日本国大統領府(仮)
2026年8月16日日曜日
神は「光あれ」と言われた。すると光があった (創世記 第 1 章) (And God said, “Let there be light,” and there was light.)
はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。(創世記 第 1 章)
1 In the beginning God created the heavens and the earth. 2 Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the Spirit of God was hovering over the waters.
3 And God said, “Let there be light,” and there was light. 4 God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness. 5 God called the light “day,” and the darkness he called “night.” And there was evening, and there was morning—the first day.
6 And God said, “Let there be a vault between the waters to separate water from water.” 7 So God made the vault and separated the water under the vault from the water above it. And it was so. 8 God called the vault “sky.” And there was evening, and there was morning—the second day.
+++ +++ +++
Wikipediaによれば、「『創世記』(英語: genesis)は、古代ヘブライ語によって記された、ユダヤ教、キリスト教の聖典とされ、キリスト教の啓典である聖書(旧約聖書)の最初の書かつ、正典の一つとして扱われている。写本が現存しており、モーセが著述したとされている。いわゆるモーセ五書は、ユダヤ教においてはトーラーと呼ばれている」とされている。
この「はじめに神は天と地とを創造された」と言う言葉は、旧約聖書の最初の言葉として、よく知られている。人類が、この世の存在について目が開いたとき、最初に見たのが天であり、その下の地であったことを証明している。
人間の赤ん坊も生まれて気が付くと、上のものと下のものがあるのに気が付く。上下の感覚は人間が最初に感じるものである。霊的には、上の霊界から下の物質界に生まれてきたという感覚を表している。或いは。精神的な心の世界から、肉体に象徴される物質の世界に生まれたことを意識する。
それを、天と地として認識し、神様がこの世(物質界)とあの世(霊界)を作ったと認識するのが、人間の世界認識の始まりであることを意味している。
そこには、自然の法則しかない。善も悪もない。しかし、そこに人間と言う生物が生まれると、万物の創造主の神様と人間という被造物(作られた者)の間の関係が生じる。人間が神様に従っていれば、なにも問題はない。人間は天と地を認めて、この世に生きるだけです。霊界で神様に仕える天使のように、物質界で人間は神様に仕えればよい。
ところが、霊界の天使の中には、神様のような大きな力を持ちたいと願う者がでてきて、神様に逆らうようになる。これが、神様の善に対抗して悪をなすようになる。神様が完全な霊界と完全な物質界を造られると、作られたものは、破壊という現象を受け入れねばならなくなり、その破壊の力を手に入れた一部の天使は、神様に逆らって神様の作られた完全な霊界と物質界を破壊しようという行為に出る。これが、悪の始まりであり、悪魔の出現です。
神様が作られた世界は完全であるが故仁、その完全性の中に不完全性も含まれねば、「本当の完全性」は実現しないので、神様はそのような反動的な要素の存在も許された。つまり、全善の神様の許容によって悪の存在が許され、悪魔が天使の中から生まれたことになる。
神様が、天も地も作らず、霊界も物質界も作らなければ、天使の存在も必要ではなく、人間の存在も必要でなかったことになる。従って、悪魔も存在しなかったことになる。天も地もない空間に時間も必要としない神様が存在するだけだったが、神様は、霊界と物質界を造ることを選ばれので、天使や人間が生まれることになった。ただし、それに付随して悪魔が生まれることになった。
つまり、人間の出現以前に、悪魔の存在が許されていたことになり、悪魔は神様の霊界や物質界を創造する能力に付随したものでああり、その能力の反動して生まれたものであり、それを許容してでも、神様は天使や人間を作ることを選ばれたわけです。悪が存在する可能性というリスクを冒してまで、神様は天使や人間を作りたかったことになる。それは、神様が天使や人間を愛されたからだということになる。それが、天と地の光だということになる。この世の光は太陽から来ているが、霊界の光は神様の世界(天国や神界)から来ている。
善の世界(光の世界)を作れば、反動で悪の要素(闇)も生まれるということを神様は承知されて、悪魔を含む霊界と人間界を造られたのです。しかし、神様がその気になれば、いつでも悪魔や悪魔が作り出す地獄は存在しなくなる。これが、悪魔が最も恐れる世界の消滅です。悪(闇)は善(光)が生じるから存在できるのです。
しかし、神様は、天と地を作られて、そこに人間が生きることを愛されたので、まだ、この世、物質界は亡びないし、物質界の源である霊界に住む天使たちも愛しておられるので、霊界もなくなることはない、ただし、そのために悪や悪魔の存在も認めなければならなくなった。
