2026年10月10日土曜日

それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた (ヨハネによる福音書 第 13 章) (he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him)


3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、 4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 (ヨハネによる福音書 第 13 章)

3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
9 “Then, Lord,” Simon Peter replied, “not just my feet but my hands and my head as well!”
10 Jesus answered, “Those who have had a bath need only to wash their feet; their whole body is clean. And you are clean, though not every one of you.” 11 For he knew who was going to betray him, and that was why he said not every one was clean.

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これは、ご自分の死が近いことを知ったイエス・キリストが、弟子たちの脚を、彼らの召し使いのように洗ったという、福音書で有名な場面です。

AIでは、「イエスは足を洗った後に、主であり師である自分がそうしたのだから、弟子たちも互いに仕え合うべきだと語っています。これは、立場の高さではなく、愛をもって仕えることの大切さを示す教えとして読まれています (jw.org) 」と、説明されている。

今の教会で神父や牧師が、参会者の脚を洗うことはしない。神父や牧師は、キリスト教系大学の出身者として、参会者より立場が上の者として、参会者を導く立場のものとして、参会者に道徳や宗教の教えを説く。これは、イエスの姿勢とは大きく異なる。

本来、キリスト教は弱き者、小さき者、貧しき者を助ける教えなのです。彼らの上に立つ聖職者のためにある宗教ではありません。ただし、神父や牧師には、イエス・キリストから霊的に受け継いだ神様のご威厳とご栄光を人々に教えるという尊い任務が、イエス・キリストから与えられているので、人々から尊敬されるべきなのです。しかし、人々の上に立つ者だと考えるのは、イエスの教えに反する。むしろ、イエスのように人々の召し使いだとして行動すべきなのです。

しかし、そこまでヘリ下る神父や牧師はいない。それでも、彼らは人を導く、人より上の立場だと思っている。しかし、社会はそこまで聖職者を尊重するわけではない。教会がカネをくれるわけでもなく、生活の面倒を見てくれるわけでもなく、病を治してくれるわけでもなく、法律上の問題を解決してくれるわけでもなく、精神的な苦しさを解決してくれるわけでもなく、社会的な問題を解決してくれるわけでもない。それでも、悪魔が支配する世の中より、ましな世界だと考えて教会に通う人もいるが、教会員も人助けのために教会に来るわけではない。自分の心が安定すれば、それでよいと考える者も多い。また、キリスト教会という社会的に認められた宗教に属することにプライドを持つ者もいる。

神様やイエス・キリストの霊に導かれて教会に行っても、神父や牧師が歓迎してくれるわけではない。単に、キリスト教の宗教的知識や教会維持の管理能力を示しているだけのことも多い。

いわゆる、世間知らずの人間が教会に行ったり、教会の権威を利用しようと思う人や、イエス・キリストの教えを勘違いしている人間も教会にはいる。

悪魔は、教会の中にも入り込み、富裕層の人間を優遇する神父・牧師も多い。社会的な地位のある人が、教会の役員になることも多い。この世の宗教として、キリスト教も社会的な力に頼っている面がある。

それでも、イエス・キリストの言葉は人々を悪魔から解放する力があり、神様の愛と教えは、人々の魂に救いを与える。イエスの愛や神様の教えに救われたと思った人は、神父や牧師を全面的に尊敬しなくても、教会に通うものです。そのような、キリスト教徒がいるから、神父や牧師の生活は成り立っているのであり、教会で救われているのは、信徒ではなく、聖職者の方だとも考えられる。

聖霊によって聖職者となった人間もいるが、そのような聖職者には神様が特別な任務を与えているので、信徒一般には伺い知れない。地味で信徒からも人気のない神父・牧師の中に、そのような霊的に優れた聖職者がいるものです。

キリスト教は、本当に神様によって守られた来たものでなければ、2千年間も続かなったのです。仏教もブッダの教えに霊的な威力がなければ、2500年間も続かなかった。孔子の教えにも真実がなければ、2500年間も続かなかった。日本の神道も、日本人の霊性に即していなければ、1500年も続いていない。



真実の教えは歴史に残るが、その教えに悪魔が入り込めば、やがて人々から消えて行く。宗教の教えは、毎日がテストなのです。

上の者が、下位の者の召し使いとなって、脚を洗うというのは、王様が最下位の召し使いの召し使いとなることであり、大統領や首相が最もランクの低い官僚の召し使いとなることであり、企業のトップが最下位の社員の召し使いになることであり、学校の校長が最低の生徒の召し使いになることであり、大学の学長や教授が新入学生の召し使いになることであり、スポーツのチャンピオンが最も記録の悪い選手の召し使いになることであり、最も富裕な金持ちがホームレスの召し使いになることであり、最も優れた学者が最もできの悪い凡人の召し使いになることです。

神様の子のイエス・キリストが、その弟子にすぎない人間の足を洗うということは、それくらい革命的なことだったのです。

つまり、この世の序列は悪魔の影響で生じたものだということを理解せよ、という教えです。

死後の霊界では、この世の序列は意味を失い、誰もが平等になる。しかし、悪魔はこの世では序列を作り、人々に互いに優越感を持たせて、愛のない社会を促進している。ただし、霊界では霊格の差によってその位置が決まる。弱き者、小さき者、貧しき者が、霊界では尊重される。この世の、価値判断と霊界の価値判断は逆なのです。

この世では、自分を第一に考えるが、霊界では神様への信仰が第一に評価される。

この世の自分を捨てよ、というのがイエス・キリストの教えなのです。自分が消えれば、聖霊が表に出てきて、神様のご威光が輝く。それを、喜びとするのが、真の霊的なキリスト教徒なのです。

人々を作られた神様に敬意を払って、人々の召し使いになれ、というのがイエス・キリストの教えなのです。

これは、普通の人にできることではない。しかし、死を前にしたイエス・キリストは、最後の教えとして弟子たちに、この最高難度の教えを与えられたのです。この教えの前には、悪魔も沈黙せざるを得ないのです。

神様の子、イエス・キリストが悪魔に取り付かれた人間の召し使いとなった以上、悪魔もイエス・キリストの足を洗わなければ、たちどころに、神様によって消滅させられるのです。ただし、狂った悪魔は消滅を選ぶと思われる。あとには、救われた霊が残るのです。



「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」 (マタイによる福音書 第 14 章) (“Take courage! It is I. Don’t be afraid.”)


