2026年9月25日金曜日

イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」 (ヨハネによる福音書 第 8 章) (”Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”)


3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕(ヨハネによる福音書 第 8 章)

3 The teachers of the law and the Pharisees brought in a woman caught in adultery. They made her stand before the group 4 and said to Jesus, “Teacher, this woman was caught in the act of adultery. 5 In the Law Moses commanded us to stone such women. Now what do you say?” 6 They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him.
But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger. 7 When they kept on questioning him, he straightened up and said to them, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone at her.” 8 Again he stooped down and wrote on the ground.
9 At this, those who heard began to go away one at a time, the older ones first, until only Jesus was left, with the woman still standing there. 10 Jesus straightened up and asked her, “Woman, where are they? Has no one condemned you?”
11 “No one, sir,” she said.
“Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”
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これは、「姦淫の女」と呼ばれる、福音書でイエス・キリストの憐みが最もよく現れた箇所です。

Wikipediaでは、「罪を犯しながらイエスに許されるこの女もまた、マグダラのマリアに重ねられることも多い。 キリストを描いた映画には好んでこの逸話が挿入される。たとえば『偉大な生涯の物語』(1965年)は、これをマグダラのマリアを紹介するシーンとして使っている。このため、この女性こそマグダラのマリアであると誤解する人が多いが、これが教義として教えられてきたわけではない」とされている。

ある意味で、劇的な情景です。律法学者たちやファリサイ派の人々が、「姦通の現場で捕らえられた女」を連れて来たが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったことで、誰もがその場から立ち去り、その女さけが残されたというのは、映画のワンシーンのような情景です。

そして、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という言葉は、律法学者たちやファリサイ派の人々だけでなく、その女自身が感銘を受けた言葉だったのだろう。石打ちの刑で殺されるかも知れないと思っていたのに、イエスによって命を助けられたのです。それは、神様が許しを与えたということを意味するので、大きな感激を受けたのだろう。そして、以降はその女は生き方を変えたと思われる。

イエス・キリストが世に現れる以前には、このように宗教的な罪を犯したものは、石打ちの刑で殺されるという残酷なことが行われていた。しかし、キリスト教が広まるにつれ、人間社会からそのような残酷さは亡くなって行くことになる。実際、今の日本国憲法の人道主義のルーツは、憲法の基礎となったキリスト教精神のお陰なのです。また、言論の自由や宗教・思想の自由、政治的な立場の自由なども全て憲法の基礎となったキリスト教に負うているのです。

それよりも、悪魔が律法学者たちやファリサイ派の人々を使って、イエスを困らせ、イエスに石打の刑の片棒をかつがせ、イエスが宗教の名による残酷な刑を認めたという事実を作るか、又は、その女を助けて、宗教の掟を無視した異端者だとの評判をとるようにさせた。悪魔は、いずれにしても、イエス・キリストの宗教改革者としての評判を落とそうと考えたのです。

しかし、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いて」、律法学者たちやファリサイ派の人々が落ち着くの待ち、彼らに思わぬ言葉をかけた。宗教の名で罪の女を罰するのなら、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉です。実際、ユダヤ教の教えを何から何まで守って生きている人間はいない。それを、イエスや律法学者たちやファリサイ派の人々自身が一番よく知っている。石打ちでその女を殺した後で、自分も罪人なのに弱い女を宗教の名で殺したことが、明らかになれば、ユダヤ社会から問題にされる。少なくとも、自信を持って「自分は立派なユダヤ教徒だ」とは、言えなくなる。一人の女を殺したがために、自分たちの評判に傷がつくことは受け入れれない。

また、それが残酷な行いであることは、本人たちが百も承知しており、イエスの言葉で我に返り、女を残して立ち去らざるを得なかった。女を殺した後で、イエスから自分たちの宗教的な罪を明らかにされる恐怖心があった。ただし、イエスが、地面に何を書いていたのかは明らかにされていない。

AIでは、「姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられたとき、イエスはまず地面に書き、その後に罪のない者が最初に石を投げなさいと言い、さらにもう一度かがんで地面に書きました。けれども、書いた内容そのものは説明されていません。(search.biblegateway.com)」とされている。

もしかしたら。イエス・キリストは、各人が犯している罪を地面に書いていたのかも知れない。それを、イエスに公表されれば、彼らの評判は地に落ちるし、最悪の場合は、自分たちも石打ちの刑で殺される。彼らは、イエスが自分たちの罪を知っていることに恐怖し、逃げるようにその場を去ったのかも知れない。

いづれしても、彼らはユダヤ教の祭司たちを呼んだりはしなかった。イエスとその女を残して全員が立ち去ったという事実に、彼らがイエス・キリストの霊的な力を見たことが示されている。

イエスは、そういう人間の持つ残酷さが、悪魔の影響であることを認めて、その悪魔の影響から人々を解放しようとしたのです。そのためには、罪を犯した女を許し、怒る人々に理性を散り戻させることが必要だった。女は、「わたしもあなたを罰しない」というイエスの言葉で助けられただけでなく、人々がイエスを恐れるように立ち去ったのを見て、イエスの持つ力を感じたのだろう。人々は、神様の愛とは何かを教えらえた気がして立ち去り、自分たちは悪魔に支配されていると感じたに違いない。

だから、イエス・キリストが地面に書いていたのは、宗教の名で女を殺そうとする人間たちの、宗教的な罪だったと考えられる。それを福音書に書けば、人々が皆、石打ちにされても仕方がない罪人であることが明らかになるので、福音書にも書けなかったのだろう。