これは、全ての整数を作ることを選ばれた神様が、整数の中に、「1」とその数でしか割り切れない「素数」の存在を許されたようなものです。素数は、整数列のどこに現れるかは予測できない。しかし、素数を取り除けば、整数列は成り立たない。
神様は、無数の数と無限大を作られ、無数の数の中には素数も含まれ(しかも、無数に)、なお、無数の数を抑える概念として無限大という概念を作られた。無数の整数という地と、無限大という天を神様は作られたのです。
この世(物質界)とあの世(霊界)の成り立ちについて、神様が全てを創造されたというのが、人類に共通の認識であり、さまざまな神話の共通点です。人間や悪魔が世界を作ったという神話はない。また、訳が分からないが、勝手にできたという神話は、成り立たない。存在は、でたらめには成り立たない(闇から存在は生じない)。或いは、力が無ければ成り立たない。全知全能かつ全善の神様が愛(光)から作られたと信じるのが、神様への信仰の第一歩なのです。
2026年8月13日木曜日
「わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」 (マルコによる福音書 第 1 章) ("I baptize you with water, but he will baptize you with the Holy Spirit.")
神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
7 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。
8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 (マルコによる福音書 第 1 章)
1 The beginning of the good news about Jesus the Messiah, the Son of God, 2 as it is written in Isaiah the prophet:
“I will send my messenger ahead of you,
who will prepare your way”—
3 “a voice of one calling in the wilderness,
‘Prepare the way for the Lord,
make straight paths for him.’”
4 And so John the Baptist appeared in the wilderness, preaching a baptism of repentance for the forgiveness of sins.
9 At that time Jesus came from Nazareth in Galilee and was baptized by John in the Jordan.
+++ +++ +++
これが、新約聖書のマルコによる福音書の冒頭部分です。
Wikipediaによれば、「マルコによる福音書は、新約聖書の正典福音書の2番目の書物・・・2世紀半ば以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る『マタイによる福音書』の次におさめられ、以下『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。ただし、本福音書を4番目とする例がある。執筆年代は、伝承によるとペトロの殉教の年といわれる65年から『ルカ福音書』の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。本福音書は、『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』と共に「共観福音書」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。マルコ福音書、マルコ伝、あるいは単に「マルコ」とも呼ばれる。高等批評の立場からは正典福音書のうち最も古くに書かれたものであるとされている」とされている。
この冒頭の「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」というように、イエス・キリストではなく、イエスの従兄とされる、バプテスマのヨハネの活動が書かれている。
Wikipediaによれば、「バプテスマのヨハネ」とは、「『ルカによる福音書』1章36節では、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親戚だったという。同福音書においては、天使ガブリエルによってその誕生を予言されている」とされており、イエス・キリストの先駆けとなった宗教活動をしていたことになる。
ヨハネもイエスも、エッセネ派と呼ばれるユダヤ教の一派と関係があったとされている。AIによれば、「エッセネ派は、紀元前2世紀〜紀元1世紀ごろに存在したユダヤ教の禁欲的な一派です。主に死海近くの荒野で共同生活を営みました」とされている。第二次大戦後に発見された「死海文書」で、エッセネ派の活動はよく知られるようになった。
Wikipediaでは、「新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある」とされている。