22 それからすぐ、イエスは群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸へ先におやりになった。
23 そして群衆を解散させてから、祈るためひそかに山へ登られた。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。
24 ところが舟は、もうすでに陸から数丁も離れており、逆風が吹いていたために、波に悩まされていた。
25 イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
26 弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。
27 しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
32 ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
33 舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。 (マタイによる福音書 第 14 章)

22 Immediately Jesus made the disciples get into the boat and go on ahead of him to the other side, while he dismissed the crowd. 23 After he had dismissed them, he went up on a mountainside by himself to pray. Later that night, he was there alone, 24 and the boat was already a considerable distance from land, buffeted by the waves because the wind was against it.
25 Shortly before dawn Jesus went out to them, walking on the lake. 26 When the disciples saw him walking on the lake, they were terrified. “It’s a ghost,” they said, and cried out in fear.
27 But Jesus immediately said to them: “Take courage! It is I. Don’t be afraid.”
28 “Lord, if it’s you,” Peter replied, “tell me to come to you on the water.”
29 “Come,” he said.
Then Peter got down out of the boat, walked on the water and came toward Jesus. 30 But when he saw the wind, he was afraid and, beginning to sink, cried out, “Lord, save me!”
31 Immediately Jesus reached out his hand and caught him. “You of little faith,” he said, “why did you doubt?”
32 And when they climbed into the boat, the wind died down. 33 Then those who were in the boat worshiped him, saying, “Truly you are the Son of God.”

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この湖の上を歩くイエス・キリストの情景は、AIでは、「この場面は、恐れの中でもイエスを信頼することを示す物語として読まれることが多いです。特にペトロの場面は、信仰と不安の揺れがよく表れているとして知られています (sanpaolo.jp)」と、されている。

心霊的には、霊能力で空中に浮揚する人もいます。特に、19世紀に活動したスコットランド出身の心霊霊媒師 ダニエル・ダングラス・ホーム(Daniel Dunglas Home)のことはよく知られています。ホームは、アメリカに渡り、霊能力を発揮するようになり、イギリスに返って霊能力を人々に示し、ヨーロッパ中で有名になりました。

ホーム(ヒューム)についてはシャーロック・ホームズ物の作家のコナン・ドイルは「ダニエル・ヒュームの空中浮揚について。頭の良いはずの推理小説家コナン・ドイルが、「明るい光の中で、しかも社会的地位の高い複数の目撃者の眼前で、百回以上も空中浮揚してみせた」と記しています」とされている(Yahoo知恵袋)。ホームの実験には、キューリ夫人などの科学者も立ち会って、霊能力を観察している。

霊能力者については、チベットでも空中歩行する僧がいるとされる。また、日本のヨガ行者の成瀬雅春は、1983年に空中浮揚の連続写真が『サンデー毎日』に掲載されている。

霊の力は物質界の法則を超えるので、霊能力が働けば、引力に打ち勝って人は空中浮揚や水上歩行ができる。この力を持ったキリスト教の修道士や修道女のことは、昔からヨーロッパでよく知られていた。

たとえば、「17世紀のイタリアの神学者ジョセフ・グランヴィルは、空中礼拝なるものを行っていたという。
毎週日曜になると、イタリア南部コペルティーノの町にある小さな礼拝堂は人で溢れかえり、ジョセフは壇上で説教を終えると、厚い信仰心の証として、おもむろに片足を上げ、スッと体を空中に浮かせたという。
その際、ジョセフは何かに取り憑かれたかの如く、まるで怪鳥の様な叫び声を上げたそうで、彼は両手を広げて、羽ばたく様にゆっくり動かしながら、体を天井の近くまで舞い上がらせると、人々の頭上を横切り、祭壇の十字架の周りを回転し、やがてそのまま教会の窓から外へ飛び出したそうだ。
ジョセフは、「自分は飛ぼうと思って飛んでいるのではなく、ただ神を慕って祈りを捧げている内に自然と体が宙に舞うのです」と語ったそうだ。
その言葉を裏付けるかの様に、ジョセフが空中礼拝出来るのは、教会の敷地内だけであったそうだ。
また、奇声を発する理由は本人にも分からなかった(https://daimaohgun.web.fc2.com/mystery/miseiri/unfiled024.html)」という話しや、修道女のマリア・デ・レオンについては、「修道院で生活していたとき、多くの奇跡が彼女の身に起きた。彼女が持っていた聖母マリアの姿が描かれた祈りのメダイが幾つかの破片に砕けてしまったことがあったが、数日後には自然に修復されていた。空中浮遊をしたエピソードは他の修道女によって記録が残されている。また、他の神秘家と同様にエクスタシーを経験したことがあった。このとき、彼女の顔から光が差しているのが見えた。また、彼女の身体から著しい熱が、特に聖餐を受け取ったときに発せられたという報告もあった(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3)」とされている。

竹下節子の著作では、このようなキリスト教の修道士や修道女の話が取り扱われている。「ここで私たちは、初めてのフランスに出会う。合理主義でおしゃれなフランス人のたましいの奥には、土くさい神秘主義者が生きている。日本の女性が初めてその神秘のフランスの奥に触れ、それを本に書いた(https://www.arsvi.com/b1990/9403ts.htm)」と『パリのマリア――ヨーロッパは奇跡を愛する』は紹介されている。

キリスト教は、福音書に書かれているように、本来、霊的な力を持ったイエス・キリストの伝道を描いた書であり、キリスト教は霊的な宗教なのです。

ただし、D.D.ホームのようなキリスト教とは関係のない霊能者の存在も知られている。また、心霊治療家のハリー・エドワーズ(Harry James Edwards、1893年5月29日 – 1976年12月7日)のような敬虔な20世紀の心霊治療家のこともイギリスでは、よく知られている。

