2026年10月1日木曜日

「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」 (ヨハネによる福音書 第 10 章) (The good shepherd lays down his life for the sheep.)

 

11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
19 これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
20 そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
21 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。(ヨハネによる福音書 第 10 章)

11 “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. 12 The hired hand is not the shepherd and does not own the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. 13 The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep.
14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me— 15 just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep. 16 I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. 17 The reason my Father loves me is that I lay down my life—only to take it up again. 18 No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father.”
19 The Jews who heard these words were again divided. 20 Many of them said, “He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?”
21 But others said, “These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?”
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AIによれば、「「牧師」に「牧」という字がつくのは、キリスト教の聖書において、キリストが自らや指導者を「羊を飼う羊飼い(牧者)」に例えたことに由来します」とされている。

なお、「聖書で「羊飼い」とは、神やイエスが民を導き守る存在を表す比喩です。実際の職業名であると同時に、霊的指導者の象徴としても使われます」とされている。

さらに、「旧約・新約を通して、羊飼いは「羊=神の民」を世話し、守り、導く者のイメージで語られます。(hiroshima.repo.nii.ac.jp) 神ご自身が「わたしはあなたがたの羊飼い」と表現される箇所があり、神の配慮と保護を示します(詩篇23篇など)(jh.aoyama.ed.jp)」と説明しており、さらに、「新約聖書では、イエスが「良い羊飼い」として、自分の羊を知り、そのために命を捨てる方として描かれます(ヨハネ10章)。(christianpure.com)  迷った一匹を探し出す羊飼いのたとえは、罪人を探し出し、連れ戻す神の愛を表します(マタイ18章、ルカ15章)。(luther.repo.nii.ac.jp)」と述べている。

実際、福音書では、イエス・キリストは、「多く(100匹)の羊の中から1匹が囲いの中から迷い出たとしても、良い羊飼いは、他の99匹を囲いの中に置いておいて、その失われた1匹を探しに行く」とも述べておられる。

多くの羊がいるので、1匹の羊の世話に時間をかけていられない、と言って、どの1匹の羊の面倒も見ないようでは、100匹のどの羊の面倒も見ないことになる。つまり、数が多いので1つも相手にできない、だから、何もしないというふざけた言い訳です。

これは、教師が、学校には多くの生徒がいるから、一人一人の生徒には時間をかけて面倒を見れない、と言って、どの生徒の相談にも応じないようなものです。つまり、一人の生徒を指導しない教師は、全員の指導もしないものです。

つまり、集団の大きさを口実にして、集団の構成員の一人一人の面倒を見ない、呆れた指導者がいる。彼らは、面倒を見たり、相談に応じるという責任を放棄しているのです。

それとは逆に、誠意のある指導者・管理者は、他の大勢をいったん自由にしておいて、集団から離れて迷った一人の人間を救い出そうとするものです。

世の中の誘惑や悪の罠にはまって、教会から離れた元信者を救い出して、神様の教えの下に連れ帰るのが、神父や牧師や務めです。他の信者は教会に残しておいて、神父・牧師は世の中の荒波に入って行って、その迷い出た信徒を救い出すのが彼らの務めなのです。

しかし、そういう面倒な元信者のことは無視することが多い。自分たちの評価や教会の評判が上がることだけを気にかけているような宗教的指導者は、個々の信者の苦しみや悲しみは無視する。要するに、人間的に未熟な人間が、学校でよい成績を取ったというだけで、高い地位を与えられても、誰も救わないし、社会の役にも立たない。

仏教や神道、又は、キリスト教系の学校で良い成績を取ったからといって、良い宗教人になれるとは限らない。

信者を救うためであれば、自分の命を捨てる覚悟のある宗教的指導者が必要なのです。

「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの言葉は、人間社会の全ての組織や団体の指導者にあてはまることです。

「良い羊飼い」になれ、というのがイエス・キリストの与える教訓です。

また、一家の主人も一人の羊飼いなのです。家族の一人ひとりのために命をかけるのが、一家の主人なのです。

2026年9月29日火曜日

「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」 (“A prophet is not without honor except in his own town, among his relatives and in his own home.” )


イエスはそこを去って、郷里に行かれたが、弟子たちも従って行った。
2 そして、安息日になったので、会堂で教えはじめられた。それを聞いた多くの人々は、驚いて言った、「この人は、これらのことをどこで習ってきたのか。また、この人の授かった知恵はどうだろう。このような力あるわざがその手で行われているのは、どうしてか。
3 この人は大工ではないか。マリヤのむすこで、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。またその姉妹たちも、ここにわたしたちと一緒にいるではないか」。こうして彼らはイエスにつまずいた。
4 イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」。
5 そして、そこでは力あるわざを一つもすることができず、ただ少数の病人に手をおいていやされただけであった。
6 そして、彼らの不信仰を驚き怪しまれた。それからイエスは、附近の村々を巡りあるいて教えられた。
7 また十二弟子を呼び寄せ、ふたりずつつかわすことにして、彼らにけがれた霊を制する権威を与え、
8 また旅のために、つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、
9 ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように命じられた。
10 そして彼らに言われた、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい。
11 また、あなたがたを迎えず、あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」。
12 そこで、彼らは出て行って、悔改めを宣べ伝え、
13 多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした。 (マルコによる福音書 第 6 章)

