2026年9月15日火曜日

「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」 (マタイによる福音書 第 9 章) (“It is not the healthy who need a doctor, but the sick.") 


10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)

10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”

12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”

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これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。

義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。

つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。

人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。

悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。

多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。

しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。

ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。

悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。

悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。

そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。

死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。

イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。

つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。




すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (使徒言行録 第 9 章) (“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied.)


3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。
12 彼はアナニヤという人がはいってきて、手を自分の上において再び見えるようにしてくれるのを、幻で見たのである」。
13 アナニヤは答えた、「主よ、あの人がエルサレムで、どんなにひどい事をあなたの聖徒たちにしたかについては、多くの人たちから聞いています。
14 そして彼はここでも、御名をとなえる者たちをみな捕縛する権を、祭司長たちから得てきているのです」。
15 しかし、主は仰せになった、「さあ、行きなさい。あの人は、異邦人たち、王たち、またイスラエルの子らにも、わたしの名を伝える器として、わたしが選んだ者である。
16 わたしの名のために彼がどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう」。
17 そこでアナニヤは、出かけて行ってその家にはいり、手をサウロの上において言った、「兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにおつかわしになったのです」。
18 するとたちどころに、サウロの目から、うろこのようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け、
19 また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たちと共に数日間を過ごしてから、
20 ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、このイエスこそ神の子であると説きはじめた。 (使徒言行録 第 9 章)

3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying. 12 In a vision he has seen a man named Ananias come and place his hands on him to restore his sight.”
13 “Lord,” Ananias answered, “I have heard many reports about this man and all the harm he has done to your holy people in Jerusalem. 14 And he has come here with authority from the chief priests to arrest all who call on your name.”
15 But the Lord said to Ananias, “Go! This man is my chosen instrument to proclaim my name to the Gentiles and their kings and to the people of Israel. 16 I will show him how much he must suffer for my name.”
17 Then Ananias went to the house and entered it. Placing his hands on Saul, he said, “Brother Saul, the Lord—Jesus, who appeared to you on the road as you were coming here—has sent me so that you may see again and be filled with the Holy Spirit.” 18 Immediately, something like scales fell from Saul’s eyes, and he could see again. He got up and was baptized, 19 and after taking some food, he regained his strength.
19 and after taking some food, he regained his strength.
Saul spent several days with the disciples in Damascus. 20 At once he began to preach in the synagogues that Jesus is the Son of God.

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これは、「サウロの回心」と言われる聖書で有名な箇所です。

Wikipediaによれば、「ダマスコへの途上において、「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか」と、天からの光とともにイエス・キリストの声を聞いた、その後、目が見えなくなった。アナニアというキリスト教徒が神のお告げによってサウロのために祈るとサウロの目から鱗のようなものが落ちて、目が見えるようになった。こうしてパウロ(サウロ)はキリスト教徒となった。この経験は「サウロの回心」といわれ、紀元34年頃のこととされる。一般的な絵画表現では、イエスの幻を見て馬から落ちるパウロの姿が描かれることが多い」とされている。

なお、サウロがいつパウロと呼ばれるようになったのかについては、AIでは、「回心した瞬間に急に改名したというより、使徒言行録13章9節からパウロ名義が本文で主に使われ始めたと考えるのが自然です 」と回答している。

いずれにしても、霊となったイエス・キリストが、霊界からこの世のパウロに影響力を及ぼされたのです。このように、キリスト教は霊的な現象が基本となって発展してきた宗教なのです。それは、日本の仏教や神道、修験道などと同じです。

さて、パウロは、その後、熱心にイエスの教えを伝える信徒となった。新約聖書には、パウロが各地の信徒に書き送った書簡が何通も採用されている。Wikipediaでは、「パウロ書簡には新約聖書中真性書簡として『ローマの信徒への手紙』『コリントの信徒への手紙一』『コリントの信徒への手紙二』『ガラテヤの信徒への手紙』『フィリピの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙一』『フィレモンへの手紙』があり、偽名書簡として『エフェソの信徒への手紙』『コロサイの信徒への手紙』『テサロニケの信徒への手紙二』『テモテへの手紙一』『テモテへの手紙二』『テトスへの手紙』がある。なお伝統的にパウロ書簡とされる『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている」とされている。

