2026年8月21日金曜日

「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」 (マルコによる福音書 第 10 章) (It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”)

 

23 それから、イエスは見まわして、弟子たちに言われた、「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」。

24 弟子たちはこの言葉に驚き怪しんだ。イエスは更に言われた、「子たちよ、神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう。
25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
26 すると彼らはますます驚いて、互に言った、「それでは、だれが救われることができるのだろう」。
27 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはできないが、神にはできる。神はなんでもできるからである」。 (マルコによる福音書 第 10 章)

23 Jesus looked around and said to his disciples, “How hard it is for the rich to enter the kingdom of God!”
24 The disciples were amazed at his words. But Jesus said again, “Children, how hard it is to enter the kingdom of God! 25 It is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
26 The disciples were even more amazed, and said to each other, “Who then can be saved?”
27 Jesus looked at them and said, “With man this is impossible, but not with God; all things are possible with God.”
+++ +++ +++

これは、貧富についてのイエス・キリストの言葉です。

「財産のある者が神の国にはいるのは、なんとむずかしいことであろう」というのが、イエスの率直な言葉です。宗教者が、貧富についてこれほど明確に述べた例はないと思います。

ただし、ブッダも人々に全ての執着心を捨てよと述べて、富に対する執着を捨てることを勧めておられる。他方、現代にいたるまで、宗教の教祖、宗教団体のトップなどは、豊かな生活をしていると人々に思われている。また、実際に巨額の布施や寄付金を集めて無税で贅沢な生活をしている宗教の教祖や団体のトップは多い。

例えば、政府が天皇神道を強制していた戦前には、天皇は物質的、経済的に何不自由のない生活をしていたし、巨額の資産を持っており、戦後も政府の予算から巨額の経済的援助を受けている。天皇が、個人的には質素な生をしていると言っても、巨額の資金を政府から得られるという前提があり、天皇という日本社会で最高の地位を法的に保証された上で、人々に富を見せつける必要のない環境での質素さてあり、本当の貧しさではない。

むしろ、質素な生活をすることで、一般国民(貧しい者が多い)の尊敬を得ようという意図が見える。質素さや、貧しさの意味が分かっていれば、天皇という地位を捨てて、一般人として生きていくべきです。いづれにしても、事実上、戦前のように、今も天皇は天皇神道の教祖なのです。

日本が80年以上前に、日米戦争や日中戦争を始めたのも、当時は皇帝という主権者の地位にあった天皇が、戦争を禁じなかったからです。法的には、当時の主権者(天皇)の責任です。軍人や政治家、一般人には当時は主権はなかったのです。だから、当時の軍部は天皇を洗脳して軍国主義を受け入れさせ、日米戦争やや日中戦争に突入していったのです。そして、300万人という国民が戦争で命を失い、それ以上のアジアの人々に犠牲を出した。しかも、昭和天皇は占領軍の総司令官のマッカーサー元帥の寛大な処置によって生き永らえ、戦後も国家の象徴と言う日本社会の最高の地位にある。天皇がかつての日本の主権者として、戦争被害にあった国民に謝罪したことは一度もない。天皇は軍部に操られていただけだという考えが一般的になっている。しかし、真実は、戦前は天皇は日本の主権者として権力を行使できる地位にあったのです。人の良い国民につけこんで、今も事実上の最高権力を主有している。天皇がテレビで「某国との戦争もやむなし」と言えば、また戦争が生じる可能性がある。天皇の扱いが戦後の日本の最大の課題だったのに、国民は天皇マジックで沈黙させられている。これが、戦後の日本の最大の課題なのです(だから、本当に霊能力を持った人物を新天皇に選ぶべきだということになる(現在の天皇家は旧天皇家として優遇するとしても))。

マッカーサー元帥との関係でいえば、天皇家は1500年にわたって政治的権力者の武家のトップを、宗教的権威で懐柔して来た歴史があり、新たな日本の権力者となった米軍のマッカーサー元帥に取り入る手練手管は、心得ていたと思われる。「自分は殺されてもよいが、国民は救ってやってくれ」と、天皇は元帥に言ったというが、それが本等の気持ちなら、まず天皇位を退位するのが本当だった。ただの、一人の日本人として戦争責任に向き合うべきであり、元帥にそういう大芝居を打つ必要はなかった。元帥はそれを見抜いていたとしても、天皇の日本人に対する影響力を考慮して天皇を処分することはなかった。

(ただし、元帥は、天皇から皇帝としての権力は、はく奪する新憲法を日本に与えることにした。これが、戦後の民主主義日本の始まりなのです。キリスト教徒のマッカーサー元帥が作った国になったと言える。日本の支配者が、天皇を利用した旧軍部から、天皇を管理するアメリカ軍に変わったのです。キリスト教の光で、日本人の心は照らされ、自由が人々に与えられたのです。)

なお、この天皇の言葉は、当時、まだ天皇家による洗脳から抜け出せない国民は騙せても、キリスト教の教育を受けてきた元帥には、本当は通用しない言葉です。天皇は元帥に金融証券などを差し出して、「これを国民のために使ってくれ」と言ったと言われているが、本当に敗戦して貧困の中に投げ出された国民を救う気持ちがあれば、自ら国民に与えるべきだった。戦争被害者を皇居に招くべきだった。しかし、天皇家は戦後は自らの生き残りに専心していたのです。