2 When the Sabbath came, he began to teach in the synagogue, and many who heard him were amazed.
“Where did this man get these things?” they asked. “What’s this wisdom that has been given him? What are these remarkable miracles he is performing? 3 Isn’t this the carpenter? Isn’t this Mary’s son and the brother of James, Joseph, Judas and Simon? Aren’t his sisters here with us?” And they took offense at him.
4 Jesus said to them, “A prophet is not without honor except in his own town, among his relatives and in his own home.” 5 He could not do any miracles there, except lay his hands on a few sick people and heal them. 6 He was amazed at their lack of faith.
Then Jesus went around teaching from village to village. 7 Calling the Twelve to him, he began to send them out two by two and gave them authority over impure spirits.
8 These were his instructions: “Take nothing for the journey except a staff—no bread, no bag, no money in your belts. 9 Wear sandals but not an extra shirt. 10 Whenever you enter a house, stay there until you leave that town. 11 And if any place will not welcome you or listen to you, leave that place and shake the dust off your feet as a testimony against them.”
12 They went out and preached that people should repent. 13 They drove out many demons and anointed many sick people with oil and healed them.
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予言者は、その故郷では尊敬されない、という「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」というイエス・キリストの言葉は、よく知られている。

また、予言者は、その家族や親族によっては尊敬されない、という「預言者は、自分の郷里、親族、家以外では、どこででも敬われないことはない」という言葉もよく知られている。

さらに、弟子を各地に派遣されるときに、「つえ一本のほかには何も持たないように、パンも、袋も、帯の中に銭も持たず、ただわらじをはくだけで、下着も二枚は着ないように」と命じられたこともよく知られれている。つまり、ホームレスとして伝道せよ、ということです。

そして、「どこへ行っても、家にはいったなら、その土地を去るまでは、そこにとどまっていなさい」と、落ち着いて一軒の家で伝道することを命じ、周囲をきょろきょろと見て歩くようなことをしてはならない、と教えておられる。

最期に、「あなたがたの話を聞きもしない所があったなら、そこから出て行くとき、彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」と、人々が弟子たちに敬意を払わなかったときに備えて、警告も与えている。

イエスの教えに従った弟子たちは、各地の村や町で伝道し、「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とされている。

今でも、キリスト教会は、基本的にこの教えに従って、神父、修道士、修道女などを各地に派遣している。1979年にノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサなども、質素な姿で、身の回りの物だけをもって、世界を旅していた。

しかし、イエスは、冗談で弟子たちを人々への伝道のために派遣するのではなく、神様の教えを延べ伝えるという、厳粛で真剣な聖なる行いとして、弟子を派遣するのです。そこでは、神の教えに反対する者もいる。どんな、妨害や無視や、冷笑にあうかも分からない。そときに、弟子たちが動揺しないように、そのような場合に備えて、「彼らに対する抗議のしるしに、足の裏のちりを払い落しなさい」と、取るべき態度を教えている。

つまり、弟子たちの背後には、イエス・キリストがおり、イエスの背後には神様の霊や聖霊がいることに自信を持って、堂々と威厳をもって反対者に接することを教えている。誰もが、神様の言葉を聞いて喜ぶものではないことを、前もって教えておられるのです。

そして、弟子たちは「多くの悪霊を追い出し、大ぜいの病人に油をぬっていやした」とされている。人々の心から悪霊を追い出し、人々の病もいやしてやれば、人々は精神的にも、肉体的にも苦痛から救われる。救われた人々は、弟子たちの伝えるイエス・キリストの言葉を信じ、キリスト教が成立するようになったのです。

要するに、イエス・キリストの周到な作戦と、弟子たちに与えられた必要な霊能力によって、イエス・キリストの教えは人々に広まり、キリスト教は成立するようになったのです。

悪魔の影響の下にある、人間社会に神様の言葉を伝えるのが、いかに困難であり、伝道者の持ち物から、反対者への対応の仕方まで、イエスは教える必要があったのです。

今でも、カトリック教会は、このイエス・キリストの教えに従うという伝統を守っている(衣服も千年以上前の衣服に従っている)。他方、アメリカのプロテスタントの牧師などは、現代的なビジネス・マンの姿をして、伝統にはこだわらない姿勢を見せている。いづれにしても、人間の霊や魂の問題は不変であり、2千年前のイエス・キリストの教えは、今も有効なのです。

神様も悪魔も、何千年前から変わっておらず、イエス・キリストの教えも不変なのです。人間は、生まれて、生きて、そして、死ぬものなのです。人間は、霊界から魂をもって、この世に生まれ、この世で生きて、やがて、この世で死に、魂は霊界に戻るのです。つまり、霊が死んで消滅することはない。ただし、神様が地獄の悪魔を消滅させるときは、悪魔によって地獄に連れ込まれた人間の霊も地獄と共に消滅することになる。そのときに、出来るだけ多くの人間の霊を自分と共に消滅させようとするのが、悪魔の狂った試みなのです。悪魔は、神様によって消滅させられることは承知しているが、神様によって作られた人間を、できるだけ多く道連れにしようと考えているのです。

だから、地獄に行く人間は、悪魔のように狂っていくのです。神様に消滅させられながら、神様のご威光を少しでも損なった気になって消滅していくのです。自殺する人間が、自分の自殺によって神様の威厳が損なわれたと考えて、喜びながら死ぬようなものです。

悪魔の教えに従って、この世の富や名声を得た最後に、悪魔に取り付かれた人が出会うのは、地獄で狂った悪魔なのです。

これに反して、神様の信仰者は、天国で永遠の命と幸福を得るのです。これが、霊的なキリスト教の教えなのです。

2026年9月28日月曜日

「知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」 (ルカによる福音書 第 11 章) (You yourselves have not entered, and you have hindered those who were entering.”)