ただし、パウロは、生存中のイエスを知らないので、イエスの12弟子の中には含まれていないが、回心のときのように、霊界から直接にイエス・キリストから言葉をかけられた人間として重要です。ただし、パウロ独自の宗教的判断がその書簡には書かれていると思われるので、18世紀に生きながら霊界を見ることを、霊界の神様(又は、主であるイエス・キリスト) から許されたスウェーデンボルグは、パウロについて、その『霊界日記』の中で、 「彼(パウロ)はその「書簡」の中で、主(イエス・キリスト)が教えたことの一言も述べていないし、主のたとえ話の一つさえも引用していない。したがって、彼は主の生涯や主の説教から何も受け入れていない」と批判的に述べている。

AIでも、「スウェーデンボルグの神学はキリスト教理解に大きな影響を与え、パウロへの批判的言及もある」とされている。


いずれにしても、パウロは新約聖書を通して、キリスト教の発展に大きな影響を与えた人物です。しかし、霊界を見たスウェーデンボルグが、パウロを批判しているので、今の一般のキリスト教会では、カトリックでもプロテスタントでも、スエーデンボルグに代表される心霊的なキリスト教は受けいれられていない。パウロへの批判は、現在のキリスト教会では受け入れられない。逆に、12弟子の一人であったペテロを初代ローマ法王として、カトリックでは崇めている。ペテロとパウロは、キリスト教の大聖者なのです。

要するに、キリスト教自体が出発点は心霊的な宗教だったのです。むしろ、心霊主義から離れた今のキリスト教会の方が、本来のイエス・キリストから遠ざかっているとも考えられる。

今の教会に行くのも良いが、キリスト教研究は各人が独自にしなければならない。

ダマスコへの途上で、パウロにイエス・キリストの霊が呼びかけたような霊的な経験をすれば、その本人もイエスの正しい教えを理解できるだろうが、まだ、そのような霊的現象は、少数の例外を除いて、ローマ法王にも、普通の神父や牧師にも起こっていない。

スウェーデンボルグが、神様(又は、主であるイエス・キリスト)の霊から霊界を見ることを許されたことを信ずる者と、信じない者の違いが、現代のキリスト教理解の差になって現れている。

しかし、まず聖書を読まなければ、そのような判断も出来ない。日本人は、まず聖書を学ぶべきです。また、スエーデンボルグの著作も読むべきです。


2026年9月13日日曜日

「あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」 (マタイによる福音書 第 20 章) ( “So the last will be first, and the first will be last.”)



天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために、夜が明けると同時に、出かけて行くようなものである。
2 彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。
3 それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た。
4 そして、その人たちに言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』。
5 そこで、彼らは出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした。
6 五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った、『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』。
7 彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので、その人々に言った、『あなたがたも、ぶどう園に行きなさい』。
8 さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った、『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』。
9 そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった。
10 ところが、最初の人々がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに、彼らも一デナリずつもらっただけであった。
11 もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして
12 言った、『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは一日じゅう、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』。
13 そこで彼はそのひとりに答えて言った、『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか。
14 自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。
15 自分の物を自分がしたいようにするのは、当りまえではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』。
16 このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」。(マタイによる福音書 第 20 章)

20 “For the kingdom of heaven is like a landowner who went out early in the morning to hire workers for his vineyard. 2 He agreed to pay them a denarius[a] for the day and sent them into his vineyard.
3 “About nine in the morning he went out and saw others standing in the marketplace doing nothing. 4 He told them, ‘You also go and work in my vineyard, and I will pay you whatever is right.’ 5 So they went.
“He went out again about noon and about three in the afternoon and did the same thing. 6 About five in the afternoon he went out and found still others standing around. He asked them, ‘Why have you been standing here all day long doing nothing?’
7 “‘Because no one has hired us,’ they answered.
“He said to them, ‘You also go and work in my vineyard.’
8 “When evening came, the owner of the vineyard said to his foreman, ‘Call the workers and pay them their wages, beginning with the last ones hired and going on to the first.’
9 “The workers who were hired about five in the afternoon came and each received a denarius. 10 So when those came who were hired first, they expected to receive more. But each one of them also received a denarius. 11 When they received it, they began to grumble against the landowner. 12 ‘These who were hired last worked only one hour,’ they said, ‘and you have made them equal to us who have borne the burden of the work and the heat of the day.’
13 “But he answered one of them, ‘I am not being unfair to you, friend. Didn’t you agree to work for a denarius? 14 Take your pay and go. I want to give the one who was hired last the same as I gave you. 15 Don’t I have the right to do what I want with my own money? Or are you envious because I am generous?’
16 “So the last will be first, and the first will be last.”
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これは、「ぶどう園の労務者たち」の譬えとして知られている。「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という言葉の意味は、この世で稀に生じている不思議さを述べたものです。

