアは悲しむ。だから、聖母マリアの霊はこの世に何度も出現して、人類に警告を与えている(百年前のファチマの聖母の出現など)。最後には、イエス・キリストが現れるとしても、多くの人間が霊界の地獄に行くのは悪魔が喜ぶだけです。やはり、早く人類は神様の教えに立ち返り、死後は霊界の天国で受け入れられるようにしなければならない。

このラゾロの復活は、イエス・キリストの力を示すものであり、人間は死を恐れずに、イエスの力を信じて、新たな文明を打ち立てるべきことを教えている。



2026年9月6日日曜日

『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』 (使徒言行録 第 11 章) (‘Do not call anything impure that God has made clean.’)


4 そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、
5 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。
6 注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。
7 それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。
8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。
9 すると、二度目に天から声がかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。
10 こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。(使徒言行録 第 11 章)

4 Starting from the beginning, Peter told them the whole story: 5 “I was in the city of Joppa praying, and in a trance I saw a vision. I saw something like a large sheet being let down from heaven by its four corners, and it came down to where I was. 6 I looked into it and saw four-footed animals of the earth, wild beasts, reptiles and birds. 7 Then I heard a voice telling me, ‘Get up, Peter. Kill and eat.’

8 “I replied, ‘Surely not, Lord! Nothing impure or unclean has ever entered my mouth.’

9 “The voice spoke from heaven a second time, ‘Do not call anything impure that God has made clean.’ 10 This happened three times, and then it was all pulled up to heaven again.
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インターネットのAIによれば、この聖書の「使徒言行録」については、
「主に次の流れです。
ペテロが異邦人にも福音が及んだことを説明する
コルネリウスの出来事がエルサレムで報告される
アンティオキアで多くの人が信仰に入る
弟子たちがそこで初めてキリスト者と呼ばれる
飢饉の知らせを受け、援助が送られる
これらの流れは、使徒言行録全体の中でも福音がユダヤ人の枠を越えて広がる大きな転換点として読まれています」と記されています。

イエス・キリストの十字架上での死後、イエスが弟子たちに姿を見せられて、イエスが死に打ち勝ったことを知った弟子たちは、勇気を得て世界に伝道を始めたときに、弟子のペテロが見た幻について書かれた部分がこの第11章です。

つまり、キリスト教は、イエス・キリストの霊的な力で成立したのです。科学的な合理性を重んじる欧米の文明が、霊的な力で成立したキリスト教を基盤としていることは、驚くべきことです。

そのペテロが見た幻の中で、「大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた」が、ペテロが「清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』と神様に言うと。神様は『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』と、ペテロを戒めたというのが、この第11章の話です、

つまり、ユダヤ教の教えなどより、神様が直接行ったことを信ぜよということです。この精神に従って、ペテロは伝道を続け、イエス・キリストの教えはローマ帝国の領域から、全世界に広まって行き、第二次世界大戦後は、日本でも自由にキリスト教を学ぶことができるようになったのです。

いや、むしろ、キリスト教が日本で学べるように第二世界大戦が生じたとも考えられます。つまり、イエス・キリストの死後、1900年経過して、日本でイエス・キリストの教えが自由に学べるようになったのです。

実際、第二次世界大戦の日米戦争に敗北した日本に、キリスト教国アメリカの民主主義に基づく新憲法が、マッカーサー占領軍司令官によって導入され、現在までの戦後の日本の平和と繁栄が保証されたのです。つまり、現日本国憲法はキリスト教の精神に基づいており、日本は準キリスト教国として欧米に認められ、今ではG7の一国として、世界のリーダーの1つになっているのです。

(日本人は、天皇が軍部と戦って現憲法を導入したかのように錯覚して、今でも皇室を敬っているが、天皇家を倒したアメリカ軍のお陰て、言論・宗教の自由が認められた現憲法が成立したのです。天皇は。日米戦争を許可した反キリスト的な人間だった。しかし、戦後はマッカーサー元帥に、巧妙に取り入って(10回も元帥を秘密で訪問している)、今も天皇家は日本社会の最高の地位にある。この天皇家の問題を解決しない限り、日本人は発展しない・・・)