46 そこで言われた、「あなたがた律法学者も、わざわいである。負い切れない重荷を人に負わせながら、自分ではその荷に指一本でも触れようとしない。
47 あなたがたは、わざわいである。預言者たちの碑を建てるが、しかし彼らを殺したのは、あなたがたの先祖であったのだ。
48 だから、あなたがたは、自分の先祖のしわざに同意する証人なのだ。先祖が彼らを殺し、あなたがたがその碑を建てるのだから。
49 それゆえに、『神の知恵』も言っている、『わたしは預言者と使徒とを彼らにつかわすが、彼らはそのうちのある者を殺したり、迫害したりするであろう』。
50 それで、アベルの血から祭壇と神殿との間で殺されたザカリヤの血に至るまで、世の初めから流されてきたすべての預言者の血について、この時代がその責任を問われる。
51 そうだ、あなたがたに言っておく、この時代がその責任を問われるであろう。
52 あなたがた律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」。
53 イエスがそこを出て行かれると、律法学者やパリサイ人は、激しく詰め寄り、いろいろな事を問いかけて、
54 イエスの口から何か言いがかりを得ようと、ねらいはじめた。(ルカによる福音書 第 11 章)

46 Jesus replied, “And you experts in the law, woe to you, because you load people down with burdens they can hardly carry, and you yourselves will not lift one finger to help them.

47 “Woe to you, because you build tombs for the prophets, and it was your ancestors who killed them. 48 So you testify that you approve of what your ancestors did; they killed the prophets, and you build their tombs. 49 Because of this, God in his wisdom said, ‘I will send them prophets and apostles, some of whom they will kill and others they will persecute.’ 50 Therefore this generation will be held responsible for the blood of all the prophets that has been shed since the beginning of the world, 51 from the blood of Abel to the blood of Zechariah, who was killed between the altar and the sanctuary. Yes, I tell you, this generation will be held responsible for it all.

52 “Woe to you experts in the law, because you have taken away the key to knowledge. You yourselves have not entered, and you have hindered those who were entering.”

53 When Jesus went outside, the Pharisees and the teachers of the law began to oppose him fiercely and to besiege him with questions, 54 waiting to catch him in something he might say.

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AIでは、「アベルは創世記で、兄カインに殺された人物です。聖書の中では、アベルは最初に殺された正しい者として理解されます。なので「アベルの血」は、ただ一人の死ではなく、罪のない者が流した血の始まりを表しています。 (babelbible.net)」とされている。また、「イエスはここで「アベルの血からザカリヤの血まで」と言っています。これは、聖書の最初期に殺されたアベルから、旧約の最後の方に出てくるザカリヤまでを並べて、神に仕える人が一貫して拒まれ、殺されてきた歴史全体を示す言い方です。 (churchofjesuschrist.org)」と説明されている。

特に、印象深いイエス・キリストの指摘は、「律法学者は、わざわいである。知識のかぎを取りあげて、自分がはいらないばかりか、はいろうとする人たちを妨げてきた」という箇所です。

これは、今の世の知識人やエリートにもあてはまります。人々が真理を知ることを妨げ、自分自身も真理を極めようとしない各方面の学者への批判です。

だから、都市伝説や陰謀論の形で、一般人が世の中の真実を見極めようとする。しかし、その真実は覆い隠されていることが多い。それでも、「真実はいずれ人々に知られる。隠されていることで、公に知られないものはない」と、イエスは述べている。真実の力の恐ろしさです。

だから、苦労し、悟りを得た修行者のことは、やがて人々に知られる。人知れず、真理を追究し、力を得た研究者のことも、いつかは人々に知られる。また、真実の信仰者も、いづれ世の中に現れる。「灯りは、寝台の下ではなく、燭台の上に置かれる」ものだからです。これが、神様が定められた、この世の法則なのです。それを邪魔するのが、悪魔に魂を売ったエリートや富裕層なのです。

UFO研究家の矢追純一は、支配者は一般人に真実を教えない。UFO・宇宙人の真実を、世界のエリートや権力者は隠していると述べている。エリートは、秘密を自分たちのものにして、一般人には知らせないのが昔から普通だという。アメリカで人々がUFO・宇宙人の真実を求めて政府と戦う人が絶えないのは、キリスト教の伝統のせいです。矢追自身は、クリスチャンではなく、ニヒリストだが、真実を見抜いていることになる。

そういう隠れた真実を人々に知らせて、社会の闇から人々を解放し、自由を与える働きもイエスはしていたことになる。

政界でも、経済界でも、ビジネス界でも、宗教界や学会でも、権力者やエリートしか知らない秘密というものがある。それを明らかにするのが、キリスト教精神に基づく文化をもつ欧米の伝統なのです。都市伝説も陰謀論も、キリスト教の伝統のある欧米のジャーナリズムから生まれたものです。

日本でも、第二次大戦での敗戦で、日本の旧支配層が放逐されるまで、一般人は闇に置かれていた。戦後は、アメリカのキリスト教に基づく自由の精神が導入され、真実を明らかにする自由が一般人にもたらされたのです。(ただし、まだ天皇家を中心とする隠れた支配層が日本に存在し、社会を陰で支配しようとしている。彼らの影響から脱するには、日本人はもっとキリスト教を学ぶべきです。)