このエッセネ派に属するクムラン教団の文書が死海文書とされており、オプス・デイ(キリスト教のローマ・カトリック教会の組織のひとつ、属人区である)では、「また、クムランで見つかったユダヤ教の文書が新約聖書に何らかの影響を与えたという形跡も見出されません。現在、専門家たちはクムランの教義とキリスト教の誕生には、なんら関係はなかったという見解で意見が一致しています。死海のほとりに存在したあのグループは少数派であり、社会から隔絶した生活を送っていました。それに対し、イエスや初期のキリスト教徒は、当時のユダヤ社会に浸かって生活し彼らと対話をしていました。しかしながら、クムラン文書によって、キリスト教が誕生した非常に多様なユダヤ社会において、当時は普通に使われていたものの、今日では理解することが困難な用語や表現の意味が明らかになったという点では、役にも立っているのです」とされている。
いずれにしても、20世紀の第二次大戦後に2千年前のイエスの時代のユダヤ教の状況が明らかになったのには、神様の意図を感じないわけにはいかない。2千年間、世界はこの状況を知らなかった。死海文書が明らかにした事実は重い。2千年間、世界はこの状況を知らなかった。死海文書が明らかにした事実は重い。
イエス・キリストは、ユダヤ教の伝統の中から、禁欲的なグループのエッセネ派に近い存在として現れたのです。しかも、イエスだけでなく、従兄のヨハネまでが、共に宗教活動をしていた。これが、イエス・キリストの背景であり、歴史的な事実です。
しかし、霊的にはもっと深い所からイエス・キリストは現れたと考えられる。
神様が作られた人間が、アダムとイブの時代から霊的に堕落し、物質文明の中でカネを求めるようになり、悪魔に魂を売ってカネを求めるような生活をするまでに腐敗したので、それを本来の霊的な生活に戻そうとして、神様がイエス・キリストを人間界に送られたと考えるべきです。
つまり、イエス・キリストの使命は悪魔(カネ)と戦って人間を救うことなのです。
キリスト教を理解するには、この世の人間界が悪魔の影響にあることを認め、悪魔は最後は人間を破滅させようとしていることを理解する必要がある。どんなに悪魔の力に頼って、エリートや富裕層になっても、死後は悪魔の手下にされ、地獄に引きずりこまれる。
2千年前に、既に貨幣が使用されていたローマ時代のパレスチナにも、現代と同じようにカネ(悪魔の化身)が威力を持っており、多くの人間はカネに洗脳されて、カネで欲望を満たそうとしていた。まさに、悪魔の影響下にある世の中になっていたのです。2千年前も世界は拝金主義になていたのです。
その風潮を正そうとして、ローマ帝国の植民地であったユダヤ人のパレスチナに出現したのがイエス・キリストなのです。
当時も現代もカネによる支配が世の中で行われているのが共通しており、それが悪魔の影響であり、それに対して霊的な文明を打ち立て、人間の心を神様に向けさせるのが洗礼者ヨハネやイエス・キリストの活動であり、現在でもその状況は変わっていないのです。だから、2千年前の聖書は現代人でも理解できるのです。
だから、世界経済の中でこの悪魔の影響下にある日本人も聖書を読み、イエス・キリストの言葉を守る必要があるのです。
人間は、悪魔(カネ)と戦う必要があるのです。
2026年8月12日水曜日
「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」 (マタイによる福音書 第 17 章) (“This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”)
2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。 (マタイによる福音書 第 17 章)
17 After six days Jesus took with him Peter, James and John the brother of James, and led them up a high mountain by themselves. 2 There he was transfigured before them. His face shone like the sun, and his clothes became as white as the light. 3 Just then there appeared before them Moses and Elijah, talking with Jesus.
4 Peter said to Jesus, “Lord, it is good for us to be here. If you wish, I will put up three shelters—one for you, one for Moses and one for Elijah.”
5 While he was still speaking, a bright cloud covered them, and a voice from the cloud said, “This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”
6 When the disciples heard this, they fell facedown to the ground, terrified. 7 But Jesus came and touched them. “Get up,” he said. “Don’t be afraid.” 8 When they looked up, they saw no one except Jesus.
9 As they were coming down the mountain, Jesus instructed them, “Don’t tell anyone what you have seen, until the Son of Man has been raised from the dead.”
