2026年9月12日土曜日

わたしが弱い時にこそ、わたしは強い (コリントの信徒への手紙二 第 12 章) (For when I am weak, then I am strong.)

 

2 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである。

3 この人が――それが、からだのままであったか、からだを離れてであったか、わたしは知らない。神がご存じである――
4 パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたしは知っている。
5 わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外には誇ることをすまい。
6 もっとも、わたしが誇ろうとすれば、ほんとうの事を言うのだから、愚か者にはならないだろう。しかし、それはさし控えよう。わたしがすぐれた啓示を受けているので、わたしについて見たり聞いたりしている以上に、人に買いかぶられるかも知れないから。
7 そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。
8 このことについて、わたしは彼を離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った。
9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)

2 I know a man in Christ who fourteen years ago was caught up to the third heaven. Whether it was in the body or out of the body I do not know—God knows. 3 And I know that this man—whether in the body or apart from the body I do not know, but God knows— 4 was caught up to paradise and heard inexpressible things, things that no one is permitted to tell. 5 I will boast about a man like that, but I will not boast about myself, except about my weaknesses. 6 Even if I should choose to boast, I would not be a fool, because I would be speaking the truth. But I refrain, so no one will think more of me than is warranted by what I do or say, 7 or because of these surpassingly great revelations. Therefore, in order to keep me from becoming conceited, I was given a thorn in my flesh, a messenger of Satan, to torment me. 8 Three times I pleaded with the Lord to take it away from me. 9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
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Wikipediaによれば、この「コリントの信徒への手紙二 」は、「研究者たちはこの書簡がフィリピかテサロニケで紀元58年の初頭にかかれたものと考えている。この手紙をコリントへ届けたのはおそらくテトスであったろう。第一の手紙との違いは、この手紙はコリントの共同体のメンバーのみならず、アカイア州の全域の共同体に宛てられた書簡であるということである」とされている。

「この人は十四年前に第三の天にまで引き上げられた――それが、からだのままであったか、わたしは知らない。からだを離れてであったか、それも知らない」というのは、パウロが、まさに霊的な体験をしたことを述べている。

そして、「パラダイスに引き上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いた」と述べている。つまり、霊界の天国に生きたまま受け入れられたことを述べている。

キリスト教の初期の伝道は、このように霊的な体験によってけん引されていたことが分かる。

しかし、何よりも印象的なのは、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と述べている箇所である。イエス・キリストを信じる者は、この世的な力、暴力、権力、知識の力、肩書などは使わない。この世の弱者として生きて、この世のエリートには逆らわす、悪意のある人からのさまざまな挑発にも乗らず、常に弱者として平和を求める。しかし、この弱さが神様の言葉に従って生きる強さを与え、愛と信仰にたよって生きる生きる宗教的な強さの源となる。

この世的には、弱いからこそ、誰にも脅威を与えないで、警戒されず、社会の弱者の中に入って行け、この世の弱者と真実の心の交わりができることになる。この弱さが、人間関係での強さを与え、信仰と愛の強さを示せるようになる。このような伝道者は、自分の弱さを隠すために、強者を演じることもなく、周囲に平和をもたらし、人々から強い信頼を得ることになる。

ただし、イエスは、信仰者は「人から見下されてはならない」と、信仰者としての威厳を示すように述べている。卑屈にならず、堂々と神様の教えに従って生きなければならない。つまり、この世の強者におもねたり、忖度することなく、また、媚びたり、機嫌を取ることもなく、富裕層やエリートにも人間同士としての正しい品格のある態度で接しなければならない。

生きて霊界の天国に入れたことが、その自身の源泉なのです。

18世紀の神秘家のスエーデンボルグが、キリストの霊によって、生きたまま霊界に受け入れられたように、パウロも生きたまま、霊界の天国に受け入れられたと思われる。この霊的な体験が、パウロの強さの源となり、この世のどんな苦難も耐えられ。誰よりも霊的に優れているとの自信が与えらえたのです。

今でも、臨死体験をした人は、死後の世界(霊界)を見たことで、密かな自信を得ている。この世で弱者であっても、霊界の真実を得ている隠れた強者として生きている。霊が与える強さは、この世的な強さを上回るのです。だから、肩書も、権力も、富もない弱者が、霊的な力でエリートや富裕層に対抗することができるのです。

それは、文明人が、暴力的な未開人を恐れないのと同じことです。文明社会の威力を知っている文明人は、暴力しか知らない未開人は恐れない。暴力的には弱い文明人が、本当は強いように、神様とイエス・キリストの信仰者は、この世の強者に負けることはない。精神力は、誰にも負けないのが、本当の信仰者なのです。

信仰者の強さの裏付けは、この世の地位や富ではなく、霊的な力なのです。

2026年9月11日金曜日

太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり・・・ (ヨハネの黙示録 第 8 章) (...a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark)


羊が第七の封印を解いた時、半時間ばかり天に静けさがあった。
2 それからわたしは、神のみまえに立っている七人の御使を見た。そして、七つのラッパが彼らに与えられた。
3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。
6 そこで、七つのラッパを持っている七人の御使が、それを吹く用意をした。
7 第一の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、血のまじった音と火とがあらわれて、地上に降ってきた。そして、地の三分の一が焼け、木の三分の一が焼け、また、すべての青草も焼けてしまった。
8 第二の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えさかっている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして、海の三分の一は血となり、
9 海の中の造られた生き物の三分の一は死に、舟の三分の一がこわされてしまった。
10 第三の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が、空から落ちてきた。そしてそれは、川の三分の一とその水源との上に落ちた。
11 この星の名は「苦よもぎ」と言い、水の三分の一が「苦よもぎ」のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ。
12 第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて、これらのものの三分の一は暗くなり、昼の三分の一は明るくなくなり、夜も同じようになった。
13 また、わたしが見ていると、一羽のわしが中空を飛び、大きな声でこう言うのを聞いた、「ああ、わざわいだ、わざわいだ、地に住む人々は、わざわいだ。なお三人の御使がラッパを吹き鳴らそうとしている」。 (ヨハネの黙示録 第 8 章)