天皇家の最大の課題は、「生き残ること」です。過去の1500年間にわたって、日本の政治的権力者をうまく扱って成功して来たので、天皇家には権力者を扱う豊富なノウハウがある。キリスト教徒のアメリカ人のマッカーサー元帥に対しては、皇太子の家庭教師としてアメリカ人の女性を選び、またその結婚相手にキリスト教系の大学出身者の女性を選ぶなどして、皇室がキリスト教を受け入れる姿勢を見せて、元帥を安心させている。

一時は、国民の間にもキリスト教ブームが起きたが、やがて、元帥がアメリカの大統領に解任されると、皇室もアメリカの最高権力者は占領軍の司令官ではないことに気づき、日本を去る元帥を見送りもせず、「生き残り戦略」のターゲットをアメリカの大統領に向けるようになった。この1950年台の影響が今も続いており、天皇家は自分たちの生存を保証するのは、アメリカ大統領との友好関係だと理解するようになった。今でも、アメリカ大統領が、先の戦争における天皇の責任を持ち出せば、たちどころに天皇家の権威は失墜する。

まだ、天皇洗脳から抜けきれない日本人は「天皇が日米戦争で苦労して、戦後の新憲法を導入した」と勘違いしているが、天皇は新憲法の成立とは関係がない。命を失うことを心配していた天皇は、「象徴」という地位を、憲法で保障されれば、安心して新憲法を受け入れる気持ちになったのであり、戦前は神格を持った存在として国民の上に立っていたのに、アメリカによる生存保証が得られると分かった時点で「人間宣言」を行い、ただの日本人の一人であるという、当たり前のことを認め、アメリカ政府を安心させた。これは、「もう二度と宗教的権威で国民をアメリカと戦わせることはしません」というアメリカへのメッセージだった。

戦後は、アメリカのキリスト教精神に裏付けられたアメリカ式の民主主義を基盤とする日本国憲法のもとで、日本は平和と繁栄を謳歌し、現在にいたっている。だから、日本人はアメリカに特別な親近感を今も持っている。ただし、これはアメリカの政治力や軍事力のお陰ではなく、アメリカのキリスト教のお陰なのです。

真摯なキリスト教徒の多いアメリカは、キリスト教の威力によって現在も世界の文明を主導し、政治、経済、軍事、文化の点で人類を代表している。ただし、悪魔はアメリカ社会にも入り込み、アメリカのキリスト教は混乱し、文化は反キリスト的な様相も見せている。それでも、オバマやトランプの人気は、キリスト教と関係がある。今でも、アメリカの大統領は、宣誓式で聖書に手をあてて神様に忠誠を誓って大統領職に就任する(ローマ法王に誓うわけではない)。

天皇家を頂点とする日本のエリートや支配層は、そこまでは、キリスト教の神は受け入れられない。日本国民を管理、支配するには、まだ天皇神道が必要だと分かっており、伝統的な神道の精神がまだ重んじられている。

日本社会では、有名人がさらに評価を高め、安全を得るには天皇礼賛が最も効果がある。だから、著名人には天皇崇拝者が多い。

しかし、現在の日本社会の本当の基盤は、現憲法であり、その憲法はキリスト教精神に基づくものなのです。そういう日本の社会は準キリスト教国だとして欧米で認めらており、G7という世界のリーダーの中に日本も選ばれている。伝統的な日本的霊性と合わせて、キリスト教の威力が発揮されているのが現在の日本なのです。つまり、日本人は、神道や仏教の神仏を否定する必要はなく、キリスト教の理解を深めることが求められている。全ては霊的な世界で統一されるのです。

そのキリスト教は、本当は「物質的な富を否定し、かつ、貧しさから人々を救う」宗教だということを、日本人は、改めて理解する必要があるのです。


2026年8月20日木曜日

このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。 (使徒言行録 第 11 章) (The disciples were called Christians first at Antioch.)



 22 このうわさがエルサレムにある教会に伝わってきたので、教会はバルナバをアンテオケにつかわした。

23 彼は、そこに着いて、神のめぐみを見てよろこび、主に対する信仰を揺るがない心で持ちつづけるようにと、みんなの者を励ました。
24 彼は聖霊と信仰とに満ちた立派な人であったからである。こうして主に加わる人々が、大ぜいになった。
25 そこでバルナバはサウロを捜しにタルソへ出かけて行き、
26 彼を見つけたうえ、アンテオケに連れて帰った。ふたりは、まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた。このアンテオケで初めて、弟子たちがクリスチャンと呼ばれるようになった。
27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケにくだってきた。
28 その中のひとりであるアガボという者が立って、世界中に大ききんが起るだろうと、御霊によって預言したところ、果してそれがクラウデオ帝の時に起った。
29 そこで弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに援助を送ることに決めた。
30 そして、それをバルナバとサウロとの手に託して、長老たちに送りとどけた。(使徒言行録 第 11 章)

22 News of this reached the church in Jerusalem, and they sent Barnabas to Antioch. 23 When he arrived and saw what the grace of God had done, he was glad and encouraged them all to remain true to the Lord with all their hearts. 24 He was a good man, full of the Holy Spirit and faith, and a great number of people were brought to the Lord.

25 Then Barnabas went to Tarsus to look for Saul, 26 and when he found him, he brought him to Antioch. So for a whole year Barnabas and Saul met with the church and taught great numbers of people. The disciples were called Christians first at Antioch.

