2026年10月16日金曜日

「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」 (ルカによる福音書 第 7 章) ("But whoever has been forgiven little loves little.")



41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。
42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
43 シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
49 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
50 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。(ルカによる福音書 第 7 章)

41 “Two people owed money to a certain moneylender. One owed him five hundred denarii,[c] and the other fifty. 42 Neither of them had the money to pay him back, so he forgave the debts of both. Now which of them will love him more?”
43 Simon replied, “I suppose the one who had the bigger debt forgiven.”
“You have judged correctly,” Jesus said.
44 Then he turned toward the woman and said to Simon, “Do you see this woman? I came into your house. You did not give me any water for my feet, but she wet my feet with her tears and wiped them with her hair. 45 You did not give me a kiss, but this woman, from the time I entered, has not stopped kissing my feet. 46 You did not put oil on my head, but she has poured perfume on my feet. 47 Therefore, I tell you, her many sins have been forgiven—as her great love has shown. But whoever has been forgiven little loves little.”
48 Then Jesus said to her, “Your sins are forgiven.”
49 The other guests began to say among themselves, “Who is this who even forgives sins?”
50 Jesus said to the woman, “Your faith has saved you; go in peace.”

+++ +++ +++

福音書のこの箇所は、多くの借金と少ない借金を許してもらったものがいるとして、「このふたりのうちで、どちらが彼(カネを貸した人)を多く愛するだろうか」というイエス・キリストの問に、弟子は「多くゆるしてもらったほうだと思います」と述べて、それに対してイエスは、「あなたの判断は正しい」と答えられた、という場面です。

AIによれば、「この言葉は、赦しを小さく感じる人は、感謝や愛も小さくなりやすいという意味で受け取れます。反対に、大きな赦しを知る人は、大きな愛で応えやすいという流れです(bible.com)」と、説明されている。

これは、宗教の教えに関係がないように思えるが、人を許すことは、生きることで必要となる場面が多い。人を許すのは、許された人間が単に救われることではなく、多く許すことによって、許された人間の愛を勝ち取ることになると教えておられる。

即ち、世の中で、愛を増やすことの重要性を述べておられることになる。

失敗をした人を、責めるのではなく、それを許してやれば、許された人間は、許した人間に感謝するが、大きな失敗を許されたものほど、多くの感謝を持つということです。それが、自然な人間の心です。だから、人間の寛大さは、互いの愛を増やし、社会を改善する。

地獄に落とされても仕方がないような罪を犯しても、神様に許されて、地獄行きを免れた者は、どこまでも神様に感謝するものです。

これは、法治国家で犯罪者を裁く場合にもあてはまる。犯罪にも寛容な姿勢を示すことで、犯罪者は裁判官や社会に感謝し、もう二度と罪を犯さなくなるようになって、社会の改善に貢献するようになる。寛大な裁判が、世の中の悪を増やすことにはならない。むしろ、寛大な処罰を受けた者は、犯罪を後悔して、いっそう、社会につくそうと考えるものです。

社会で犯罪者をすべて死刑にすれば、社会は成立しなくなる。互いに許し合うという精神が、社会を発展させるのです。

社会的な問題の背後には、社会の矛盾や、貧富の差の影響、権力者の都合などの見えざる悪がある。また、人間同士の争いの背後には、個人的な利害、相手に対する憎しみなどの感情的問題や、無理解、誤解、行き過ぎた配慮などがある。信頼関係のない所には、友情も生じない。相手が、寛大さを見せれば、自分もそれに応えるように、誠意を示すようになる。

ただし、そのような相手の甘さにつけこんで、さらに悪をなそうとする者も多い。恩を仇で返す人間や、人を裏切って相手をあざ笑う人間も多い。また、人をだまして、自分の利益を払っても何も感じない人間も多い。世の中には、親切な人間などいない、と信じていて、他人に不親切にするのは、当然だと考える者も多い。渡る世間は、鬼ばかりだと考えている者もいる。

また、人に道徳を要求するな、と叫ぶ者もいる。お人よしは、騙すに限るとうそぶく者もいる。

人を騙して、悪知恵合戦に勝ったと、快哉を叫ぶ者もいる。悪を誇って、他人に優越感を抱く者もいる。悪の世界は、どこまでも深く、その悪の深さは想像を超えることも多い。

しかし、そういう社会は発展しない。信用できない人間ばかりが集まった社会では、誰も他人に協力しない。大きな仕事は、多くの人々が協力しなければ、成立しない。だから、人々が皆、認める権威が必要になる。宗教が同じなら、信用できるわけではないが、基本的な倫理観が共通していることは、信用につながる。民主主義国と独裁国家との違いにつながる。信用のできる国際関係にも、共通の価値観が必要です。

人を不幸にするのが目的の悪魔に従っていけば、最後には物質的にも破滅する。しかし、人の魂の幸福を願う神様や天使に従って行けば、最後には人の魂は救われ、物質的な不幸からも救われる。

人は、皆、罪を犯すものだと考えれば、互いに相手に寛容になり、許された者は、その分、社会の発展にいっそう貢献しようとする。これが、自然な性善説です。性悪説に基づくようなユダヤ教に対して、キリスト教は神様の善を信じることで人々に光と希望を与えている。

また、人助けをして、相手に感謝されたときの、すがすがしさや、満足感はカネでは買えないものがある。特に、相手の失敗を多く許すことで、相手からより多くの感謝を得れれば、その周囲の状況も改善する。日本人は、単純に性善説を信じる者が多い。根っからの悪人は少ない。

仏教でも、善人を許すより、悪人を許す方が、社会の改善の効果は多きいとの教えがある。

悪魔が喜ぶような、人々の憎しみと、報復の念をいや増すような、行為は避けるべきなのです。憎しみよりも、愛を愛する人間を増やすべきなのです。