8 When he opened the seventh seal, there was silence in heaven for about half an hour.
2 And I saw the seven angels who stand before God, and seven trumpets were given to them.
3 Another angel, who had a golden censer, came and stood at the altar. He was given much incense to offer, with the prayers of all God’s people, on the golden altar in front of the throne. 4 The smoke of the incense, together with the prayers of God’s people, went up before God from the angel’s hand. 5 Then the angel took the censer, filled it with fire from the altar, and hurled it on the earth; and there came peals of thunder, rumblings, flashes of lightning and an earthquake.
6 Then the seven angels who had the seven trumpets prepared to sound them.
7 The first angel sounded his trumpet, and there came hail and fire mixed with blood, and it was hurled down on the earth. A third of the earth was burned up, a third of the trees were burned up, and all the green grass was burned up.
8 The second angel sounded his trumpet, and something like a huge mountain, all ablaze, was thrown into the sea. A third of the sea turned into blood, 9 a third of the living creatures in the sea died, and a third of the ships were destroyed.
10 The third angel sounded his trumpet, and a great star, blazing like a torch, fell from the sky on a third of the rivers and on the springs of water— 11 the name of the star is Wormwood.[a] A third of the waters turned bitter, and many people died from the waters that had become bitter.
12 The fourth angel sounded his trumpet, and a third of the sun was struck, a third of the moon, and a third of the stars, so that a third of them turned dark. A third of the day was without light, and also a third of the night.
13 As I watched, I heard an eagle that was flying in midair call out in a loud voice: “Woe! Woe! Woe to the inhabitants of the earth, because of the trumpet blasts about to be sounded by the other three angels!”

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この「ヨハネの黙示録」とは、Wikipediaによれば、「『新約聖書』の最後に配された聖典であり、『新約聖書』の中で唯一預言書的性格を持つ書である」とされている。

その中で、最も印象的な部分が、この「苦よもぎ」がでてくるこの世の終末を予言した部分です。「にがよもぎ」とは、元々ロシア語のチェルノブイリニクというヨモギの一種と語呂が似ており、「チェルノブイリ原発事故」を意味していると考えらえています。

「第四の御使が、ラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれて」という部分は、太陽が日本、月がイスラム諸国、星がヨーロッパとアメリカを表すと考えられる。第二大戦での日本の敗北、その後のイスラム諸国とイスラエルの紛争、そして、ヨーロッパやアメリカで始まる近未来の第三次世界大戦を意味しているのではないかと考えらえる。

ただし、「神のみまえに立っている七人の御使」は、まだ、第五、第六、第七のみ使いがいて、第三次世界大戦後も、人類の悲劇が続くと考えられる。第一から第二のみ使いは、1986年の「チェルノブイリ原発事故」以前の、第二次大戦までの世界の悲劇を表していると考えられる。

第四のみ使いからは、20世紀の予言になっていると考えるのが、霊的な「ヨハネの黙示録」の読み方です。

そもそも、なぜこのような予言の書と考えられる「ヨハネの黙示録」が、新約聖書の中に収められたのかは謎です。Wikipediaでは、「『黙示録』は歴史の中で様々に論じられてきた。特に『聖書』の中でもここにしか現れない「千年王国」論の特殊性への賛否やキリストの再臨の解釈をめぐって多くの議論を巻き起こした。しかし、歴史の中で現れた多くの解釈をまとめると預言書、文学、普遍的イメージの三つの見方に集約することが出来るとする立場もある」とされている。

また、キリスト教では、「最後の審判」という言葉がよく使われているが、AIでは、「最後の審判」とは「キリスト教で世界の終わりに神が人々を裁く場面を指す言葉です。救われる者と、そうでない者が分けられるという主題です」と述べており、「ヨハネの黙示録」を裏付ける教えとなっている。

18世紀の死後の霊界を見たというスウェーデンボルグによれば、人類は何度も神様によって審判を受けており、18世紀には霊界で「最後の審判」が行われ、人類の不信仰が一掃されたという。霊界の「最後の審判」は、2世紀くらい遅れてこの世の人類に現れるので、21世紀には人類社会に大きな変動が起こると考えられている。

実際に、人類の歴史は、2千年前にイエス・キリストがこの世に出現して以来、文明化が進み、18世紀以降の科学・技術の発展によって、20世紀には、人類は原子力技術を得て、人類滅亡の核戦争が心配されている。さらに、物質文明の暴走によって自然異常が生じて、地球の破壊が進んでいるとの見方もある。AIとコンピュータ技術の進展は、それを加速していると考えられる。

このような、人類の危機について、神の子のイエス・キリストが沈黙しているはずはない。2千年前からイエス・キリストは、今日の人類の悲劇を予測していてもおかしくなく、それを聖霊を用いて、「ヨハネの黙示録」として新約聖書に納めさせたのであろう。

聖書に書かれたイエスの奇跡を信じるように、「ヨハネの黙示録」に神様の意図を感じるのがキリスト教徒なのです。

さもなければ、この黙示録は、「不信仰者への警告を、おおげさな夢物語り」として記した書だということになる。そのような、無意味な書を新約聖書に含めるキリスト教は信用できない、ということになる。

しかし、敬虔なキリスト教徒であったスエーデンボルグは、「ヨハネの黙示録」を霊的な書だとして研究している。そして、人類の霊的な歴史を理解しなければならないと考えている。要するに、人類はアダムとイブの時代やノアの箱舟の時代から、霊的に堕落を続けて来たので、霊界や人間界を刷新し、霊的に浄化する必要があると考えられた神様は、何度も人類に審判を下され、「ヨハネの黙示録」は神様による人類社会の最後の浄化を表すものだということになる。

