2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。(ヨハネによる福音書 第 2 章)
2 and Jesus and his disciples had also been invited to the wedding. 3 When the wine was gone, Jesus’ mother said to him, “They have no more wine.”
4 “Woman, why do you involve me?” Jesus replied. “My hour has not yet come.”
5 His mother said to the servants, “Do whatever he tells you.”
6 Nearby stood six stone water jars, the kind used by the Jews for ceremonial washing, each holding from twenty to thirty gallons.
7 Jesus said to the servants, “Fill the jars with water”; so they filled them to the brim.
8 Then he told them, “Now draw some out and take it to the master of the banquet.”
They did so, 9 and the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine. He did not realize where it had come from, though the servants who had drawn the water knew. Then he called the bridegroom aside 10 and said, “Everyone brings out the choice wine first and then the cheaper wine after the guests have had too much to drink; but you have saved the best till now.”
+++ +++ +++
これは、「カナの婚礼」と呼ばれるイエス・キリストが最初に行ったとされる有名な奇跡です。
AIによれば、「「カナの婚礼」はヨハネによる福音書2章1節から11節にあります。ガリラヤのカナで婚礼があり、ぶどう酒が足りなくなったとき、イエスが水をぶどう酒に変えました。これはヨハネ福音書で最初のしるしとされています」とされており、さらに、「この出来事では、イエスがただ困りごとを解決しただけでなく、栄光を現したことが大事だと語られます。その結果、弟子たちがイエスを信じたと記されています。(bible.com)
また、日本語の解説では、イエスの「わたしの時はまだ来ていません」という言葉は、後の使命や栄光を先取りして示す表現として読まれることがあります。(note.com)」とされている。
婚姻の宴に招かれたイエスについて書かれたのは、この箇所だけです。母のマリアと共にイエスが出席したことは、イエスが家族との関係を絶ってはいなかったことを明らかにしている。しかし、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」とイエスが述べたのは、イエスに霊が入って、もはや、この世の人間関係を超越した存在として生き始めたことを意味する。この世で最愛の母へすら、一人の女性に対する態度を見せたということは、イエスの伝道活動に、イエスは家族を関わらせる気持ちがないことを意味している。
ただし、イエスが伝道活動を開始したことを知った母マリアは、密かにイエスのことを気遣ってイエスの後をつけていたように思われる。特に、イエス・キリストが十字架の刑を受けた時にも、その十字架の周囲にいて、イエスの最後を見守ったとされる。そして、死に行くイエスは、弟子の一人に、イエスの母の面倒を見るように命じたとされている。いづれにしても、母マリアがイエスの伝道に、何らかの影響を与えていたことは考えられない。
イエスが権力者によって逮捕されたときも、イエスの家族は取り調べられなかった。また、イエスが伝道を開始した当初は、イエスの家族の誰も、イエスが神様の霊的な息子であることや、イエス・キリストの言葉を信じなかったが、やがて聖母マリアは、イエスの死の瞬間に立ち会われたほどに、イエスの言葉を信じられたと考えられる。
なお、超能力や霊能力のあったイエスが、その力を家族のために使って、家族を経済的に救ったり、家族の直面する問題を解決することはなかった。その中で、母マリアと共に出席したカナの婚礼の宴で水をブドウ酒に変える奇跡を行ったことは印象深い。イエスは、最初の奇跡を母の出席する婚礼の席で表され、母の知り合いの面目をたて、ひいては、母も助けたことになる。イエスの母マリアに対する深い愛情と配慮の表れだと見ることができる。
ただし、今後の伝道の厳しさを思って、母マリアにはイエス自身からは遠ざかっているようにとの気持ちを「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と述べたのだろう。だから、イエス・キリストが十字架での死刑を言い渡された時に、当局はイエスの家族を取り調べなかった。イエスは、伝道の厳しい生活や権力者の攻撃から、母マリアや家族を守ったのです。
いづれにしても、この「カナの婚礼」は、イエス・キリストとその家族が関わった唯一の出来事です。なお、イエス・キリストのこの世の父親については、福音書に出てこないため、後世、さまざまな推論が行われている。しかし、神様の送られた聖霊によって母マリアが身ごもったという聖書の説明を信じれば、イエス・キリストは父親は神様だということになり。神の遺伝子やDMAを持って生まれ来たことになる。