27 During this time some prophets came down from Jerusalem to Antioch. 28 One of them, named Agabus, stood up and through the Spirit predicted that a severe famine would spread over the entire Roman world. (This happened during the reign of Claudius.) 29 The disciples, as each one was able, decided to provide help for the brothers and sisters living in Judea. 30 This they did, sending their gift to the elders by Barnabas and Saul.
+++ +++ +++

これは、イエス・キリストの教えを信じる者が、「クリスチャンと呼ばれるようになった」ときの経緯を述べている。

「聖霊と信仰とに満ちた立派な人」が、「まる一年、ともどもに教会で集まりをし、大ぜいの人々を教えた」ので、その効果が現れてクリスチャンと呼ばれるようになったのです。このように、初期教会は、立派な信徒が時間をかけて人々に説教をしたので、信者が増えていったのです。そして、困窮にある信仰の兄弟たちに、「援助を送る」ようになり、隣人愛が発揮されるようになった。

イエス・キリストの十字架上での刑死後、弟子たちが熱心にイエスの教えを説いたことが、キリスト教の出発点となったのです。そして、互いに助け合うことが、キリスト教会の初期から実践されていた。

ただし、この背後には聖霊に満ちた弟子たちの活躍がある。「聖霊と信仰とに満ち」ることが、天からの助けを得る条件になっている。「聖霊と信仰とに満ち」れば、神様が天使を助けとして送って下さる、ということです。人間の努力だけでは、イエス・キリストの教えは広まらなかった。霊的な助けが伝道には必要なのです。

今の日本でも、さまざまな新宗教が活躍しているが、その教祖たちに霊的な力が働いていなければ、人々は信用しない。宗教とは、霊的な力の働きなのです。ただし、悪魔も霊であり、霊的な力を持っている。教祖たちが、神様の霊に従っているのか、悪魔の霊力に従っているのかを、人々は判断しなければならない。

そこで働くのが、人間が生まれつき持っている善悪の判断です。聖書には、「神は全知全能にして、かつ、全善である」とされている。神様は善であり、悪魔は悪なのです。そして、この道徳的な善悪の違いが、人間の死後の行先が天国になるか、地獄になるかを決めるのです。霊界は、お花畑のような世界だけではなく、究極的には善悪の違いが問われる世界なのです。そして、神様の与える善を追求した者は、愛と真理に満ちた天国に入ることが許される。

他方、悪を受け入れた者は、憎しみと虚偽に満ちた地獄に行くことになる。地獄は、死後の霊が自ら愛と真理に満ちた天国を嫌って行くところなのです。それは、神様が与える罰ではなく、霊が自ら進んで行く所なのです。

しかし、地獄には悪魔が人間の霊を支配しようと待っている。悪魔は人間の霊を苦しめることを喜びとしており、地獄に来た霊たちを苦しめる。そのことが、地獄の苦しみの原因となっている。神様が、人間を罰するために作った世界ではなく、悪魔が人間の霊を扱って、苦しみを与える世界であり、それでも、天国の愛と真理に耐えられない人間の霊は、好んで地獄に行くのです。

なお、霊界では、この世の物質界のような物質的な制限はない。想念で成り立つ世界であり、霊が考えたことは、直ちに実現する。空間や時間の制約はない。だから、カネの力でモノを手に入れる必要はない。誰でも、霊になれば、物質的な富は入手できる。しかし、その物質的な効果はない。所有すること自体の満足感はない。誰でも、大金持ちになれれば、物質的な富は力を失う。問題は、モノに対する所有欲ではなく、他の霊を富で支配したいという欲望になる。つまり、他の霊に対する愛のなさが核心になる。権力も同様です。他の霊に対するむきだしの支配欲が核心になる。地獄では、人間の霊は他の霊を霊的な力で支配しようとしあっている。それは、霊同士の格闘です。まさに、愛なき世界の戦いであり、その世界を支配しているのが悪魔なのです。その意味で、地獄にいる人間の霊にとって、悪魔は彼らの神なのです。

それが、物質界のこの世にも反映し、カネという悪魔の小道具を崇拝し、事実上、悪魔を神として崇める拝金主義が横行し、カネの力で権力を握った者は、隣人に冷酷な扱いをする。憎しみを愛する世界になる。だから、この世では隣人に対する冷酷さがほめられる。ホームレスや貧乏人に厳しく当たることで、悪魔に喜んでもらおうとする。そこでは、他人に対する冷酷さが「かっこいい」として称賛される。エリートや富裕層は、貧しい隣人に冷たくすることで、悪魔に喜んでもらおうとする。これは、真実の神様に従うものから見れば狂気の世界です。

人間は、カネを求める欲に従って物質文明を追求してきた。つまり、悪魔への信仰によって物質文明を発展させて来たので、神様の怒りを買っており、イエス・キリストに見捨てられれば、たちどころに、物質文明は崩壊し、人類は死後の霊界で地獄に行くしかなくなる。それを憐れんだのが、聖母マリアだということになる。他方、悪魔は人間が亡びるのを見て喜ぶ、悪魔はいづれ神様に滅ぼされるのが分かっており、できるだけ多くの人間の霊を道連れにしたいと思っている。

悪魔は、カネで人間を幸福にするように見えながら、それは、偽りの幸福であり、最後には人間を霊的に破滅させて、人間を苦しめて喜ぶ。霊界の天使たちも、そのように悪に従った人間の霊は見捨てる。つまり、地獄に行く悪人の霊は、悪魔に支配され、苦しめられ、他方、天国の天使からは見捨てられ、真理や愛の光のない闇の中で消えて行くことになる。そして、最後は悪魔自身も神様に滅ぼされる。彼らの後には、無だけが残る。