何事も、目に見える順番は、絶対的なものではまく。目に見えない力によって、順序が覆されるのです。それが、神様による人間の運命への介入なのです。、

人の順番は、ある基準によって定められますが、その基準自体が人間の定めたものである限り、不完全なのです。その基準によって幸/不幸が決められるとき、神様はその結果に干渉されて、隠れた真理や状況に従って、ものごとを正され、順番を変えられるのです。

人間の定めた順番や自然の法則に従った運命では、神様の意図される人間の救済にはつながらないので。そのような法則に介入して、人間の順番を変え、結果の幸/不幸を変えられるのです。

例えば、悪魔に魂を売ってある順番で上位の位置を得ても、神様の教えに従った結果、遅れをとって下位に甘んじている者がいる場合、神様が上位の者より、さらに上位に上げようとされることがある。それが、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」という現象になる。

例えば、学校で一番の成績をとっても、世の中で評価されるのは最後の場合もあり、また、財産の獲得で一番多くの資産を得た者が、死後の霊界では全く最低の評価しか得られず、最貧の霊格しか得られないこともある。この世で多くの物質的な幸福を得た人間が、霊界では貧しい生活を強いられる。この世で外見的には、最も充実していた人間が、心の中では、お粗末な考えしかなく、霊的には劣った人間とされる場合もある。

逆に、十字架上で刑死した罪人とされる人間が、やがて世界を制覇する宗教を打ち立てることもある。それが、イエス・キリストなのです。最低の人間である刑死者が、最高の宗教の教祖とされたのです。まさに、世の中の評価で、一番下に置かれ、最後に評価される立場であった者が、一番上に置かれ、最初に評価される者になったのです。

神様の眼で見た評価は、悪魔の影響下のこの世での評価とは反対になる。この世では神様の教えに従って、貧しい生活をしていた者が、霊界では評価されて豊かな生活をするのに反して、この世で悪魔に魂を売って豊かな生活をしていた者は、霊界では神様の支配する霊界の基準によって、全く評価されずに、貧しさの苦労を味わせられる。

この世の評価、順番は、悪魔の影響を受けた世の中の都合で作られたものであり、絶対的な公正さはなく、そこで想定されていた状況を超える理由があれば、神様はその評価や順番に介入されて、先の者を後にし、後のものを先にされるのです。

これは、自然の法則についても、それが働くには多くの前提条件があり、隠れた因子があれば、法則は破られることを意味する。その隠れた因子を研究することで、新たな法則が見つかる。その最大の隠れた因子は、神様の起こされる奇跡なので、従来の科学的な知識では説明がつかない。しかし、その奇跡を説明できるような、新たな理論も神様は同時に授けられるので、それを見出すことが、本当の科学の発展になる。超能力や霊能力の研究は、科学的な手法では限界があるのは、このためです。科学で証明できないからといって、そのような力は存在しないことにはならない。

特に物質界は、霊界の下にあり、霊界の法則が物質界に入ってくれば、物質界を超えた力が物質界でも働くようになり、奇跡となって現れる。イエスがさまざまな奇跡を行ったのも、霊界の力を物質界に及ぼしたからです。

ただし、この世の利害、損得、好悪などに従っている者は、このような奇跡は起こせない。それは、想念によって精神力でこの世の現象に霊的な力を及ぼせるが、この世の欲を求める心では、正しく想念が働かないからです。

この世の順番、法則を破らねばならないと、神様がお考えになれば、それが覆るのです。

神の子のイエスには、それが理解できたので、人々に「(この世の自然界の現象や人間界の評価として)あとの者は(神様の介入があった場合は)先になり、先の者はあとになる」と教えられたのです。

しかし、なぜ神様が介入されるかは、全知全能で全善な神様への信仰心がなければ、理解できない。従って、このイエス・キリストの教えは、多くの神父、牧師、神学者でも理解されていない。

ただし、生きながら霊界を見た18世紀のスウェーデンボルグなどは、霊的に正しい解釈をしている。神様の直接支配される霊界では、悪魔の影響下のこの世での順番とは逆になっていることを見てきたらからです。


2026年9月12日土曜日

わたしが弱い時にこそ、わたしは強い (コリントの信徒への手紙二 第 12 章) (For when I am weak, then I am strong.)