+++ +++ +++
これは。「山上の変容(山上の変貌)」と呼ばれる出来事であり、AIでは、「イエスが高い山の上で栄光の姿に変わり、神の子として現された出来事を指します。イエスの本来の栄光が一時的に現れた場面と理解されます」とされている。
イエス・キリストが、霊的な能力のあった「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とされているように、彼らの霊的エネルギーを借りて、自らが霊となって、モーセやエリアという旧約聖書に出てくる過去の聖人の霊と話し合ったという情景です。
これは、霊的に理解しなければ説明のつかない情景です。イエスは、その霊能力で霊界の神様や天使たちとコミュニケーションできていたのですが、緊急にモーセやエリアの霊と話し合う必要ができたので、このように「主イエスの変容」とも称される形で彼らの霊と話し合ったのだと思われる。
Wikipediaによれば、「教会では、この世的な意味でのキリストの勝利(イスラエルの解放)を願う弟子達に対し、自らの受難を予言し続けたキリストが、これから受ける苦難に際して信仰し続ける希望を与えるためにこの奇蹟を行ったと伝えられる」とされている。
おそらく、この時に、イエス・キリストは、ユダの裏切りについて知らされたのだろう。そして、このまま行けば、イエスが権力者に逮捕され、死刑を宣告されることを霊から知らせれたと思われる。
そして、「たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と。神様の声がして弟子たちにイエス・キリストに従うように告げたということは、この出来事は神様とのコミニュケーションでもあったことを告げている。ユダのもたらす悲劇を信仰のために受け入れることにしたイエス・キリストの信仰心を、神様が認められたということです。
いつ、イエスが、ユダの裏切りと、ご自分の死がそれによって生じることに気が付かれたのかは、聖書には明確には記されていないが、この「主イエスの山上での変容」のときだったと思われる。
イエスの肉体が、霊との会話のために、霊体に変容したことを、聖書はこのように記したと思われる。福音書の中でも唯一、霊界とイエス・キリストの直接的な関りを記した箇所になっている。
霊的存在でもあるイエス・キリストは、人間の姿を取って人間界で生きて、人間として死んでも、霊界でその魂は生き続けるが、人間界で行なおうとしていたことは中断される。それが、悪魔の狙いであり、神差の計画に対する挑戦なのです。そのことに、イエス・キリストは苦しめられるが、ご自分の死を恐れたわけではない。
ただし、悪魔のそのような計画を霊から知らされたイエスは、これ以降は、明確な覚悟をもって、十字架の運命に向かって歩くことになる。
最初からイエス・キリストは、弟子の裏切りで逮捕され、十字架上で刑死するとは覚悟されてはいなかたった。イエス・キリストの伝道の成功を確信した悪魔が、非常手段に訴えて来たので、神様はモーゼやエリアの霊を使ってイエスに悪魔の計画を知らせたが、イエスはご自分の気持ちに変わりはないとの気持ちを表明されたので、神様はそれに満足されたという経緯です。
霊的な世界の出来事を、この世で表されて、聖書に残るようにされたということの意味は大きい。イエス・キリストの霊的な力を認めよという教えです。
2026年8月11日火曜日
この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった (ヨハネによる福音書 第 13 章) (As soon as Judas took the bread, Satan entered into him.)
21 イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」。
22 弟子たちはだれのことを言われたのか察しかねて、互に顔を見合わせた。23 弟子たちのひとりで、イエスの愛しておられた者が、み胸に近く席についていた。
24 そこで、シモン・ペテロは彼に合図をして言った、「だれのことをおっしゃったのか、知らせてくれ」。
25 その弟子はそのままイエスの胸によりかかって、「主よ、だれのことですか」と尋ねると、
26 イエスは答えられた、「わたしが一きれの食物をひたして与える者が、それである」。そして、一きれの食物をひたしてとり上げ、シモンの子イスカリオテのユダにお与えになった。
27 この一きれの食物を受けるやいなや、サタンがユダにはいった。そこでイエスは彼に言われた、「しようとしていることを、今すぐするがよい」。
28 席を共にしていた者のうち、なぜユダにこう言われたのか、わかっていた者はひとりもなかった。
29 ある人々は、ユダが金入れをあずかっていたので、イエスが彼に、「祭のために必要なものを買え」と言われたか、あるいは、貧しい者に何か施させようとされたのだと思っていた。
30 ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。(ヨハネによる福音書 第 13 章)
21 After he had said this, Jesus was troubled in spirit and testified, “Very truly I tell you, one of you is going to betray me.”
22 His disciples stared at one another, at a loss to know which of them he meant. 23 One of them, the disciple whom Jesus loved, was reclining next to him. 24 Simon Peter motioned to this disciple and said, “Ask him which one he means.”
25 Leaning back against Jesus, he asked him, “Lord, who is it?”
26 Jesus answered, “It is the one to whom I will give this piece of bread when I have dipped it in the dish.” Then, dipping the piece of bread, he gave it to Judas, the son of Simon Iscariot. 27 As soon as Judas took the bread, Satan entered into him.