なお、AIでは、「イエス・キリストの父親」については、
「キリスト教
キリスト教では、イエスは神の子で、父は神と理解されます。
一方で地上での家族としては、ヨセフが父親役とされる説明が一般的です。 (ja.wikipedia.org)
イスラム教
イスラム教では、イエスはイーサーという預言者です。
とても重要な人物ですが、神の子ではないと考えます。神は唯一で、子をもたないという理解です。 (islamicity.org)
ユダヤ教
ユダヤ教では、イエスを神の子とも救世主とも受け入れない立場が一般的です。
そのため、神がイエスの父であるという説明は取りません。歴史上の人物として見る考え方が中心です」
と説明されている。
いづれにしても、イエス・キリストが、その母のマリアや婚礼などに、無関心ではなかったことが、福音書に表されている。
イエス・キリストは、母マリアに従って誰かの婚礼の席に出席したのは事実なのです。そして、そこで最初の奇跡を起こされたのです。
カトリックや心霊主義の教会では、母マリアの霊的な役割を重視し、母マリアの霊が、以後、人類に出現していると考える。その最大の例が、1917年にポルトガルのファチマで起きたとされる聖母マリアの出言です。
聖母マリアを崇めるのが、カトリックですが、「プロテスタントではマリアは大切な人物ですが、カトリックのように特別に崇敬したり、祈りの対象にしたりすることは一般にしません」とAIでは説明されている。
それでも、多くの人間の女性の中から、イエス・キリストの母になる運命を与えられたのは、唯一、マリアなのです。聖母マリアは、人間として神様から最高の地位を与えらた女性だということになる。イエス・キリストは単なる純粋の人間だったとは言えないが、聖母マリアは、単なる人間の一人だった。
つまり、人間の心を持った聖者が、母マリアだということになる。だから、聖母マリアに人間は親しみを覚えて当然なのです。人生の苦しみや悲しさなどは、聖母マリアはよく理解しているはずです。だから、カトリックのキリスト教徒は、今でも聖母マリアに願いをかけたり、祈ったりするのです。
心霊的には、人類の霊で最高の霊格をもっていて、神様の子のイエス・キリストの母に選ばれたのは、マリアだというこになる。(ただし、イエス・キリストは、単なる人間の霊を持った存在とは言えない。)
日本国大統領府(仮)
2026年9月21日月曜日
2026年9月20日日曜日
わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった (マタイによる福音書 第 11 章) (We played the pipe for you, and you did not dance)
16 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
17 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
18 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
(マタイによる福音書 第 11 章)
16 “To what can I compare this generation? They are like children sitting in the marketplaces and calling out to others:
17 “‘We played the pipe for you,
and you did not dance;
we sang a dirge,
and you did not mourn.’
18 For John came neither eating nor drinking, and they say, ‘He has a demon.’ 19 The Son of Man came eating and drinking, and they say, ‘Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and sinners.’ But wisdom is proved right by her deeds.”
+++ +++ +++
これは、「笛吹けど、踊らず」という言葉の原点です。また、「弔いの歌を歌ったのに、嘆かす」という言葉の原典となった聖書の箇所です。
この言葉は、予言者のヨハネが来ても、「悪霊につかれている」と続き、また、神様の子であるイエス、即ち、人の子が来ても、「罪人の仲間だ」と言って無視したと人々を責めている。
つまり、イエス・キリストは、人々の信仰心がないことを責められたのです。AIでは、「「笛ふけども踊らず」は、新約聖書のたとえに由来するとされます。イエスが人々の反応の鈍さをたとえて、笛を吹いても踊らず、悲しみの歌を歌っても泣かない子どもたちの姿を語った箇所です」とされている。
また、Wikipediaでは、「このことわざは『新約聖書』の「マタイによる福音書」が由来である。ここではイエス・キリストはヨハネの言うことに民衆が耳を傾けようとしなかったことを非難する目的で笛吹けど踊らずであったと述べられた。「ルカによる福音書」にも笛吹けど踊らずという言葉が出てくる。ここではイエス・キリストが、ヨハネのメッセージやイエス・キリストを受け入れない人のことを笛吹けど踊らずであると非難している。このような人は悔い改めることなく主を受け入れないのは自分が正しいとしているからであると指摘している」と説明されている。