 

2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。

3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)

2 I know a man in Christ who fourteen years ago was caught up to the third heaven. Whether it was in the body or out of the body I do not know—God knows. 3 And I know that this man—whether in the body or apart from the body I do not know, but God knows— 4 was caught up to paradise and heard inexpressible things, things that no one is permitted to tell. 5 I will boast about a man like that, but I will not boast about myself, except about my weaknesses. 6 Even if I should choose to boast, I would not be a fool, because I would be speaking the truth. But I refrain, so no one will think more of me than is warranted by what I do or say, 7 or because of these surpassingly great revelations. Therefore, in order to keep me from becoming conceited, I was given a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. 8 Three times I pleaded with the Lord to take it away from me. 9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
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Wikipediaによれば、この「コリントの信徒への手紙二 」は、「研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである」とされている。

「この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない」というのは、パウロが、まさに霊的な体験をしたことを述べている。

そして、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」と述べている。つまり、霊界の天国に生きたまま受け入れられたことを述べている。

キリスト教の初期の伝道は、このように霊的な体験によってけん引されていたことが分かる。

しかし、何よりも印象的なのは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と述べている箇所である。イエス・キリストを信じる者は、この世的な力、暴力、権力、知識の力、肩書などは使わない。この世の弱者として生きて、この世のエリートには逆らわす、悪意のある人からのさまざまな挑発にも乗らず、常に弱者として平和を求める。しかし、この弱さが神様の言葉に従って生きる強さを与え、愛と信仰にたよって生きる生きる宗教的な強さの源となる。

この世的には、弱いからこそ、誰にも脅威を与えないで、警戒されず、社会の弱者の中に入って行け、この世の弱者と真実の心の交わりができることになる。この弱さが、人間関係での強さを与え、信仰と愛の強さを示せるようになる。このような伝道者は、自分の弱さを隠すために、強者を演じることもなく、周囲に平和をもたらし、人々から強い信頼を得ることになる。

ただし、イエスは、信仰者は「人から見下されてはならない」と、信仰者としての威厳を示すように述べている。卑屈にならず、堂々と神様の教えに従って生きなければならない。つまり、この世の強者におもねたり、忖度することなく、また、媚びたり、機嫌を取ることもなく、富裕層やエリートにも人間同士としての正しい品格のある態度で接しなければならない。

生きて霊界の天国に入れたことが、その自身の源泉なのです。

18世紀の神秘家のスエーデンボルグが、キリストの霊によって、生きたまま霊界に受け入れられたように、パウロも生きたまま、霊界の天国に受け入れられたと思われる。この霊的な体験が、パウロの強さの源となり、この世のどんな苦難も耐えられ。誰よりも霊的に優れているとの自信が与えらえたのです。

今でも、臨死体験をした人は、死後の世界(霊界)を見たことで、密かな自信を得ている。この世で弱者であっても、霊界の真実を得ている隠れた強者として生きている。霊が与える強さは、この世的な強さを上回るのです。だから、肩書も、権力も、富もない弱者が、霊的な力でエリートや富裕層に対抗することができるのです。

それは、文明人が、暴力的な未開人を恐れないのと同じことです。文明社会の威力を知っている文明人は、暴力しか知らない未開人は恐れない。暴力的には弱い文明人が、本当は強いように、神様とイエス・キリストの信仰者は、この世の強者に負けることはない。精神力は、誰にも負けないのが、本当の信仰者なのです。

信仰者の強さの裏付けは、この世の地位や富ではなく、霊的な力なのです。

2026年9月11日金曜日

太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり・・・ (ヨハネの黙示録 第 8 章) (...a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark)


羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。
2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
7 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
8 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、
9 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。 (ヨハネの黙示録 第 8 章)