しかし、この自由は、一般の日本人が戦って得たものではなく、キリスト教精神の自由の国のアメリカと、天皇神道を強制されていた日本の戦いの結果、日本は敗戦し、日本がアメリカの支配下に置かれて実現したものなのです。そして、戦後はアメリカの民主主義にならった現日本国憲法が採用され、今日のように日本は平和と繁栄を謳歌できたのです。まさに、ケガの功名で日本社会は解放されたのです。ここに、神様の神慮を見るのが信仰なのです。このキリスト教精神は、アメリカ経由で日本にもたされたので、日本人はアメリカを尊敬しているのです。

ただし、今も、中国や北朝鮮のように、自由のない独裁国家がアジアにあり、ある意味では、その国の民衆の社会的な開放が求められている。戦前の日本社会から解放された戦後の日本人が、自由と発展を享受できたように、彼らもキリスト教精神で解放される必要がある。これが、正しい歴史観であり正しい歴史認識なのです。

それでも、欧米のキリスト教自体が、行き詰まり、腐敗し、堕落している現在、真のキリスト教精神を受け継ぐのは、独自の霊性に満ちた日本だという主張をする宗教家もいる。神道や仏教の霊性を認める日本人の中にも、霊的にキリスト教を認める日本人はいる。日本人の宗教家の鈴木大拙が、クリスチャンの神秘家スエーデンボルグの著作を研究したのも、その例です。

日本人は、さらに霊性を深め、キリスト教を理解し、その恩恵に与るために、聖書を研究すべきです。そして、イエス・キリストが言うように、それを妨げる勢力と戦わなければならない。彼らの背後には悪魔がいるのです。だから、エリートや富裕層は信用できない。

そういう意味で、神様の恵みを人々が得るために、日本独自の世界史的な存在意義があるのです。


食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった (マタイによる福音書 第 14 章) (The number of those who ate was about five thousand men, besides women and children.)


14 イエスは舟から上がって、大ぜいの群衆をごらんになり、彼らを深くあわれんで、そのうちの病人たちをおいやしになった。
15 夕方になったので、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。群衆を解散させ、めいめいで食物を買いに、村々へ行かせてください」。
16 するとイエスは言われた、「彼らが出かけて行くには及ばない。あなたがたの手で食物をやりなさい」。
17 弟子たちは言った、「わたしたちはここに、パン五つと魚二ひきしか持っていません」。
18 イエスは言われた、「それをここに持ってきなさい」。
19 そして群衆に命じて、草の上にすわらせ、五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさいて弟子たちに渡された。弟子たちはそれを群衆に与えた。
20 みんなの者は食べて満腹した。パンくずの残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。
21 食べた者は、女と子供とを除いて、おおよそ五千人であった。(マタイによる福音書 第 14 章)

14 When Jesus landed and saw a large crowd, he had compassion on them and healed their sick.

15 As evening approached, the disciples came to him and said, “This is a remote place, and it’s already getting late. Send the crowds away, so they can go to the villages and buy themselves some food.”

16 Jesus replied, “They do not need to go away. You give them something to eat.”

17 “We have here only five loaves of bread and two fish,” they answered.

18 “Bring them here to me,” he said. 19 And he directed the people to sit down on the grass. Taking the five loaves and the two fish and looking up to heaven, he gave thanks and broke the loaves. Then he gave them to the disciples, and the disciples gave them to the people. 20 They all ate and were satisfied, and the disciples picked up twelve basketfuls of broken pieces that were left over. 21 The number of those who ate was about five thousand men, besides women and children.



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AIによれば、「五千人の給食は、聖書の中でもとても有名なパンの奇跡です」と記されている。また、「イエスが五つのパンと二匹の魚で、多くの人を食べさせた出来事です。食べた人は、女と子どもを除いておよそ五千人とされています。さらに、食べ終わったあとには十二のかごいっぱいのパンくずが残りました (bible.com)」とされている。

これは、イエス・キリストが霊能力で、パンや魚を空中から取り出したものと考えられている。つまり、物品(パンや魚)の出現や移動を霊能力で起こして、パンや魚を人々に与えたと解釈される。

この能力があったイエスとその弟子の一行は、必要があれば、食物を空中から取り出すことが出来て、飢えることがなかったことが分かる。しかし、イエスは、病を癒された人たちが、感謝の念からイエスの一行を、自宅でお礼に食事を提供したので、それを食して生きていたとも考えられる。イエスは、人々の感謝の心を、彼らがお礼として出す食事をして受け取っていたのです。

病気を癒された人たちが、お礼として、イエスたちに食事を振るまえなくても、イエスたちは困ることはなかった。イエスにお礼をしたい人たちの感謝の念を尊重して、彼らが与える食事をとっていたことが分かる。

AIでは、さらに「この場面のパンは、ただの食べ物というだけでなく、神の恵みが人に十分に与えられることを表すものとして読まれることが多いです。ヨハネ福音書では、この出来事のあとにイエスが命のパンについて語る流れにもつながります (bible.com)」とされている。

しかし、5千人の人、全員に食物を与えるというのは、大きな出来事なので、福音書の作者は印象深く記述している。イエス・キリストがユダヤ人の王になれば、民衆は飢えから解放されたはずだということも分かる。この奇跡の後では、イエス・キリストの噂は、全ユダヤ人に広がったと思われる。