また、キリスト教プロテスタント超教派の宣教団体(https://www.newlifeministries.jp/word_from_bible_no2/)では、「ヨハネは食べることも、飲むこともしない、いわば禁欲的に宣教を行っていたのでしょう。そのようなヨハネに対しては「悪霊にとりつかれている」と批判し、一方で、ときに嫌われ者の取税人や罪人とも一緒に食べたり飲んだりしながら宣教を行っていたイエスに対しては「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と悪口を言う。どちらに対しても真摯に耳を傾けようとしない、ヨハネやイエスの宣教の働きに対するそのような人々の態度を、きっとイエスは残念に思っていたのでしょう」と説明されている。
これは、神様を無視した人々が、飲み食い、歌い、踊りなどしているときに、解様の怒りが下ったという、聖書の他の箇所の記述とも関係する。
実際、物質文明の繁栄で、人類が快適性や快楽性を享受している今日、自然破壊や異常気象で、地球は危機に瀕している。神様は、多くの聖者をこれまで人類に送ってきたが、人々は彼らを無視している。
例えば、シャーロック・ホームズの作者のコナン・ドイルは、ホームズ物よりも心霊研究に熱心だったが、人々はその心霊研究を真剣に取り上げてはいない。また、神秘家のスウェーデンボルグは、死の世界、即ち、霊界を見てきて多くの著作を書いたが、スエーデンボルグの神学より、他のオカルト者を取り上げる心霊研究家も多い。真剣な霊的探求はなおざりにされている。
また、リンゴの無農薬栽培家の木村則夫は、UFO内で宇宙人から人類破滅の警告を与えられたが、日本社会は大きく取り上げていない。
今世紀に、物質文明が崩壊することは間違いなく、多くの警告も天から出されているが、神様への信仰心が足りない人類は、「笛吹けど踊らず」の状態なのです。せめて、イエス・キリストの言葉を真剣に見直し、奇跡的に救われるのを祈るべきです。
なお、UFOや宇宙人は、人類の崩壊に関心をもって見守っていることは間違いない。宇宙人も神様の下にあり、地球の人類文明の崩壊は、宇宙にも影響を与えるのです。
2026年9月19日土曜日
「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」 (マタイによる福音書 第 22 章) (“So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”)
17 「それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。
19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。
20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。(マタイによる福音書 第 22 章)
17 "Tell us then, what is your opinion? Is it right to pay the imperial tax[a] to Caesar or not?”
18 But Jesus, knowing their evil intent, said, “You hypocrites, why are you trying to trap me? 19 Show me the coin used for paying the tax.” They brought him a denarius, 20 and he asked them, “Whose image is this? And whose inscription?”
21 “Caesar’s,” they replied.
Then he said to them, “So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”
22 When they heard this, they were amazed. So they left him and went away.
+++ +++ +++
これが、イエス・キリストの言葉としてよく知られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉の出典です。
イエスに敵対するものが、税金()をローマ皇帝に納めるべきかをイエスに質問したときに、イエスがその肖像が刻印された硬貨を示して、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」と答えられたのです。
当時のユダヤ人の住むパレスチナを植民地化していたローマ帝国の当局者は、ユダヤ人から税金を集めていたが、ユダヤ人の中にはそれに反発し、反ローマ帝国の動きもあった。イエスの敵対者は、イエスが税金を当局に払うわなくてもよい、と答えることを期待していたのだろう。そうすると、イエスはローマ帝国に反対する者であり、当時の支配者への反逆者であることが明確になり、当局に逮捕されても仕方がないことになる。その口実を彼らは得ようとしていたと思われる。
また、イエスが税金を払うべきだと答えれば、権力に追随する者として、ユダヤ人の民衆から軽蔑を買い、イエスの評判は落ちると考えていた。
どう答えても、イエスは苦境に立たされる。イエスの敵対者(ローマ帝国の支配者やユダヤ教の宗教幹部)は、イエスを抹殺しようとして、そのような難問をイエスに与えたのです。
それに対して、イエスは誰もが思わなかった答えをした。それが、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」という言葉なのです。
つまり、イエスは、権力者には逆らってはならないから、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返せ」と述べられたが、この世には権力者よりも力のある神様がおられる、ということを、「神のものは神に返せ」という言葉で人々に思い出させたのです。