このように、書かれない真実は多い。しかし、聖書の福音書は出来るだけ、イエス・キリストにまつわる出来事の真実が書かれていると考えられる。それは、まさに聖霊が天から下って、福音書の作者にくだったからだと考えられる。

今でも、霊感に駆られて文字を書く霊能者や霊媒もいる。2千年間、人々に読まれ続けた聖書は、やはり、そのような霊界からの助けによって書かれたものだと思われる。だから、いくら研究しても、聖書の力は解き明かされない。それでも、本人の宗教には関係なく、聖書を研究することが、今の日本人には必要なのです。


そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう (マタイによる福音書 第 24 章)(when they see the Son of Man coming on the clouds of heaven, with power and great glory)



30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
32 いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
34 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
35 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイによる福音書 第 24 章)

30 “Then will appear the sign of the Son of Man in heaven. And then all the peoples of the earth will mourn when they see the Son of Man coming on the clouds of heaven, with power and great glory. 31 And he will send his angels with a loud trumpet call, and they will gather his elect from the four winds, from one end of the heavens to the other.

32 “Now learn this lesson from the fig tree: As soon as its twigs get tender and its leaves come out, you know that summer is near. 33 Even so, when you see all these things, you know that it is near, right at the door. 34 Truly I tell you, this generation will certainly not pass away until all these things have happened. 35 Heaven and earth will pass away, but my words will never pass away.
36 “But about that day or hour no one knows, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father. 37 As it was in the days of Noah, so it will be at the coming of the Son of Man. 38 For in the days before the flood, people were eating and drinking, marrying and giving in marriage, up to the day Noah entered the ark; 39 and they knew nothing about what would happen until the flood came and took them all away. That is how it will be at the coming of the Son of Man. 40 Two men will be in the field; one will be taken and the other left. 41 Two women will be grinding with a hand mill; one will be taken and the other left.

42 “Therefore keep watch, because you do not know on what day your Lord will come.
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これは、「世の終わり」についてのイエス・キリストの有名な予言の言葉です。

「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来る」という印象的なイエスの再臨を語っておられる。また、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」として、人々が普通に生活をしているときに、それが生じると言っておられる。しかも、「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」として、運命は個人によって異なり、悲劇に陥るものと、苦難を免れるものに分かれると述べておられる。「だから、目をさましていなさい」というのが、この世の最後に対する心がけだということです。

いづれにしても、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで」のように、人々は、危機が迫っていることに気が付かないだろうと述べておられる。

神様が全人類の運命を握っておられ、神様の子のイエス・キリストにすら、その日、その時は知らされていない、というのは、人類に対する厳粛な運命を、神様、ご自身が定められたことを語っている。

しかし、その日には、「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って」現れて、「大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集める」とイエス・キリストは約束しておられる。

即ち、全人類を見殺しにはされず、救われるべき者は救うと約束しておられる。洪水の時に、ノアの一家だけが救われたように、悲惨な最期のときに、誰にも分かるような姿でイエス・キリストは、人類を救うために、この世に再臨されるというのが、キリスト教の信仰なのです。

しかし、救われるのはキリスト教だけだから、人々にキリスト教を受け入れよ、というのが、今までのキリスト教会の姿勢だった。AIでは、「聖書の「世の終わり」は、世界の完全な終滅だけを意味するのではなく、神の裁きのあとに新しい秩序が始まるという考えです。(bible.or.jp)」と述べている。

世の中は、物質文明の発展を目指して、今やAIが人間の能力に追いつこうとしているが、戦争、紛争、経済競争、貧富の格差は拡大するばかりで、異常気象や資源の枯渇など、地球自身が危機に瀕している。特に、核戦争による地球の汚染を心配して、UFO・宇宙人が地球の人類に介入しているとまで言われている。

物質的な幸福と成功を求め、科学・技術の力に頼りながら、精神性を軽んじ、置き去りにしてきた人類は、魂のないコンピュータやAIを使って、その破滅を加速させているように見える。

人間が本来持つ霊性を重んじ、自然の流れを尊重し、宇宙の真理と力に従えというのが、イエス・キリストの教えであり、全てのまともな宗教が教える共通点です。

宗教は何であれ、人間は死後の世界に霊界があることを信じ、悪魔の主導する物欲中心の物質文明を捨てて、霊的な文明に移るべきだというのが、霊的なキリスト教の教えなのです。また、人間の心や精神力は物質にも作用し、自然界だけでなく、人間界も精神力で変えられるとの教えを信じることが、新たな文明の出発点であるべきです。

なお、日本の天皇家は、その霊能力によって国民から崇められる存在だったが、今の天皇家には、もはや霊能力はなく、明らかにキリスト教の霊能力より劣っており、日本の自然災害も防げず、経済も活性化できず、安全保障でも国を救えない。先の日米戦争では、キリスト教国のアメリカに敗戦し、クリスチャンのマッカーサー元帥の草案による、キリスト教精神に基づいた新憲法を受け入れ、戦後は平和と繁栄を謳歌してきた。日本の神道や仏教の精神が世界を主導しているのではない。ユダヤ・キリスト教の精神が世界をけん引している。

だから、日本人も日本の霊性を確保しつつ、世界の主流の一神教を学び、聖書を研究すろのが、歴史的に正しい生き方なのです。

具体的には、キリスト教精神をマスターして、霊能力をもった人間を新天皇として、新たに日本を立て直し、世界を主導すべきです。この新天皇は公募で霊能力者から選ぶべきです。ただし、現天皇家は、「旧天皇家」として政府が保護し、日本文化の伝統を守るべきです。