いづれにしても、ペテロが夢で見た、天から下った布の中身とは世界の各民族を象徴するものだったと考えれば、世界の各民族の霊的な状況に入って行って、伝道をせよという意味だと考えられる。

この2千年の歴史は、キリスト教が世界に普及する歴史だったと考えられる。世界で、キリスト教精神を国の基本に置いていない国は、中国や北朝鮮、イランなどのイスラム教国とイスラエルです。やがて、中国や北朝鮮の政権は崩壊し、日本のようにキリスト教のアメリカの影響下に置かれると思われる。

また、イスラム教国もキリスト教を受け入れ、ロシアも自国の偏ったキリスト教ではなく、世界の主流のカトリックやプロテスタントに合流すると思われる。問題は、ユダヤ教に従っているイスラエルです。イスラエルのユダヤ人も、キリスト教を受け入れるときに、世界の歴史は完結すると思われる。それには、今のキリスト教ではなく、心霊主義を取りれ、また、日本の霊性を取り入れた霊的なキリスト教になる必要がある。日本人の責任は重大です。

例えば、UFOの宇宙人から見れば、地球の人類の宗教がバラバラでは、地上の人類は信用できないことになって、地上の誰を相手にすればよいのかも分からない。宇宙人は地上の人類の宗教が統一されるのを待っているのかも知れない。

イエス・キリストは、宇宙的な存在であり、宇宙を作ったのは、キリスト教の神だと考えるべきです。地球の全ての宗教を見ても、宇宙の存在を説明できるのは、キリスト教の神様です。だから、キリスト教文化圏のヨーロッパから現代科学が発展し、スウェーデンがノーベル賞を与えて世界の科学を主導し、日本人もその権威を認めている。現代科学・技術はキリスト教文明から生じたのであり、それを象徴しているのが、ノーベル賞なのおです。

しかし、そのスエーデンの18世紀(科学者のニュートンの時代)の神秘家スウェーデンボルグが、生きたまま死の世界の霊界を見て、多くの著作を表し、心霊主義を唱えたことは印象深い。敬虔なキリスト教でもあったスエーデンボルグは、イエス・キリストの霊に導かれて、生きたまま霊界を見てきたのであり、臨死体験をしたと思われる。日本でも明治時代からスエーデンボルグの研究は行われている。

日本では「死んで生き返った者はいない」と言われるが、スウェーデンボルグは生きたまま、死後の世界の霊界を見てきたのです。ペテロは、1900年前に夢で神様を見たが、250年前にスウェーデンボルグは、霊界を見て来たのです。

このように、キリスト教には多くの霊的な要素があり、日本人もキリスト教を学ぶべきです。

キリスト教が世界の文化の主流となったことは、素直に認めるべきです。日本の神道や仏教が今の文明を作ったわけではないのです。日本の霊界も、キリスト教が示す霊界の一部だと考えれば、日本の霊性を否定することなく、イエス・キリストの教えを受け入れることができる。仏教や神道を信じながら、イエス・キリストの教えを学ぶことは矛盾しないのです。天皇を敬いながら、聖書を学ぶことは矛盾しないのです。

日本中で、キリスト教の研究が盛んになることが理想なのです。


「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」 (ルカによる福音書 第 16 章) ("You cannot serve both God and money.”)

     

イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。
2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。
4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
12 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。 (ルカによる福音書 第 16 章)

16 Jesus told his disciples: “There was a rich man whose manager was accused of wasting his possessions. 2 So he called him in and asked him, ‘What is this I hear about you? Give an account of your management, because you cannot be manager any longer.’
3 “The manager said to himself, ‘What shall I do now? My master is taking away my job. I’m not strong enough to dig, and I’m ashamed to beg— 4 I know what I’ll do so that, when I lose my job here, people will welcome me into their houses.’
5 “So he called in each one of his master’s debtors. He asked the first, ‘How much do you owe my master?’
6 “‘Nine hundred gallons[a] of olive oil,’ he replied.