ローマ皇帝の肖像が刻印された貨幣は、ローマ皇帝のものなのは明らかです。だから、それを税金としてローマ当局に支払うことは自然だという理屈は誰でも分かる。しかし、自分たちが苦労して稼いだカネを、税金としてローマ当局に取られるのは、ユダヤ人には気に入らない。だから、イエスは、権力者のローマ当局に密かに仕返しをするのをユダヤ人に煽るようなことを言うかも知れないと、イエスの敵対者は期待していたのだろう。それを当局に通報すれば、イエスの逮捕につながる。つまり、イエスがユダヤ人の間で人気を得ようとすれば、当局には反逆者となるし、逆に、ローマ当局に迎合すれば、ユダヤ人の民衆から軽蔑され、人気を失う。
、
それに対して、イエスは、権力者には逆らうべきではないが、この世の権力者よりも、もっと力があるとユダヤ人なら誰もが考える神様を持ち出してきて、「神のものは神に返せ」と言われたのです。
イエスの敵対者たちの計略は、宙に浮いて、その企みは失敗したことになる。それは、イエスは権力者への恭順を示しつつ、ユダヤ人にむしろ神様のことを考え、ローマ皇帝に対する忠誠と同等の強い信仰心を神様に示すべきだと述べたからです。この世のことよりも、神様への信仰心が大事だと、イエスは人々に教えたので、それにイエスの敵対者や権力のスパイは、それに対して表立って文句をつけることも、イエスの伝道者としての人気を貶めることもできなかった。
つまり、イエス・キリストは、一方では、権力者とは表立って敵対したり、波風を立てることなく生きるようにとユダヤ人に教え、他方では、ローマ帝国の支配に苦しむユダヤ人に、神様という強い味方がいることを忘れるなとのメッセージを与えたのです。これは、腰抜けのインチキ宗教家にできることではない。結局、権力側も民衆も、このイエスの言葉を受け入れざるを得ない。ローマ帝国といえども、ユダヤ人にローマ人の宗教を強要しても、心の底からの信仰心は得られないことは承知しているからです。政治的にローマ帝国に逆らうなというイエスの言葉には、当局者もつけいる隙はない。イエスは、ローマ軍によるパレスチナの支配を認めたことになるからです。
ユダヤ人の民衆の方は、この言葉によって、この世の政治よりも神様への信仰心が大事だということを思い出させられた。そして、伝道者としてのイエス・キリストの人気や評判は、ますます高まることになった。
なお、2千年前の当時、日本では稲作の弥生文化が始まった頃だが、地中海沿岸のローマ帝国では、貨幣経済が生まれており、ユダヤ人社会でも貨幣経済が進み、貨幣で税金が集めらていたのは注目すべきです。
AIでは、「日本の最初の貨幣として一般に挙げられるのは、和同開珎です。708年に作られた、日本初の本格的な流通貨幣とされています」と述べている。日本よりも、700年も前に南ヨーロッパのローマ帝国では、貨幣経済が始まっていた。だから、2千年前の新約聖書も現代人には理解しやすい。カネに悪魔が取りつく感覚は、今の人間でも理解できる。カネにまつわる人間の欲も、当時も同じなのが現代人にもよく理解できる。
イエス・キリストが弟子のユダに裏切られたのも、ユダのカネに対する欲望からだという話しも理解しやすい。
それよりも、敵対者がスパイを送り込むという方に注目すべきです。敵対者は巧妙な質問をしたり、狡猾な罠をしかけてくるのは、2千年前も今も変わらない。
人間のやること、考えることは、2千年前も今も変わらない。これが、聖書の新約聖書の福音書が、現代でも分かりやすく読める理由なのです。(他にも、それ以前の「ギリシア文化やインド発の仏教、中国の儒教なども、普遍的な人間性に関する教えなので、今でもよく理解されている。また、ユダヤ教と重なる旧約聖書も、キリスト教につながるものとして理解できる。)
さらに、悪魔が2千年前と同じように、神様やイエス・キリストを信じる人を攻撃し、罠にかけようとしているのも変わらないのです。とにかく、カネという悪魔の小道具には執着せずに、信者は神様のことを第一に考えよというイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。
なお、今の日本では消費税が大きな話題になっているが、税金のことより、日本的霊性を高めることが重要です。税金が日本国を円滑に動かすのに必要であれば、政府に払うべきであるが、日本人の霊的・精神的な救済や幸福に必要な日本的霊性も重要です。
その霊性を世界的な視野から眺めると、日本人も世界の主流であるキリスト教への理解を深めることが重要です。日本の神道や仏教の霊性を探求すれば、霊界の支配者としての万物の創造主を崇拝するようになる。そして、その万物の創造主は、イエス・キリストの教えを説くキリスト教の神様だとうのが結論なのです。
つまり、「カイザル(皇帝)」の代わりに、「日本の神仏(天照大御神やブッダなど)」を置き換えても同じことです。「日本の神仏を崇める宗教に寄付をしても良いが、万物の創造主の神様へも礼拝をせよ」ということになる。これが、霊的なキリスト教なのです。
18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。
19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。
20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。(マタイによる福音書 第 22 章)
17 "Tell us then, what is your opinion? Is it right to pay the imperial tax[a] to Caesar or not?”
18 But Jesus, knowing their evil intent, said, “You hypocrites, why are you trying to trap me? 19 Show me the coin used for paying the tax.” They brought him a denarius, 20 and he asked them, “Whose image is this? And whose inscription?”