今でも、物品の移動を行ったり、空中から物品を取り出す霊能者が日本にもいるが、5千人の食事を空中から出現させたり、どこかから、食品を移動させてくるほどの霊能者はいない。そういう意味で、イエス・キリストの霊能力は驚異的です。

まさに、イエス・キリストは一国を支配し管理するだけの力を持っていた。また、必要があれば、天の軍勢をこの世に呼んで、敵国を倒すこともできただろうと思われる。

イエスが、伝道を始める前に、悪魔がイエスに、自分を拝めば、国々を支配させてやると言っていたが、そんな悪魔の助けを借りずとも、イエスは国々を支配できる力があったのです。悪魔がイエスにしたことは、大金持ちに、悪魔を崇めれば、金貨を1枚やると言ったようなものです。悪魔は、イエス・キリストによって道化にされているのです。

しかし、イエス・キリストは、弟子のユダの裏切りがあった時には、権力者と武力で戦かわずに、彼らの計略に従って十字架上の死を受け入れられた。必要なら、何十万という天の軍勢を呼ぶこともできたイエス・キリストが十字架上での刑死を受け入れた方が驚きなのです。だから、イエスの十字架上での死について、2千年間も西欧の神学では議論が続いている。

パレスチナを支配するローマ軍ですら、一掃できたイエス・キリストが、神様の愛を人々に教えるために、身をもって十字架上での刑死を受け入れられたことは、まさに、死をもって平和を愛することを示されたのです。

イエスは、奇跡も起こせず弱かったから、十字架上で死んだのではなく、ローマ軍やユダヤ教の幹部たちを物理的に打ち破る力があったが、それでは、人々に愛と信仰の力を見せられないので、あえて十字架上での死を選ばれたのです。

人々にパンや魚を与えられた時も、単に人々の空腹を癒す目的でなく、もっと大事な、人々に命を与える神様の言葉と愛の力を示されたいと思われたからだと考えられる。

従来の聖書解釈では、神の子としての超能力や霊能力を持ち、ローマ皇帝以上に強かったイエス・キリストの真の姿を見落としている。


「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか」 (使徒言行録 第 8 章) (“May your money perish with you, because you thought you could buy the gift of God with money!)


14 エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が、神の言を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを、そこにつかわした。
15 ふたりはサマリヤに下って行って、みんなが聖霊を受けるようにと、彼らのために祈った。
16 それは、彼らはただ主イエスの名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊はまだだれにも下っていなかったからである。
17 そこで、ふたりが手を彼らの上においたところ、彼らは聖霊を受けた。
18 シモンは、使徒たちが手をおいたために、御霊が人々に授けられたのを見て、金をさし出し、
19 「わたしが手をおけばだれにでも聖霊が授けられるように、その力をわたしにも下さい」と言った。
20 そこで、ペテロが彼に言った、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。
21 おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない。
22 だから、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすればあるいはそんな思いを心にいだいたことが、ゆるされるかも知れない。
23 おまえには、まだ苦い胆汁があり、不義のなわ目がからみついている。それが、わたしにわかっている」。
24 シモンはこれを聞いて言った、「仰せのような事が、わたしの身に起らないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい」。
25 使徒たちは力強くあかしをなし、また主の言を語った後、サマリヤ人の多くの村々に福音を宣べ伝えて、エルサレムに帰った。(使徒言行録 第 8 章)

14 When the apostles in Jerusalem heard that Samaria had accepted the word of God, they sent Peter and John to Samaria. 15 When they arrived, they prayed for the new believers there that they might receive the Holy Spirit, 16 because the Holy Spirit had not yet come on any of them; they had simply been baptized in the name of the Lord Jesus. 17 Then Peter and John placed their hands on them, and they received the Holy Spirit.

18 When Simon saw that the Spirit was given at the laying on of the apostles’ hands, he offered them money 19 and said, “Give me also this ability so that everyone on whom I lay my hands may receive the Holy Spirit.”

20 Peter answered: “May your money perish with you, because you thought you could buy the gift of God with money! 21 You have no part or share in this ministry, because your heart is not right before God. 22 Repent of this wickedness and pray to the Lord in the hope that he may forgive you for having such a thought in your heart. 23 For I see that you are full of bitterness and captive to sin.”

24 Then Simon answered, “Pray to the Lord for me so that nothing you have said may happen to me.”
25 After they had further proclaimed the word of the Lord and testified about Jesus, Peter and John returned to Jerusalem, preaching the gospel in many Samaritan villages.

