3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕(ヨハネによる福音書 第 8 章)
3 The teachers of the law and the Pharisees brought in a woman caught in adultery. They made her stand before the group 4 and said to Jesus, “Teacher, this woman was caught in the act of adultery. 5 In the Law Moses commanded us to stone such women. Now what do you say?” 6 They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him.
But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger. 7 When they kept on questioning him, he straightened up and said to them, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone at her.” 8 Again he stooped down and wrote on the ground.
9 At this, those who heard began to go away one at a time, the older ones first, until only Jesus was left, with the woman still standing there. 10 Jesus straightened up and asked her, “Woman, where are they? Has no one condemned you?”
11 “No one, sir,” she said.
“Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”
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これは、「姦淫の女」と呼ばれる、福音書でイエス・キリストの憐みが最もよく現れた箇所です。
Wikipediaでは、「罪を犯しながらイエスに許されるこの女もまた、マグダラのマリアに重ねられることも多い。 キリストを描いた映画には好んでこの逸話が挿入される。たとえば『偉大な生涯の物語』(1965年)は、これをマグダラのマリアを紹介するシーンとして使っている。このため、この女性こそマグダラのマリアであると誤解する人が多いが、これが教義として教えられてきたわけではない」とされている。
ある意味で、劇的な情景です。律法学者たちやファリサイ派の人々が、「姦通の現場で捕らえられた女」を連れて来たが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったことで、誰もがその場から立ち去り、その女さけが残されたというのは、映画のワンシーンのような情景です。
そして、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という言葉は、律法学者たちやファリサイ派の人々だけでなく、その女自身が感銘を受けた言葉だったのだろう。石打ちの刑で殺されるかも知れないと思っていたのに、イエスによって命を助けられたのです。それは、神様が許しを与えたということを意味するので、大きな感激を受けたのだろう。そして、以降はその女は生き方を変えたと思われる。
イエス・キリストが世に現れる以前には、このように宗教的な罪を犯したものは、石打ちの刑で殺されるという残酷なことが行われていた。しかし、キリスト教が広まるにつれ、人間社会からそのような残酷さは亡くなって行くことになる。実際、今の日本国憲法の人道主義のルーツは、憲法の基礎となったキリスト教精神のお陰なのです。また、言論の自由や宗教・思想の自由、政治的な立場の自由なども全て憲法の基礎となったキリスト教に負うているのです。
それよりも、悪魔が律法学者たちやファリサイ派の人々を使って、イエスを困らせ、イエスに石打の刑の片棒をかつがせ、イエスが宗教の名による残酷な刑を認めたという事実を作るか、又は、その女を助けて、宗教の掟を無視した異端者だとの評判をとるようにさせた。悪魔は、いずれにしても、イエス・キリストの宗教改革者としての評判を落とそうと考えたのです。
しかし、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いて」、律法学者たちやファリサイ派の人々が落ち着くの待ち、彼らに思わぬ言葉をかけた。宗教の名で罪の女を罰するのなら、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉です。実際、ユダヤ教の教えを何から何まで守って生きている人間はいない。それを、イエスや律法学者たちやファリサイ派の人々自身が一番よく知っている。石打ちでその女を殺した後で、自分も罪人なのに弱い女を宗教の名で殺したことが、明らかになれば、ユダヤ社会から問題にされる。少なくとも、自信を持って「自分は立派なユダヤ教徒だ」とは、言えなくなる。一人の女を殺したがために、自分たちの評判に傷がつくことは受け入れれない。
また、それが残酷な行いであることは、本人たちが百も承知しており、イエスの言葉で我に返り、女を残して立ち去らざるを得なかった。女を殺した後で、イエスから自分たちの宗教的な罪を明らかにされる恐怖心があった。ただし、イエスが、地面に何を書いていたのかは明らかにされていない。
AIでは、「姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられたとき、イエスはまず地面に書き、その後に罪のない者が最初に石を投げなさいと言い、さらにもう一度かがんで地面に書きました。けれども、書いた内容そのものは説明されていません。(search.biblegateway.com)」とされている。
もしかしたら。イエス・キリストは、各人が犯している罪を地面に書いていたのかも知れない。それを、イエスに公表されれば、彼らの評判は地に落ちるし、最悪の場合は、自分たちも石打ちの刑で殺される。彼らは、イエスが自分たちの罪を知っていることに恐怖し、逃げるようにその場を去ったのかも知れない。
いづれしても、彼らはユダヤ教の祭司たちを呼んだりはしなかった。イエスとその女を残して全員が立ち去ったという事実に、彼らがイエス・キリストの霊的な力を見たことが示されている。
イエスは、そういう人間の持つ残酷さが、悪魔の影響であることを認めて、その悪魔の影響から人々を解放しようとしたのです。そのためには、罪を犯した女を許し、怒る人々に理性を散り戻させることが必要だった。女は、「わたしもあなたを罰しない」というイエスの言葉で助けられただけでなく、人々がイエスを恐れるように立ち去ったのを見て、イエスの持つ力を感じたのだろう。人々は、神様の愛とは何かを教えらえた気がして立ち去り、自分たちは悪魔に支配されていると感じたに違いない。
だから、イエス・キリストが地面に書いていたのは、宗教の名で女を殺そうとする人間たちの、宗教的な罪だったと考えられる。それを福音書に書けば、人々が皆、石打ちにされても仕方がない罪人であることが明らかになるので、福音書にも書けなかったのだろう。
このように、書かれない真実は多い。しかし、聖書の福音書は出来るだけ、イエス・キリストにまつわる出来事の真実が書かれていると考えられる。それは、まさに聖霊が天から下って、福音書の作者にくだったからだと考えられる。
今でも、霊感に駆られて文字を書く霊能者や霊媒もいる。2千年間、人々に読まれ続けた聖書は、やはり、そのような霊界からの助けによって書かれたものだと思われる。だから、いくら研究しても、聖書の力は解き明かされない。それでも、本人の宗教には関係なく、聖書を研究することが、今の日本人には必要なのです。