21 “Caesar’s,” they replied.
Then he said to them, “So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”
22 When they heard this, they were amazed. So they left him and went away.
+++ +++ +++
これが、イエス・キリストの言葉としてよく知られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉の出典です。
イエスに敵対するものが、税金()をローマ皇帝に納めるべきかをイエスに質問したときに、イエスがその肖像が刻印された硬貨を示して、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」と答えられたのです。
当時のユダヤ人の住むパレスチナを植民地化していたローマ帝国の当局者は、ユダヤ人から税金を集めていたが、ユダヤ人の中にはそれに反発し、反ローマ帝国の動きもあった。イエスの敵対者は、イエスが税金を当局に払うわなくてもよい、と答えることを期待していたのだろう。そうすると、イエスはローマ帝国に反対する者であり、当時の支配者への反逆者であることが明確になり、当局に逮捕されても仕方がないことになる。その口実を彼らは得ようとしていたと思われる。
また、イエスが税金を払うべきだと答えれば、権力に追随する者として、ユダヤ人の民衆から軽蔑を買い、イエスの評判は落ちると考えていた。
どう答えても、イエスは苦境に立たされる。イエスの敵対者(ローマ帝国の支配者やユダヤ教の宗教幹部)は、イエスを抹殺しようとして、そのような難問をイエスに与えたのです。
それに対して、イエスは誰もが思わなかった答えをした。それが、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」という言葉なのです。
つまり、イエスは、権力者には逆らってはならないから、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返せ」と述べられたが、この世には権力者よりも力のある神様がおられる、ということを、「神のものは神に返せ」という言葉で人々に思い出させたのです。
ローマ皇帝の肖像が刻印された貨幣は、ローマ皇帝のものなのは明らかです。だから、それを税金としてローマ当局に支払うことは自然だという理屈は誰でも分かる。しかし、自分たちが苦労して稼いだカネを、税金としてローマ当局に取られるのは、ユダヤ人には気に入らない。だから、イエスは、権力者のローマ当局に密かに仕返しをするのをユダヤ人に煽るようなことを言うかも知れないと、イエスの敵対者は期待していたのだろう。それを当局に通報すれば、イエスの逮捕につながる。つまり、イエスがユダヤ人の間で人気を得ようとすれば、当局には反逆者となるし、逆に、ローマ当局に迎合すれば、ユダヤ人の民衆から軽蔑され、人気を失う。
、
それに対して、イエスは、権力者には逆らうべきではないが、この世の権力者よりも、もっと力があるとユダヤ人なら誰もが考える神様を持ち出してきて、「神のものは神に返せ」と言われたのです。
イエスの敵対者たちの計略は、宙に浮いて、その企みは失敗したことになる。それは、イエスは権力者への恭順を示しつつ、ユダヤ人にむしろ神様のことを考え、ローマ皇帝に対する忠誠と同等の強い信仰心を神様に示すべきだと述べたからです。この世のことよりも、神様への信仰心が大事だと、イエスは人々に教えたので、それにイエスの敵対者や権力のスパイは、それに対して表立って文句をつけることも、イエスの伝道者としての人気を貶めることもできなかった。
つまり、イエス・キリストは、一方では、権力者とは表立って敵対したり、波風を立てることなく生きるようにとユダヤ人に教え、他方では、ローマ帝国の支配に苦しむユダヤ人に、神様という強い味方がいることを忘れるなとのメッセージを与えたのです。これは、腰抜けのインチキ宗教家にできることではない。結局、権力側も民衆も、このイエスの言葉を受け入れざるを得ない。ローマ帝国といえども、ユダヤ人にローマ人の宗教を強要しても、心の底からの信仰心は得られないことは承知しているからです。政治的にローマ帝国に逆らうなというイエスの言葉には、当局者もつけいる隙はない。イエスは、ローマ軍によるパレスチナの支配を認めたことになるからです。
ユダヤ人の民衆の方は、この言葉によって、この世の政治よりも神様への信仰心が大事だということを思い出させられた。そして、伝道者としてのイエス・キリストの人気や評判は、ますます高まることになった。
なお、2千年前の当時、日本では稲作の弥生文化が始まった頃だが、地中海沿岸のローマ帝国では、貨幣経済が生まれており、ユダヤ人社会でも貨幣経済が進み、貨幣で税金が集めらていたのは注目すべきです。
AIでは、「日本の最初の貨幣として一般に挙げられるのは、和同開珎です。708年に作られた、日本初の本格的な流通貨幣とされています」と述べている。日本よりも、700年も前に南ヨーロッパのローマ帝国では、貨幣経済が始まっていた。だから、2千年前の新約聖書も現代人には理解しやすい。カネに悪魔が取りつく感覚は、今の人間でも理解できる。カネにまつわる人間の欲も、当時も同じなのが現代人にもよく理解できる。