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これは、イエス・キリストの十字架上での死の後、イエスの使徒たちが、ペテロとヨハネをサマリヤに遣わして伝道を行ったときの話です。

そこで、シモンという者が、ペテロとヨハネが手を人々の上においたところ、彼らは聖霊を受けたのを見て、その力を与えてくれるように彼らに頼んだところ、シモンの信仰が十分でないのを批判したという話しです。

シモンがペテロたちの霊能力を得るために、カネを出そうとしたのをペテロたちが責め、それをソモンが受け入れたということです。

1900年前の頃、人々は霊の問題に敏感であり、イエスの使徒たちは、霊能力によって人々に聖霊を与えていたことが分かる。聖霊を与えられれば、人々は病が治り、さまざまな不幸から脱することができ、悪霊に取り付かれずにすんだのです。そのような霊能力を得たいと思うシモンのような人も多かったろうが、彼らも使徒の忠告によって、正しい信仰心をもつようになったということです。

イエスなき後に、使徒たちが熱心にイエスの言葉を伝道していた様子が分かる。そのときに、人々に聖霊を与えるというのが、伝道の具体的な中身だったことが分かる。そして、カネは悪魔の手段だという認識が、使徒たちにあったことが分かる。「神を選ぶか、カネを選ぶかだ」という、イエス・キリストの教えが生きていたことが分かる。

今の新興宗教でも、教祖は霊能力を示すこともあるが、それを寄付などを集めるために使ったり、カネを出した信者を優遇するような、イエス・キリストの教えと反することをしている者もいる。そういう新宗教は長続きしない。

ペテロがシモンに言った言葉、「おまえの金は、おまえもろとも、うせてしまえ。神の賜物が、金で得られるなどと思っているのか。おまえの心が、神の前に正しくないから、おまえは、とうてい、この事にあずかることができない」と言う厳しい言葉に、当時の伝道の厳しさが現れている。

キリスト教は、本来、このように霊の力を人々に与える宗教だった。ただし、今のキリスト教会は寄付を集めて活動するような組織になっており、カトリックのバチカンも巨額の富を貯めていると言われるし、アメリカでも牧師たちは寄付金を集めるのに熱心です。

AIでは、「キリスト教とカネの関係は深いですが、中心は金もうけではなく、お金との向き合い方です。聖書や教会の実践では、主に献金、貧しい人への支援、お金への執着への警戒の3つが大きな柱です (bible.or.jp)」とされているが、「キリスト教では、お金そのものが悪いというより、お金に支配されることが問題とされやすいです。お金を自分のためだけでなく、隣人や共同体のために使う姿勢が重視されています (christianpress.jp)」とされており、本来のイエス・キリストの教えとはかけ離れている。これでは、やがて教会は富やカネの奴隷となってしまう。

カネを受け入れるような教会には、必ず悪魔が入り込む。20世紀の末に、バチカン銀行が大きなスキャンダルを起こしたこともまだ忘れられていない。アメリカのプロテスタント各派の教会も、牧師による金銭スキャンダルが多い。これは、物質文明の腐敗を表している。

問題をカネで解決するのではなく、愛と信仰心で問題を解決し、聖霊の助けを得て生きていくのが、イエス・キリストの本来の教えなのです。神様とイエス・キリストの敵の悪魔の化身がカネなのです。カネを離れなければ、霊能力は高まらない。

UFOに乗った宇宙人と遭遇した人々は、宇宙人はカネを使わないと述べている。この宇宙には、カネのない社会があり。地球の人類より高い文明を持っている。イエス・キリストの教えは、宇宙規模で成立するのです。だから、霊的な能力を地球の人類が持たなければ、宇宙人と対等に付き合うこともできないと思われる。

日本の霊能者も、宇宙のエネルギーを祈りによって利用すべきことを唱えた、東大医学部卒の医師だった故塩谷信男のような人もいた。非キリスト教徒でも、正しい霊的能力を持っている人もいる。彼らは、正しいキリスト教徒と同等の高い評価を、死後の霊界で受けていると思われる。

イエス・キリストの教えを霊的に受け入れれば、その教えによって、この世でも霊的に救われるのです。カネより神様です。


2026年9月25日金曜日

イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」 (ヨハネによる福音書 第 8 章) (”Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”)


3 すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、
4 「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。
5 モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。
6 彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。
7 彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。
8 そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。
9 これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。
10 そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。
11 女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。〕(ヨハネによる福音書 第 8 章)

3 The teachers of the law and the Pharisees brought in a woman caught in adultery. They made her stand before the group 4 and said to Jesus, “Teacher, this woman was caught in the act of adultery. 5 In the Law Moses commanded us to stone such women. Now what do you say?” 6 They were using this question as a trap, in order to have a basis for accusing him.
But Jesus bent down and started to write on the ground with his finger. 7 When they kept on questioning him, he straightened up and said to them, “Let any one of you who is without sin be the first to throw a stone at her.” 8 Again he stooped down and wrote on the ground.
9 At this, those who heard began to go away one at a time, the older ones first, until only Jesus was left, with the woman still standing there. 10 Jesus straightened up and asked her, “Woman, where are they? Has no one condemned you?”
11 “No one, sir,” she said.
“Then neither do I condemn you,” Jesus declared. “Go now and leave your life of sin.”
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これは、「姦淫の女」と呼ばれる、福音書でイエス・キリストの憐みが最もよく現れた箇所です。

Wikipediaでは、「罪を犯しながらイエスに許されるこの女もまた、マグダラのマリアに重ねられることも多い。 キリストを描いた映画には好んでこの逸話が挿入される。たとえば『偉大な生涯の物語』(1965年)は、これをマグダラのマリアを紹介するシーンとして使っている。このため、この女性こそマグダラのマリアであると誤解する人が多いが、これが教義として教えられてきたわけではない」とされている。

ある意味で、劇的な情景です。律法学者たちやファリサイ派の人々が、「姦通の現場で捕らえられた女」を連れて来たが、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言ったことで、誰もがその場から立ち去り、その女さけが残されたというのは、映画のワンシーンのような情景です。