8 When he opened the seventh seal, there was silence in heaven for about half an hour.
2 And I saw the seven angels who stand before God, and seven trumpets were given to them.
3 Another angel, who had a golden censer, came and stood at the altar. He was given much incense to offer, with the prayers of all God’s people, on the golden altar in front of the throne. 4 The smoke of the incense, together with the prayers of God’s people, went up before God from the angel’s hand. 5 Then the angel took the censer, filled it with fire from the altar, and hurled it on the earth; and there came peals of thunder, rumblings, flashes of lightning and an earthquake.
6 Then the seven angels who had the seven trumpets prepared to sound them.
7 The first angel sounded his trumpet, and there came hail and fire mixed with blood, and it was hurled down on the earth. A third of the earth was burned up, a third of the trees were burned up, and all the green grass was burned up.
8 The second angel sounded his trumpet, and something like a huge mountain, all ablaze, was thrown into the sea. A third of the sea turned into blood, 9 a third of the living creatures in the sea died, and a third of the ships were destroyed.
10 The third angel sounded his trumpet, and a great star, blazing like a torch, fell from the sky on a third of the rivers and on the springs of water— 11 the name of the star is Wormwood.[a] A third of the waters turned bitter, and many people died from the waters that had become bitter.
12 The fourth angel sounded his trumpet, and a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark. A third of the day was without light, and also a third of the night.
13 As I watched, I heard an eagle that was flying in midair call out in a loud voice: “Woe! Woe! Woe to the inhabitants of the earth, because of the trumpet blasts about to be sounded by the other three angels!”

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この「ヨハネの黙示録」とは、Wikipediaによれば、「『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である」とされている。

その中で、最も印象的な部分が、この「苦よもぎ」がでてくるこの世の終末を予言した部分です。「にがよもぎ」とは、元々ロシア語のチェルノブイリニクというヨモギの一種と語呂が似ており、「チェルノブイリ原発事故」を意味していると考えらえています。

「第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて」という部分は、太陽が日本、月がイスラム諸国、星がヨーロッパとアメリカを表すと考えられる。第二大戦での日本の敗北、その後のイスラム諸国とイスラエルの紛争、そして、ヨーロッパやアメリカで始まる近未来の第三次世界大戦を意味しているのではないかと考えらえる。

ただし、「神のみまえに立っている七人の御使」は、まだ、第五、第六、第七のみ使いがいて、第三次世界大戦後も、人類の悲劇が続くと考えられる。第一から第二のみ使いは、1986年の「チェルノブイリ原発事故」以前の、第二次大戦までの世界の悲劇を表していると考えられる。

第四のみ使いからは、20世紀の予言になっていると考えるのが、霊的な「ヨハネの黙示録」の読み方です。

そもそも、なぜこのような予言の書と考えられる「ヨハネの黙示録」が、新約聖書の中に収められたのかは謎です。Wikipediaでは、「『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある」とされている。

また、キリスト教では、「最後の審判」という言葉がよく使われているが、AIでは、「最後の審判」とは「キリスト教で世界の終わりに神が人々を裁く場面を指す言葉です。救われる者と、そうでない者が分けられるという主題です」と述べており、「ヨハネの黙示録」を裏付ける教えとなっている。

18世紀の死後の霊界を見たというスウェーデンボルグによれば、人類は何度も神様によって審判を受けており、18世紀には霊界で「最後の審判」が行われ、人類の不信仰が一掃されたという。霊界の「最後の審判」は、2世紀くらい遅れてこの世の人類に現れるので、21世紀には人類社会に大きな変動が起こると考えられている。

実際に、人類の歴史は、2千年前にイエス・キリストがこの世に出現して以来、文明化が進み、18世紀以降の科学・技術の発展によって、20世紀には、人類は原子力技術を得て、人類滅亡の核戦争が心配されている。さらに、物質文明の暴走によって自然異常が生じて、地球の破壊が進んでいるとの見方もある。AIとコンピュータ技術の進展は、それを加速していると考えられる。

このような、人類の危機について、神の子のイエス・キリストが沈黙しているはずはない。2千年前からイエス・キリストは、今日の人類の悲劇を予測していてもおかしくなく、それを聖霊を用いて、「ヨハネの黙示録」として新約聖書に納めさせたのであろう。

聖書に書かれたイエスの奇跡を信じるように、「ヨハネの黙示録」に神様の意図を感じるのがキリスト教徒なのです。

さもなければ、この黙示録は、「不信仰者への警告を、おおげさな夢物語り」として記した書だということになる。そのような、無意味な書を新約聖書に含めるキリスト教は信用できない、ということになる。

しかし、敬虔なキリスト教徒であったスエーデンボルグは、「ヨハネの黙示録」を霊的な書だとして研究している。そして、人類の霊的な歴史を理解しなければならないと考えている。要するに、人類はアダムとイブの時代やノアの箱舟の時代から、霊的に堕落を続けて来たので、霊界や人間界を刷新し、霊的に浄化する必要があると考えられた神様は、何度も人類に審判を下され、「ヨハネの黙示録」は神様による人類社会の最後の浄化を表すものだということになる。