日本が、イエス・キリストの精神に従った国として世界を主導すれば、世界で停滞するキリスト教を刷新し、世界のリーダーとなれるのです。

UFOの宇宙人から文明の最期を警告された、無農薬のリンゴの栽培家の木村秋則は、「2030年頃に文明の崩壊が始まる」と警告されている。木村は、その前に無農薬農業を広めようと世界で活躍しているが、他の日本人も世界にイエス・キリストの平和の精神を、日本の霊性に従って広めるべきです。そこに、日本人の歴史的な存在価値がある。

ノーベル賞で世界をリードするだけでなく、宗教の面でも日本は世界を主導すべきなのです。そのためには、全国民が聖書を読んで、イエス・キリストの言葉を研究し、霊格を高め、悪魔の罠から脱する必要がある。そに貢献するのが、「このブログ」なのです。

2026年9月24日木曜日

『創造者は初めから人を男と女とに造られ・・・』 (マタイによる福音書 第 19 章) (the Creator ‘made them male and female’)



4 イエスは答えて言われた、「あなたがたはまだ読んだことがないのか。『創造者は初めから人を男と女とに造られ、
5 そして言われた、それゆえに、人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』。
6 彼らはもはや、ふたりではなく一体である。だから、神が合わせられたものを、人は離してはならない」。
7 彼らはイエスに言った、「それでは、なぜモーセは、妻を出す場合には離縁状を渡せ、と定めたのですか」。
8 イエスが言われた、「モーセはあなたがたの心が、かたくななので、妻を出すことを許したのだが、初めからそうではなかった。
9 そこでわたしはあなたがたに言う。不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行うのである」。
10 弟子たちは言った、「もし妻に対する夫の立場がそうだとすれば、結婚しない方がましです」。
11 するとイエスは彼らに言われた、「その言葉を受けいれることができるのはすべての人ではなく、ただそれを授けられている人々だけである。
12 というのは、母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある。この言葉を受けられる者は、受けいれるがよい」。(マタイによる福音書 第 19 章)

4 “Haven’t you read,” he replied, “that at the beginning the Creator ‘made them male and female,’ 5 and said, ‘For this reason a man will leave his father and mother and be united to his wife, and the two will become one flesh’? 6 So they are no longer two, but one flesh. Therefore what God has joined together, let no one separate.”
7 “Why then,” they asked, “did Moses command that a man give his wife a certificate of divorce and send her away?”
8 Jesus replied, “Moses permitted you to divorce your wives because your hearts were hard. But it was not this way from the beginning. 9 I tell you that anyone who divorces his wife, except for sexual immorality, and marries another woman commits adultery.”
10 The disciples said to him, “If this is the situation between a husband and wife, it is better not to marry.”
11 Jesus replied, “Not everyone can accept this word, but only those to whom it has been given. 12 For there are eunuchs who were born that way, and there are eunuchs who have been made eunuchs by others—and there are those who choose to live like eunuchs for the sake of the kingdom of heaven. The one who can accept this should accept it.”
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「人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」というのは、イエス・キリストの教えの中心となっている。だから、結婚式はキリスト教では祝福すべきものになっている。

しかし、結婚しても離婚するという場合がある。それに対してイエスは、「不品行のゆえでなくて、自分の妻を出して他の女をめとる者は、姦淫を行う」と述べている。つまり、原則として離婚は禁じられている。また、再婚は特に禁じられている。

ただし、「母の胎内から独身者に生れついているものがあり、また他から独身者にされたものもあり、また天国のために、みずから進んで独身者となったものもある」と述べて、独身者を責めてはならないことも述べている。

18世紀の神秘家で、生きたまま死後の世界、つまり、霊界を見ることを、イエス・キリストの霊によって許されたスウェーデンボルグは、霊界で男女の結婚が神聖なものとして扱われており、男女の霊が一体となるのを見ている。スエーデンボルグは結婚愛について本も書いている。ただし、彼自身は生涯、独身だった。

このため、カトリックでは離婚は禁じられている。この離婚問題を巡って、イギリスのヘンリー8世(1491 - 1547)という王が、バチカンと対立し、英国の教会がカトリック組織から分離し、英国国教会を独立させたことは、よく知られている。つまり、コロンブスの時代からイギリスは、バチカンから独立していたことになる。英国国教会は、教義はプロテスタントで、典礼はカトリックという形を取っている。隣国のアイルランドは、一貫してカトリックなので両国の間には長年にわたる対立がある。

このプロテスタント派とカトリック派の大きな違いは、この離婚問題にある。AIによれば。「プロテスタントでは、離婚は原則として望ましくないが、姦通や悪意ある遺棄など聖書に基づく重大な理由がある場合には離婚と再婚を認めうるという立場が主流です」とされている。

しかし、もっと重要なのは、結婚しないことが罪にあたるのかというと、そうではなく、AIでは、「ローマ法王が独身でいるのは、恋愛や結婚を否定しているからではなく、カトリック教会の聖職者として神と信徒への奉仕に専念するため」とされている。

実際、本当にイエス・キリストの教えに従って生きれば悪魔から攻撃を受け、自分の身を守るだけで精一杯になる。とても、家族や信徒の面倒まで見切れない。さらに、信徒の面倒を見るには、自分の家族のことを犠牲にしなければならなくなる。イエス・キリストですら、伝道をすれば、悪魔の攻撃を受け、ご自分や弟子たちを守るだけで手一杯になり、結婚する余裕もなかった。ただし、イエスの周囲には、多くの女性が従っており、イエスが女性を嫌いだったということはない。イエスも結婚できない、不幸な人間の一人であり、独身者の苦労はよく理解していた。