また、スウェーデンボルグと同時代のイギリスの科学者のニュートンは、独自の聖書の研究によって、「最後の審判」は2060年までは起こらないと書いていた。

いずれしても、21世紀に決定的なことが人類に生じると考えられる。

なお、宇宙人にUFOに連れ込まれた、リンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則は、宇宙人から2030年頃に、人類は決定的な運命に見舞われて文明の崩壊に向かうと警告されている。その他、世界中で宇宙人から警告を受けたという人は多い。宇宙人とキリスト教に関係があるとする説もある。

いずれにしても、「ヨハネの黙示録」がキリスト教の新約聖書の中に含まれていいることは、聖霊の働きによると考えれば、やはり、そこに霊的な意味を見出すのが正しい。

このようなキリスト教の内容を日本人は、その霊性に基づいて研究すべきなのです。それが、日本人に与えられた歴史的課題であり、それが日本の存在意義なのです。


2026年9月10日木曜日

「女よ、あなたの病気はなおった」 (ルカによる福音書 第 13 章) (“Woman, you are set free from your infirmity.”)


10 安息日に、ある会堂で教えておられると、
11 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。
12 イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、
13 手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。
14 ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。
15 主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。
16 それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。
17 こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。 (ルカによる福音書 第 13 章)

10 On a Sabbath Jesus was teaching in one of the synagogues, 11 and a woman was there who had been crippled by a spirit for eighteen years. She was bent over and could not straighten up at all. 12 When Jesus saw her, he called her forward and said to her, “Woman, you are set free from your infirmity.” 13 Then he put his hands on her, and immediately she straightened up and praised God.

14 Indignant because Jesus had healed on the Sabbath, the synagogue leader said to the people, “There are six days for work. So come and be healed on those days, not on the Sabbath.”

15 The Lord answered him, “You hypocrites! Doesn’t each of you on the Sabbath untie your ox or donkey from the stall and lead it out to give it water? 16 Then should not this woman, a daughter of Abraham, whom Satan has kept bound for eighteen long years, be set free on the Sabbath day from what bound her?”

17 When he said this, all his opponents were humiliated, but the people were delighted with all the wonderful things he was doing.
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これは、イエス・キリストが心霊治療を行った話です。

いわゆる「手かざし」で、イエスが病の女性に「手をその上に置かれ」て「あなたの病気はなおった」と言われたときに、その女性の病は癒されたのです。そして、その女性が病になったのは、「サタンに縛られていた」からだと述べられたのです。

しかし、ユダヤ教の会堂司は、「安息日には」病の治しはできない、と言って、自分たちの宗教的権威をひけらかして、病の女性を放置していた。それを、イエスは責めたのです。サタン,つまり悪魔との戦いは安息日でも、放置することはできないのです。

いかにイエスが霊的能力と権威をもっていたかを物語っているエピソードです。従って、イエスの弟子たちにも、霊的能力があり、病の癒しはできたものと思われる。イエスの教えが、人々に受け入れられたのは、この心霊治療の効果が大きい。日本でも、聖者と呼ばれる人は、心霊治療が出来ることが常識だった。ただし、天皇神道の頂点にいる天皇が心霊治療ができたという話しは、古代でもほとんどない。仏教の名僧には、心霊治療ができたと言われる空海などの霊能力者がいたが、厳しい修行が必要だったと言われる。

ただし、厳しい修行をしないでも、神様がその人の霊的状況を見て、霊能力を与えてくれる場合には、本人も説明できないままに、心霊治療ができる場合もある。普通の生活をしていた高塚光も、サラリーマン超能力者となって、心霊治療ができたのは、この場合にあてはまる。ただし、その人間の霊的状態が変われば、神様がその力を取り去る場合もある。

宗教は、霊界に通じる霊能者がいなければ成り立たない。しかし、そこにトリックや魔術と呼ばれる悪魔の力を借りて人々を惑わす者が出てくる場合もある。イエス・キリストは、そのようなニセ予言者などを警戒せよと述べておられる。イエスの時代から、インチキ霊能者はいたのです。彼らの中には、悪魔に魂を売って、悪魔から霊能力を得ている者もいる。霊能力があるからと言って、神様とつながっているとは言えない。だから、カトリックでは、霊能者を聖者と認定するのに、時間をかけて厳しく審査をする。悪魔とつながったものでも、場合によっては心霊治療ができる。

聖書の福音書は、イエス・キリストの霊的力を記したものだが、単なる言行録ではなく、神様の真理と愛の力を、イエス・キリストが表すことができたという信仰を強める書物でもある。だから、聖書には霊能力が宿っていると考えられる。仏教の仏典や神道の祝詞のような、霊能力がキリスト教の聖書にもあると考えるべきです。

そもそも、キリスト教は、言葉は神様から来たという教義から成り立っている。聖書に親しむことで、読者も霊能力が与えられるのです。従って、イエスのように心霊治療が神様から与えらえることも可能なのです。実際に、イギリス、フィリピンやブラジルなどの心霊治療家は敬虔なキリスト教信者が多い。

これは、言葉には霊能力があるという仏教や神道の考えとも一致する。また、日本の修験道などでも、呪文の力を利用している。言葉は言霊(ことだま)と呼ばれて霊能力があると考えるのが、日本人の霊性の特徴なのです。また、お経などは、意味が分からなくても、その音を聞くだけでも効果があるとされ、神道では日本語の音のそれぞれに意味があるとされる。キリスト教で聖歌が好まれるのは、やはり、霊的効果があるからです。音楽は、その心に与える効果を楽しむだけのものではなく、霊的効果を生み出すものでもあるのです。