また、スウェーデンボルグと同時代のイギリスの科学者のニュートンは、独自の聖書の研究によって、「最後の審判」は2060年までは起こらないと書いていた。

いずれしても、21世紀に決定的なことが人類に生じると考えられる。

なお、宇宙人にUFOに連れ込まれた、リンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則は、宇宙人から2030年頃に、人類は決定的な運命に見舞われて文明の崩壊に向かうと警告されている。その他、世界中で宇宙人から警告を受けたという人は多い。宇宙人とキリスト教に関係があるとする説もある。

いずれにしても、「ヨハネの黙示録」がキリスト教の新約聖書の中に含まれていいることは、聖霊の働きによると考えれば、やはり、そこに霊的な意味を見出すのが正しい。

このようなキリスト教の内容を日本人は、その霊性に基づいて研究すべきなのです。それが、日本人に与えられた歴史的課題であり、それが日本の存在意義なのです。


2026年9月10日木曜日

「女よ、あなたの病気はなおった」 (ルカによる福音書 第 13 章) (“Woman, you are set free from your infirmity.”)


10 安息日に、ある会堂で教えておられると、
11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。 (ルカによる福音書 第 13 章)

10 On a Sabbath Jesus was teaching in one of the synagogues, 11 and a woman was there who had been crippled by a spirit for eighteen years. She was bent over and could not straighten up at all. 12 When Jesus saw her, he called her forward and said to her, “Woman, you are set free from your infirmity.” 13 Then he put his hands on her, and immediately she straightened up and praised God.

14 Indignant because Jesus had healed on the Sabbath, the synagogue leader said to the people, “There are six days for work. So come and be healed on those days, not on the Sabbath.”

15 The Lord answered him, “You hypocrites! Doesn’t each of you on the Sabbath untie your ox or donkey from the stall and lead it out to give it water? 16 Then should not this woman, a daughter of Abraham, whom Satan has kept bound for eighteen long years, be set free on the Sabbath day from what bound her?”

17 When he said this, all his opponents were humiliated, but the people were delighted with all the wonderful things he was doing.
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これは、イエス・キリストが心霊治療を行った話です。

いわゆる「手かざし」で、イエスが病の女性に「手をその上に置かれ」て「あなたの病気はなおった」と言われたときに、その女性の病は癒されたのです。そして、その女性が病になったのは、「サタンに縛られていた」からだと述べられたのです。

しかし、ユダヤ教の会堂司は、「安息日には」病の治しはできない、と言って、自分たちの宗教的権威をひけらかして、病の女性を放置していた。それを、イエスは責めたのです。サタン,つまり悪魔との戦いは安息日でも、放置することはできないのです。

いかにイエスが霊的能力と権威をもっていたかを物語っているエピソードです。従って、イエスの弟子たちにも、霊的能力があり、病の癒しはできたものと思われる。イエスの教えが、人々に受け入れられたのは、この心霊治療の効果が大きい。日本でも、聖者と呼ばれる人は、心霊治療が出来ることが常識だった。ただし、天皇神道の頂点にいる天皇が心霊治療ができたという話しは、古代でもほとんどない。仏教の名僧には、心霊治療ができたと言われる空海などの霊能力者がいたが、厳しい修行が必要だったと言われる。

ただし、厳しい修行をしないでも、神様がその人の霊的状況を見て、霊能力を与えてくれる場合には、本人も説明できないままに、心霊治療ができる場合もある。普通の生活をしていた高塚光も、サラリーマン超能力者となって、心霊治療ができたのは、この場合にあてはまる。ただし、その人間の霊的状態が変われば、神様がその力を取り去る場合もある。

宗教は、霊界に通じる霊能者がいなければ成り立たない。しかし、そこにトリックや魔術と呼ばれる悪魔の力を借りて人々を惑わす者が出てくる場合もある。イエス・キリストは、そのようなニセ予言者などを警戒せよと述べておられる。イエスの時代から、インチキ霊能者はいたのです。彼らの中には、悪魔に魂を売って、悪魔から霊能力を得ている者もいる。霊能力があるからと言って、神様とつながっているとは言えない。だから、カトリックでは、霊能者を聖者と認定するのに、時間をかけて厳しく審査をする。悪魔とつながったものでも、場合によっては心霊治療ができる。