イエス・キリストご自身の女性関係については、AIでは、「新約聖書の福音書では、イエスと特定の女性が恋愛関係や結婚関係にあったとは書かれていません。一方で、女性の弟子や支援者はいたとされています。代表的なのがマグダラのマリアです。彼女はイエスに同行し、十字架刑や復活の場面でも重要人物として描かれます」と説明されている。また、聖母マリアもイエスの周囲におられたのは、よく知られている。

なお、レオナルド・ダビンチの「最後の晩餐」の絵で、弟子のヨハネが女性として描かれているという説があるが、AIでは、「女性に見えると言われるのは、長い髪とひげのない若い顔立ちのためです。ただしこれは当時のヨハネ表現として特別おかしいわけではなく、後年の創作や俗説ではマグダラのマリアではないかという説も広まりました」とされている。

悪魔は、結婚した男女を別れさせようとして、さまざまな計略を行うが、イエス・キリストは「神が合わせられたものを、人は離してはならない」として、そのような悪魔に取り付かれて、二人を離婚させようとする人間が現れることを想定して、人々を戒めておられる。

ただし、霊的なレベルで結びついていない夫婦は、死後の霊界では離れ離れになることは、スウェーデンボルグが霊界で見ており、この世での結びつきは永遠ではない。むしろ、霊界では二人の真実が現れて分かれる例が多い。この世では、内面は隠せても、霊界では心の中は隠せないのです。結婚しても、やがて心の中で憎み合う夫婦もいるが、子供のためや、この世のしきたり等でこの世では離婚しない夫婦もいるが、あの世では、そういうこの世の束縛はなくなり、一人ひとりが、その本質に従って生きるのです。

しかし、何よりも重要なのは、神様に仕えることであり、その奉仕に邪魔であれば、独身にならざるを得ない、というのがキリスト教の教えです。配偶者のお陰で神様に救われるということは、稀です。神様と個人の関係が基本なのです。

なお、悪魔は人間の欲望を利用して、人間を神様の教えから遠ざけようとするので、結婚には注意が必要です。しかし、「人は父母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである」というのが原則なのです。ただし、イエス・キリスト自身は、独身だったというのが真実のようです。




2026年9月22日火曜日

「目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないから」 (マタイによる福音書 第 25 章) (“Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour.")

 


そこで天国は、十人のおとめがそれぞれあかりを手にして、花婿を迎えに出て行くのに似ている。
2 その中の五人は思慮が浅く、五人は思慮深い者であった。
3 思慮の浅い者たちは、あかりは持っていたが、油を用意していなかった。
4 しかし、思慮深い者たちは、自分たちのあかりと一緒に、入れものの中に油を用意していた。
5 花婿の来るのがおくれたので、彼らはみな居眠りをして、寝てしまった。
6 夜中に、『さあ、花婿だ、迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
7 そのとき、おとめたちはみな起きて、それぞれあかりを整えた。
8 ところが、思慮の浅い女たちが、思慮深い女たちに言った、『あなたがたの油をわたしたちにわけてください。わたしたちのあかりが消えかかっていますから』。
9 すると、思慮深い女たちは答えて言った、『わたしたちとあなたがたとに足りるだけは、多分ないでしょう。店に行って、あなたがたの分をお買いになる方がよいでしょう』。
10 彼らが買いに出ているうちに、花婿が着いた。そこで、用意のできていた女たちは、花婿と一緒に婚宴のへやにはいり、そして戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかのおとめたちもきて、『ご主人様、ご主人様、どうぞ、あけてください』と言った。
12 しかし彼は答えて、『はっきり言うが、わたしはあなたがたを知らない』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないからである。 (マタイによる福音書 第 25 章)

25 “At that time the kingdom of heaven will be like ten virgins who took their lamps and went out to meet the bridegroom. 2 Five of them were foolish and five were wise. 3 The foolish ones took their lamps but did not take any oil with them. 4 The wise ones, however, took oil in jars along with their lamps. 5 The bridegroom was a long time in coming, and they all became drowsy and fell asleep.
6 “At midnight the cry rang out: ‘Here’s the bridegroom! Come out to meet him!’
7 “Then all the virgins woke up and trimmed their lamps. 8 The foolish ones said to the wise, ‘Give us some of your oil; our lamps are going out.’
9 “‘No,’ they replied, ‘there may not be enough for both us and you. Instead, go to those who sell oil and buy some for yourselves.’
10 “But while they were on their way to buy the oil, the bridegroom arrived. The virgins who were ready went in with him to the wedding banquet. And the door was shut.
11 “Later the others also came. ‘Lord, Lord,’ they said, ‘open the door for us!’
12 “But he replied, ‘Truly I tell you, I don’t know you.’
13 “Therefore keep watch, because you do not know the day or the hour."
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これは、「10人のおとめのたとえ話」と言われる箇所で、よく知られたイエス・キリストによるたとえ話です。インターネットの「3分でわかる聖書(https://seishonyumon.com/movie/6714/)」では、
「10人の娘のたとえ話は、ユダヤ式結婚の習慣を背景に語られたものです。
(1)ユダヤ式結婚には4つの段階があります。
①婚約、②花婿が花嫁を迎えに行く、③結婚式、④婚宴
(2)このたとえ話は、「花婿が花嫁を迎えに行く」という段階を背景に語られています」とされている。

また、「(1)花婿とは、キリストのことです。
(2)花嫁とは、キリストの花嫁である教会のことです。
(3)花婿と花嫁を迎えに出る10人の娘たちは、再臨の時に地上に住んでいる人々です」と説明されている。