この世の物質界は、万物の創造主の神様が、霊界の霊的エネルギーを、その想念と言葉で作られたものだということを信じれば、このような奇跡が生じても不思議はない。

カトリックのバチカンでは、このような奇跡が信仰心の結果だと認めれた時は、そのような奇跡を起こした人物を聖者として認めている。フランスの「ルルドの奇跡の泉」も、バチカンが認めており、また、1917年のポルトガルでの「ファチマの太陽の奇跡」もローマ法王によって認められている。

チベットの奇跡を起こす僧や20世紀のインドの超能力者のサイババのことなども世界ではよく知られており、日本の空海などの奇跡もよく知られている。奇跡や霊能力はキリスト教に限らない。

念力スプーン曲げのイスラエル人のユリ・ゲラーや日本人の超能力者は、宗教とは関係ないが、霊的な力が無意識にでも扱えた例です。

現代科学では、このような超能力・霊能力は科学的な再現性がないとして認めていないが、現代科学より歴史の古いキリスト教の聖書に記載されているイエスの奇跡を求めるキリスト教は、本来、霊的な奇跡を基盤とする宗教なのです。

ユリ・ゲラーが1970年代に日本のテレビで超能力を示したとき、日本中で何万人の子供たちが、スプーン曲げなどの超能力を示したという。しかし、キリスト教の修道院などのような宗教的に隔離された環境にいなければ、その能力を守ることができず、やがて、そのような超能力は失われていく。特に、人間の欲が霊能力の邪魔になると思われる。清貧生活が奇跡を起こすカギになる。知られざる超能力者も、まだ多く日本にいるはずです。ただし、奇跡を起こす神父や牧師は、まだ、日本では知られていない。

この点、阪大工学部の発明家の故政木和三が、超能力の研究に取り組んだのが印象深い。政木は日本の神仏の力を信じるようになったという。また、東大医学部卒の故塩谷信男も、心霊治療を研究し、大峰山の霊と交流したという。このような霊的な力を解明すれば、ノーベル賞を超える成果が出ると思われるが、まだ、科学信仰の世の中なので、オカルトの分野として、世の中では軽んじられている。

要するに、物質文明から霊的な文明に人類が以降しなければ、これ以上の人類の発展は期待できない。

UFOの宇宙人が、そのような人類がいずれ(2030年頃)危機に瀕すると特定の人々(木村秋則など)に警告してきたことや、聖母マリアの霊が19世紀から世界各地に出現して、文明の崩壊について警告してきたことも思い出される。

異常気象や第三次世界大戦が近い状況を考えれば、このような霊的観点から人類は、歴史を反省し、物質文明に終止符を打つべきなのです。


2026年10月9日金曜日

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (使徒言行録 第 9 章) (“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied.)


さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、
2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。
3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。 (使徒言行録 第 9 章)

9 Meanwhile, Saul was still breathing out murderous threats against the Lord’s disciples. He went to the high priest 2 and asked him for letters to the synagogues in Damascus, so that if he found any there who belonged to the Way, whether men or women, he might take them as prisoners to Jerusalem. 3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying.

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これは、「パウロの回心」と呼ばれる、サウロと呼ばれた人間が、初期キリスト教徒に対する迫害者から、イエス・キリストを信じる者へと変貌する時に、イエスの霊の声を聞いたという聖書で有名な箇所です。

AIでは、「この回心は、敵対から宣教へという大転換を示します。後のパウロは、自らをキリストの使徒として語り、各地へ福音を伝える中心人物になっていきます。日本聖書協会の新約聖書解説でも、使徒言行録はパウロらを通して福音が広がる過程を描く書だと説明されています(bible.or.jp)」とされている。

人がキリスト教徒になるきっかけは、ある意味で劇的なこともあるが(「パウロの回心」のように)、欧米では親がキリスト教徒だったということが多い。ただし、毎週日曜に教会に行く人口は減少傾向にある。

Yahooの知恵袋によれば、「この記事の中で、「1週間に1回(それ以上も含む)教会に行く人の比率」が最も高いのは、マルタの75%で、ポーランドの63%、アイルランドの53%が続いています。最も低いのは、デンマークの3%です。主要国は、フランスとドイツは10%以下(具体的な数値は不明)、スペインは21%、イタリアは31%、となっています。英国は、10~15%の範囲内に入っており、上記のBBCの記事ともあわせて考えると、この調査の数字も、“無宗教”の人も含めた全体に対する「週一回以上行く人の比率」を示しているのだと思います。(でないと、英国の数値は15%を超えてしまったでしょうから…)」。

また、「2009年の調査ですが、「1週間に1回以上教会に行く人の比率」は、アメリカ全体では41%で、州別では、ミシシッピ州の63%が最高で、ヴァーモント州の23%が最低でした。尚、記事の中の分析で「西岸、北東岸、中西部での、教会に行く人の比率が低いのは、無宗教の人が多いからだろう」といった事が書いてあること、また、質問自体が「教会でもシナゴーグでもモスクでも…」といった聞き方である事の二点から、無宗教や他宗教の信徒も含めた全体に対する割合を示しているものと推測します。因みに、アメリカでのキリスト教の比率は、国勢調査局のWebに載っているある調査機関の調査(全文は↓)によると、2008年時点で、自らをキリスト教徒と回答した人の比率は、76%、無宗教が15%、キリスト教以外が4%でした(残りの5%は無回答)
http://www.census.gov/compendia/statab/2012/tables/12s0075.pdf」とされている。

さらに、AIでは、「Pew Research Centerの2025年公表データでは、世界の宗教構成はキリスト教徒28.8パーセント、イスラム教徒25.6パーセント、無宗教24.2パーセントとされています。2010年のキリスト教徒割合は30.6パーセントだったため、2020年にはやや低下しています (pewresearch.org)」とされている。