病の女性に「あなたの病気はなおった」とイエス・キリストが言葉をかけたことにも意味がある。言葉が、霊的な力を運ぶのです。

東大医学部卒の故・塩谷信男は、願ったことを「断言」することで、宇宙の力を得ることができると述べたが、言葉の力は大きいことは、心霊研究者にはよく知られている。だから、宗教家は冗談などは好まない。悪魔が冗談に入り込むと考えるべきです。人生も冗談で生きる者はいない。人生は真剣に生きるものであり、聖霊に導かれて生きるのが正しいのです。

アメリカの医学の研究でも、言葉を使った祈りの治療効果が認められている。願いを込めた言葉と祈りには、霊的効果があり、物質界にも影響が出るのです。ただし、スポーツでファンが応援するチームの勝利を祈っても、神様がすぐに応えることはない。その勝利に、信仰の意味がなければ、そのような祈りは無意味なのです。

また、先の日米戦争では、天皇神道を信じる日本人がどんなに祈っても、キリスト教を信じるアメリカ人に勝てず、戦後は天皇家も神道的性格を隠すようになった。そして、現上皇はキリスト教系の大学の卒業生を妻に迎え、今の天皇はキリスト教国のイギリスに留学している。神道の伝統から言えば、考えられないことです。天皇家はキリスト教を認めていることになる。しかし、日本人を管理するには、神道の伝統に効果があるので、天皇家はキリスト教を公式には取り入れない。かつては、仏教を公式に取り入れたことがあるのだから、天皇家が今、キリスト教を取りれても問題はない。ただし、それでは天皇家に霊能力がないことを明白に認めることになるので、体面上もできないのです。

しかし、天皇家よりも国民の方が大事なので、日本人は世界の主流のキリスト教を学び、聖書を読んで霊能力を身に着け、心霊治療ができるようになるべきです。


2026年9月8日火曜日

「人をさばくな。自分がさばかれないためである」 (マタイによる福音書 第 7 章) (“Do not judge, or you too will be judged.")


人をさばくな。自分がさばかれないためである。
2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイによる福音書 第 7 章)

7 “Do not judge, or you too will be judged. 2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? 4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
6 “Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and turn and tear you to pieces.
7 “Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. 8 For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened.
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これは、イエス・キリストによる教えの中でも、基本となる印象的な言葉です。

しかし、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」という簡単な教えすら、守って生きているキリスト教徒はほとんどいないのが現状です。実際、現代社会で裁判制度を支持しないキリスト教徒はいない。

法律的な問題でなくても、人間には、必ず自分の思いが叶わないことがある。そして、その阻害要因が他人にあると判断すれば、その他人を恨み、できれば復讐しようとする。そして、復讐された側は、それを恨みに思い、逆に復讐しようとする。逆襲された側は、再度、相手を攻撃する。この復讐の連鎖はどこまでも続く。この復讐劇の出発点は、最初に「人をさばいた」ことにある。だから、イエスは「人を裁くな」と仰ったのです。

特に、悪魔は、人間に間違った判断をさせ、無実の人間を攻撃させることを好む。そして、人間社会を混乱させようとしているから、それを避けるために、軽々しく人を裁くな、ということも意味する。

また、兄弟に非があると判断すれば、兄弟げんかが始まる。たいていは、兄弟の過ちを過大に評価し、責任を兄弟になすりつける。しかし、公平に見れば、兄弟の非は目の中の「ちりやほこり」程度のものであり、自分の方には建物の大きな「はり」ほどの責任があることも多い。だから、「塵や埃」よりも大きな「梁」を見よと教えておられる。つまり、兄弟を責めてはならない、ということです。

「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」というのは、動物と人間の霊格の違いを明らかにしている。本能に従って生きる動物には善悪の区別はない。また、清濁の区別もない。さらに、聖邪の区別もない。ただ、暴力的な力と食欲の大きさだけが理解できる。従って、動物の霊格は決して人間の上にはならない。特に家畜やペットは。人間によって思い通りに飼いならされるが、飼い主を道徳的に判断することもできない。

そのような、動物に「聖なるもの」を与えても無意味だし、「真珠」のような宝物を与えても感謝しない。また、人間には心が腐敗・堕落し、動物なみの心を持っ者もいる。そのような状態の人間に、聖なるものを与えたり、宝物を与えるのは無駄であり、また、時には有害となる。だから、「犬」や「豚」なみの心しかない人間には、宗教的な教えが分かったり。経済的な本当の価値が理解できると思ってはならない、ということです。

むしろ、逆に「犬」や「豚」は、「それらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」と述べて、恩を仇で返すようなことをする、と教えておられる。つまり、「犬」や「豚」の心に悪霊が入り込み、心を許した人間を攻撃する。だから、信仰心のない人間には聖なる話や、救いの言葉をかけてはいけない、という教えになる。そのような動物並みの心しかない人間は警戒せよということです。自然に生きる動物は、聖なるものや人間の宝物には無関心だが、人間の世界に入り込んだ家畜やペットは、むしろ、自然の中にはない人間の宗教や宝物に反感を持つ、ということであり、悪魔に魂を売った人間は聖なるものには反感をもつということです。ただし、これは動物虐待のような取り扱いを認めるものではない。自然を愛する人間の心は、動物にも向けられるべきです。それでも、イエスや弟子たちが、動物のペットを持っていなかったことを忘れてはならない。

つまり、不信仰者を扱うには、専門の宗教的訓練を受けた聖職者が必要になる。「犬使い」や「豚使い」のような専門家が必要です。これは、教育を受ける子供たちには、専門の教師が必要なことに通じる。また、根っからの悪人を扱うには、専門の取締官が必要になる。要するに、人間を軽々しく扱ってはならないのです。子供を育てることの重要さは、この問題に関係する。

しかし、イエスの教えは、人々に希望を与えるものであり、人生訓のような忠告のあとに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と述べて、信仰者が神様に願えば、願えごとは叶うと教えておられる。また、「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる」と、信仰者は積極的に生きていくべきことを教えておられる。