“The manager told him, ‘Take your bill, sit down quickly, and make it four hundred and fifty.’
7 “Then he asked the second, ‘And how much do you owe?’
“‘A thousand bushels[b] of wheat,’ he replied.
“He told him, ‘Take your bill and make it eight hundred.’
8 “The master commended the dishonest manager because he had acted shrewdly. For the people of this world are more shrewd in dealing with their own kind than are the people of the light. 9 I tell you, use worldly wealth to gain friends for yourselves, so that when it is gone, you will be welcomed into eternal dwellings.
10 “Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much, and whoever is dishonest with very little will also be dishonest with much. 11 So if you have not been trustworthy in handling worldly wealth, who will trust you with true riches? 12 And if you have not been trustworthy with someone else’s property, who will give you property of your own?
13 “No one can serve two masters. Either you will hate the one and love the other, or you will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and money.”

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このイエス・キリストの言葉、「神と富とに兼ね仕えることはできない」という教えは、聖書の中でも、決定的なイエスの教えです。

これは、この世のカネや富が、神様にさからう悪魔の化身だということを意味しているのです。この世でカネや富を求めて欲望を満たそうとしてはいけない、ということです。

この世の欲望を満たそうとすると、人間はカネや富を求める。そして、そのためには悪魔に魂を売ってでもカネや富を得ようとすることになる。つまり、神様の敵となってカネや富を求める。だから、拝金主義になるな、ということです。

逆に神様への信仰心のある人間は、必要なものは神様が与えてくれると、神様への信頼を失うことはない。イエスは、イエスの名によって神様にお願いすれば、願いは叶うと教えておられる。その祈りが、神様の教えに適っているものであれば確かに実現する。ただし、神様の教えに反していれば実現しない。

多くの場合、人間は神様の教えとは関係のない自分への欲望のために神様に願い事をしようとするので、その願いは叶えられないのです。つまり、願い事をするときは、その願いがどのように社会に役立つものかを考えなければならない。

また、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」と述べて、何ごとにも真剣に取り組むべきことを述べておられる。全ては、神様の許可により存在しているからです。どんな小さなことでも、神様につながるものなのです。そして、悪魔は細部に宿るという諺のように、小さなものごとにこそ、神様への信仰心がためされるのです。

さらに、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」と述べて、たとえ自分のためであっても、隣人への配慮を忘れずに、出来るだけ多くの人を自分の幸運にかかわらせることを勧めている。

そのような、配慮のある人間は、たとえ不正なことをしていても、神様は「利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」と述べて、この世にこだわり、神様への信仰心がなくても、天国のことばかり考えて現実を忘れる信者より利口だと述べている。つまり、神様の信者より、その場、その時代に適した効果的で効率的な方法が分かる不信者もいるということです。つまり、人間社会では、この世に注意を払う人間は、この世を忘れる信仰心だけの人間より有用な場合があるということです。

つまり、この世のことは単純な信仰心だけでは、解決しないことが多い。それでも、問題をカネで解決しようとしてはいけない。それは、人間は「神と富とに兼ね仕えることはできない」という原則があるからです。

あくまで、その時代の知恵であっても、この世を円滑に生きるために、仲間を増やして自分も助かる場合には、不正者のやり口でも許容されるということです。とにかく、他人に悪意のない願いであれば、神様は許して下さることがある。だから、人を責めてはならない、とイエス・キリストは教えておられるのです。

それでも、人間は「神と富とに兼ね仕えることはできない」という原則を忘れてはならない、状況によっては、柔軟に対応しなければならないが、あくまで、この世のカネや富は悪魔とつながるものであることを忘れるなということです。

まさに、例外のない規則はないという運用は必要だが、原則的な規則は破棄されるわけではない。

そして、神様への捧げものでも、金持ちが義務的に大金を捧げるより、貧乏人の心のこもった喜捨が好ましいのです。

実際、大金の寄付を集めるヴァチカン銀行などは、怪しい噂に包まれている。しかし、貧しい人からの寄付で成り立つ寒村の教会は多くの村民の支えとなって、人々を救っていることが多い。そこに、奇跡が働くのです。まさに、発明家で心霊研究家の故政木和三が言っていたように、無欲であれば、奇跡は起こるのです。


2026年9月4日金曜日

「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」 (マルコによる福音書 第 10 章) (“Children, how hard it is to enter the kingdom of God!”)