So Jesus told him, “What you are about to do, do quickly.” 28 But no one at the meal understood why Jesus said this to him. 29 Since Judas had charge of the money, some thought Jesus was telling him to buy what was needed for the festival, or to give something to the poor. 30 As soon as Judas had taken the bread, he went out. And it was night.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストの弟子の一人であるユダが、イエスへの裏切りを決行するときの情景です。
ただし、「サタンがユダにはいった」と書かれている。本当の黒幕はユダではなく、悪魔であるということが示唆されている。事実、イエスが逮捕された後に、ユダは良心に責められ自殺している。ユダが心からイエスを憎んで裏切っていれば、イエスの逮捕に大喜びしていたはずです。しかし、ユダは正気に戻り、イエスを裏切ったことを後悔し、自殺したのです。ユダは悪魔に操られていたと考えられる。
巧妙な悪魔は、表に出ないで人を使って悪を行わせるのです。罪を犯す者が、真犯人とは限らない。その背後で犯罪を画策し、実行者の心を操っているものがいる。
イエスは、「人をつまずかせる者の責任は、つまずいて罪を行った者よりも重い」と述べておられる。物事は表面だけを見て判断してはいけない。目に見えない力が働いているものです。
しかし、心の中に悪魔に入り込まれる隙を作った者にも責任はある。しかし、イエス・キリストは「人を裁いてはならない」と述べておられる。本当の責任者は誰にも分からないし。実行者にもそれなりも責任はある。そのような背後関係が分からないまま、実行者だけを裁けば、より大きな悪が放置されることになる。要するに、人には人を裁く能力もないし、その結果に責任も取れないということです。
イエス・キリストは、ユダの裏切りは抑止できないことを悟ったので、ユダに裏切らせたと考えるしかない。悪魔が、ユダにイエスを裏切らなければならないような罠を仕掛けたことは間違いない。銀貨30枚を裏切りの報酬として得る必要があったのだろう。それは、聖書では謎になっている。
神の子のイエス・キリストが、弟子の裏切りに気づかないなどと言うことはあり得ない。イエスは、ユダが裏切らなければならない状況にいることを知って、悪魔の罠に落ちることを承知していたと思われる。しかし、悪魔に勝つ自信があったので、ユダに裏切りをさせたのだろう。
悪魔も、イエス・キリストには勝てないことを知りながら。ユダに裏切りをさせた。ただし、どのようにしてイエスが勝利するかは分からなかった。悪魔も驚いたであろうが、イエス・キリストは無実の罪で十字架上で殺されたあとに、蘇って信者たちの信仰心を深めたのです。
つまり。イエス・キリストは、悪魔よりもはるかに上手だったのです。それが、この2千年間の人類の歴史で表されている。
いずれにしても、このユダの裏切りは、信者に悪魔の狡猾さと、危険を教えることになり、それ以上に、イエス・キリストの力を示すできごとだったのです。
これが、福音書のハイライトの、ユダの裏切りの意味なのです。つまり、悪魔は、弟子にイエス・キリストを裏切らせるような力や悪知恵を持っているのです。だから、常に気をつけていなさい、とイエス・キリストは述べておられる。
2026年8月10日月曜日
「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」 (ルカによる福音書 第 11 章) (How much more will your Father in heaven give the Holy Spirit to those who ask him!”)
12 卵を求めるのに、さそりを与えるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」。(ルカによる福音書 第 11 章)
11 “Which of you fathers, if your son asks for a fish, will give him a snake instead? 12 Or if he asks for an egg, will give him a scorpion? 13 If you then, though you are evil, know how to give good gifts to your children, how much more will your Father in heaven give the Holy Spirit to those who ask him!”