そして、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」という言葉は、律法学者たちやファリサイ派の人々だけでなく、その女自身が感銘を受けた言葉だったのだろう。石打ちの刑で殺されるかも知れないと思っていたのに、イエスによって命を助けられたのです。それは、神様が許しを与えたということを意味するので、大きな感激を受けたのだろう。そして、以降はその女は生き方を変えたと思われる。

イエス・キリストが世に現れる以前には、このように宗教的な罪を犯したものは、石打ちの刑で殺されるという残酷なことが行われていた。しかし、キリスト教が広まるにつれ、人間社会からそのような残酷さは亡くなって行くことになる。実際、今の日本国憲法の人道主義のルーツは、憲法の基礎となったキリスト教精神のお陰なのです。また、言論の自由や宗教・思想の自由、政治的な立場の自由なども全て憲法の基礎となったキリスト教に負うているのです。

それよりも、悪魔が律法学者たちやファリサイ派の人々を使って、イエスを困らせ、イエスに石打の刑の片棒をかつがせ、イエスが宗教の名による残酷な刑を認めたという事実を作るか、又は、その女を助けて、宗教の掟を無視した異端者だとの評判をとるようにさせた。悪魔は、いずれにしても、イエス・キリストの宗教改革者としての評判を落とそうと考えたのです。

しかし、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いて」、律法学者たちやファリサイ派の人々が落ち着くの待ち、彼らに思わぬ言葉をかけた。宗教の名で罪の女を罰するのなら、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」という言葉です。実際、ユダヤ教の教えを何から何まで守って生きている人間はいない。それを、イエスや律法学者たちやファリサイ派の人々自身が一番よく知っている。石打ちでその女を殺した後で、自分も罪人なのに弱い女を宗教の名で殺したことが、明らかになれば、ユダヤ社会から問題にされる。少なくとも、自信を持って「自分は立派なユダヤ教徒だ」とは、言えなくなる。一人の女を殺したがために、自分たちの評判に傷がつくことは受け入れれない。

また、それが残酷な行いであることは、本人たちが百も承知しており、イエスの言葉で我に返り、女を残して立ち去らざるを得なかった。女を殺した後で、イエスから自分たちの宗教的な罪を明らかにされる恐怖心があった。ただし、イエスが、地面に何を書いていたのかは明らかにされていない。

AIでは、「姦淫の現場で捕らえられた女が連れてこられたとき、イエスはまず地面に書き、その後に罪のない者が最初に石を投げなさいと言い、さらにもう一度かがんで地面に書きました。けれども、書いた内容そのものは説明されていません。(search.biblegateway.com)」とされている。

もしかしたら。イエス・キリストは、各人が犯している罪を地面に書いていたのかも知れない。それを、イエスに公表されれば、彼らの評判は地に落ちるし、最悪の場合は、自分たちも石打ちの刑で殺される。彼らは、イエスが自分たちの罪を知っていることに恐怖し、逃げるようにその場を去ったのかも知れない。

いづれしても、彼らはユダヤ教の祭司たちを呼んだりはしなかった。イエスとその女を残して全員が立ち去ったという事実に、彼らがイエス・キリストの霊的な力を見たことが示されている。

イエスは、そういう人間の持つ残酷さが、悪魔の影響であることを認めて、その悪魔の影響から人々を解放しようとしたのです。そのためには、罪を犯した女を許し、怒る人々に理性を散り戻させることが必要だった。女は、「わたしもあなたを罰しない」というイエスの言葉で助けられただけでなく、人々がイエスを恐れるように立ち去ったのを見て、イエスの持つ力を感じたのだろう。人々は、神様の愛とは何かを教えらえた気がして立ち去り、自分たちは悪魔に支配されていると感じたに違いない。

だから、イエス・キリストが地面に書いていたのは、宗教の名で女を殺そうとする人間たちの、宗教的な罪だったと考えられる。それを福音書に書けば、人々が皆、石打ちにされても仕方がない罪人であることが明らかになるので、福音書にも書けなかったのだろう。

このように、書かれない真実は多い。しかし、聖書の福音書は出来るだけ、イエス・キリストにまつわる出来事の真実が書かれていると考えられる。それは、まさに聖霊が天から下って、福音書の作者にくだったからだと考えられる。

今でも、霊感に駆られて文字を書く霊能者や霊媒もいる。2千年間、人々に読まれ続けた聖書は、やはり、そのような霊界からの助けによって書かれたものだと思われる。だから、いくら研究しても、聖書の力は解き明かされない。それでも、本人の宗教には関係なく、聖書を研究することが、今の日本人には必要なのです。


そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう (マタイによる福音書 第 24 章)(when they see the Son of Man coming on the clouds of heaven, with power and great glory)



30 そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。
31 また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。
32 いちじくの木からこの譬えを学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。
33 そのように、すべてこれらのことを見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
34 よく聞いておきなさい。これらの事が、ことごとく起るまでは、この時代は滅びることがない。
35 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。
36 その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。
37 人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。
38 すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた。
39 そして洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるのも、そのようであろう。
40 そのとき、ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。
41 ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう。
42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。(マタイによる福音書 第 24 章)

30 “Then will appear the sign of the Son of Man in heaven. And then all the peoples of the earth will mourn when they see the Son of Man coming on the clouds of heaven, with power and great glory. 31 And he will send his angels with a loud trumpet call, and they will gather his elect from the four winds, from one end of the heavens to the other.