「求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」というのは、信仰者だけでなく。全ての人間の共通の運命なのです。つまり、人間は心をこめて求めれば、それに世の中がこたえるようにできているのです。人間の意欲、想念のもつ力は大きいのです。ただし、信仰心がなければ、与えらえたことも理解できないし、門を開けてもらったことにも気が付かないことがある。

「求める」エネルギーや「探す」エネルギーは、周辺の状況に働きかけ、それに対応するように環境が変わるのです。そもそも、子供が食事を求めるのを無視するような親はいない。学生が志望して入学してくれば、それにこたえるのが学校です。また、仕事を求めて入社してきた人間には、仕事を与えるのが会社なのです。一人の人間の精神的エネルギーは、この世や霊界を動かすほどの力を持つのです。その例が、世界宗教を打ち立てたイエス・キリストの心なのです。

また、人間が、この世で信仰心に従って、生きようという意欲を見せれば、それに応えるのが神様、聖霊、天使なのです。

このイエス・キリストの前半の教えや忠告に従う信者には、後半の希望の言葉が与えられるのです。

ただし、悪の世界も同様です。悪事を愛する者には、悪魔が扉を開いてくれる。善や愛を憎むものには、腐敗や堕落への道が開き、地獄への道が開くのです。悪魔も大きな想念を持っている。これは、警戒すべきです。ただし、天使の力の前には悪魔は無力です。

要するに、天国を愛する者には、天国への道が開かれ、地獄を愛する者には、地獄への道が開かれるのです。この世は、天国を願う者と地獄を好む者が混在する世界なのです。ただし、死後は両者の世界は明確に分かれ、合い交わることはない。神様は、悪魔と同じところにはおられないのです。


2026年9月7日月曜日

大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた (ヨハネによる福音書 第 11 章) (Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!”)


37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。

38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。 (ヨハネによる福音書 第 11 章)

37 But some of them said, “Could not he who opened the eyes of the blind man have kept this man from dying?”
38 Jesus, once more deeply moved, came to the tomb. It was a cave with a stone laid across the entrance. 39 “Take away the stone,” he said.
“But, Lord,” said Martha, the sister of the dead man, “by this time there is a bad odor, for he has been there four days.”
40 Then Jesus said, “Did I not tell you that if you believe, you will see the glory of God?”
41 So they took away the stone. Then Jesus looked up and said, “Father, I thank you that you have heard me. 42 I knew that you always hear me, but I said this for the benefit of the people standing here, that they may believe that you sent me.”
43 When he had said this, Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!” 44 The dead man came out, his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face.
Jesus said to them, “Take off the grave clothes and let him go.”
45 Therefore many of the Jews who had come to visit Mary, and had seen what Jesus did, believed in him.

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Wikipediaによれば、「『ヨハネによる福音書』11章によれば、ラザロが病気と聞いてベタニアにやってきたイエスと一行は、ラザロが葬られて既に4日経っていることを知る。イエスは、ラザロの死を悲しんで涙を流す。イエスが墓の前に立ち、「ラザロ、出てきなさい」というと、死んだはずのラザロが布にまかれて出てきた。このラザロの蘇生を見た人々はイエスを信じ、ユダヤ人の指導者たちはいかにしてイエスを殺すか計画し始めた。カイアファと他の大祭司はラザロも殺そうと相談した。(ヨハネ12:10)」となっている。

これは、イエス・キリストが死人を蘇らせた話として有名です。しかし、これを知ったユダヤ人の指導者たちはイエスを殺害する決意を固める。人を生き返らせる力のあるイエスを殺しても、自分の力で生き返るはずだから、無駄なことだと考えられるのに、彼らはとにかく一度は殺さなければならない、と考えた。彼らには悪魔が取り付いているから、無駄なことでも、やろうと考えるのです。

所詮、悪魔は神様がおくられる天使には勝てない。ましてや、神様の子といわれるイエス・キリストには勝てない。だが、イエスは人間として現れているので、人間としては殺すことができる。たとえ、霊的に生き返っても、神様に対する嫌がらせにはなる。悪魔は、どんな無駄に見えることでも、神様の栄光を傷つけたいのです。

その結果、人間としてのイエス・キリストは悪魔の罠にはまって十字架上で殺害されるが、再び霊界から人間として姿を現し、弟子たちを勇気づけ、イエスの教えはさらに広まっていくことになる。しかし、そのまま地上に生き続ければ、さらに悪魔の攻撃が続き、世界がめちゃくちゃになる。だから、一度、人間として復活したあとは、イエスは霊界から弟子たちを守り、彼自身の教えが世界に広まるようにしたと考えらえる。

ただし、世の中が再び、悪魔の影響で腐敗・堕落し、最後の審判が必要になったときには、イエス・キリストは再度この世に姿を現すと、弟子たちに告げられた。このイエスの再臨の約束を信じるのがキリスト教です。イエス・キリストの刑死後、2千年たっても、まだイエスは再臨していない。この世の終わりのときはいつなのか、最後の審判のときはいつなのかと、2千年間、キリスト教社会では議論されてきた。

しかし、その間、多くの人々は死んでいる。しかし、人間の肉体は死んでも、その魂は霊界で生き続ける。個人にとっては、肉体の死が、その人にとっては最後の審判のときになる。この世の社会は続くが、やがて、社会自体が行き詰まる時が来る、そのときには、イエス・キリストは誰にも分かるように、雲に乗って再来すると言われている。この人間社会への再来を信じるのがキリスト教なのです。

個人は肉体の死とともに、魂が肉体を離れて霊界で生き続けるが、そのときに、神様の最後の審判を受けて天国に受け入れられか否かが決まる。それが個人にとって最後の審判になる。だが、人間の社会全体が神様に裁かれる時が来る。その社会全体の最後の審判の時が、常にキリスト教社会では問題になる。