+++ +++ +++
父親は、子供に「その子が魚を求めるのに、魚の代りにへびを与える」ことはない、と父親の自然な愛情を譬えにして、イエス・キリストは、同じように天の父親である神様は、子である人間たちにも自然な愛情を持っていると述べておられる。
神様は、父が子を愛するように、子である人間を愛しておられる。この信頼関係が、キリスト教の基礎なのです。
だから、子である人間は、子が父を愛するように神様を信頼してよいと述べておられるのです。
つまり、人間は願い事があれば、神様に祈ってもよい、という意味です。そのとき、イエス・キリストの名で神様に願えば、願い事は必ずかなうと信ぜよというのが、イエスの教えなのです。
問題は、神様に願ったことが叶っているのに、そのことに人間が気が付かないという場合が多いことです。あることのためにカネが必要なので、神様にカネを求めたとしても、神様がカネではなく、他の方法でその問題を解決してくれるかもしれない。しかし、カネを得られなかった信者は願い事が叶わなかったと考えるかもしれない。しかし、カネ以外の手段で問題は解決している場合があるのです。
また、旅行をするのに、時間通りに空港に着けるように神様に祈ったとしても、なぜか時間に間に合わなかった場合、神様が願いをかなえてくれなかったと考えるかもしれない。しかし、乗る予定の飛行機が事故を起こして多くの乗客が亡くなった場合、自分は神様に助けられているのに、それには気が行かない場合もある。
つまり、神様は、卵を求める子供に蛇を与えないどころか、卵以上に安全でおいしいものを与えて下さっているのに、それに気づかず感謝しない子供のようなものである信者がいるということを述べておられるのです。
日本でも、年末年始に神仏に祈る人間は多いが、その直接的な願いには神仏はこたえずに、別の思いがけない形で願いにこたえてくれることがある。典型的なのは、幸せになるために、カネを神仏に求めた場合です。神仏は人間を幸福にしてはくれるが、カネは与えないという場合がある。目的を達成するのに、より愛のある形で達成させてくれる場合がある。又は、その目的よりも、もっと愛のある目的を実現させて頂く場合がある。問題は、人間の願い事だけでなく、その願う意図や目的、それを実現する手段の内容や、その影響、効果、副作用だということです。
自分の夢を叶えるために、社会に悪影響を及ぼすことを願っても、それは実現しない。別の形で夢を叶えて下さるのが神様なのです。あるいは、そのような夢が、愛と信仰から離れている場合、善の神様は、その願いを受け付けない場合がある。人間が愛と信仰心を取り戻すまでは、その願いや祈りにこたえらない場がある。
つまり、神様は人間の欲望にこたえるのではなく、欲望を捨てた願いを待っておられる、そして、人間が欲望を捨てたとき、その願いは神様によって叶えられるということです。これは、心霊研究家でもあった、工学博士で発明家であった故政木和三の主張と同じです。欲望を捨てた願いとは、人間的な願いではなく、神聖な願いだということです。つまり、聖霊が扱うような願いだということです。
いずれにしても、イエス・キリストは、とにかく神様に祈れば、それが神聖で自然な願いであれば、神様はきいて下さると述べておられる。また、強く願うだけの神聖で自然な理由があれば、神様は必ずこたえて下さると述べておられるのです。
これが、霊的なキリスト教の信仰なのです。
2026年8月9日日曜日
神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い (コリントの信徒への手紙一 第 1 章) (For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.)
19 すなわち、聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。(コリントの信徒への手紙一 第 1 章)
18 For the message of the cross is foolishness to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God. 19 For it is written:
“I will destroy the wisdom of the wise;
the intelligence of the intelligent I will frustrate.”[c]
20 Where is the wise person? Where is the teacher of the law? Where is the philosopher of this age? Has not God made foolish the wisdom of the world? 21 For since in the wisdom of God the world through its wisdom did not know him, God was pleased through the foolishness of what was preached to save those who believe. 22 Jews demand signs and Greeks look for wisdom, 23 but we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles, 24 but to those whom God has called, both Jews and Greeks, Christ the power of God and the wisdom of God. 25 For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.