 17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
19 いましめはあなたの知っているとおりである。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。欺き取るな。父と母とを敬え』」。
20 すると、彼は言った、「先生、それらの事はみな、小さい時から守っております」。
21 イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持っているものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 すると、彼はこの言葉を聞いて、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。
24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。 (マルコによる福音書 第 10 章)

17 As Jesus started on his way, a man ran up to him and fell on his knees before him. “Good teacher,” he asked, “what must I do to inherit eternal life?”

18 “Why do you call me good?” Jesus answered. “No one is good—except God alone. 19 You know the commandments: ‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, you shall not defraud, honor your father and mother.’”

20 “Teacher,” he declared, “all these I have kept since I was a boy.”

21 Jesus looked at him and loved him. “One thing you lack,” he said. “Go, sell everything you have and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”

22 At this the man’s face fell. He went away sad, because he had great wealth.

23 Jesus looked around and said to his disciples, “How hard it is for the rich to enter the kingdom of God!”

24 The disciples were amazed at his words. But Jesus said again, “Children, how hard it is to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
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これも、福音書(聖書)で有名なイエス・キリストの言葉です。

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という教えは、キリスト教徒なら誰でも知っている。富裕層は、原則として天国に入れない、という意味です。

富裕層は、この世で富の力によって天国のような物質的生活をおくることができるが、死後の霊界では、この世の物質的な富は役に立たないし、意味もないのです。死後は、人の魂とその心は、思ったことは全て叶うので、カネなど必要はないのです。だから、富の力で他人に対する優越感を味わうこともできない。

また、死後は、魂は真理を教えられて、この世の秀才もバカも差がない。なお、美醜も差がない。そして、この世の価値観は無意味なものとなる。

ただし、善悪の判断、愛と憎しみの違い、真と偽の区別は明白になり、神様から発する愛と真理と善の光に耐えられず、愛よりも憎しみを愛し、真理よりも偽りを愛し、善よりも悪を愛する者は、神様の光を避けるように暗闇を求める。そこが地獄になる。つまり、地獄は悪人が霊界で作り出すものなのです。そして、地獄の支配者が悪魔であり、悪人は悪魔の手先とされ、互いに争いに暮れる。悪魔は、自分の手先も互いに争わせて喜ぶ狂った霊なのです。

これに反して、神様の発する愛と善と真理の光を求める者は、霊界の天国へと昇って行き、神様の世界である神界に近づこうとする。やがて、神界の一部となって、永遠の命と幸福を得る。

ただし、人間の心や霊の中に神様がいるわけでもないし、人間が神様になれるわけでもない。ただ、神様の栄光を知ることができるだけです。人間の中にあるのは、神様を求める心だけであり、それは神様、そのものではない。しかし、イエス・キリストは神様の子であり、神様の遺伝子をもっておられる。イエスは、ただの人間ではない。それでも、人間としてこの世を生きられたのです。

悪魔は、この世で自分は神であると、人間をだまし、その化身であるカネや富を崇拝させる。「カネで全てが解決できる」と人間に信じさせるのが、悪魔のやり口なのです。

それに対して、イエス・キリストの教えを信じ、「カネではなく、愛と霊能力で問題を解決する」のが神様やイエス・キリストの信者なのです。この世でも、必要なら神様が奇跡を起こして、人間を救って下さるのです。これを信じるのがイエス・キリストの信者なのです。

この世で、金持ちは幸福で、貧乏人は地獄のような生活をおくるが、あの世の霊界では、それが逆になる。つまり、この世の価値観とあの世の霊界での価値観は逆転する。霊界では、愛と信仰と善と真理だけが意味を持つ。

だから、この聖書の話のように、金持ちの青年は、真理を聞いて「顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った」のです。

福音書では、「貧乏人は喜べ、天国では満たされる」と書かれている。

このように、物質的な貧富の差は、あの世では、無意味だということです。ただし、他人や他の霊に対する支配欲や優越感を求める心は残り、むきだしの霊的な暴力で互いに争う。それが、地獄なのです。