さらに、「(1)10人の娘は、2つのグループに分かれます。
(2)油を持っている5人は信者で、メシアを迎える準備が出来ている人たちです。
①ここでの油は、聖霊の象徴です。
(3)油を持っていない5人は不信者で、メシアを迎える準備が出来ていない人たちです。
①油を持っていないのは、聖霊の内住がない、つまり救われていないということです」と続けている。

そして、「目をさましていなさい。その日その時が、あなたがたにはわからないから」と結論づけている。

イエスは、身近な婚宴という目出度い出来事を譬えとして用いて、人々の注意を引き付けている。そして、「油を持っていない5人の娘」には、残酷な結論が生じる、と語っておられる。

要するに、イエス・キリストの再臨の時に備えて、気を引き締めて注意をしていない人は、そのイエスのこの世への再出現から恩恵を得ることはなく、霊界の天国から締め出される、ということです。

イエスは、信者と信仰のない者を半分づつに分けている。世の中には、本当の霊的な信仰をもった人間は、非キリスト教徒を含めて、半分しかいないということです。

神道の信者でも、仏教の帰依者でも、魂の存在を信じ、イエス・キリストの言葉を信じる者は、信者の中に入ると考えるべきです。そのような名目的には他宗教の信者も含めて、霊界の万物の創造主を信じ、救世主イエス・キリストの再臨に備える者は、全体の約半数だというのが、人類の心の中まで見えたイエスの結論なのです。

そして、残りの半数の、イエス・キリストの再臨に備えていない人は、この世の苦難のときに救われず、死後も霊界の天国には受け入れられないのです。残酷な運命ですが、それが事実になるというのが、イエス・キリストの予言なのです。

従って、イエス・キリストの教えを信じる、霊的なキリスト教徒は、絶えず緊張感を持って生きなければならない。だから、ジョークや娯楽を楽しんだり、富や地位を求めたり、自分の欲望の充足を求めるのでなく、いつ危機が生じ、それから人々を救済するために、イエス・キリストが再びこの世に出現するかを待てということです。富や地位がもたらす快適性や快楽性に溺れてはいけない。常に心の底では、緊張感を持っていなければならない。日本語でも、「一瞬先は闇」という諺がある。人生はそのような状況にあるという警告です。

この2千年の間に、文明の崩壊と言う事態は生じなかったが、各個人はそれぞれが人生の危機に直面しながら生きている。個人の死は、その人にとって、この世の終わりを意味し、その瞬間にイエス・キリストの霊と出会えば、霊界の天国へと導かれるが、そうでなければ、やがて地獄に向かわなければならない。

花婿を待つ娘たちという可憐な娘たちでも、信仰心をもたなければ、婚宴の席に着けないという残酷な運命に出会う、という微妙な譬え話を使って、イエス・キリストは深刻な警告を人々に与えているのです。

日本人も、表面の宗教は何であれ、イエス・キリストの言葉を学び、聖書を研究し、物質文明の崩壊に備えるべきなのです。そして、その時には、必ずイエス・キリストが再臨して、信者を救うと信じるのが、霊的なキリスト教なのです。

2026年9月21日月曜日

料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかった (ヨハネによる福音書 第 2 章) (the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine)


2 イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた。
3 ぶどう酒がなくなったので、母はイエスに言った、「ぶどう酒がなくなってしまいました」。
4 イエスは母に言われた、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」。
5 母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。
6 そこには、ユダヤ人のきよめのならわしに従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。
7 イエスは彼らに「かめに水をいっぱい入れなさい」と言われたので、彼らは口のところまでいっぱいに入れた。
8 そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。
9 料理がしらは、ぶどう酒になった水をなめてみたが、それがどこからきたのか知らなかったので、(水をくんだ僕たちは知っていた)花婿を呼んで
10 言った、「どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました」。(ヨハネによる福音書 第 2 章)

2 and Jesus and his disciples had also been invited to the wedding. 3 When the wine was gone, Jesus’ mother said to him, “They have no more wine.”
4 “Woman, why do you involve me?” Jesus replied. “My hour has not yet come.”
5 His mother said to the servants, “Do whatever he tells you.”
6 Nearby stood six stone water jars, the kind used by the Jews for ceremonial washing, each holding from twenty to thirty gallons.
7 Jesus said to the servants, “Fill the jars with water”; so they filled them to the brim.
8 Then he told them, “Now draw some out and take it to the master of the banquet.”
They did so, 9 and the master of the banquet tasted the water that had been turned into wine. He did not realize where it had come from, though the servants who had drawn the water knew. Then he called the bridegroom aside 10 and said, “Everyone brings out the choice wine first and then the cheaper wine after the guests have had too much to drink; but you have saved the best till now.”
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これは、「カナの婚礼」と呼ばれるイエス・キリストが最初に行ったとされる有名な奇跡です。

AIによれば、「「カナの婚礼」はヨハネによる福音書2章1節から11節にあります。ガリラヤのカナで婚礼があり、ぶどう酒が足りなくなったとき、イエスが水をぶどう酒に変えました。これはヨハネ福音書で最初のしるしとされています」とされており、さらに、「この出来事では、イエスがただ困りごとを解決しただけでなく、栄光を現したことが大事だと語られます。その結果、弟子たちがイエスを信じたと記されています。(bible.com)
また、日本語の解説では、イエスの「わたしの時はまだ来ていません」という言葉は、後の使命や栄光を先取りして示す表現として読まれることがあります。(note.com)」とされている。