聖書の福音書は、イエス・キリストの霊的力を記したものだが、単なる言行録ではなく、神様の真理と愛の力を、イエス・キリストが表すことができたという信仰を強める書物でもある。だから、聖書には霊能力が宿っていると考えられる。仏教の仏典や神道の祝詞のような、霊能力がキリスト教の聖書にもあると考えるべきです。

そもそも、キリスト教は、言葉は神様から来たという教義から成り立っている。聖書に親しむことで、読者も霊能力が与えられるのです。従って、イエスのように心霊治療が神様から与えらえることも可能なのです。実際に、イギリス、フィリピンやブラジルなどの心霊治療家は敬虔なキリスト教信者が多い。

これは、言葉には霊能力があるという仏教や神道の考えとも一致する。また、日本の修験道などでも、呪文の力を利用している。言葉は言霊(ことだま)と呼ばれて霊能力があると考えるのが、日本人の霊性の特徴なのです。また、お経などは、意味が分からなくても、その音を聞くだけでも効果があるとされ、神道では日本語の音のそれぞれに意味があるとされる。キリスト教で聖歌が好まれるのは、やはり、霊的効果があるからです。音楽は、その心に与える効果を楽しむだけのものではなく、霊的効果を生み出すものでもあるのです。

病の女性に「あなたの病気はなおった」とイエス・キリストが言葉をかけたことにも意味がある。言葉が、霊的な力を運ぶのです。

東大医学部卒の故・塩谷信男は、願ったことを「断言」することで、宇宙の力を得ることができると述べたが、言葉の力は大きいことは、心霊研究者にはよく知られている。だから、宗教家は冗談などは好まない。悪魔が冗談に入り込むと考えるべきです。人生も冗談で生きる者はいない。人生は真剣に生きるものであり、聖霊に導かれて生きるのが正しいのです。

アメリカの医学の研究でも、言葉を使った祈りの治療効果が認められている。願いを込めた言葉と祈りには、霊的効果があり、物質界にも影響が出るのです。ただし、スポーツでファンが応援するチームの勝利を祈っても、神様がすぐに応えることはない。その勝利に、信仰の意味がなければ、そのような祈りは無意味なのです。

また、先の日米戦争では、天皇神道を信じる日本人がどんなに祈っても、キリスト教を信じるアメリカ人に勝てず、戦後は天皇家も神道的性格を隠すようになった。そして、現上皇はキリスト教系の大学の卒業生を妻に迎え、今の天皇はキリスト教国のイギリスに留学している。神道の伝統から言えば、考えられないことです。天皇家はキリスト教を認めていることになる。しかし、日本人を管理するには、神道の伝統に効果があるので、天皇家はキリスト教を公式には取り入れない。かつては、仏教を公式に取り入れたことがあるのだから、天皇家が今、キリスト教を取りれても問題はない。ただし、それでは天皇家に霊能力がないことを明白に認めることになるので、体面上もできないのです。

しかし、天皇家よりも国民の方が大事なので、日本人は世界の主流のキリスト教を学び、聖書を読んで霊能力を身に着け、心霊治療ができるようになるべきです。


2026年9月8日火曜日

「人をさばくな。自分がさばかれないためである」 (マタイによる福音書 第 7 章) (“Do not judge, or you too will be judged.")


人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイによる福音書 第 7 章)

7 “Do not judge, or you too will be judged. 2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? 4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
6 “Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and turn and tear you to pieces.
7 “Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. 8 For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened.
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これは、イエス・キリストによる教えの中でも、基本となる印象的な言葉です。

しかし、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」という簡単な教えすら、守って生きているキリスト教徒はほとんどいないのが現状です。実際、現代社会で裁判制度を支持しないキリスト教徒はいない。

法律的な問題でなくても、人間には、必ず自分の思いが叶わないことがある。そして、その阻害要因が他人にあると判断すれば、その他人を恨み、できれば復讐しようとする。そして、復讐された側は、それを恨みに思い、逆に復讐しようとする。逆襲された側は、再度、相手を攻撃する。この復讐の連鎖はどこまでも続く。この復讐劇の出発点は、最初に「人をさばいた」ことにある。だから、イエスは「人を裁くな」と仰ったのです。

特に、悪魔は、人間に間違った判断をさせ、無実の人間を攻撃させることを好む。そして、人間社会を混乱させようとしているから、それを避けるために、軽々しく人を裁くな、ということも意味する。