18世紀の科学者のニュートンと同時代に、霊能者のスウェーデンボルグは、生きたまま霊界を見ることが許され、霊界で最後の審判を見たという。この霊界の出来事は2世紀くらい遅れて、この世の人間界で現れると言われており、21世紀の現在に物質文明の崩壊という形で現れると考えられる。

また、聖書を研究したニュートンは、世の終わりのときは、2060年までは始まらないと結論づけたという。万有引力の発見でニュートンは有名だが、宗教的にはこの予測が有名です。なお、イギリスはカトリック教会ではなく、独自の教会システムを持っている(英国国教会)。日本の天皇がイギリスに留学したということは、日本の皇室が英国国教会を認めたということであり、天皇神道の限界を示している。

なお、日本人の心霊研究家でもあった故・塩谷信男(東大医学部卒)や故・政木和三(阪大工学部卒)は、物質文明の影響による異常気象で人類は21世紀くらいに危機に陥ると述べていた。塩谷はそれを避けるには、各人が塩谷の考案した「正心調息法」を実践して祈るべきだと主張していた。政木は、何百年かの暗黒時代の後、地球の自然が回復し、文明は復活すると述べていた。しかし、近未来に自然大災害が起きることは、両者とも予測していた。

今はAIの発展で科学は頂点を極め、また、アメリカを中心とした月の有人探査も行われようとしており、人類は物質文明をさらに進めようとしているが、異常気象はますます深刻化しており危険水準にある。また、ロシアのウクライナ侵攻やイランとイスラエル・アメリカの紛争も続き、また、中国も覇権主義的な姿勢を変えていない。つまり、第三次世界大戦は避けられそうもない。

つまり、今世紀中には、第三次世界大戦と自然大災害が避けられそうもない。まさに、物質文明の崩壊です。

なお、UFOの宇宙人は地上の人類が核戦争や核事故で滅亡しないように監視しているという説もあるが、宇宙人は人類の歴史には干渉しないという姿勢を取っており、宇宙人が地球を救うということは期待できない。UFOの宇宙人はリンゴの無農薬栽培で有名な木村秋則にUFOで、人類はこのままでは2030年あたりから滅びに入ると知らせている。

今世紀の物質文明を停止させ、より霊的・精神的な文明に移行するのは人類の責任だということになる。人類が亡んだ後に宇宙人は地球を占領するかも知れないが、人類には宇宙人に対抗する方法はない。(ただし、アメリカ政府の一部は、密かに宇宙人と連絡・交渉しており、地球が亡びれば、彼らはUFOで地球を脱出するつもりだという説はある。)

つまり、人類は今世紀中に自ら自分たちを救う以外に手はない。それでも、イエス・キリストがその際には、雲に乗って出現し、人類を救って下さるというのがキリスト教の教えなのです。

人間は死後も霊界で生きるが、この世の人類が亡びれば、霊界で何が起きるのかは分からない。神様が造られた人間が亡びれば、霊界でも大きな影響が出る。悪魔は人類が亡びれば喜ぶが、聖母マリアは悲しむ。だから、聖母マリアの霊はこの世に何度も出現して、人類に警告を与えている(百年前のファチマの聖母の出現など)。最後には、イエス・キリストが現れるとしても、多くの人間が霊界の地獄に行くのは悪魔が喜ぶだけです。やはり、早く人類は神様の教えに立ち返り、死後は霊界の天国で受け入れられるようにしなければならない。

このラゾロの復活は、イエス・キリストの力を示すものであり、人間は死を恐れずに、イエスの力を信じて、新たな文明を打ち立てるべきことを教えている。



2026年9月6日日曜日

『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』 (使徒言行録 第 11 章) (‘Do not call anything impure that God has made clean.’)


4 そこでペテロは口を開いて、順序正しく説明して言った、
5 「わたしがヨッパの町で祈っていると、夢心地になって幻を見た。大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた。
6 注意して見つめていると、地上の四つ足、野の獣、這うもの、空の鳥などが、はいっていた。
7 それから声がして、『ペテロよ、立って、それらをほふって食べなさい』と、わたしに言うのが聞えた。
8 わたしは言った、『主よ、それはできません。わたしは今までに、清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』。
9 すると、二度目に天から声がかかってきた、『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』。
10 こんなことが三度もあってから、全部のものがまた天に引き上げられてしまった。(使徒言行録 第 11 章)

4 Starting from the beginning, Peter told them the whole story: 5 “I was in the city of Joppa praying, and in a trance I saw a vision. I saw something like a large sheet being let down from heaven by its four corners, and it came down to where I was. 6 I looked into it and saw four-footed animals of the earth, wild beasts, reptiles and birds. 7 Then I heard a voice telling me, ‘Get up, Peter. Kill and eat.’

8 “I replied, ‘Surely not, Lord! Nothing impure or unclean has ever entered my mouth.’

9 “The voice spoke from heaven a second time, ‘Do not call anything impure that God has made clean.’ 10 This happened three times, and then it was all pulled up to heaven again.
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インターネットのAIによれば、この聖書の「使徒言行録」については、
「主に次の流れです。
ペテロが異邦人にも福音が及んだことを説明する
コルネリウスの出来事がエルサレムで報告される
アンティオキアで多くの人が信仰に入る
弟子たちがそこで初めてキリスト者と呼ばれる
飢饉の知らせを受け、援助が送られる
これらの流れは、使徒言行録全体の中でも福音がユダヤ人の枠を越えて広がる大きな転換点として読まれています」と記されています。

イエス・キリストの十字架上での死後、イエスが弟子たちに姿を見せられて、イエスが死に打ち勝ったことを知った弟子たちは、勇気を得て世界に伝道を始めたときに、弟子のペテロが見た幻について書かれた部分がこの第11章です。

つまり、キリスト教は、イエス・キリストの霊的な力で成立したのです。科学的な合理性を重んじる欧米の文明が、霊的な力で成立したキリスト教を基盤としていることは、驚くべきことです。