キリスト教の聖書は。このようにこの世の富を否定しており、他の宗教には見られない「貧民賛歌」を謳っており、昔から「貧者の宗教」と呼ばれている。この世では、富裕層は貧乏人をあざ笑い黙殺するが、この世的な物質的幸福、成功、優越感を求める者は、死後の霊界の天国には入れないのです。

あの世の地獄には、この世の金持ちや成功者が満ち溢れており、悪魔にもっと気に入られようと、互いに争っている。それは、狂った残酷な恐ろしい世界なのです。彼らが神と崇める悪魔自体が狂っている。

しかし、地獄にさす天の光を受け入れる者は、回心し、やがて、一歩ずつ救われる。それが、無限の段階だとしても、人の霊は天国に向かわなければならない、

このような霊界の真理を教えられれば、この世の人間は、ほとんどの者は、物質的な富を捨てて、精神的に謙虚な生活を送る。だから、本当の霊能者は清貧の生活を心がけている。ローマ法王も霊能者なら、貧しい生活をしているはずです。日本の天皇も、霊能者なら貧乏人の生活をしているはずです。

日本人も、物質文明のもたらす富を捨てて、霊的な文明を目指すべきなのです。

それを、イエス・キリストは「天国に富を蓄えよ」と言っておられるのです。

2026年9月3日木曜日

「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている (エフィソの信徒への手紙 第 6 章) (“Honor your father and mother”—which is the first commandment with a promise— )



子たる者よ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことである。
2 「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、
3 「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」。
4 父たる者よ。子供をおこらせないで、主の薫陶と訓戒とによって、彼らを育てなさい。
5 僕たる者よ。キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心をこめて、肉による主人に従いなさい。
6 人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
7 人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
8 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。
9 主人たる者よ。僕たちに対して、同様にしなさい。おどすことを、してはならない。あなたがたが知っているとおり、彼らとあなたがたとの主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらないのである。
10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 (エフィソの信徒への手紙 第 6 章)

6 Children, obey your parents in the Lord, for this is right. 2 “Honor your father and mother”—which is the first commandment with a promise— 3 “so that it may go well with you and that you may enjoy long life on the earth.”

4 Fathers, do not exasperate your children; instead, bring them up in the training and instruction of the Lord.

5 Slaves, obey your earthly masters with respect and fear, and with sincerity of heart, just as you would obey Christ. 6 Obey them not only to win their favor when their eye is on you, but as slaves of Christ, doing the will of God from your heart. 7 Serve wholeheartedly, as if you were serving the Lord, not people, 8 because you know that the Lord will reward each one for whatever good they do, whether they are slave or free.

9 And masters, treat your slaves in the same way. Do not threaten them, since you know that he who is both their Master and yours is in heaven, and there is no favoritism with him.
10 Finally, be strong in the Lord and in his mighty power. 11 Put on the full armor of God, so that you can take your stand against the devil’s schemes.
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Wikipediaによれば、「『エフェソの信徒への手紙』は、新約聖書中の一書。伝承では紀元62年ごろ、ローマで獄中にあった使徒パウロが小アジアのエフェソ(エフェソス)のキリスト者共同体にあてて書いたものであるという・・・『エフェソ書』は(あるいは小アジアの複数の教会に送られた可能性もあるが)パウロの教えのまとめ的なものである。主なテーマはキリストに従うものの共同体をつくることが父なる神の意志に沿うものだということである」とされている。

まず、親を持つ人間に対して、「子よ「あなたの父と母とを敬え」。これが第一の戒めであって、次の約束がそれについている、「そうすれば、あなたは幸福になり、地上でながく生きながらえるであろう」」と、親を敬うべきことを述べている。

また、人の主人に仕える召し使いや奴隷に対して、「だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう」と述べて、この世の主人に真摯に仕えることを述べている。

子の立場にいる者や、人に仕える立場にいる者に対して、親や主人に忠実に仕えることを推奨している。ただし、「主は天にいますのであり、かつ人をかたより見ることをなさらない」と、霊的な主であるイエス・キリストや神様が公平なお方であることを強調している。