イエス・キリストが弟子のユダに裏切られたのも、ユダのカネに対する欲望からだという話しも理解しやすい。
それよりも、敵対者がスパイを送り込むという方に注目すべきです。敵対者は巧妙な質問をしたり、狡猾な罠をしかけてくるのは、2千年前も今も変わらない。
人間のやること、考えることは、2千年前も今も変わらない。これが、聖書の新約聖書の福音書が、現代でも分かりやすく読める理由なのです。(他にも、それ以前の「ギリシア文化やインド発の仏教、中国の儒教なども、普遍的な人間性に関する教えなので、今でもよく理解されている。また、ユダヤ教と重なる旧約聖書も、キリスト教につながるものとして理解できる。)
さらに、悪魔が2千年前と同じように、神様やイエス・キリストを信じる人を攻撃し、罠にかけようとしているのも変わらないのです。とにかく、カネという悪魔の小道具には執着せずに、信者は神様のことを第一に考えよというイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。
なお、今の日本では消費税が大きな話題になっているが、税金のことより、日本的霊性を高めることが重要です。税金が日本国を円滑に動かすのに必要であれば、政府に払うべきであるが、日本人の霊的・精神的な救済や幸福に必要な日本的霊性も重要です。
その霊性を世界的な視野から眺めると、日本人も世界の主流であるキリスト教への理解を深めることが重要です。日本の神道や仏教の霊性を探求すれば、霊界の支配者としての万物の創造主を崇拝するようになる。そして、その万物の創造主は、イエス・キリストの教えを説くキリスト教の神様だとうのが結論なのです。
つまり、「カイザル(皇帝)」の代わりに、「日本の神仏(天照大御神やブッダなど)」を置き換えても同じことです。「日本の神仏を崇める宗教に寄付をしても良いが、万物の創造主の神様へも礼拝をせよ」ということになる。これが、霊的なキリスト教なのです。
「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」 (マタイによる福音書 第 19 章) (it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God”)
16 すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
17 イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
18 彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19 父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
20 この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。 (マタイによる福音書 第 19 章)
16 Just then a man came up to Jesus and asked, “Teacher, what good thing must I do to get eternal life?”
17 “Why do you ask me about what is good?” Jesus replied. “There is only One who is good. If you want to enter life, keep the commandments.”
18 “Which ones?” he inquired.
Jesus replied, “‘You shall not murder, you shall not commit adultery, you shall not steal, you shall not give false testimony, 19 honor your father and mother,’[c] and ‘love your neighbor as yourself.’[d]”
20 “All these I have kept,” the young man said. “What do I still lack?”
21 Jesus answered, “If you want to be perfect, go, sell your possessions and give to the poor, and you will have treasure in heaven. Then come, follow me.”
22 When the young man heard this, he went away sad, because he had great wealth.
23 Then Jesus said to his disciples, “Truly I tell you, it is hard for someone who is rich to enter the kingdom of heaven. 24 Again I tell you, it is easier for a camel to go through the eye of a needle than for someone who is rich to enter the kingdom of God.”