婚姻の宴に招かれたイエスについて書かれたのは、この箇所だけです。母のマリアと共にイエスが出席したことは、イエスが家族との関係を絶ってはいなかったことを明らかにしている。しかし、「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません」とイエスが述べたのは、イエスに霊が入って、もはや、この世の人間関係を超越した存在として生き始めたことを意味する。この世で最愛の母へすら、一人の女性に対する態度を見せたということは、イエスの伝道活動に、イエスは家族を関わらせる気持ちがないことを意味している。

ただし、イエスが伝道活動を開始したことを知った母マリアは、密かにイエスのことを気遣ってイエスの後をつけていたように思われる。特に、イエス・キリストが十字架の刑を受けた時にも、その十字架の周囲にいて、イエスの最後を見守ったとされる。そして、死に行くイエスは、弟子の一人に、イエスの母の面倒を見るように命じたとされている。いづれにしても、母マリアがイエスの伝道に、何らかの影響を与えていたことは考えられない。

イエスが権力者によって逮捕されたときも、イエスの家族は取り調べられなかった。また、イエスが伝道を開始した当初は、イエスの家族の誰も、イエスが神様の霊的な息子であることや、イエス・キリストの言葉を信じなかったが、やがて聖母マリアは、イエスの死の瞬間に立ち会われたほどに、イエスの言葉を信じられたと考えられる。

なお、超能力や霊能力のあったイエスが、その力を家族のために使って、家族を経済的に救ったり、家族の直面する問題を解決することはなかった。その中で、母マリアと共に出席したカナの婚礼の宴で水をブドウ酒に変える奇跡を行ったことは印象深い。イエスは、最初の奇跡を母の出席する婚礼の席で表され、母の知り合いの面目をたて、ひいては、母も助けたことになる。イエスの母マリアに対する深い愛情と配慮の表れだと見ることができる。

ただし、今後の伝道の厳しさを思って、母マリアにはイエス自身からは遠ざかっているようにとの気持ちを「婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか」と述べたのだろう。だから、イエス・キリストが十字架での死刑を言い渡された時に、当局はイエスの家族を取り調べなかった。イエスは、伝道の厳しい生活や権力者の攻撃から、母マリアや家族を守ったのです。

いづれにしても、この「カナの婚礼」は、イエス・キリストとその家族が関わった唯一の出来事です。なお、イエス・キリストのこの世の父親については、福音書に出てこないため、後世、さまざまな推論が行われている。しかし、神様の送られた聖霊によって母マリアが身ごもったという聖書の説明を信じれば、イエス・キリストは父親は神様だということになり。神の遺伝子やDMAを持って生まれ来たことになる。

なお、AIでは、「イエス・キリストの父親」については、
「キリスト教
キリスト教では、イエスは神の子で、父は神と理解されます。
一方で地上での家族としては、ヨセフが父親役とされる説明が一般的です。 (ja.wikipedia.org)

イスラム教
イスラム教では、イエスはイーサーという預言者です。
とても重要な人物ですが、神の子ではないと考えます。神は唯一で、子をもたないという理解です。 (islamicity.org)

ユダヤ教
ユダヤ教では、イエスを神の子とも救世主とも受け入れない立場が一般的です。
そのため、神がイエスの父であるという説明は取りません。歴史上の人物として見る考え方が中心です」
と説明されている。

いづれにしても、イエス・キリストが、その母のマリアや婚礼などに、無関心ではなかったことが、福音書に表されている。

イエス・キリストは、母マリアに従って誰かの婚礼の席に出席したのは事実なのです。そして、そこで最初の奇跡を起こされたのです。

カトリックや心霊主義の教会では、母マリアの霊的な役割を重視し、母マリアの霊が、以後、人類に出現していると考える。その最大の例が、1917年にポルトガルのファチマで起きたとされる聖母マリアの出言です。

聖母マリアを崇めるのが、カトリックですが、「プロテスタントではマリアは大切な人物ですが、カトリックのように特別に崇敬したり、祈りの対象にしたりすることは一般にしません」とAIでは説明されている。

それでも、多くの人間の女性の中から、イエス・キリストの母になる運命を与えられたのは、唯一、マリアなのです。聖母マリアは、人間として神様から最高の地位を与えらた女性だということになる。イエス・キリストは単なる純粋の人間だったとは言えないが、聖母マリアは、単なる人間の一人だった。

つまり、人間の心を持った聖者が、母マリアだということになる。だから、聖母マリアに人間は親しみを覚えて当然なのです。人生の苦しみや悲しさなどは、聖母マリアはよく理解しているはずです。だから、カトリックのキリスト教徒は、今でも聖母マリアに願いをかけたり、祈ったりするのです。

心霊的には、人類の霊で最高の霊格をもっていて、神様の子のイエス・キリストの母に選ばれたのは、マリアだというこになる。(ただし、イエス・キリストは、単なる人間の霊を持った存在とは言えない。)

2026年9月20日日曜日

わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった (マタイによる福音書 第 11 章) (We played the pipe for you, and you did not dance)

 

16 今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、
17 『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。
18 なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、
19 また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
(マタイによる福音書 第 11 章)

16 “To what can I compare this generation? They are like children sitting in the marketplaces and calling out to others:
17 “‘We played the pipe for you,
and you did not dance;
we sang a dirge,
and you did not mourn.’
18 For John came neither eating nor drinking, and they say, ‘He has a demon.’ 19 The Son of Man came eating and drinking, and they say, ‘Here is a glutton and a drunkard, a friend of tax collectors and sinners.’ But wisdom is proved right by her deeds.”
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これは、「笛吹けど、踊らず」という言葉の原点です。また、「弔いの歌を歌ったのに、嘆かす」という言葉の原典となった聖書の箇所です。