32 “Now learn this lesson from the fig tree: As soon as its twigs get tender and its leaves come out, you know that summer is near. 33 Even so, when you see all these things, you know that it is near, right at the door. 34 Truly I tell you, this generation will certainly not pass away until all these things have happened. 35 Heaven and earth will pass away, but my words will never pass away.
36 “But about that day or hour no one knows, not even the angels in heaven, nor the Son, but only the Father. 37 As it was in the days of Noah, so it will be at the coming of the Son of Man. 38 For in the days before the flood, people were eating and drinking, marrying and giving in marriage, up to the day Noah entered the ark; 39 and they knew nothing about what would happen until the flood came and took them all away. That is how it will be at the coming of the Son of Man. 40 Two men will be in the field; one will be taken and the other left. 41 Two women will be grinding with a hand mill; one will be taken and the other left.

42 “Therefore keep watch, because you do not know on what day your Lord will come.
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これは、「世の終わり」についてのイエス・キリストの有名な予言の言葉です。

「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来る」という印象的なイエスの再臨を語っておられる。また、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどしていた」として、人々が普通に生活をしているときに、それが生じると言っておられる。しかも、「ひとりは取り去られ、ひとりは取り残される」として、運命は個人によって異なり、悲劇に陥るものと、苦難を免れるものに分かれると述べておられる。「だから、目をさましていなさい」というのが、この世の最後に対する心がけだということです。

いづれにしても、「洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで」のように、人々は、危機が迫っていることに気が付かないだろうと述べておられる。

神様が全人類の運命を握っておられ、神様の子のイエス・キリストにすら、その日、その時は知らされていない、というのは、人類に対する厳粛な運命を、神様、ご自身が定められたことを語っている。

しかし、その日には、「力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って」現れて、「大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集める」とイエス・キリストは約束しておられる。

即ち、全人類を見殺しにはされず、救われるべき者は救うと約束しておられる。洪水の時に、ノアの一家だけが救われたように、悲惨な最期のときに、誰にも分かるような姿でイエス・キリストは、人類を救うために、この世に再臨されるというのが、キリスト教の信仰なのです。

しかし、救われるのはキリスト教だけだから、人々にキリスト教を受け入れよ、というのが、今までのキリスト教会の姿勢だった。AIでは、「聖書の「世の終わり」は、世界の完全な終滅だけを意味するのではなく、神の裁きのあとに新しい秩序が始まるという考えです。(bible.or.jp)」と述べている。

世の中は、物質文明の発展を目指して、今やAIが人間の能力に追いつこうとしているが、戦争、紛争、経済競争、貧富の格差は拡大するばかりで、異常気象や資源の枯渇など、地球自身が危機に瀕している。特に、核戦争による地球の汚染を心配して、UFO・宇宙人が地球の人類に介入しているとまで言われている。

物質的な幸福と成功を求め、科学・技術の力に頼りながら、精神性を軽んじ、置き去りにしてきた人類は、魂のないコンピュータやAIを使って、その破滅を加速させているように見える。

人間が本来持つ霊性を重んじ、自然の流れを尊重し、宇宙の真理と力に従えというのが、イエス・キリストの教えであり、全てのまともな宗教が教える共通点です。

宗教は何であれ、人間は死後の世界に霊界があることを信じ、悪魔の主導する物欲中心の物質文明を捨てて、霊的な文明に移るべきだというのが、霊的なキリスト教の教えなのです。また、人間の心や精神力は物質にも作用し、自然界だけでなく、人間界も精神力で変えられるとの教えを信じることが、新たな文明の出発点であるべきです。

なお、日本の天皇家は、その霊能力によって国民から崇められる存在だったが、今の天皇家には、もはや霊能力はなく、明らかにキリスト教の霊能力より劣っており、日本の自然災害も防げず、経済も活性化できず、安全保障でも国を救えない。先の日米戦争では、キリスト教国のアメリカに敗戦し、クリスチャンのマッカーサー元帥の草案による、キリスト教精神に基づいた新憲法を受け入れ、戦後は平和と繁栄を謳歌してきた。日本の神道や仏教の精神が世界を主導しているのではない。ユダヤ・キリスト教の精神が世界をけん引している。

だから、日本人も日本の霊性を確保しつつ、世界の主流の一神教を学び、聖書を研究すろのが、歴史的に正しい生き方なのです。

具体的には、キリスト教精神をマスターして、霊能力をもった人間を新天皇として、新たに日本を立て直し、世界を主導すべきです。この新天皇は公募で霊能力者から選ぶべきです。ただし、現天皇家は、「旧天皇家」として政府が保護し、日本文化の伝統を守るべきです。

日本が、イエス・キリストの精神に従った国として世界を主導すれば、世界で停滞するキリスト教を刷新し、世界のリーダーとなれるのです。

UFOの宇宙人から文明の最期を警告された、無農薬のリンゴの栽培家の木村秋則は、「2030年頃に文明の崩壊が始まる」と警告されている。木村は、その前に無農薬農業を広めようと世界で活躍しているが、他の日本人も世界にイエス・キリストの平和の精神を、日本の霊性に従って広めるべきです。そこに、日本人の歴史的な存在価値がある。

ノーベル賞で世界をリードするだけでなく、宗教の面でも日本は世界を主導すべきなのです。そのためには、全国民が聖書を読んで、イエス・キリストの言葉を研究し、霊格を高め、悪魔の罠から脱する必要がある。そに貢献するのが、「このブログ」なのです。