25 When the disciples heard this, they were greatly astonished and asked, “Who then can be saved?”
+++ +++ +++
これは、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」という良く知られたイエス・キリストの言葉の出典です。
この言葉は、明確に、富に対するイエスの警戒を表しています。悪魔の影響下のこの世では、カネや富を多く持って、自分の欲望を満たすことで幸福を得られると考える人は多い。つまり、拝金主義がはびこっている。それを否定したのがイエスの教えなのです。
金持ちになれば、この世で幸福になれる。富はこの世に天国をもたらす、と考えるのが、この世の常識です。それが、神様の教えに反しているとイエス・キリストは教えているのです。つまり、清貧生活の称賛です。
また、イエスは救いを求める青年に対して、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」と述べたが、その青年は金持ちだったので、「この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った」と聖書は述べている。この世に生きる人は、普通、富やカネを捨てられない。従って、「天に宝を持つ」ことはできない、というのがイエスの教えなのです。これは、本当は革命的な教えなのです。つまり、「カネより神様」を求めるべきだというのが、イエス・キリストの教えなのです。
この世の富を捨てて生きるには、強い信仰心を持って、神様の言葉を追求しなければならない。だから、イエスは「人は神と富に兼ね仕えることはできない。神を選ぶか、富を選ぶか、どちらかだ」と述べて、人間は神様を選ばなければならないことを明確に述べておられる。世界の宗教で、このようにこの世の富を否定した宗教は他にない。キリスト教が一番、信用できるのは、この点にかかっている。
実際、この世で生きながら死後の霊界を見てきた18世紀の神秘家のスウェーデンボルグや現代の臨死体験者によれば、霊界ではカネは無用です。霊界では、想念が全てをもたらすので、念じれば全ての富を得られる。しかし、全ての霊が富のもたらすものを得ることができるので、霊界では貧富の差がなくなる。
霊界では、他の霊に対する優越感を求める心と支配欲がけが剥き出しになる。隣人愛のない心がむき出しになる。この世での、富を求める心の本質が明らかになる。つまり、悪魔の支配を求める心がむき出しになり、そのような魂は霊界の天国には受け入れられない。
つまり、この世で富の力で幸福にった人間は、霊界の天国には入れない。この世で、富の力で成功した人間、有名になった人間は、全てあの世で天国には入れない。だから、ラクダが針の穴を通るより、金持ちが天国に入るのは難しいとイエス・キリストは教えておられるのです。
彼らは、このような神様の愛と信仰と善の光に耐えられず、霊界の闇に移動する。そこは悪魔が支配する地獄です。この世のエリートや富裕層は、霊界の地獄で、皆、悪魔の奴隷になる。だから、生きながら死後の霊界を見ることを、イエス・キリストから許されたスエーデンボルグは、地獄で、生きている間は富裕層やエリートであった多くの人間の霊を見ている。また、この世で宗教家や聖職者であった人間にも会っている。
逆に、生きている間に、素直に神様の教えに従って生きた貧しい人は、「宝を天国に積んだ」ことになり、霊界で満足を得られ、魂は救われる。この意味で、キリスト教は貧者の宗教であり、清貧生活を讃えるものなのです。このような主張をする宗教は他にはない。
日本の仏教でも、悟りを得るには、欲を捨てて精神生活をし、厳しい修行に耐えなければならないと教えている。しかし、真実の悟りとは、この世は悪魔の影響下にあり、悪魔の化身がカネであり、拝金主義は悪魔教だということです。富を持てば、持つだけ、人の心は神様の教えから遠ざかる。それを理解するのが悟りなのです。
さらに、富を愛するよりも、悪を愛する心を持つ人間がいる。愛よりも憎しみを愛する人間もいる。これは、狂った人間の魂であり、それだけ、悪魔に魂を売った人間の姿です。富やカネは彼らにとって、神様に対する憎しみを表す小道具なのです。このように、人間が本来持つ自然な宗教心を憎むのが悪魔であり、或いは、その追随者や召し使い、手下、奴隷なのです。
だから、本質的に富やカネで幸福にはなれないのです。悪魔は、神様が生んだ人間を苦しめて喜ぶ。だから、カネを与えてこの世で幸福にした人間も、霊界では苦しめて喜ぶ。悪魔は神様に勝てないことを知っているからこそ、神様が造られた人間を苦しめて喜ぶ。それは、悪魔に魂を売って、生きている間に幸福になった人間も、死後は、悪魔に苦しめられることを意味する。悪魔は、自分に従う者も、そうでない者も、人間である限り、死後の霊界では苦しめようとする。
だから、神様の子のイエス・キリストは、人間に物質的な幸福を求めて、悪魔に魂を売るなと教えておられるのです。
また、聖母マリアは、余りに多くの人間の魂が地獄に行くのを悲しんで、この世に霊体で現れて、人間に警告を発してられる。これが、今も世界各地で見られる聖母マリアの出現なのです。
聖書は、このように、神様と悪魔の関係を理解しなければ、理解できない。単なる、道徳を書いた書物ではない、
全知全能にして、全善なる神様は、人間が悪魔の罠から逃れて、清貧生活を送り、愛と真理と善を愛することを命じておられるのです。これを信じるのが、霊的な「真実のキリスト教」なのです。
「燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである」 (ルカによる福音書 第 8 章) (they put it on a stand, so that those who come in can see the light)
16 だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。
17 隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。
18 だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。 (ルカによる福音書 第 8 章)
16 “No one lights a lamp and hides it in a clay jar or puts it under a bed. Instead, they put it on a stand, so that those who come in can see the light. 17 For there is nothing hidden that will not be disclosed, and nothing concealed that will not be known or brought out into the open. 18 Therefore consider carefully how you listen. Whoever has will be given more; whoever does not have, even what they think they have will be taken from them.”