しかし、イエス・キリストの名前を知らない大人は、世界中でほとんどいないと思われる。イスラム教の教祖や仏教の始祖のブッダより有名だと思われる。

日本でも、キリスト教徒でなくても、欧米の宗教はキリスト教だということは、よく知られており、子供でもイエス・キリストの名前は知っている。特に、明治以降、欧米の方が日本より科学・技術が進んでいることを認めた日本人は欧米の文化の吸収に努め、ノーベル賞を目標に努力して来た。文化の面でもキリスト教の価値を認めるようになったが、宗教的には、欧米のキリスト教を全面的に受け入れるようにはなっていない。

日本人の仏教や神道などに対する愛着は強く、日本人の霊性の中心には、まだ、キリスト教の教えは入っていないが、人類はアフリカで生まれたことを、日本人は認めているように、世界の霊性の中心として、宗教ではなく、霊的にイエス・キリストを尊敬する日本人は多い。

ただし、世界の文化、文明の主流は、ユダヤ教、キリスト教、回教などのアブラハムを始祖とするキリスト教の旧約聖書などを聖典とする一神教です(経典の民と呼ぶ)。神様は「唯一、絶対のお方」だというのが人類の主流の考え方です。

神様は、この世の「物質界」の上の「霊界」に存在するお方であり、「人間の魂は霊界から物質界の肉体に入り、心を生み出して、人間となる」という心霊的な見方が正しい。死後の世界、霊界を認め、なおかつ、信者には「清貧生活」を求めるのがキリスト教であり、清貧生活を伝統的に推奨する日本の霊性は、キリスト教の教義と一致している。

宗教的には、一神教から遠くても、霊界を認め、さまざまな神仏を認める日本人の心は、「霊界の万物の創造主である最高神」として、キリスト教の神様を認めれば、霊的なキリスト教になる。ブッダも日本神話の神々も、霊界に存在する大きな霊の一人だと考えれば、仏教徒でも神道や修験道の信徒、行者でも、イエス・キリストの教えを受け入れられる。多神教というのは、一神教に至る中途段階の宗教だと考えるべきです。ただし、日本ような信心中心(宗教中心ではない)の多神教は、普遍的な一神教に最も近い。

ただし、世界の一神教は、物質文明の発展と共に停滞し、腐敗し、アメリカ以外では衰退している。キリスト教のカトリックのバチカンも欧米での過去の権威はない。ただし、それでもアメリカの大統領は聖書に手を置いて、就任式を行い、ヨーロッパの国王や元首はキリスト教徒なのが普通です。死後は、霊界の天国に入りたいというのが、欧米のキリスト教なのです。

なお、日本の神道のリーダーの一人である天皇が、キリスト教国のイギリスに留学していたことは、天皇がキリスト教文化を受け入れ、イギリス国教会の権威を認めたことになり、日本の伝統的な文化・宗教の代表として相応しくない、という議論もある。皇后もキリスト教国のアメリカに留学しており、戦前の感覚から言えば、神道の本家の天皇家は日本人のリーダーの地位を失っていることになる。

実際、先の第二次大戦の中の太平洋戦争で、大日本帝国がアメリカに敗戦したことは、霊力でも日本はキリスト教国のアメリカに負けたことになり、日本の霊的な状況に深刻な影響を与えている。2千年前に、ユダヤ人がローマ帝国に敗戦し、ローマ帝国はやがてキリスト教国になったのと似ているが、ローマ帝国(現欧米の先祖)とユダヤ人、キリスト教の関係と、日本人、アメリカ、世界の一神教の関係は、やや異なる。

しかし、キリスト教世界の中でユダヤ教が生き残れたように、仏教や神道を崇めながら、キリスト教を理解することは可能なのです。

それは、宗教の問題ではなく、人間の霊性、信心、神様への信仰心の問題となる。

人間は、日本人のようにさまざまな大霊を信じるのは当然であり、その中の最上位の霊である万物の創造主である、キリスト教の神様を信じるのが当然なのです。

つまり、仏教徒のキリスト教徒であっても矛盾はない。これが、霊的なキリスト教なのです。

旧来の狭い信仰心ではなく、もっと広く人類共通の普遍的な信仰心を持てば、日本人も世界のリーダーになれる。ノーベル賞を出すような国にもなれる。

なお、スエーデンのノーベル賞が世界で認められているのは、スエーデンがキリスト教国であり、スウェーデンボルグというキリスト教徒の神秘家が欧米で認めらているからです。スエーデンボルグは、イエス・キリストの霊によって、生きたまま霊界を見ることを許され、多くの著述を残した18世紀のニュートンの時代の科学者であり神秘家でもあった(死んで生き返ったものはいない、というが生きて霊界を見た者は少なくない)。スウェーデンボルグは生まれた時からキリスト教徒だったが、更にパウロのように、旧来のキリスト教から霊的なキリスト教に回心したのです。

つまり、イエス・キリスト、パウロの回心、キリスト教のローマ帝国の支配、キリスト教によるヨーロッパの支配、キリスト教によるアメリカの支配、キリスト教の世界支配、そして、最後に日本のキリスト教の受け入れが人類の歴史なのです。

日本人の歴史的な人類としての重要性は、ここに現れているのです。

日本人として生まれたことを、皆、神様に感謝すべきです。


2026年10月8日木曜日

こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた (ヨハネによる福音書 第 11 章) (Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!”)


