2026年10月1日木曜日

「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」 (ヨハネによる福音書 第 10 章) (The good shepherd lays down his life for the sheep.)

 

11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
19 これらの言葉を語られたため、ユダヤ人の間にまたも分争が生じた。
20 そのうちの多くの者が言った、「彼は悪霊に取りつかれて、気が狂っている。どうして、あなたがたはその言うことを聞くのか」。
21 他の人々は言った、「それは悪霊に取りつかれた者の言葉ではない。悪霊は盲人の目をあけることができようか」。(ヨハネによる福音書 第 10 章)

11 “I am the good shepherd. The good shepherd lays down his life for the sheep. 12 The hired hand is not the shepherd and does not own the sheep. So when he sees the wolf coming, he abandons the sheep and runs away. Then the wolf attacks the flock and scatters it. 13 The man runs away because he is a hired hand and cares nothing for the sheep.
14 “I am the good shepherd; I know my sheep and my sheep know me— 15 just as the Father knows me and I know the Father—and I lay down my life for the sheep. 16 I have other sheep that are not of this sheep pen. I must bring them also. They too will listen to my voice, and there shall be one flock and one shepherd. 17 The reason my Father loves me is that I lay down my life—only to take it up again. 18 No one takes it from me, but I lay it down of my own accord. I have authority to lay it down and authority to take it up again. This command I received from my Father.”
19 The Jews who heard these words were again divided. 20 Many of them said, “He is demon-possessed and raving mad. Why listen to him?”
21 But others said, “These are not the sayings of a man possessed by a demon. Can a demon open the eyes of the blind?”
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AIによれば、「「牧師」に「牧」という字がつくのは、キリスト教の聖書において、キリストが自らや指導者を「羊を飼う羊飼い(牧者)」に例えたことに由来します」とされている。

なお、「聖書で「羊飼い」とは、神やイエスが民を導き守る存在を表す比喩です。実際の職業名であると同時に、霊的指導者の象徴としても使われます」とされている。

さらに、「旧約・新約を通して、羊飼いは「羊=神の民」を世話し、守り、導く者のイメージで語られます。(hiroshima.repo.nii.ac.jp) 神ご自身が「わたしはあなたがたの羊飼い」と表現される箇所があり、神の配慮と保護を示します(詩篇23篇など)(jh.aoyama.ed.jp)」と説明しており、さらに、「新約聖書では、イエスが「良い羊飼い」として、自分の羊を知り、そのために命を捨てる方として描かれます(ヨハネ10章)。(christianpure.com)  迷った一匹を探し出す羊飼いのたとえは、罪人を探し出し、連れ戻す神の愛を表します(マタイ18章、ルカ15章)。(luther.repo.nii.ac.jp)」と述べている。

実際、福音書では、イエス・キリストは、「多く(100匹)の羊の中から1匹が囲いの中から迷い出たとしても、良い羊飼いは、他の99匹を囲いの中に置いておいて、その失われた1匹を探しに行く」とも述べておられる。

多くの羊がいるので、1匹の羊の世話に時間をかけていられない、と言って、どの1匹の羊の面倒も見ないようでは、100匹のどの羊の面倒も見ないことになる。つまり、数が多いので1つも相手にできない、だから、何もしないというふざけた言い訳です。

これは、教師が、学校には多くの生徒がいるから、一人一人の生徒には時間をかけて面倒を見れない、と言って、どの生徒の相談にも応じないようなものです。つまり、一人の生徒を指導しない教師は、全員の指導もしないものです。

つまり、集団の大きさを口実にして、集団の構成員の一人一人の面倒を見ない、呆れた指導者がいる。彼らは、面倒を見たり、相談に応じるという責任を放棄しているのです。

それとは逆に、誠意のある指導者・管理者は、他の大勢をいったん自由にしておいて、集団から離れて迷った一人の人間を救い出そうとするものです。

世の中の誘惑や悪の罠にはまって、教会から離れた元信者を救い出して、神様の教えの下に連れ帰るのが、神父や牧師や務めです。他の信者は教会に残しておいて、神父・牧師は世の中の荒波に入って行って、その迷い出た信徒を救い出すのが彼らの務めなのです。

しかし、そういう面倒な元信者のことは無視することが多い。自分たちの評価や教会の評判が上がることだけを気にかけているような宗教的指導者は、個々の信者の苦しみや悲しみは無視する。要するに、人間的に未熟な人間が、学校でよい成績を取ったというだけで、高い地位を与えられても、誰も救わないし、社会の役にも立たない。

仏教や神道、又は、キリスト教系の学校で良い成績を取ったからといって、良い宗教人になれるとは限らない。

信者を救うためであれば、自分の命を捨てる覚悟のある宗教的指導者が必要なのです。

「よい羊飼は、羊のために命を捨てる」というイエス・キリストの言葉は、人間社会の全ての組織や団体の指導者にあてはまることです。

「良い羊飼い」になれ、というのがイエス・キリストの与える教訓です。

また、一家の主人も一人の羊飼いなのです。家族の一人ひとりのために命をかけるのが、一家の主人なのです。