+++ +++ +++
Wikipediaによれば、「『コリントの信徒への手紙一』は、『新約聖書』に収められた書簡の一つ。使徒パウロと協力者ソステネからコリントの教会の共同体へと宛てられた手紙である」とされている。
また、「ともすれば聖人の集まりのようにみなされ、美化されがちな初代教会であっても現実にはさまざまな問題や困難があり、パウロのようなエネルギッシュな人物であっても常に悩みや苦しみがあったことを如実に伝える書簡である」とされている。
この書簡の、「聖書に、/「わたしは知者の知恵を滅ぼし、/賢い者の賢さをむなしいものにする」/と書いてある」という部分は重要です。特に、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という言葉は神様への信仰を伝える名言です。
人間がその知恵や力で他人を抑えても、「愚かに見えても信者の知恵は人間の知恵に勝り」、「弱く見えても信者の力は、人間の強さに勝る」というのが信仰の言葉なのです。
だから、小さく、弱く、愚かに見える人間には、注意が必要です。その人間に本当の信仰心があれば、大きく、強く、賢い人間であることが、明らかにされるのです。他人を侮り、外見で判断してバカにし、攻撃し、笑いものにしても、その人が信仰者ならその人に負けて、大恥をかくのは、強さや、富や、知恵を誇った側です。
ブッダもホームレスの伝道者として、人々に教えを伝えたが、ブッダを貧乏人、愚か者、弱者だとして攻撃した者は、皆、死後、地獄に落ちた。
ましてや、神様の息子のイエス・キリストを信じて、自分の力や知恵を捨て、神様から与えられた真実の力や知恵を身に着けた者は、この世のどんな強者や知恵者、権力者、成功者にも勝る力を与えられているのです。
武術でも、初級者には名人や達人の業が理解できずに、笑いものにするものもいるが、対戦すれば、一撃で名人や達人に倒される。倒されても、まだ、腕の違いが分からずに、ポカンとしている。自分が、笑いものになっていることにも気づかないのが、初級者なのです。
しかし、悪魔はこのような愚か者の初級者を使って何度も信仰者を攻撃させる。モノの違いが分からない思い上がった人間は、何度でも信仰者を攻撃する。死後、霊界に入って信仰者との違いが示されるまで、弱者や愚者をいじめ、攻撃を繰り返す。だから、信仰者は、そのような悪魔に使われる本当の弱者、愚者のあきれた攻撃を覚悟しなければならない。悪魔が、背後で操っているのです。つまり、本当の敵は、目の前の愚かな人間ではなく。背後の悪魔なのです。力の差が歴然としているのに、何度も何度も真の強者に刃向かう愚かな者を使って、悪魔は信仰活動を妨害するのです。この悪魔は滑稽に見えるが、そのバカバカしさに呆れて信仰者が隙を見せれば、そこに悪魔はつけこむ。
信者は、神様が与えられた知恵と力を信じ、また、神は、その召し使いを朽ち果てることは認めずに救う、という聖書の言葉を信じて悪魔の誘惑には負けないことです。
神様を信じる人間は、人の力や知恵を超えた世界にいるのです。その違いが分かることが、人間の修業なのです。
初級者には、名人や達人は理解できない。一般人には、真の神様の信仰者は理解できない。しかし、時間がたてば、真実は誰の眼にも明らかにされる。
現在、ブッダを単なるホームレスだと思う人おはいないし、イエス・キリストをインチキ宗教家だと思う者もいない。
2026年8月8日土曜日
彼らは食べて満腹した (マルコによる福音書 第 8 章) (The people ate and were satisfied)
そのころ、また大ぜいの群衆が集まっていたが、何も食べるものがなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、
2 「この群衆がかわいそうである。もう三日間もわたしと一緒にいるのに、何も食べるものがない。
3 もし、彼らを空腹のまま家に帰らせるなら、途中で弱り切ってしまうであろう。それに、なかには遠くからきている者もある」。
4 弟子たちは答えた、「こんな荒野で、どこからパンを手に入れて、これらの人々にじゅうぶん食べさせることができましょうか」。
5 イエスが弟子たちに、「パンはいくつあるか」と尋ねられると、「七つあります」と答えた。
6 そこでイエスは群衆に地にすわるように命じられた。そして七つのパンを取り、感謝してこれをさき、人々に配るように弟子たちに渡されると、弟子たちはそれを群衆に配った。
7 また小さい魚が少しばかりあったので、祝福して、それをも人々に配るようにと言われた。
8 彼らは食べて満腹した。そして残ったパンくずを集めると、七かごになった。
9 人々の数はおよそ四千人であった。それからイエスは彼らを解散させ、
10 すぐ弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方へ行かれた。 (マルコによる福音書 第 8 章)
8 During those days another large crowd gathered. Since they had nothing to eat, Jesus called his disciples to him and said, 2 “I have compassion for these people; they have already been with me three days and have nothing to eat. 3 If I send them home hungry, they will collapse on the way, because some of them have come a long distance.”