33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。
35 イエスは涙を流された。
36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。(ヨハネによる福音書 第 11 章)

33 When Jesus saw her weeping, and the Jews who had come along with her also weeping, he was deeply moved in spirit and troubled. 34 “Where have you laid him?” he asked.
“Come and see, Lord,” they replied.
35 Jesus wept.
36 Then the Jews said, “See how he loved him!”
37 But some of them said, “Could not he who opened the eyes of the blind man have kept this man from dying?”
Jesus Raises Lazarus From the Dead
38 Jesus, once more deeply moved, came to the tomb. It was a cave with a stone laid across the entrance. 39 “Take away the stone,” he said.
“But, Lord,” said Martha, the sister of the dead man, “by this time there is a bad odor, for he has been there four days.”
40 Then Jesus said, “Did I not tell you that if you believe, you will see the glory of God?”
41 So they took away the stone. Then Jesus looked up and said, “Father, I thank you that you have heard me. 42 I knew that you always hear me, but I said this for the benefit of the people standing here, that they may believe that you sent me.”
43 When he had said this, Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!” 44 The dead man came out, his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face.
and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face.
Jesus said to them, “Take off the grave clothes and let him go.”
45 Therefore many of the Jews who had come to visit Mary, and had seen what Jesus did, believed in him.
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これは、「ラザロの復活」と呼ばれる、イエス・キリストがラザロを死から生き返らせた情景です。

AIでは、「ラザロの復活は、ヨハネによる福音書11章に書かれています。ラザロは、マルタとマリアの兄弟で、ベタニアに住んでいました。イエスは病気の知らせを受けたあと現地へ向かい、すでにラザロが死んで4日たっていた場面で墓に行きます (jw.org)」と説明され、また、「イエスは墓の前で石を取りのけさせ、神に祈ったあと、ラザロに出て来るよう呼びかけました。すると、ラザロは墓から出て来ました。これが一般にラザロの復活と呼ばれる出来事です (jw.org)」とされている。

そして、「この出来事の中で、イエスはマルタに対して、自分が復活と命に関わる存在であることを示します。また、この奇跡を見て信じる人が出た一方で、宗教指導者たちがイエスをさらに警戒する流れにもつながります (bible.com)」と述べて、イエスの悲劇に向かう第一歩となったとされている。

死んだ人間が蘇るということは、稀に起こる。医学的に、まだ、完全に死んでいないのに、死だと判断される場合がある。また、短い時間、心肺停止状態にあっても、再び再起動する場合がある。そういう、臨死体験を経験する人間もいる。

立花隆などは臨死体験を研究して、本を書き、NHKでも特集されたことがある。アメリカでは、レイモンド・ムーディ(医学・哲学博士)の研究が有名です。要するに、肉体の死は、単純に判断できるものではない。また、肉体の死後に魂が肉体を離れて、自分の死体を見下ろすようになり、その時の記憶を持って生き返る人もいる。これは、脳死の判断とも関係する。

Wikipediaによれば、「ムーディは、心停止など臨床的に死に臨みながら生還した150人からの聴取と研究により、人間は死に臨んで一般的に以下の9つの経験があると結論付けた。
奇妙な音を聴く。
表現しようのない安らぎと無痛感。
体外離脱体験。
暗いトンネルを通って行く感じ。
天に上っていく感じ。
しばしば死んでいる親類に出会う。
神のような精神的な存在との遭遇。
生涯の回想。
肉体への回帰。」と解説されている。

また、アメリカのキューブラー=ロスも死に臨む人々の心理状態を研究している。

彼らの研究によれば、死は無に至るプロセスではなく、人間の魂が肉体を離れる現象だということです。ムーディは、死者の魂を呼び出す実験までしている。日本でも、青森県の恐山には女性霊媒師のイタコと呼ばれる人々がおり、死者と遺族が会話できるようにしている。欧米でも交霊会と呼ばれる、死者の魂を呼び寄せる人の集まりがある。

しかし、イエスは死者の魂を呼び寄せたのではなく、肉体ごと生きかえらせたという点で、重要です。

つまり、死者を蘇らせる力のあるイエスを殺害しても、イエスが自分自身を生き返らせれば、それは、無駄な試みだということになる。

十字架の刑でイエスを殺しても、イエスはやがて生き返ることが、このラザロの復活で予想できたのです。しかし、イエスに反発する悪魔はそれでも、イエス殺害の試みをやめなかった。たとえ、無駄でも、神様やイエス・キリストに対する嫌がらせになると悪魔は考えたのだろう。

このように、死者を蘇らせる力をもっていた人物として、イエス・キリストを捉えれば、福音書の物語りは、単純になる。また、人間は肉体が死んでも魂は、永遠に生きることを誰もが納得していれば、死を恐れたり、宗教にすがったりする必要もなくなる。人間の文化も大きな影響を受ける。

ただし、死者の霊は自由にこの世に現れるわけではない。霊媒と呼ばれる恐山のイタコのような霊媒(霊能者)が必要なことになる。魂は心という現象を通して現れるので、霊媒という霊能者の心を借りて死者の魂が現れることになる。

それでも、霊媒を介さずに、死者の霊が生きた遺族などに出現することもある。その例が幽霊です。霊界とこの世の関係については、まだ、詳しいことは解明されていない。だから、宗教や精神的な修行が必要とされる。そして、多くの文学作品や芸術の主題となっている。そのような問題を研究するのが、心霊学です。

近代で心霊研究で有名なのは、探偵ホームズの物語りを書いた英国人のコナン・ドイルです。ドイルは、心霊の知識を普及させるために世界を旅したことで有名です。

また、生きながら死後の霊界を見ることを、イエス・キリストの霊によって許されたという18世紀の霊能者のスウェーデンボルグの著作も有名です。日本では、9世紀初頭(平安時代初期)に成立した日本最古の仏教説話集の「日本霊異記」などで生と死の関係が描かれている。また、20世紀には俳優の丹波哲郎が霊界を論じた本を多く出版し、死後の世界を話題にした。

いづれにしても、死に対する恐怖心が人々を宗教に向かわせて来たが、仏教のブッダは、死後のことは語らないという姿勢であり、儒教の孔子も霊的なことは論じないという姿勢だった。しかし、日本人の精神的な伝統では、死後の世界を求める心があり、その伝統に道教や仏教が乗って、日本人の精神生活が造られてきた。先祖の霊を崇めるというのが、日本人の伝統なのです。

キリスト教は、明確に霊界を認め、人の死後は魂は霊界の天国や地獄に入ると認めている。しかし、近代科学の発展と共に、科学では証明されない死後の世界は否定されるようになり、宗教は無意味だとの考えも広がり、人々は物質的な考えにこだわって霊的な問題をなおざりにするようになり、欧米でもキリスト教を離れる人間が続出している。聖書の話も理解されなくなっている。