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これも、有名なイエス・キリストの教えです。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられる」というのは、単にこのよの法則のようなものではなく、信仰心のことを述べておられるのです。
真の信仰心を持った者は、さらに信仰心を高める機会を与えられ、ますます信仰心を強めることになるが、表面だけの信仰心しかない者は、その小さな信仰心を失うような誘惑などに会って、さらに信仰心が小さくなる、という意味です。
この世的には、ある思想を持てば、さらにその考えを強めるような機会に恵まれ、ある方向性を持って生きてゆけば、さらに、その方向に推し進めるような機会に出会うということを意味するが、心がその方向から外れれば、ますますその方向への執着心がなくなるということを意味する。
また、「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」とは、政治的な陰謀論や社会的な事件の暴露を肯定するかのような言葉です。日本語でも、「火のない所に、煙は出ない」と言いますが、隠し事はいつかは、人々に知られるということです。また、UFO問題などでも、アメリカ当局によるUFOの隠蔽工作のディスクロージャ活動とも関係する。真実は、いずれ明らかになるはずです。(UFO問題についいては、アメリカのアルテミス計画で明らかになると期待されている。)
そういう隠された真実を暴くのが、ジャーナリストや報道機関の役割であり、民主主義の社会では、重要な役割を担っている。報道関係者は社会のエリートだという考えもこころから生じている。
また、個人が社会の眼から隠れて、人に言えないようなことをやっていても、いずれは明るみに出されるという社会的な法則もある。「全てのひとを永久に騙すことはできないし、同時に誰をも全て騙すことはできない」という法則もある。真実を見抜く人は、どこかにいるものであり、「人の口に壁は立てられない」という言葉もあり。「裸の王様」のたとえ話にように、王様が裸であることを少年が見抜いて公言したように、真実はいつかは人々に知られるのです。
宗教の教祖が、私生活では堕落した生活を送り、寄付金などを毎日、数えるような生活をしていれば、霊能力も薄れ、いかがわしい噂が立ち、信者はやがて離れていく。
イエス・キリストが伝道生活に入ってからは、毎日24時間、弟子たちが身近にいて、イエスの私生活も監視していて、イエスには秘密がなかったので、新約聖書の福音書はイエスの真実の姿を記していると考えられる。それは、超能力者・霊能力者としてのイエス・キリストの姿なのです。
「だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない」というのは、神様から霊的能力を与えられた者は、社会で誰にも知られず生きてゆくのではなく、必ず、人々を救うために、神様から与えられた力を世の中で発揮するということを意味する。
だから、貧しい大工であったイエスも、神様から与えられた癒しの力などを使って、人々を救い始められたのです。
また、欧米のキリスト教社会では、過去2千年にわたって、キリスト研究が行われており、隠されていたイエスやキリスト教にかかわる事実が多く発見されている。このような、知的な伝統がヨーロッパ文化のレベルの高さを生み出したものであり、東洋や日本には見られないヨーロッパ文化の進歩をもたらしたのです。
日本の神道や仏教は文明を高めるというよりも、日本人の感性を深める働きをして、ヨーロッパ文化とは異なる方向を向いていたが、宗教者の修業の内容や、日本の霊性の内容は、宗教関係者だけでなく、幅広く一般人にも知られるようになっている。
まさに、精神世界でも「秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない」ということです。
だから、キリスト教の探求や研究もつきることはない。(これは、仏教や神道でも同じです。)
ただし、個人の秘密や個人情報を握って脅迫をするようなことは、今の社会でも認められていない。イエスの言う秘密の顕在化と個人情報の保護は、別問題です。なお、誰も知らない社会の秘密を知ることで、優越感に浸る人もいるが、それを公にすることで公共の福祉と安全を促進できるのであれば、イエスの言葉に従って、無償で開示すべきであり、そうでないなら、社会の安定のために秘密は守るべきです。
2026年9月16日水曜日
「ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである」 ("...to others I speak in parables, so that, “‘though seeing, they may not see; though hearing, they may not understand.’")
10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)
10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,
“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’
11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.
+++ +++ +++
AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。
しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。
「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。
「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。
「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。
しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。
また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。
仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。
人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。
それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。
しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。
これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。
イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。
これが、霊的なキリスト教なのです。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)
10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,
“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’
11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.
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AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。
しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。
「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。
「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。
「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。
しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。
また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。
仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。
人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。
それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。
しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。
これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。
イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。
これが、霊的なキリスト教なのです。
2026年9月15日火曜日
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」 (マタイによる福音書 第 9 章) (“It is not the healthy who need a doctor, but the sick.")
10 それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
+++ +++ +++
これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。
11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
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これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。
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