これは、親や主人には逆らってはならない、という日本の伝統的な教えと同じです。そうすれば、人間的なトラブルはなくなり、円満な人間関係が築ける。この教えで、キリスト教徒は大人しい、善良な人間だということになる。日本でも、親や主人に忠実な人間は好かれる。ただし、これはこの世の権威を目上の人や権力者に認めることではなく、あくまで、霊的な主人は天にいる神様やイエス・キリストであることを強調している。

そして、天の神様や主であるイエス・キリストは、人を公平に扱うと信じることが、キリスト教徒であることを意味する。

また、「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい」と、敵は悪魔であることを明確にしている。

つまり、平和で道徳的な生活を送りながらも、悪魔の攻撃に備えよということです。

ただし、悪魔が親や、この世の主人の中に入る場合もある。しかし、「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」と、あくまで天の主人であるイエス・キリストに頼って、その偉大な力を得て強く生きろと言っておられる。子や召し使いとして、親やこの世の主人と戦うのではなく、あくまで天の主であるイエス・キリストの力によって対抗せよということです。

この世の権力や権威と、信仰の主である神様やイエス・キリストとの関係のどちらを選ぶかは、しばしば深刻な問題になる。その場合も、親やこの世の主人には逆らうことなく、信仰を選んで、悪魔との戦に備えよというのが、キリスト教の教えになる。

だから、神道や仏教重視の親と論争するのではなく、また、社会のそのような風潮と争うのではなく、平和的に相手の気持ちを尊重しながら生きろということです。

そのためには、天の主であるイエス・キリストへの強い信仰心が必要になる、この強い信仰心で、悪魔の攻撃に備えることができるようになる。

キリスト教は、単に信仰の問題ではなく、道徳的で平和で、祖先を尊重する生き方でもあるのです。

とにかく、悪魔は人間同士を争わせて不幸にし、互いに苦しめ合って破滅させるのが目的なのです。頼りになるのは、公平な天の神様やイエス・キリストなのです。


2026年9月2日水曜日

「あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である」 (マタイによる福音書 第 10 章) (You are worth more than many sparrows.)

 

26 だから彼らを恐れるな。おおわれたもので、現れてこないものはなく、隠れているもので、知られてこないものはない。
27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。
29 二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない。
30 またあなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。
31 それだから、恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。
32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。 (マタイによる福音書 第 10 章)

26 “So do not be afraid of them, for there is nothing concealed that will not be disclosed, or hidden that will not be made known. 27 What I tell you in the dark, speak in the daylight; what is whispered in your ear, proclaim from the roofs. 28 Do not be afraid of those who kill the body but cannot kill the soul. Rather, be afraid of the One who can destroy both soul and body in hell. 29 Are not two sparrows sold for a penny? Yet not one of them will fall to the ground outside your Father’s care.[b] 30 And even the very hairs of your head are all numbered. 31 So don’t be afraid; you are worth more than many sparrows.
32 “Whoever acknowledges me before others, I will also acknowledge before my Father in heaven. 33 But whoever disowns me before others, I will disown before my Father in heaven.
34 “Do not suppose that I have come to bring peace to the earth. I did not come to bring peace, but a sword.
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これは、イエス・キリストの有名な説教です。

「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」というのは、霊的な言葉であり、人間は肉体は死んでも魂は死なないことを意味しているが、その上さらに、「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい」と、神様がその死なないはずの人間の魂ですら、滅ぼすことができると、霊界の秘密を明らかにされている。

もちろん、悪魔の霊も滅ぼす力は神様にはある。ただし、悪魔が神様を亡ぼすことなでできないし、神様を傷つけようとすることすら悪魔には許されていない。神様が存在しなくなれば、悪魔も存在できなくなる。それでも、なおかつ神様に逆らのが狂った悪魔なのです。

つまり、霊界の霊的な存在である悪魔にとっても、これは恐ろしい言葉です。神様は悪魔を亡ぼすこともできることも意味されているからです。しかし、悪魔は、どうせ神様に滅ぼされるなら、亡ぶまで少しでも神様の栄光を傷つけてやろうと決心する。これは、悪魔の狂った心の現れです。悪魔は、確信犯的に狂って、どこまでも神様に逆らうことを決心している。正常な人間には、考えられない狂気です。