とにかく、死後の世界があることを人々が認めれば、この世の生にこだわることもなくなる。物質的に無欲になって生きる人は増えると思われる。しかし、悪魔はそのような人を迷わせ、物欲を煽って欲を追求させ、その人の魂を悪魔に売らせる。

そういう、悪魔の悪意と戦うことが、イエス・キリストの教えになる。

とにかく、イエス・キリストは死をも克服する力(霊的な力)を持っておられたことを信じるのが、霊的なキリスト教なのです。


2026年10月6日火曜日

すべての事について、感謝しなさい 。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである(テサロニケの信徒への手紙一 第 5 章) (give thanks in all circumstances; for this is God’s will for you in Christ Jesus)



14 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
19 御霊を消してはいけない。
20 預言を軽んじてはならない。
21 すべてのものを識別して、良いものを守り、
22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 (テサロニケの信徒への手紙一 第 5 章)

14 And we urge you, brothers and sisters, warn those who are idle and disruptive, encourage the disheartened, help the weak, be patient with everyone. 15 Make sure that nobody pays back wrong for wrong, but always strive to do what is good for each other and for everyone else.

16 Rejoice always, 17 pray continually, 18 give thanks in all circumstances; for this is God’s will for you in Christ Jesus.

19 Do not quench the Spirit. 20 Do not treat prophecies with contempt 21 but test them all; hold on to what is good, 22 reject every kind of evil.

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このテサロニケの信徒への手紙一は、AIによれば、「日本聖書協会の案内では、パウロが書いた最初の手紙として紹介されています。新約聖書の中でも非常に初期の文書として重視されています (bible.or.jp)」とされている。

「あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」という言葉は、キリスト教徒なら誰でも知っている、キリスト教の基本です。だから、クリスチャンというのは、仏教や神道の信者と違って、真面目なかたぐるしい人だと思われることが多かった。

ギャンブルもやらず、女遊びむせず、酒にも溺れず、下品な冗談も好まない真面目な人が多く、インテリが多いという印象を与えていた。特に、戦後、米軍がキリスト教を推奨していたので、日本の中流家庭が好む宗教だとされていた。ただし、江戸時代からの隠れキリシタンの伝統のある地域では、独特の文化があった。また、明治維新の時に、江戸を追われた旧幕府の侍が、最後の徳川将軍の慶喜と共に多くが移り住んだ静岡にも、彼らが心のよりどころとしたキリスト教の伝統がある。

特に、第二次大戦後の一時期は、アメリカの教会組織からの人道支援などがあり、敗戦で心の支えを失なった多くの日本人が、各地の教会を訪れた。その残滓がまだ残っている教会もある。また、大学の教授など、戦後にアメリカ留学の機会が多かった知識人にもキリスト教を受け入れた人も多く、彼らの影響でキリスト教を受けいれたインテリもいる。特に、欧米文化を学んだインテリは、欧米人とのつきあいを通して、キリスト教文化に親しみ、キリスト教を受容する傾向が高い。つまり、日本では、キリスト教はある意味で、高学歴者やエリートの宗教になっている。

江戸幕府の時代には、「切支丹」や「耶蘇」と言われた迫害された日本のキリスト教徒も、軍国日本に対する米軍の勝利によって、真に自由を得て、発展することになった。ただし、AIによれば、「文化庁の宗教年鑑では、2025年度公表のデータで、キリスト教系の信者数は1,872,320人、全宗教系統の中では約1.1パーセントとされています。これは宗教統計調査に基づく数字です」とされている。欧米や欧米の旧植民地であったアジア・アフリカ・南米の国と比べると、日本人のキリスト教徒の比率は低い。

しかし、イエス・キリストの名は小学生でも知っており、「善を勧める、欧米の文化的な宗教」として知られている。ただし。仏教や神道のような霊能者が、日本のキリスト教から出現することは少ない。科学の進んだ欧米の宗教ということで、霊的な力とは結びつかないことが多いが、日本の弥生時代の2千年前のローマ帝国の時代に、ローマ帝国の植民地だったパレスチナから生まれたキリスト教は、仏教や神道以上に霊的な宗教なのです。

今の日本の知識人の中にも、キリスト教の霊的な側面を研究する者もいるが、日本固有の自然な霊性とキリスト教の霊性とは、まだ結びついていない。20世紀の末にオウム教のような新宗教が、キリスト教の一部(終末論など)を取り入れて、若者にアピールした例があるように、キリスト教にはまだ知られていない力があるのではないか、という気持ちを持っている日本人もいる。また、キリスト教の精神が作家に影響を与えた例もある。

古代中国からの影響を受けた神道、古代インドからの影響を受けた仏教と異なり、東アジアの風土とは縁遠い、地中海沿岸地方から生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教は日本人の霊性とは距離があるが、風土という条件を除けば、人間の霊的な真理に最も接近した宗教だと考えられる。実際、現代文明は、欧米のキリスト教文化が基本になっている。

江戸時代の仏教や神道から現代のスマホやテレビ、自動車やジェット機、新幹線、高層マンションが生まれたわけではない。

現代物質文明を生んだのは、欧米のキリスト教文化なのです。日本人は、仏教や神道以上にユダヤ・キリスト教を研究すべきです。


あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである (ルカによる福音書 第 9 章) (it is the one who is least among you all who is the greatest)


46 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。
47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、
48 「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。
49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。
50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。 (ルカによる福音書 第 9 章)

46 An argument started among the disciples as to which of them would be the greatest. 47 Jesus, knowing their thoughts, took a little child and had him stand beside him. 48 Then he said to them, “Whoever welcomes this little child in my name welcomes me; and whoever welcomes me welcomes the one who sent me. For it is the one who is least among you all who is the greatest.”

49 “Master,” said John, “we saw someone driving out demons in your name and we tried to stop him, because he is not one of us.”