他方、天国に受け入れられた善人の霊は、そこで永遠の命を与えられ、永遠の霊的な幸福を享受できる。これが、イエス・キリストを信じる者の信仰なのです。

つまり、善なる神様から永遠の存在の保証を得るのが、本当のキリスト教の信仰なのです。


2026年8月19日水曜日

「しかし、あなたがたはこの世のものではない」 (ヨハネによる福音書 第 15 章) (As it is, you do not belong to the world)

 

18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。

19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。(ヨハネによる福音書 第 15 章)

18 “If the world hates you, keep in mind that it hated me first. 19 If you belonged to the world, it would love you as its own. As it is, you do not belong to the world, but I have chosen you out of the world. That is why the world hates you. 20 Remember what I told you: ‘A servant is not greater than his master.’ If they persecuted me, they will persecute you also. If they obeyed my teaching, they will obey yours also. 21 They will treat you this way because of my name, for they do not know the one who sent me.
+++ +++ +++

これは、イエス・キリストが、弟子たちに、この世で生きていくための基本的な考え方を教えた言葉です。

「あなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎む」というのは、イエスの弟子たちは、悪魔の影響下のこの世のものではなく、霊界の天国の神様から遣わされた神様の子のイエスによって、霊界の天国の精神を与えられ、もはやこの世の悪魔の影響を受けなくなった存在だということです。

この世の人々は、自分たちとは違った存在だとして。イエスの弟子を判断し、単に違和感を持つだけでなく、敵意を持っているということを教えたのです。

それは、神様を憎む悪魔の精神が反映しているからです。悪魔は、イエス・キリストが神様の子であることを知っており、イエスの名を聞いただけでイエスやその弟子を憎む。また、悪魔に追随する者も、イエス・キリストを遣わされたのが、真実の神様だということも知らず、悪魔を神だと崇めて、イエスやその弟子を迫害する。まさに、神様よりカネ(悪魔)を選んだ連中なのです。

つまり、イエスの弟子たちは、悪魔に従う狼の群れの中に、子羊が入って行くようなものだと教えらえたのです。

或いは、武装したテロリストの中に、一般市民が入って行くようなものだと言われたのです。或いは、凶悪な犯罪者の群れに、無力な市民が入って行くようなものだと、教えられたのです。又は、詐欺師の群れの中に善良な市民が入って行くようなものだ、ということです。

これでは、弟子たちは狼に食い殺される。或いは、凶悪な犯罪者の犠牲者になる。しかし、神様はイエスの弟子たちを見捨てない。悪魔に勝る霊能力をもったイエスや聖母マリア、さまざまな天使を信者におくって守らせることができる。悪魔と比較にならない強力な神様が、イエスの弟子の背後にいることを、悪魔やその手先が気が付けば、彼らは手を出さないだろうが、悪魔やその手先は愚かであり、そのことには気づかずに、自分たちに逆らう者だとしてイエスの弟子たちを攻撃する。

彼らには、もはや理由などいらない。イエスの臭いがするので、攻撃するようなものです。カネという悪魔の化身を敬遠する弟子たちは、全ての行動において、カネを基本として生きる一般人とは。異なった生活態度を取る。悪魔の手先となった人々は、それが気にいらない。自分たちとは、根本的に異なる存在だとして排斥する。もはや、そこには理由などない。聖なる雰囲気や神聖な言葉、清浄な生き方(清貧生活)は、彼らにとって吐き気を催させるものなのです。人間の腐敗や堕落が、彼らには好物なのです。まさに、狂った霊なのです。

人々は、イエスの弟子たちを本能的に攻撃し、当然のように迫害する。その理由が分からなければ、弟子たちは混乱し、恐怖する。だから、前もってイエスは、それに対する心構えを持つようにと言われたのです。

実際、悪魔は愚かで不信人な人々の心に入り込み、イエスやその弟子に反感を持たせ、わけもなく攻撃させた。しかし、弟子の背後の天使たちが悪魔の手先を打ち負かし、カネよりも神様の力の方が強く、悪魔の悪巧み(わるだくみ)は、弟子たちに通用しないことを示したので、人々は徐々にイエス・キリストやその弟子たちの言葉を受け入れるようになった。こうして、イエス・キリストの教えが人々に受け入れられていった。

しかし、悪魔はついに、権力者やユダヤ教の指導者を使ってイエスを殺害させる。悪魔の力は、神様よりも強いことを人々に示そうとし、また、失敗してもイエスの教えが広まるのを妨害しようとした。しかし、結論は、今の人々が知っているように、イエス・キリストは、死から復活し、イエスの教えは2千年後の今日まで伝わっている。

それでも、悪魔はこの世の最後まで神様に逆らうつもりであり、今でも、キリスト教会の中に入り込み、聖職者や信徒をカネや権力の力で堕落させ、腐敗させ、或いは、狂わせている。さらに、ニセ・キリストまで送り込んでくる。惑わされる者は、跡を絶たない。

しかし、宗教以前に純粋な霊性を持っていた日本人は、欧米人よりも霊的な理解が早い。日本人は、欧米人のように堕落することなく、イエス・キリストの教えを伝えることができると思われる。今後、世界で日本人の霊性が活躍するのが期待される。そのためには、世界の主流となったユダヤ・キリスト教を日本人が学び、歴史の流れを理解することです。

2026年8月18日火曜日

「サタンよ、引きさがれ」 (マルコによる福音書 第 8 章) (“Get behind me, Satan!”)