また、兄弟に非があると判断すれば、兄弟げんかが始まる。たいていは、兄弟の過ちを過大に評価し、責任を兄弟になすりつける。しかし、公平に見れば、兄弟の非は目の中の「ちりやほこり」程度のものであり、自分の方には建物の大きな「はり」ほどの責任があることも多い。だから、「塵や埃」よりも大きな「梁」を見よと教えておられる。つまり、兄弟を責めてはならない、ということです。

「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」というのは、動物と人間の霊格の違いを明らかにしている。本能に従って生きる動物には善悪の区別はない。また、清濁の区別もない。さらに、聖邪の区別もない。ただ、暴力的な力と食欲の大きさだけが理解できる。従って、動物の霊格は決して人間の上にはならない。特に家畜やペットは。人間によって思い通りに飼いならされるが、飼い主を道徳的に判断することもできない。

そのような、動物に「聖なるもの」を与えても無意味だし、「真珠」のような宝物を与えても感謝しない。また、人間には心が腐敗・堕落し、動物なみの心を持っ者もいる。そのような状態の人間に、聖なるものを与えたり、宝物を与えるのは無駄であり、また、時には有害となる。だから、「犬」や「豚」なみの心しかない人間には、宗教的な教えが分かったり。経済的な本当の価値が理解できると思ってはならない、ということです。

むしろ、逆に「犬」や「豚」は、「それらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」と述べて、恩を仇で返すようなことをする、と教えておられる。つまり、「犬」や「豚」の心に悪霊が入り込み、心を許した人間を攻撃する。だから、信仰心のない人間には聖なる話や、救いの言葉をかけてはいけない、という教えになる。そのような動物並みの心しかない人間は警戒せよということです。自然に生きる動物は、聖なるものや人間の宝物には無関心だが、人間の世界に入り込んだ家畜やペットは、むしろ、自然の中にはない人間の宗教や宝物に反感を持つ、ということであり、悪魔に魂を売った人間は聖なるものには反感をもつということです。ただし、これは動物虐待のような取り扱いを認めるものではない。自然を愛する人間の心は、動物にも向けられるべきです。それでも、イエスや弟子たちが、動物のペットを持っていなかったことを忘れてはならない。

つまり、不信仰者を扱うには、専門の宗教的訓練を受けた聖職者が必要になる。「犬使い」や「豚使い」のような専門家が必要です。これは、教育を受ける子供たちには、専門の教師が必要なことに通じる。また、根っからの悪人を扱うには、専門の取締官が必要になる。要するに、人間を軽々しく扱ってはならないのです。子供を育てることの重要さは、この問題に関係する。

しかし、イエスの教えは、人々に希望を与えるものであり、人生訓のような忠告のあとに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と述べて、信仰者が神様に願えば、願えごとは叶うと教えておられる。また、「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる」と、信仰者は積極的に生きていくべきことを教えておられる。

「求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」というのは、信仰者だけでなく。全ての人間の共通の運命なのです。つまり、人間は心をこめて求めれば、それに世の中がこたえるようにできているのです。人間の意欲、想念のもつ力は大きいのです。ただし、信仰心がなければ、与えらえたことも理解できないし、門を開けてもらったことにも気が付かないことがある。

「求める」エネルギーや「探す」エネルギーは、周辺の状況に働きかけ、それに対応するように環境が変わるのです。そもそも、子供が食事を求めるのを無視するような親はいない。学生が志望して入学してくれば、それにこたえるのが学校です。また、仕事を求めて入社してきた人間には、仕事を与えるのが会社なのです。一人の人間の精神的エネルギーは、この世や霊界を動かすほどの力を持つのです。その例が、世界宗教を打ち立てたイエス・キリストの心なのです。

また、人間が、この世で信仰心に従って、生きようという意欲を見せれば、それに応えるのが神様、聖霊、天使なのです。

このイエス・キリストの前半の教えや忠告に従う信者には、後半の希望の言葉が与えられるのです。

ただし、悪の世界も同様です。悪事を愛する者には、悪魔が扉を開いてくれる。善や愛を憎むものには、腐敗や堕落への道が開き、地獄への道が開くのです。悪魔も大きな想念を持っている。これは、警戒すべきです。ただし、天使の力の前には悪魔は無力です。

要するに、天国を愛する者には、天国への道が開かれ、地獄を愛する者には、地獄への道が開かれるのです。この世は、天国を願う者と地獄を好む者が混在する世界なのです。ただし、死後は両者の世界は明確に分かれ、合い交わることはない。神様は、悪魔と同じところにはおられないのです。