だから、悪魔に魂を売った人間は矯正できない。彼らは、悪魔の心を反映して、死ぬまで神様の愛と真理に逆らう。どこまでも、彼らは狂っており、どこまでも悪を愛し、どこまでも神様に従う人間を攻撃する。彼らは心の底から、狂気の闇を愛しているのです。

しかし、悪魔やその手先となった悪霊に取り付かれた人間は、人の肉体は殺せても、その魂は殺せない。だから、彼らに肉体を殺されても、人間の魂は霊界で生き続けるのです。このことは、神様に従う善人を励ます言葉です。

また、「二羽のすずめは一アサリオンで売られているではないか。しかもあなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない」と述べて、神様は雀ですら守っておられるが、雀よりも人間は価値があり(神様の教えを知ることができるから)、当然、神様は人間を雀よりも多く守って下さると信徒に保証しておられる。

ただし、「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきた」と述べて、イエス・キリストの教えは悪魔との偽りの平和ではなく、悪魔との戦いのためであり、弟子や信徒には勇気を持って悪魔と戦えと激励されておられるのです。

これが、キリスト教信者の精神のバックボーンとなり、心の強さの秘密なのです。「自分たちは、最悪でも魂は霊界に入ることができる」と信じることで、肉体の死を恐れなくなった神様の信徒は、命をかけて悪と戦う正義の戦士になれるのです。

それでも、悪魔は神様に従う人間を攻撃する。善人は世の中の悪人に攻撃される。悪魔に魂を売った悪人は、本能的に善良な人を攻撃する。そういう悪人も、最後には悪魔に裏切られ、攻撃される。自分の手先ですら、最後には裏切って苦しめて喜ぶのが悪魔なのです。神様に従っていようが、悪魔に従っていようが、悪魔は神様が造られた人間を苦しめたいのです。狂った悪魔には、味方にした人間ですら攻撃の対象なのです。だから、人間は悪魔と取引ができたり、平和を維持できると思ってはならない。これが、「つるぎ」を持って生きよというイエスの教えの意味なのです。

つまり、人間は物質文明の成功に溺れて、「飲み、食い、歌い」などして、浮かれて生きていてはいけない。物質文明の成功によって安全、安心、快適性、快楽性を手に入れても、人間の心が神様から離れれば、神様の庇護がなくなり、悪魔によって文明が亡ぼされることになる。悪魔は、人間を苦しめて、神様を呪わせ、自分と同じように惨めな気持ちにさせて、地獄に引きずり込み、最後は、悪魔が神様に亡ぼされる時に、道ずれにして、自分と一緒に亡びるようにさせたいのです。そこまで、悪魔は狂っている。

しかし、狡猾な悪魔は大霊や天使のまねをすることができ、また、未熟な人間に自分を神だと思わせ、あるいは、ニゼ・キリストを演じて人々を惑わす。要するに、悪魔にとって人間を騙すことなど、赤子の手をひねるようなものなのです。

だから、イエス・キリストは「つるぎを投げ込む」ために来て、人間に悪魔と戦う力を与えられるのです。

それでも、悪魔はイエスの弟子のユダを使って、イエスの人間としての情けに訴えてイエスの懐に入り込ませ、イエスが人間としてユダの裏切りを受けなければならない状態を作り出し、イエスを死に追い込んだのです。例えば、イエスがユダの裏切りを受け入れなければ、ローマ軍がユダの家族を殺すという状況を作れば、イエスはユダの裏切りを受け入れなければならなくなり、十字架上で刑死することになる。つまり、ユダはイエスのために命を捨てることができても、ユダの家族の命を守るためには、イエスを犠牲にしなければならなくなったのかも知れない。それが、ユダが、ユダヤ教の祭司から銀貨30枚をもらってイエスを裏切った事件の真相かもしれない。ユダは、そのようにカネで問題を解決しなければならくなったのだろう。まさに、カネは悪魔の化身なのです。

しかし、イエス・キリストは、人間は僅かなカネで買われる雀などより価値があり、雀ですら神様に守られているのに、人間を神様が守らないはずはないと、教えられたのです。

このような真理の教えは、「現れてこないものはない」というのがイエス・キリストの教えなのです。それを信じる心をもつのが、イエス・キリストの信者なのです。