50 “Do not stop him,” Jesus said, “for whoever is not against you is for you.”

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AIでは、「ルカによる福音書」は、「伝統的にはルカが著者とされてきました。一方で、事典類では実際の成立時期は西暦80年から90年ごろと考えられることが多く、マルコ福音書や共通資料をもとに編集されたと説明されています (kotobank.jp)」とされている。

また、「ルカによる福音書は、弱い立場の人、貧しい人、女性、罪人とされた人へのまなざしが強いことでよく知られています。また、祈り、聖霊、喜びを重視する流れも大きな特徴です (kotobank.jp)」と解説されている。

この箇所では、イエス・キリストの弟子の間で、「だれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった」とされている。

人間は、優越感を求めるものだということが良く分かる。2千年前にもその気持ちは変わらなかった。どんな人間でも、他人より少しでも上の立場にたとうとする。それに対してイエスは、「バカなことを議論するな」と叱らなかった。むしろ、「ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ」て彼らに、「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」と教えられた。

人間は、弱い者、貧しい者、小さな者を見下し、自分の方が価値があるものだと考える。それに対して、弱く、富もなく、小さな子を弟子たちに見せて、「この子は、お前たちより、価値があり、上に立つべきだ」という意味の事を仰ったのです。

人は、心の中で自分が世界一だと考えるものです。たとえ、その国に皇帝や、大統領や、首相がいて、政治的に自分の上にいても、ある人を皇帝、大統領、首相として認めているのは、自分の心なのです。自分の心が、ある人を皇帝や大統領、首相として認めているから、相手はその立場にいるのだと考える。つまり、心の中では相手をそう認める立場にいる自分の方が、本当は上だと考えている。

つまり、どんな分野でも、一番の人間がいるが、その人間を一番だと認める自分の方が、一番の人間より本当は上だと考える。つまり、自分を下だと認めたくないのが人間の心です。しかし、世の中は、さまざまな序列で成り立っている。そういう自己正当化ができなくなることも多い。「世の中では、あいつを一番だというが、実際は、その一番を認めてやる自分の方が優れている」と考えることが、できなくなったとき、人は絶望し、引きこもる。劣等感を認めたくなければ、社会から離れていればよい、と考えるのが普通です。だから、引きこもる。「本当は、自分の方が上だ」という、密かな自己正当化のプライドを持って普通の人間は生きている。そのような社会では、プライドを失うと生きていく気力も失せる。

だから、「上手に人をほめる」ことが、教育の成功の「こつ」になる。子供をほめて、自信をつけさせるのが、上手な育て方だといことになる。

しかし、イエス・キリストは、「上下を争うお前たちは、この幼な子よりも劣った者だ」ということを教えらえたのです。「幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれる」というのは、幼な児の背後にイエスがいることを認めよということです。イエス・キリストは、小さい子供が信仰心をもって育っていくことを愛しておられたので、弟子たちに小さな子供を尊重し、この世の上下の判断を持ち込まず、イエス・キリストが背後にいることを考えて、この世の上下の関係が無意味なことを教えられたのです。

信仰の度合いでも人より上に立ちたいというのは、信仰心が育っていない証拠だということです。

神様を理解すれば、人間は皆、神様の下にあり、偉大な神様と人間の無限の差を考えれば、人間同士のわずかな差異は、取るに足りないものであることが分かる。エヴェレスト山の麓で、それぞれのテントの高さを競っているようなものです。いや、大空の下で隣家と屋根の高さを競っているようなものです。空を仰いで、神様に礼を捧げる子供の心は、互いにいがみあう大人よりも神様に近いことになる。

しかし、悪魔の影響下の世の中では、誰でも上下の間隔、貧富の差、好き嫌いなどの心を持つ。自分が世界一だと心の底では思っている。一番の人間を認める立場にいる自分は一番より上だと考え、その自分の心を知っているのは、自分だけだと考え、だから、自分んが世界で真の一番だと考えるものであり、さらには、神も自分の心の中にいるので、自分は神より上だと考えるのが狂った人間です。

こういう狂った宗教観を人間に与えるのは悪魔です。また、悪魔の力で社会的に成功し、物質的に幸福になったものは、自分は神様に愛されたと狂った判断をする。悪魔は人間を物質的に成功させ、やがて、その人の心を支配し、傲慢にさせ、神様に非礼を働かせ、有頂天にさせるが、やがて、その人も神様の与えた寿命がつきて死ぬが、死んだら、この世で自分を愛して、幸運を与えてくれた神にあえると期待していると、悪魔が現れて、「オレがお前の神だ」と言って、その人間を召し使いにする。これが、霊界の実相です。多くのこの世でのエリートや富裕増、成功者で、地獄は満ちている。彼らの上にいるのが、悪魔なのです。

人に他人への優越感を与えるのは悪魔なのです。しかも、物質的な成功を人間に与える力だけでなく、霊的な力で宗教家や聖職者を支配することも悪魔にはできる。「自分は誰よりも神様に愛されている」という感じを人に与えることも悪魔にはできる。しかし、神様に愛されるには、弱き者、貧しきも、小さき者、不幸な人、差別された人を助けなければならない。さらに、悪魔と戦って人々を救わねばならない。悪魔から狂った考えを与えられて、悪魔に操られながら、自分は神様に誰よりも愛されているのだと考える聖職者や有名人もいる。

悪魔の手下になりながら、悪魔によって富や地位を与えられると、神様に愛されていると勘違いする人間もいる。そのような狂った考えをもったまま亡くなるこの世の物質的な成功者も多い。彼らは、皆、死後、地獄に行き、悪魔の奴隷となる。

イエス・キリストの弟子たちの心の中にまで悪魔が入り込んで、優越感を求めて互いに争わせたの見て、イエス・キリストは、その警告に幼子を見せて、その背後に自分がいるから、この子は誰よりも上なのだと諭したのです。

イエスより自分の方が上だと証明できなければ、弟子たちはイエス・キリストの教えを受け入れざるを得ない。イエス・キリストは、子供のような純粋な心で信仰を高めよと言われたのです。欲を捨てて、優越感を求めるなという教えです。