 

33 イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた、「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
34 それから群衆を弟子たちと一緒に呼び寄せて、彼らに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
35 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救うであろう。
36 人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。
37 また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
38 邪悪で罪深いこの時代にあって、わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」。(マルコによる福音書 第 8 章)

33 But when Jesus turned and looked at his disciples, he rebuked Peter. “Get behind me, Satan!” he said. “You do not have in mind the concerns of God, but merely human concerns.”
34 Then he called the crowd to him along with his disciples and said: “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross and follow me. 35 For whoever wants to save their life will lose it, but whoever loses their life for me and for the gospel will save it. 36 What good is it for someone to gain the whole world, yet forfeit their soul? 37 Or what can anyone give in exchange for their soul? 38 If anyone is ashamed of me and my words in this adulterous and sinful generation, the Son of Man will be ashamed of them when he comes in his Father’s glory with the holy angels.”
+++ +++ +++

これは、イエス・キリストが、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、また殺され、そして三日の後によみがえるべきことを、彼らに教えはじめ」たときに、それを諫め、注意したペテロをイエスが叱って、与えた言葉です。

後に、初代のローマ教皇とされるようになったペテロを、イエスは「サタンよ、引きさがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と厳しく叱責された。一番弟子と言われたペテロに、イエスが「サタンよ、引きさがれ」と叱責するのは、ただ事ではない。イエスが、自分の死について話されたときに、悪魔は、まさにペテロの心に入ってイエスをけん制する言葉を発させた。悪魔は、イエスが弟子のユダの裏切りによって死ぬことを弟子には秘密にしておいて、それが生じたときに、弟子たちが大きなショックを受け、イエス・キリストから離れて、イエスを見捨てるようにさせたいと思っていた。

イエス・キリストは、そこで、弟子たちの信仰心をさらに強める必要があると感じて、このような教えを述べられたのです。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」という言葉が、「自分の十字架を負う」というキリスト教を代表する有名な表現になったのです。如何に人間は罪深いものであるかを、イエス・キリストは強調されたのです。

また、イエスは死後に、この世に再来することを予言され、「わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、父の栄光のうちに聖なる御使たちと共に来るときに、その者を恥じるであろう」と述べて、このイエス・キリストの再臨のときに、イエス・キリストを素直に受け入れなかった者は、イエスが天使たちと示す救いの力からもれてしまうと述べられたのです。

このイエス・キリストの再臨のときが、いつになるのかはイエス自身にも分からないが、神様が計画しておられると信じるのがキリスト教徒だということになる。

いづれにしても、悪魔との戦いは熾烈であり、悪魔に隙を見せないように、神様はイエスをこの世に再び出現させる日時については、秘密にしておられる。この2千年間、キリスト教徒は、イエス・キリストの再来を待ち望んだのだが、まだ実現していないと言われる。その日には、世界中がイエスの再臨を認めると言われているが、世の中はますます物質主義や拝金主義がはびこり、イエス・キリストの教えはないがしろにされている。イエス・キリストの最初の出現以来、2千年たった今日、もうイエス・キリストが再臨してもおかしくないと考える信者もいる。

実際、18世紀の有名な科学者のニュートンは、聖書の研究を通して、世の終わり、つまり、イエス・キリストの再臨の時は、2060年以降になると結論付けている。ニュートンと同時代の神秘家、スウェーデンボルグは、18世紀に霊界で最後の審判が行われ、その影響がこの世では2~3世紀に遅れて現れると述べている。いづれにしても、21世紀の近い将来に人類に決定的な出来事が生じ、イエス・キリストの霊が、又は、本当に人間の姿をとったイエス・キリストが人間界に出現するかも知れない。

ただし、そのときには、かつてペテロの心の中に悪魔が入り込んだように、悪魔が多くの信者や一般人を惑わすと思われる。例えば、1995年のオウム真理教事件もその一環かも知れない。また、AIにより物質文明(貨幣経済)が加速し、むしろ、物質文明の危機をもたらしたり、非キリスト教国の中国や非カトリックのロシア、イスラム教のイラン、個人崇拝という偶像崇拝を推し進める北朝鮮などが世界の安全を脅かしている。他方、アメリカ人がローマ教皇になったり、日本で伝統的な霊性を重んじる女性首相が出現するのは、悪魔への抵抗の姿勢を示すものだと思われる。日本人も、トランプ大統領の心に悪魔が入らないように祈らなければならない。また、日本人の霊性を高めるために、日本と言う国も変えなければならない。

いづれしても、「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う者は、それを救う」というイエス・キリストの言葉は、人類に命懸けで悪魔(その化身はカネ)と戦うように述べておられる。

まさに、今こそ、「カネ(悪魔の化身)を憎んで神様を愛せ」というイエス・キリストの言葉に従うべきときなのです。


2026年8月16日日曜日

神は「光あれ」と言われた。すると光があった (創世記 第 1 章) (And God said, “Let there be light,” and there was light.)