そのペテロが見た幻の中で、「大きな布のような入れ物が、四すみをつるされて、天から降りてきて、わたしのところにとどいた」が、ペテロが「清くないものや汚れたものを口に入れたことが一度もございません』と神様に言うと。神様は『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』と、ペテロを戒めたというのが、この第11章の話です、

つまり、ユダヤ教の教えなどより、神様が直接行ったことを信ぜよということです。この精神に従って、ペテロは伝道を続け、イエス・キリストの教えはローマ帝国の領域から、全世界に広まって行き、第二次世界大戦後は、日本でも自由にキリスト教を学ぶことができるようになったのです。

いや、むしろ、キリスト教が日本で学べるように第二世界大戦が生じたとも考えられます。つまり、イエス・キリストの死後、1900年経過して、日本でイエス・キリストの教えが自由に学べるようになったのです。

実際、第二次世界大戦の日米戦争に敗北した日本に、キリスト教国アメリカの民主主義に基づく新憲法が、マッカーサー占領軍司令官によって導入され、現在までの戦後の日本の平和と繁栄が保証されたのです。つまり、現日本国憲法はキリスト教の精神に基づいており、日本は準キリスト教国として欧米に認められ、今ではG7の一国として、世界のリーダーの1つになっているのです。

(日本人は、天皇が軍部と戦って現憲法を導入したかのように錯覚して、今でも皇室を敬っているが、天皇家を倒したアメリカ軍のお陰て、言論・宗教の自由が認められた現憲法が成立したのです。天皇は。日米戦争を許可した反キリスト的な人間だった。しかし、戦後はマッカーサー元帥に、巧妙に取り入って(10回も元帥を秘密で訪問している)、今も天皇家は日本社会の最高の地位にある。この天皇家の問題を解決しない限り、日本人は発展しない・・・)

いづれにしても、ペテロが夢で見た、天から下った布の中身とは世界の各民族を象徴するものだったと考えれば、世界の各民族の霊的な状況に入って行って、伝道をせよという意味だと考えられる。

この2千年の歴史は、キリスト教が世界に普及する歴史だったと考えられる。世界で、キリスト教精神を国の基本に置いていない国は、中国や北朝鮮、イランなどのイスラム教国とイスラエルです。やがて、中国や北朝鮮の政権は崩壊し、日本のようにキリスト教のアメリカの影響下に置かれると思われる。

また、イスラム教国もキリスト教を受け入れ、ロシアも自国の偏ったキリスト教ではなく、世界の主流のカトリックやプロテスタントに合流すると思われる。問題は、ユダヤ教に従っているイスラエルです。イスラエルのユダヤ人も、キリスト教を受け入れるときに、世界の歴史は完結すると思われる。それには、今のキリスト教ではなく、心霊主義を取りれ、また、日本の霊性を取り入れた霊的なキリスト教になる必要がある。日本人の責任は重大です。

例えば、UFOの宇宙人から見れば、地球の人類の宗教がバラバラでは、地上の人類は信用できないことになって、地上の誰を相手にすればよいのかも分からない。宇宙人は地上の人類の宗教が統一されるのを待っているのかも知れない。

イエス・キリストは、宇宙的な存在であり、宇宙を作ったのは、キリスト教の神だと考えるべきです。地球の全ての宗教を見ても、宇宙の存在を説明できるのは、キリスト教の神様です。だから、キリスト教文化圏のヨーロッパから現代科学が発展し、スウェーデンがノーベル賞を与えて世界の科学を主導し、日本人もその権威を認めている。現代科学・技術はキリスト教文明から生じたのであり、それを象徴しているのが、ノーベル賞なのおです。

しかし、そのスエーデンの18世紀(科学者のニュートンの時代)の神秘家スウェーデンボルグが、生きたまま死の世界の霊界を見て、多くの著作を表し、心霊主義を唱えたことは印象深い。敬虔なキリスト教でもあったスエーデンボルグは、イエス・キリストの霊に導かれて、生きたまま霊界を見てきたのであり、臨死体験をしたと思われる。日本でも明治時代からスエーデンボルグの研究は行われている。

日本では「死んで生き返った者はいない」と言われるが、スウェーデンボルグは生きたまま、死後の世界の霊界を見てきたのです。ペテロは、1900年前に夢で神様を見たが、250年前にスウェーデンボルグは、霊界を見て来たのです。

このように、キリスト教には多くの霊的な要素があり、日本人もキリスト教を学ぶべきです。

キリスト教が世界の文化の主流となったことは、素直に認めるべきです。日本の神道や仏教が今の文明を作ったわけではないのです。日本の霊界も、キリスト教が示す霊界の一部だと考えれば、日本の霊性を否定することなく、イエス・キリストの教えを受け入れることができる。仏教や神道を信じながら、イエス・キリストの教えを学ぶことは矛盾しないのです。天皇を敬いながら、聖書を学ぶことは矛盾しないのです。

日本中で、キリスト教の研究が盛んになることが理想なのです。


「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」 (ルカによる福音書 第 16 章) ("You cannot serve both God and money.”)

