47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、
48 「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。
49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。
50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。 (ルカによる福音書 第 9 章)
46 An argument started among the disciples as to which of them would be the greatest. 47 Jesus, knowing their thoughts, took a little child and had him stand beside him. 48 Then he said to them, “Whoever welcomes this little child in my name welcomes me; and whoever welcomes me welcomes the one who sent me. For it is the one who is least among you all who is the greatest.”
49 “Master,” said John, “we saw someone driving out demons in your name and we tried to stop him, because he is not one of us.”
50 “Do not stop him,” Jesus said, “for whoever is not against you is for you.”
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AIでは、「ルカによる福音書」は、「伝統的にはルカが著者とされてきました。一方で、事典類では実際の成立時期は西暦80年から90年ごろと考えられることが多く、マルコ福音書や共通資料をもとに編集されたと説明されています (kotobank.jp)」とされている。
また、「ルカによる福音書は、弱い立場の人、貧しい人、女性、罪人とされた人へのまなざしが強いことでよく知られています。また、祈り、聖霊、喜びを重視する流れも大きな特徴です (kotobank.jp)」と解説されている。
この箇所では、イエス・キリストの弟子の間で、「だれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった」とされている。
人間は、優越感を求めるものだということが良く分かる。2千年前にもその気持ちは変わらなかった。どんな人間でも、他人より少しでも上の立場にたとうとする。それに対してイエスは、「バカなことを議論するな」と叱らなかった。むしろ、「ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ」て彼らに、「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」と教えられた。
人間は、弱い者、貧しい者、小さな者を見下し、自分の方が価値があるものだと考える。それに対して、弱く、富もなく、小さな子を弟子たちに見せて、「この子は、お前たちより、価値があり、上に立つべきだ」という意味の事を仰ったのです。
人は、心の中で自分が世界一だと考えるものです。たとえ、その国に皇帝や、大統領や、首相がいて、政治的に自分の上にいても、ある人を皇帝、大統領、首相として認めているのは、自分の心なのです。自分の心が、ある人を皇帝や大統領、首相として認めているから、相手はその立場にいるのだと考える。つまり、心の中では相手をそう認める立場にいる自分の方が、本当は上だと考えている。
つまり、どんな分野でも、一番の人間がいるが、その人間を一番だと認める自分の方が、一番の人間より本当は上だと考える。つまり、自分を下だと認めたくないのが人間の心です。しかし、世の中は、さまざまな序列で成り立っている。そういう自己正当化ができなくなることも多い。「世の中では、あいつを一番だというが、実際は、その一番を認めてやる自分の方が優れている」と考えることが、できなくなったとき、人は絶望し、引きこもる。劣等感を認めたくなければ、社会から離れていればよい、と考えるのが普通です。だから、引きこもる。「本当は、自分の方が上だ」という、密かな自己正当化のプライドを持って普通の人間は生きている。そのような社会では、プライドを失うと生きていく気力も失せる。
だから、「上手に人をほめる」ことが、教育の成功の「こつ」になる。子供をほめて、自信をつけさせるのが、上手な育て方だといことになる。
しかし、イエス・キリストは、「上下を争うお前たちは、この幼な子よりも劣った者だ」ということを教えらえたのです。「幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれる」というのは、幼な児の背後にイエスがいることを認めよということです。イエス・キリストは、小さい子供が信仰心をもって育っていくことを愛しておられたので、弟子たちに小さな子供を尊重し、この世の上下の判断を持ち込まず、イエス・キリストが背後にいることを考えて、この世の上下の関係が無意味なことを教えられたのです。
信仰の度合いでも人より上に立ちたいというのは、信仰心が育っていない証拠だということです。
神様を理解すれば、人間は皆、神様の下にあり、偉大な神様と人間の無限の差を考えれば、人間同士のわずかな差異は、取るに足りないものであることが分かる。エヴェレスト山の麓で、それぞれのテントの高さを競っているようなものです。いや、大空の下で隣家と屋根の高さを競っているようなものです。空を仰いで、神様に礼を捧げる子供の心は、互いにいがみあう大人よりも神様に近いことになる。
しかし、悪魔の影響下の世の中では、誰でも上下の間隔、貧富の差、好き嫌いなどの心を持つ。自分が世界一だと心の底では思っている。一番の人間を認める立場にいる自分は一番より上だと考え、その自分の心を知っているのは、自分だけだと考え、だから、自分んが世界で真の一番だと考えるものであり、さらには、神も自分の心の中にいるので、自分は神より上だと考えるのが狂った人間です。
こういう狂った宗教観を人間に与えるのは悪魔です。また、悪魔の力で社会的に成功し、物質的に幸福になったものは、自分は神様に愛されたと狂った判断をする。悪魔は人間を物質的に成功させ、やがて、その人の心を支配し、傲慢にさせ、神様に非礼を働かせ、有頂天にさせるが、やがて、その人も神様の与えた寿命がつきて死ぬが、死んだら、この世で自分を愛して、幸運を与えてくれた神にあえると期待していると、悪魔が現れて、「オレがお前の神だ」と言って、その人間を召し使いにする。これが、霊界の実相です。多くのこの世でのエリートや富裕増、成功者で、地獄は満ちている。彼らの上にいるのが、悪魔なのです。
人に他人への優越感を与えるのは悪魔なのです。しかも、物質的な成功を人間に与える力だけでなく、霊的な力で宗教家や聖職者を支配することも悪魔にはできる。「自分は誰よりも神様に愛されている」という感じを人に与えることも悪魔にはできる。しかし、神様に愛されるには、弱き者、貧しきも、小さき者、不幸な人、差別された人を助けなければならない。さらに、悪魔と戦って人々を救わねばならない。悪魔から狂った考えを与えられて、悪魔に操られながら、自分は神様に誰よりも愛されているのだと考える聖職者や有名人もいる。
悪魔の手下になりながら、悪魔によって富や地位を与えられると、神様に愛されていると勘違いする人間もいる。そのような狂った考えをもったまま亡くなるこの世の物質的な成功者も多い。彼らは、皆、死後、地獄に行き、悪魔の奴隷となる。
イエス・キリストの弟子たちの心の中にまで悪魔が入り込んで、優越感を求めて互いに争わせたの見て、イエス・キリストは、その警告に幼子を見せて、その背後に自分がいるから、この子は誰よりも上なのだと諭したのです。
イエスより自分の方が上だと証明できなければ、弟子たちはイエス・キリストの教えを受け入れざるを得ない。イエス・キリストは、子供のような純粋な心で信仰を高めよと言われたのです。欲を捨てて、優越感を求めるなという教えです。
また、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」という言葉で、表面的な態度だけでなく、相手の心の真意を読み取れと教えておられる。魂ではイエス・キリストを信じている者は、心のレベルでイエスに反対することは避けるものだからです。
そういうように、人の魂を感じる心をもつ幼子も多い。幼い子供たちは欲がないので、人の魂まで見えるのです。大人になれば、多くの欲を克服して、修業の果てに、再び、そのような心を取り戻さなければなならい。その邪魔をするのが、悪魔なのです。人間に。「お前が一番だ」と心の中でささやいて。
神様やイエス・キリスト様の前では、皆、平等に無力なのです。悪魔以上に。或いは、幼児のように。