はじめに神は天と地とを創造された。
2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。
3 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。
4 神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。
5 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。
6 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。
7 そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。
8 神はそのおおぞらを天と名づけられた。夕となり、また朝となった。第二日である。(創世記 第 1 章)

1 In the beginning God created the heavens and the earth. 2 Now the earth was formless and empty, darkness was over the surface of the deep, and the Spirit of God was hovering over the waters.
3 And God said, “Let there be light,” and there was light. 4 God saw that the light was good, and he separated the light from the darkness. 5 God called the light “day,” and the darkness he called “night.” And there was evening, and there was morning—the first day.
6 And God said, “Let there be a vault between the waters to separate water from water.” 7 So God made the vault and separated the water under the vault from the water above it. And it was so. 8 God called the vault “sky.” And there was evening, and there was morning—the second day.
+++ +++ +++

Wikipediaによれば、「『創世記』(英語: genesis)は、古代ヘブライ語によって記された、ユダヤ教、キリスト教の聖典とされ、キリスト教の啓典である聖書(旧約聖書)の最初の書かつ、正典の一つとして扱われている。写本が現存しており、モーセが著述したとされている。いわゆるモーセ五書は、ユダヤ教においてはトーラーと呼ばれている」とされている。

この「はじめに神は天と地とを創造された」と言う言葉は、旧約聖書の最初の言葉として、よく知られている。人類が、この世の存在について目が開いたとき、最初に見たのが天であり、その下の地であったことを証明している。

人間の赤ん坊も生まれて気が付くと、上のものと下のものがあるのに気が付く。上下の感覚は人間が最初に感じるものである。霊的には、上の霊界から下の物質界に生まれてきたという感覚を表している。或いは。精神的な心の世界から、肉体に象徴される物質の世界に生まれたことを意識する。

それを、天と地として認識し、神様がこの世(物質界)とあの世(霊界)を作ったと認識するのが、人間の世界認識の始まりであることを意味している。

そこには、自然の法則しかない。善も悪もない。しかし、そこに人間と言う生物が生まれると、万物の創造主の神様と人間という被造物(作られた者)の間の関係が生じる。人間が神様に従っていれば、なにも問題はない。人間は天と地を認めて、この世に生きるだけです。霊界で神様に仕える天使のように、物質界で人間は神様に仕えればよい。

ところが、霊界の天使の中には、神様のような大きな力を持ちたいと願う者がでてきて、神様に逆らうようになる。これが、神様の善に対抗して悪をなすようになる。神様が完全な霊界と完全な物質界を造られると、作られたものは、破壊という現象を受け入れねばならなくなり、その破壊の力を手に入れた一部の天使は、神様に逆らって神様の作られた完全な霊界と物質界を破壊しようという行為に出る。これが、悪の始まりであり、悪魔の出現です。

神様が作られた世界は完全であるが故仁、その完全性の中に不完全性も含まれねば、「本当の完全性」は実現しないので、神様はそのような反動的な要素の存在も許された。つまり、全善の神様の許容によって悪の存在が許され、悪魔が天使の中から生まれたことになる。

神様が、天も地も作らず、霊界も物質界も作らなければ、天使の存在も必要ではなく、人間の存在も必要でなかったことになる。従って、悪魔も存在しなかったことになる。天も地もない空間に時間も必要としない神様が存在するだけだったが、神様は、霊界と物質界を造ることを選ばれので、天使や人間が生まれることになった。ただし、それに付随して悪魔が生まれることになった。

つまり、人間の出現以前に、悪魔の存在が許されていたことになり、悪魔は神様の霊界や物質界を創造する能力に付随したものでああり、その能力の反動して生まれたものであり、それを許容してでも、神様は天使や人間を作ることを選ばれたわけです。悪が存在する可能性というリスクを冒してまで、神様は天使や人間を作りたかったことになる。それは、神様が天使や人間を愛されたからだということになる。それが、天と地の光だということになる。この世の光は太陽から来ているが、霊界の光は神様の世界(天国や神界)から来ている。

善の世界(光の世界)を作れば、反動で悪の要素(闇)も生まれるということを神様は承知されて、悪魔を含む霊界と人間界を造られたのです。しかし、神様がその気になれば、いつでも悪魔や悪魔が作り出す地獄は存在しなくなる。これが、悪魔が最も恐れる世界の消滅です。悪(闇)は善(光)が生じるから存在できるのです。

しかし、神様は、天と地を作られて、そこに人間が生きることを愛されたので、まだ、この世、物質界は亡びないし、物質界の源である霊界に住む天使たちも愛しておられるので、霊界もなくなることはない、ただし、そのために悪や悪魔の存在も認めなければならなくなった。

これは、全ての整数を作ることを選ばれた神様が、整数の中に、「1」とその数でしか割り切れない「素数」の存在を許されたようなものです。素数は、整数列のどこに現れるかは予測できない。しかし、素数を取り除けば、整数列は成り立たない。

神様は、無数の数と無限大を作られ、無数の数の中には素数も含まれ(しかも、無数に)、なお、無数の数を抑える概念として無限大という概念を作られた。無数の整数という地と、無限大という天を神様は作られたのです。

この世(物質界)とあの世(霊界)の成り立ちについて、神様が全てを創造されたというのが、人類に共通の認識であり、さまざまな神話の共通点です。人間や悪魔が世界を作ったという神話はない。また、訳が分からないが、勝手にできたという神話は、成り立たない。存在は、でたらめには成り立たない(闇から存在は生じない)。或いは、力が無ければ成り立たない。全知全能かつ全善の神様が愛(光)から作られたと信じるのが、神様への信仰の第一歩なのです。

2026年8月13日木曜日

「わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」 (マルコによる福音書 第 1 章) ("I baptize you with water, but he will baptize you with the Holy Spirit.")