また、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」という言葉で、表面的な態度だけでなく、相手の心の真意を読み取れと教えておられる。魂ではイエス・キリストを信じている者は、心のレベルでイエスに反対することは避けるものだからです。

そういうように、人の魂を感じる心をもつ幼子も多い。幼い子供たちは欲がないので、人の魂まで見えるのです。大人になれば、多くの欲を克服して、修業の果てに、再び、そのような心を取り戻さなければなならい。その邪魔をするのが、悪魔なのです。人間に。「お前が一番だ」と心の中でささやいて。

神様やイエス・キリスト様の前では、皆、平等に無力なのです。悪魔以上に。或いは、幼児のように。



2026年10月4日日曜日

「右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」 (マタイによる福音書 第 5 章) (If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away)


27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。(マタイによる福音書 第 5 章)

27 “You have heard that it was said, ‘You shall not commit adultery.’ 28 But I tell you that anyone who looks at a woman lustfully has already committed adultery with her in his heart. 29 If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell. 30 And if your right hand causes you to stumble, cut it off and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to go into hell.

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AIによれば、「『マタイによる福音書』は、新約聖書に収められた四つの福音書の一つで、イエスを旧約の預言を成就するメシアとして描く書です。主にユダヤ人キリスト者を意識して書かれたと考えられます(bible.or.jp)」とされている。

また、Wikipediaでは、「本書の目的は、イエスこそがモーセと預言者たちによって予言され、約束されたイスラエルの救い主(キリスト)であると示すことにあり、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していると示すことであった。『マタイによる福音書』には旧約聖書(ギリシア語訳・七十人訳)の引用が多く見られるが、それらはイエスの到来を予告したものとして扱われている。旧約からの引用箇所は65箇所にも上り、43箇所は地の文でなく語りの中で引用されている。この福音書の狙いは「律法や預言者を、私は廃止するためでなく、完成するために来た(5章17節)」という言葉にもっともよく表現されている」と解説されている。

そして、特に旧約聖書でも「『姦淫するな』と言われていた」ことに注目して、人間の基本的な生き方を強調している。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をした」ことになる、というのは男性の欲望を抑えることの重要性を示している。そして、「あなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」というよく知られた教えが続く。

さらに、「あなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」というのは、この世の罪が、死後の霊界にも影響することを示している。

イエス・キリストによる基本的な教えは、物欲に駆られた人間に反省を強いるものであり、キリスト教徒は道徳的な教えを守ることが当然とされている。その教えは、ユダヤ教の旧約聖書から来ており、道徳的な教えは、キリスト教でも何んら変わらないことを示している。

これは、宗教以前の人間の基本的な道徳が、宗教の教えにかかわらず有効であることを示しており、そのようなユダヤ教の基本的な教えは当然、人間である限り尊重されるべきであり、イエス・キリストは「律法や預言者を、廃止するためでなく、完成するために来た」と述べておられる。

人類は、本能的に善悪を知っていることを意味する言葉です。日本語でも、「根っからの善人」や「根っから悪人」という言葉があるが、この基本的な教えに従って生きることの重要性をあらためてイエスは、強調している。道徳無関心や不感症というのは、人間性の基本的な欠陥だということになり、信用のできない人間だということになる。「根っからの悪人」は、「悪を愛する人間」であるから、当然、人々から敬遠される。平気で人を傷つける人間は誰でも敬遠する。そのことに気が付かない人間は、哀れな人間だということになる。人間社会では、そのような人間は当然、成功しないし、制裁を受ける。そのような人間悪(悪を愛する人間)を取り締まるのが、本来の警察の役割です。権力に逆らう人間を取り締まる以前の任務です。司法の任務は、道徳的・宗教的でなければならない。

AIでは、「悪は、ただ失敗することだけではなく、神や人への愛から外れることです。たとえば、うそ、憎しみ、暴力、傲慢、不正などが悪とされます。聖書のアダムとエバの物語は、人間が神より自分を優先してしまう姿を表すものとして読まれています (nskk.org)」とされており、神様が与えた愛の心を持っていれば、当然、人間が知っている善を愛して、悪を行わないはずだとされている。

神様は、全知全能であり「全善」である存在であり、悪より善を愛する心が神様の気持ちに叶うのです。

しかし、この心が弱い人間の心には悪魔が入り込み、悪を善よりも愛させ、人を傷つけても何も感じない人間もいる。イエスは、そのうような人間に、本来の善を尊重し、愛すべきことを改めて教えておられるのです。「善を愛することが、人間の義務」なのです。いやでも、善を尊重すべきだというのが、人間に対する神様の要求であり、悪魔を受け入れないという生き方が求められている。「悪よりも、善を愛せ」というのが、宗教以前の教えなのです。

だから、悪いキリスト教徒というものはありえず、キリスト教徒は道徳的に正しい人だとの評価が得られるのです。

従って、キリスト教徒は酒やタバコを吸わず、人を騙さず、嘘をつかない信頼できる人であり、安心してつきあえる人だとの評判を得てきたのです。要するに、節度のある人間であるべきなのです。狂って欲望を追求するようでは、キリスト教徒とは言えない。

だから、酒やタバコや富(カネへの欲望)や快楽(女性への欲望)を愛する人間は、神父や牧師にはなれず、清貧、道徳、隣人愛を愛し、何よりも、神様とイエス・キリストの教えを愛する者でなければならず、そのような人間が社会で尊敬されるのは当然なのです。社会の秩序はその上に築かれるのです。欲能丸出しの人間の集団は発展しない。

ただし、欲は誰にでもあるので、それを神様やイエス・キリストの教えに従って、抑えるのが重要なのです。「五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」というイエス・キリストの言葉は、貴重な忠告なのです。

罪を悔い改めて、罪を犯した部分を捨てれば、天国に受け入れられなくても、地獄に落ちこなくても済むのです。ありがたい情けのある言葉です。