この言葉は、予言者のヨハネが来ても、「悪霊につかれている」と続き、また、神様の子であるイエス、即ち、人の子が来ても、「罪人の仲間だ」と言って無視したと人々を責めている。

つまり、イエス・キリストは、人々の信仰心がないことを責められたのです。AIでは、「「笛ふけども踊らず」は、新約聖書のたとえに由来するとされます。イエスが人々の反応の鈍さをたとえて、笛を吹いても踊らず、悲しみの歌を歌っても泣かない子どもたちの姿を語った箇所です」とされている。

また、Wikipediaでは、「このことわざは『新約聖書』の「マタイによる福音書」が由来である。ここではイエス・キリストはヨハネの言うことに民衆が耳を傾けようとしなかったことを非難する目的で笛吹けど踊らずであったと述べられた。「ルカによる福音書」にも笛吹けど踊らずという言葉が出てくる。ここではイエス・キリストが、ヨハネのメッセージやイエス・キリストを受け入れない人のことを笛吹けど踊らずであると非難している。このような人は悔い改めることなく主を受け入れないのは自分が正しいとしているからであると指摘している」と説明されている。

また、キリスト教プロテスタント超教派の宣教団体(https://www.newlifeministries.jp/word_from_bible_no2/)では、「ヨハネは食べることも、飲むこともしない、いわば禁欲的に宣教を行っていたのでしょう。そのようなヨハネに対しては「悪霊にとりつかれている」と批判し、一方で、ときに嫌われ者の取税人や罪人とも一緒に食べたり飲んだりしながら宣教を行っていたイエスに対しては「食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」と悪口を言う。どちらに対しても真摯に耳を傾けようとしない、ヨハネやイエスの宣教の働きに対するそのような人々の態度を、きっとイエスは残念に思っていたのでしょう」と説明されている。

これは、神様を無視した人々が、飲み食い、歌い、踊りなどしているときに、解様の怒りが下ったという、聖書の他の箇所の記述とも関係する。

実際、物質文明の繁栄で、人類が快適性や快楽性を享受している今日、自然破壊や異常気象で、地球は危機に瀕している。神様は、多くの聖者をこれまで人類に送ってきたが、人々は彼らを無視している。

例えば、シャーロック・ホームズの作者のコナン・ドイルは、ホームズ物よりも心霊研究に熱心だったが、人々はその心霊研究を真剣に取り上げてはいない。また、神秘家のスウェーデンボルグは、死の世界、即ち、霊界を見てきて多くの著作を書いたが、スエーデンボルグの神学より、他のオカルト者を取り上げる心霊研究家も多い。真剣な霊的探求はなおざりにされている。

また、リンゴの無農薬栽培家の木村則夫は、UFO内で宇宙人から人類破滅の警告を与えられたが、日本社会は大きく取り上げていない。

今世紀に、物質文明が崩壊することは間違いなく、多くの警告も天から出されているが、神様への信仰心が足りない人類は、「笛吹けど踊らず」の状態なのです。せめて、イエス・キリストの言葉を真剣に見直し、奇跡的に救われるのを祈るべきです。

なお、UFOや宇宙人は、人類の崩壊に関心をもって見守っていることは間違いない。宇宙人も神様の下にあり、地球の人類文明の崩壊は、宇宙にも影響を与えるのです。



2026年9月19日土曜日

「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」 (マタイによる福音書 第 22 章) (“So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”)



17 「それで、あなたはどう思われますか、答えてください。カイザルに税金を納めてよいでしょうか、いけないでしょうか」。
18 イエスは彼らの悪意を知って言われた、「偽善者たちよ、なぜわたしをためそうとするのか。
19 税に納める貨幣を見せなさい」。彼らはデナリ一つを持ってきた。
20 そこでイエスは言われた、「これは、だれの肖像、だれの記号か」。
21 彼らは「カイザルのです」と答えた。するとイエスは言われた、「それでは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。
22 彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。(マタイによる福音書 第 22 章)

17 "Tell us then, what is your opinion? Is it right to pay the imperial tax[a] to Caesar or not?”
18 But Jesus, knowing their evil intent, said, “You hypocrites, why are you trying to trap me? 19 Show me the coin used for paying the tax.” They brought him a denarius, 20 and he asked them, “Whose image is this? And whose inscription?”
21 “Caesar’s,” they replied.
Then he said to them, “So give back to Caesar what is Caesar’s, and to God what is God’s.”
22 When they heard this, they were amazed. So they left him and went away.
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これが、イエス・キリストの言葉としてよく知られた「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉の出典です。

イエスに敵対するものが、税金()をローマ皇帝に納めるべきかをイエスに質問したときに、イエスがその肖像が刻印された硬貨を示して、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」と答えられたのです。

当時のユダヤ人の住むパレスチナを植民地化していたローマ帝国の当局者は、ユダヤ人から税金を集めていたが、ユダヤ人の中にはそれに反発し、反ローマ帝国の動きもあった。イエスの敵対者は、イエスが税金を当局に払うわなくてもよい、と答えることを期待していたのだろう。そうすると、イエスはローマ帝国に反対する者であり、当時の支配者への反逆者であることが明確になり、当局に逮捕されても仕方がないことになる。その口実を彼らは得ようとしていたと思われる。

また、イエスが税金を払うべきだと答えれば、権力に追随する者として、ユダヤ人の民衆から軽蔑を買い、イエスの評判は落ちると考えていた。

どう答えても、イエスは苦境に立たされる。イエスの敵対者(ローマ帝国の支配者やユダヤ教の宗教幹部)は、イエスを抹殺しようとして、そのような難問をイエスに与えたのです。