神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
2 預言者イザヤの書に、「見よ、わたしは使をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるであろう。3 荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた。
5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
7 彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。
8 わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。 (マルコによる福音書 第 1 章)

1 The beginning of the good news about Jesus the Messiah, the Son of God, 2 as it is written in Isaiah the prophet:
“I will send my messenger ahead of you,
who will prepare your way”—
3 “a voice of one calling in the wilderness,
‘Prepare the way for the Lord,
make straight paths for him.’”
4 And so John the Baptist appeared in the wilderness, preaching a baptism of repentance for the forgiveness of sins. 
5 The whole Judean countryside and all the people of Jerusalem went out to him. Confessing their sins, they were baptized by him in the Jordan River. 
6 John wore clothing made of camel’s hair, with a leather belt around his waist, and he ate locusts and wild honey. 
7 And this was his message: “After me comes the one more powerful than I, the straps of whose sandals I am not worthy to stoop down and untie. 
8 I baptize you with water, but he will baptize you with the Holy Spirit.”
9 At that time Jesus came from Nazareth in Galilee and was baptized by John in the Jordan.
+++ +++ +++
これが、新約聖書のマルコによる福音書の冒頭部分です。

Wikipediaによれば、「マルコによる福音書は、新約聖書の正典福音書の2番目の書物・・・2世紀半ば以降、伝統的に新約聖書の巻頭を飾る『マタイによる福音書』の次におさめられ、以下『ルカによる福音書』、『ヨハネによる福音書』の順になっている。ただし、本福音書を4番目とする例がある。執筆年代は、伝承によるとペトロの殉教の年といわれる65年から『ルカ福音書』の成立時期である80年ごろの間であると考えられる。本福音書は、『マタイによる福音書』、『ルカによる福音書』と共に「共観福音書」とよばれ、四つの福音書の中でもっとも短い。マルコ福音書、マルコ伝、あるいは単に「マルコ」とも呼ばれる。高等批評の立場からは正典福音書のうち最も古くに書かれたものであるとされている」とされている。

この冒頭の「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、「バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔改めのバプテスマを宣べ伝えていた」というように、イエス・キリストではなく、イエスの従兄とされる、バプテスマのヨハネの活動が書かれている。

Wikipediaによれば、「バプテスマのヨハネ」とは、「『ルカによる福音書』1章36節では、ヨハネの母エリサベトとイエスの母マリアは親戚だったという。同福音書においては、天使ガブリエルによってその誕生を予言されている」とされており、イエス・キリストの先駆けとなった宗教活動をしていたことになる。

ヨハネもイエスも、エッセネ派と呼ばれるユダヤ教の一派と関係があったとされている。AIによれば、「エッセネ派は、紀元前2世紀〜紀元1世紀ごろに存在したユダヤ教の禁欲的な一派です。主に死海近くの荒野で共同生活を営みました」とされている。第二次大戦後に発見された「死海文書」で、エッセネ派の活動はよく知られるようになった。

Wikipediaでは、「新約聖書には、ファリサイ派とサドカイ派はあらわれるが、それらとならんで当時の主要なグループであったエッセネ派が一切登場しないため、洗礼者ヨハネやイエス・キリストが、エッセネ派に属していた、あるいは関係グループに属していたという説もある」とされている。

このエッセネ派に属するクムラン教団の文書が死海文書とされており、オプス・デイ(キリスト教のローマ・カトリック教会の組織のひとつ、属人区である)では、「また、クムランで見つかったユダヤ教の文書が新約聖書に何らかの影響を与えたという形跡も見出されません。現在、専門家たちはクムランの教義とキリスト教の誕生には、なんら関係はなかったという見解で意見が一致しています。死海のほとりに存在したあのグループは少数派であり、社会から隔絶した生活を送っていました。それに対し、イエスや初期のキリスト教徒は、当時のユダヤ社会に浸かって生活し彼らと対話をしていました。しかしながら、クムラン文書によって、キリスト教が誕生した非常に多様なユダヤ社会において、当時は普通に使われていたものの、今日では理解することが困難な用語や表現の意味が明らかになったという点では、役にも立っているのです」とされている。

いずれにしても、20世紀の第二次大戦後に2千年前のイエスの時代のユダヤ教の状況が明らかになったのには、神様の意図を感じないわけにはいかない。2千年間、世界はこの状況を知らなかった。死海文書が明らかにした事実は重い。2千年間、世界はこの状況を知らなかった。死海文書が明らかにした事実は重い。

イエス・キリストは、ユダヤ教の伝統の中から、禁欲的なグループのエッセネ派に近い存在として現れたのです。しかも、イエスだけでなく、従兄のヨハネまでが、共に宗教活動をしていた。これが、イエス・キリストの背景であり、歴史的な事実です。

しかし、霊的にはもっと深い所からイエス・キリストは現れたと考えられる。

神様が作られた人間が、アダムとイブの時代から霊的に堕落し、物質文明の中でカネを求めるようになり、悪魔に魂を売ってカネを求めるような生活をするまでに腐敗したので、それを本来の霊的な生活に戻そうとして、神様がイエス・キリストを人間界に送られたと考えるべきです。

つまり、イエス・キリストの使命は悪魔(カネ)と戦って人間を救うことなのです。

キリスト教を理解するには、この世の人間界が悪魔の影響にあることを認め、悪魔は最後は人間を破滅させようとしていることを理解する必要がある。どんなに悪魔の力に頼って、エリートや富裕層になっても、死後は悪魔の手下にされ、地獄に引きずりこまれる。

2千年前に、既に貨幣が使用されていたローマ時代のパレスチナにも、現代と同じようにカネ(悪魔の化身)が威力を持っており、多くの人間はカネに洗脳されて、カネで欲望を満たそうとしていた。まさに、悪魔の影響下にある世の中になっていたのです。2千年前も世界は拝金主義になていたのです。