4 His disciples answered, “But where in this remote place can anyone get enough bread to feed them?”
5 “How many loaves do you have?” Jesus asked.
“Seven,” they replied.
6 He told the crowd to sit down on the ground. When he had taken the seven loaves and given thanks, he broke them and gave them to his disciples to distribute to the people, and they did so. 7 They had a few small fish as well; he gave thanks for them also and told the disciples to distribute them. 8 The people ate and were satisfied. Afterward the disciples picked up seven basketfuls of broken pieces that were left over.
9 About four thousand were present. After he had sent them away, 10 he got into the boat with his disciples and went to the region of Dalmanutha.
+++ +++ +++
これは、イエス・キリストが、集まった4千人の群衆にパンと魚を食べさせたときの情景です。7つのパンと少しの魚を、イエスがいつの間にか増大させ、多くの群衆が食べて満腹したという話しです。これも、イエスの起こした奇跡として、よく知られている。
今では物品の引き寄せとして、イエスが霊的にパンや魚をどこかから引き寄せたという解釈もなされている。或いは、人々が隠し持っていたパンや魚を出したという解釈もある。それをイエスが、群衆に自発的に差し出させたという考えです。水上を歩いたり、病人を癒し、死人を蘇らせたり、飢えた群衆を食べさせたりというイエス・キリストが行った多くの奇跡の中でも、スケールの大きな奇跡の1つです。まさに、「人間には不可能であっても、神にはできないことはない」というイエスの言葉通りです。
つまり、イエス・キリストの一行は、人々から食べ物を与えてもらわなくても、イエスの超能力で食べ物を得ることができたのです。しかし、イエスに助けてもらった人は、イエスを食事に誘い共に食事をするということを選んだのです。イエス・キリストの一行は飢えることはなかったのです。
だから、イエスがイスラエルの王になれば、ユダヤ人は誰も飢えることはなかった。イエスは、ユダヤ人の全てを食べさせることができたのです。しかし、イエスは人々にまず神様への信仰をもつことを教えたのです。神様への正しい信仰があれば、食べ物など生活に必要なものは全て神様によって与えられるというのが、イエスの教えなのです。
しかし、人々は信仰心によって救われるのではなく、カネの力で救われることを選び、その状況が2千年間続いている。これが、人類の歴史なのです。
アダムとイヴの時代以前には、人々は神様への強い信仰心を持っており、食べ物に困ることはなかったというのが、18世紀の神秘家のスウェーデンボルグの説明です。しかし、人々は信仰を失い、神様の力に頼るのではなく、自分の力や物質文明の力に頼り、カネの力で問題を解決するようになり、人間の霊的能力も失われていったとされている。
実際に、食べ物を無から取り出すことができれば、誰もあくせく働く必要はない。ブッダは、人々の間を乞食をして回り、食物を得ていたというが、ブッダよりイエス・キリストの方が大きな超能力を持っていたことになる。ブッダは、真理を人々に説いて、その礼として食物を得ていたのだが、イエスは真理を教えると共に、食物まで人々に与えることができたのです。
これは、神様への信仰心がもつ力の大きさを人々に教える例です。今の世の中でも、問題は全カネで解決できるとの考えが広まっているが、信仰者は問題はカネではなく、神様への信仰心で解決しようとして生きている。実際に、この2千年間、イエスの教えに従って生きてきた信者がイエスの教えを伝えることができたから、今もキリスト教が存在しているのです。
この2千年間に、キリスト教国が食糧不足で亡んだという例はない。特に、キリスト教国のヨーロッパからアメリカ大陸に移住した人々は、農業大綱のアメリカで食料に不足することはなかった。アメリカは、まさに天国のような豊かな国になったのです。
しかし、悪魔はアメリカにも入り込み、アメリカの文化、政治、経済はカネの力によって翻弄されている。そのアメリカが主導する世界自体も、問題にあふれている。アメリカ人が、カネの力ではなく、信仰の力に頼って文明を発展させるべきだったのです。ローマのヴァチカンも物質主義に溺れる世界に信仰の威力を見せるところまでは行っていない。だから、2度もヨーロッパで世界大戦が生じたのです。
従って、日本人がその霊性を伸ばして、イエス・キリストの教えに従って、カネより信仰の力で問題を解決できることを世界に示すべきなのです。