それに対して、イエスは誰もが思わなかった答えをした。それが、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返し、神のものは神に返せ」という言葉なのです。

つまり、イエスは、権力者には逆らってはならないから、「カイザル(皇帝)のものはカイザルに返せ」と述べられたが、この世には権力者よりも力のある神様がおられる、ということを、「神のものは神に返せ」という言葉で人々に思い出させたのです。

ローマ皇帝の肖像が刻印された貨幣は、ローマ皇帝のものなのは明らかです。だから、それを税金としてローマ当局に支払うことは自然だという理屈は誰でも分かる。しかし、自分たちが苦労して稼いだカネを、税金としてローマ当局に取られるのは、ユダヤ人には気に入らない。だから、イエスは、権力者のローマ当局に密かに仕返しをするのをユダヤ人に煽るようなことを言うかも知れないと、イエスの敵対者は期待していたのだろう。それを当局に通報すれば、イエスの逮捕につながる。つまり、イエスがユダヤ人の間で人気を得ようとすれば、当局には反逆者となるし、逆に、ローマ当局に迎合すれば、ユダヤ人の民衆から軽蔑され、人気を失う。
、
それに対して、イエスは、権力者には逆らうべきではないが、この世の権力者よりも、もっと力があるとユダヤ人なら誰もが考える神様を持ち出してきて、「神のものは神に返せ」と言われたのです。

イエスの敵対者たちの計略は、宙に浮いて、その企みは失敗したことになる。それは、イエスは権力者への恭順を示しつつ、ユダヤ人にむしろ神様のことを考え、ローマ皇帝に対する忠誠と同等の強い信仰心を神様に示すべきだと述べたからです。この世のことよりも、神様への信仰心が大事だと、イエスは人々に教えたので、それにイエスの敵対者や権力のスパイは、それに対して表立って文句をつけることも、イエスの伝道者としての人気を貶めることもできなかった。

つまり、イエス・キリストは、一方では、権力者とは表立って敵対したり、波風を立てることなく生きるようにとユダヤ人に教え、他方では、ローマ帝国の支配に苦しむユダヤ人に、神様という強い味方がいることを忘れるなとのメッセージを与えたのです。これは、腰抜けのインチキ宗教家にできることではない。結局、権力側も民衆も、このイエスの言葉を受け入れざるを得ない。ローマ帝国といえども、ユダヤ人にローマ人の宗教を強要しても、心の底からの信仰心は得られないことは承知しているからです。政治的にローマ帝国に逆らうなというイエスの言葉には、当局者もつけいる隙はない。イエスは、ローマ軍によるパレスチナの支配を認めたことになるからです。

ユダヤ人の民衆の方は、この言葉によって、この世の政治よりも神様への信仰心が大事だということを思い出させられた。そして、伝道者としてのイエス・キリストの人気や評判は、ますます高まることになった。

なお、2千年前の当時、日本では稲作の弥生文化が始まった頃だが、地中海沿岸のローマ帝国では、貨幣経済が生まれており、ユダヤ人社会でも貨幣経済が進み、貨幣で税金が集めらていたのは注目すべきです。

AIでは、「日本の最初の貨幣として一般に挙げられるのは、和同開珎です。708年に作られた、日本初の本格的な流通貨幣とされています」と述べている。日本よりも、700年も前に南ヨーロッパのローマ帝国では、貨幣経済が始まっていた。だから、2千年前の新約聖書も現代人には理解しやすい。カネに悪魔が取りつく感覚は、今の人間でも理解できる。カネにまつわる人間の欲も、当時も同じなのが現代人にもよく理解できる。

イエス・キリストが弟子のユダに裏切られたのも、ユダのカネに対する欲望からだという話しも理解しやすい。

それよりも、敵対者がスパイを送り込むという方に注目すべきです。敵対者は巧妙な質問をしたり、狡猾な罠をしかけてくるのは、2千年前も今も変わらない。

人間のやること、考えることは、2千年前も今も変わらない。これが、聖書の新約聖書の福音書が、現代でも分かりやすく読める理由なのです。(他にも、それ以前の「ギリシア文化やインド発の仏教、中国の儒教なども、普遍的な人間性に関する教えなので、今でもよく理解されている。また、ユダヤ教と重なる旧約聖書も、キリスト教につながるものとして理解できる。)

さらに、悪魔が2千年前と同じように、神様やイエス・キリストを信じる人を攻撃し、罠にかけようとしているのも変わらないのです。とにかく、カネという悪魔の小道具には執着せずに、信者は神様のことを第一に考えよというイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。

なお、今の日本では消費税が大きな話題になっているが、税金のことより、日本的霊性を高めることが重要です。税金が日本国を円滑に動かすのに必要であれば、政府に払うべきであるが、日本人の霊的・精神的な救済や幸福に必要な日本的霊性も重要です。

その霊性を世界的な視野から眺めると、日本人も世界の主流であるキリスト教への理解を深めることが重要です。日本の神道や仏教の霊性を探求すれば、霊界の支配者としての万物の創造主を崇拝するようになる。そして、その万物の創造主は、イエス・キリストの教えを説くキリスト教の神様だとうのが結論なのです。

つまり、「カイザル(皇帝)」の代わりに、「日本の神仏(天照大御神やブッダなど)」を置き換えても同じことです。「日本の神仏を崇める宗教に寄付をしても良いが、万物の創造主の神様へも礼拝をせよ」ということになる。これが、霊的なキリスト教なのです。