その風潮を正そうとして、ローマ帝国の植民地であったユダヤ人のパレスチナに出現したのがイエス・キリストなのです。

当時も現代もカネによる支配が世の中で行われているのが共通しており、それが悪魔の影響であり、それに対して霊的な文明を打ち立て、人間の心を神様に向けさせるのが洗礼者ヨハネやイエス・キリストの活動であり、現在でもその状況は変わっていないのです。だから、2千年前の聖書は現代人でも理解できるのです。

だから、世界経済の中でこの悪魔の影響下にある日本人も聖書を読み、イエス・キリストの言葉を守る必要があるのです。

人間は、悪魔(カネ)と戦う必要があるのです。

2026年8月12日水曜日

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」 (マタイによる福音書 第 17 章) (“This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”)

 

六日ののち、イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その顔は日のように輝き、その衣は光のように白くなった。
3 すると、見よ、モーセとエリヤが彼らに現れて、イエスと語り合っていた。
4 ペテロはイエスにむかって言った、「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。もし、おさしつかえなければ、わたしはここに小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために」。
5 彼がまだ話し終えないうちに、たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」。
6 弟子たちはこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。
7 イエスは近づいてきて、手を彼らにおいて言われた、「起きなさい、恐れることはない」。
8 彼らが目をあげると、イエスのほかには、だれも見えなかった。
9 一同が山を下って来るとき、イエスは「人の子が死人の中からよみがえるまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と、彼らに命じられた。 (マタイによる福音書 第 17 章)

17 After six days Jesus took with him Peter, James and John the brother of James, and led them up a high mountain by themselves. 2 There he was transfigured before them. His face shone like the sun, and his clothes became as white as the light. 3 Just then there appeared before them Moses and Elijah, talking with Jesus.
4 Peter said to Jesus, “Lord, it is good for us to be here. If you wish, I will put up three shelters—one for you, one for Moses and one for Elijah.”
5 While he was still speaking, a bright cloud covered them, and a voice from the cloud said, “This is my Son, whom I love; with him I am well pleased. Listen to him!”
6 When the disciples heard this, they fell facedown to the ground, terrified. 7 But Jesus came and touched them. “Get up,” he said. “Don’t be afraid.” 8 When they looked up, they saw no one except Jesus.
9 As they were coming down the mountain, Jesus instructed them, “Don’t tell anyone what you have seen, until the Son of Man has been raised from the dead.”
+++ +++ +++

これは。「山上の変容(山上の変貌)」と呼ばれる出来事であり、AIでは、「イエスが高い山の上で栄光の姿に変わり、神の子として現された出来事を指します。イエスの本来の栄光が一時的に現れた場面と理解されます」とされている。

イエス・キリストが、霊的な能力のあった「ペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」とされているように、彼らの霊的エネルギーを借りて、自らが霊となって、モーセやエリアという旧約聖書に出てくる過去の聖人の霊と話し合ったという情景です。

これは、霊的に理解しなければ説明のつかない情景です。イエスは、その霊能力で霊界の神様や天使たちとコミュニケーションできていたのですが、緊急にモーセやエリアの霊と話し合う必要ができたので、このように「主イエスの変容」とも称される形で彼らの霊と話し合ったのだと思われる。

Wikipediaによれば、「教会では、この世的な意味でのキリストの勝利(イスラエルの解放)を願う弟子達に対し、自らの受難を予言し続けたキリストが、これから受ける苦難に際して信仰し続ける希望を与えるためにこの奇蹟を行ったと伝えられる」とされている。

おそらく、この時に、イエス・キリストは、ユダの裏切りについて知らされたのだろう。そして、このまま行けば、イエスが権力者に逮捕され、死刑を宣告されることを霊から知らせれたと思われる。

そして、「たちまち、輝く雲が彼らをおおい、そして雲の中から声がした、「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け」と。神様の声がして弟子たちにイエス・キリストに従うように告げたということは、この出来事は神様とのコミニュケーションでもあったことを告げている。ユダのもたらす悲劇を信仰のために受け入れることにしたイエス・キリストの信仰心を、神様が認められたということです。

いつ、イエスが、ユダの裏切りと、ご自分の死がそれによって生じることに気が付かれたのかは、聖書には明確には記されていないが、この「主イエスの山上での変容」のときだったと思われる。

イエスの肉体が、霊との会話のために、霊体に変容したことを、聖書はこのように記したと思われる。福音書の中でも唯一、霊界とイエス・キリストの直接的な関りを記した箇所になっている。

霊的存在でもあるイエス・キリストは、人間の姿を取って人間界で生きて、人間として死んでも、霊界でその魂は生き続けるが、人間界で行なおうとしていたことは中断される。それが、悪魔の狙いであり、神差の計画に対する挑戦なのです。そのことに、イエス・キリストは苦しめられるが、ご自分の死を恐れたわけではない。

ただし、悪魔のそのような計画を霊から知らされたイエスは、これ以降は、明確な覚悟をもって、十字架の運命に向かって歩くことになる。

最初からイエス・キリストは、弟子の裏切りで逮捕され、十字架上で刑死するとは覚悟されてはいなかたった。イエス・キリストの伝道の成功を確信した悪魔が、非常手段に訴えて来たので、神様はモーゼやエリアの霊を使ってイエスに悪魔の計画を知らせたが、イエスはご自分の気持ちに変わりはないとの気持ちを表明されたので、神様はそれに満足されたという経緯です。

霊的な世界の出来事を、この世で表されて、聖書に残るようにされたということの意味は大きい。イエス・キリストの霊的な力を認めよという教えです。