     

イエスはまた、弟子たちに言われた、「ある金持のところにひとりの家令がいたが、彼は主人の財産を浪費していると、告げ口をする者があった。
2 そこで主人は彼を呼んで言った、『あなたについて聞いていることがあるが、あれはどうなのか。あなたの会計報告を出しなさい。もう家令をさせて置くわけにはいかないから』。
3 この家令は心の中で思った、『どうしようか。主人がわたしの職を取り上げようとしている。土を掘るには力がないし、物ごいするのは恥ずかしい。
4 そうだ、わかった。こうしておけば、職をやめさせられる場合、人々がわたしをその家に迎えてくれるだろう』。
5 それから彼は、主人の負債者をひとりびとり呼び出して、初めの人に、『あなたは、わたしの主人にどれだけ負債がありますか』と尋ねた。
6 『油百樽です』と答えた。そこで家令が言った、『ここにあなたの証書がある。すぐそこにすわって、五十樽と書き変えなさい』。
7 次に、もうひとりに、『あなたの負債はどれだけですか』と尋ねると、『麦百石です』と答えた。これに対して、『ここに、あなたの証書があるが、八十石と書き変えなさい』と言った。
8 ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である。
9 またあなたがたに言うが、不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい。そうすれば、富が無くなった場合、あなたがたを永遠のすまいに迎えてくれるであろう。
10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。
11 だから、もしあなたがたが不正の富について忠実でなかったら、だれが真の富を任せるだろうか。
12 また、もしほかの人のものについて忠実でなかったら、だれがあなたがたのものを与えてくれようか。
13 どの僕でも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛し、あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである。あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」。 (ルカによる福音書 第 16 章)

16 Jesus told his disciples: “There was a rich man whose manager was accused of wasting his possessions. 2 So he called him in and asked him, ‘What is this I hear about you? Give an account of your management, because you cannot be manager any longer.’
3 “The manager said to himself, ‘What shall I do now? My master is taking away my job. I’m not strong enough to dig, and I’m ashamed to beg— 4 I know what I’ll do so that, when I lose my job here, people will welcome me into their houses.’
5 “So he called in each one of his master’s debtors. He asked the first, ‘How much do you owe my master?’
6 “‘Nine hundred gallons[a] of olive oil,’ he replied.

“The manager told him, ‘Take your bill, sit down quickly, and make it four hundred and fifty.’
7 “Then he asked the second, ‘And how much do you owe?’
“‘A thousand bushels[b] of wheat,’ he replied.
“He told him, ‘Take your bill and make it eight hundred.’
8 “The master commended the dishonest manager because he had acted shrewdly. For the people of this world are more shrewd in dealing with their own kind than are the people of the light. 9 I tell you, use worldly wealth to gain friends for yourselves, so that when it is gone, you will be welcomed into eternal dwellings.
10 “Whoever can be trusted with very little can also be trusted with much, and whoever is dishonest with very little will also be dishonest with much. 11 So if you have not been trustworthy in handling worldly wealth, who will trust you with true riches? 12 And if you have not been trustworthy with someone else’s property, who will give you property of your own?
13 “No one can serve two masters. Either you will hate the one and love the other, or you will be devoted to the one and despise the other. You cannot serve both God and money.”

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このイエス・キリストの言葉、「神と富とに兼ね仕えることはできない」という教えは、聖書の中でも、決定的なイエスの教えです。

これは、この世のカネや富が、神様にさからう悪魔の化身だということを意味しているのです。この世でカネや富を求めて欲望を満たそうとしてはいけない、ということです。

この世の欲望を満たそうとすると、人間はカネや富を求める。そして、そのためには悪魔に魂を売ってでもカネや富を得ようとすることになる。つまり、神様の敵となってカネや富を求める。だから、拝金主義になるな、ということです。

逆に神様への信仰心のある人間は、必要なものは神様が与えてくれると、神様への信頼を失うことはない。イエスは、イエスの名によって神様にお願いすれば、願いは叶うと教えておられる。その祈りが、神様の教えに適っているものであれば確かに実現する。ただし、神様の教えに反していれば実現しない。

多くの場合、人間は神様の教えとは関係のない自分への欲望のために神様に願い事をしようとするので、その願いは叶えられないのです。つまり、願い事をするときは、その願いがどのように社会に役立つものかを考えなければならない。

また、「小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である」と述べて、何ごとにも真剣に取り組むべきことを述べておられる。全ては、神様の許可により存在しているからです。どんな小さなことでも、神様につながるものなのです。そして、悪魔は細部に宿るという諺のように、小さなものごとにこそ、神様への信仰心がためされるのです。

さらに、「不正の富を用いてでも、自分のために友だちをつくるがよい」と述べて、たとえ自分のためであっても、隣人への配慮を忘れずに、出来るだけ多くの人を自分の幸運にかかわらせることを勧めている。

そのような、配慮のある人間は、たとえ不正なことをしていても、神様は「利口なやり方をほめた。この世の子らはその時代に対しては、光の子らよりも利口である」と述べて、この世にこだわり、神様への信仰心がなくても、天国のことばかり考えて現実を忘れる信者より利口だと述べている。つまり、神様の信者より、その場、その時代に適した効果的で効率的な方法が分かる不信者もいるということです。つまり、人間社会では、この世に注意を払う人間は、この世を忘れる信仰心だけの人間より有用な場合があるということです。

つまり、この世のことは単純な信仰心だけでは、解決しないことが多い。それでも、問題をカネで解決しようとしてはいけない。それは、人間は「神と富とに兼ね仕えることはできない」という原則があるからです。

あくまで、その時代の知恵であっても、この世を円滑に生きるために、仲間を増やして自分も助かる場合には、不正者のやり口でも許容されるということです。とにかく、他人に悪意のない願いであれば、神様は許して下さることがある。だから、人を責めてはならない、とイエス・キリストは教えておられるのです。

それでも、人間は「神と富とに兼ね仕えることはできない」という原則を忘れてはならない、状況によっては、柔軟に対応しなければならないが、あくまで、この世のカネや富は悪魔とつながるものであることを忘れるなということです。

まさに、例外のない規則はないという運用は必要だが、原則的な規則は破棄されるわけではない。

そして、神様への捧げものでも、金持ちが義務的に大金を捧げるより、貧乏人の心のこもった喜捨が好ましいのです。

実際、大金の寄付を集めるヴァチカン銀行などは、怪しい噂に包まれている。しかし、貧しい人からの寄付で成り立つ寒村の教会は多くの村民の支えとなって、人々を救っていることが多い。そこに、奇跡が働くのです。まさに、発明家で心霊研究家の故政木和三が言っていたように、無欲であれば、奇跡は起こるのです。