2026年10月10日土曜日

それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた (ヨハネによる福音書 第 13 章) (he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him)


3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、 4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。 (ヨハネによる福音書 第 13 章)

3 Jesus knew that the Father had put all things under his power, and that he had come from God and was returning to God; 4 so he got up from the meal, took off his outer clothing, and wrapped a towel around his waist. 5 After that, he poured water into a basin and began to wash his disciples’ feet, drying them with the towel that was wrapped around him.
6 He came to Simon Peter, who said to him, “Lord, are you going to wash my feet?”
7 Jesus replied, “You do not realize now what I am doing, but later you will understand.”
8 “No,” said Peter, “you shall never wash my feet.”
Jesus answered, “Unless I wash you, you have no part with me.”
9 “Then, Lord,” Simon Peter replied, “not just my feet but my hands and my head as well!”
10 Jesus answered, “Those who have had a bath need only to wash their feet; their whole body is clean. And you are clean, though not every one of you.” 11 For he knew who was going to betray him, and that was why he said not every one was clean.

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これは、ご自分の死が近いことを知ったイエス・キリストが、弟子たちの脚を、彼らの召し使いのように洗ったという、福音書で有名な場面です。

AIでは、「イエスは足を洗った後に、主であり師である自分がそうしたのだから、弟子たちも互いに仕え合うべきだと語っています。これは、立場の高さではなく、愛をもって仕えることの大切さを示す教えとして読まれています (jw.org) 」と、説明されている。

今の教会で神父や牧師が、参会者の脚を洗うことはしない。神父や牧師は、キリスト教系大学の出身者として、参会者より立場が上の者として、参会者を導く立場のものとして、参会者に道徳や宗教の教えを説く。これは、イエスの姿勢とは大きく異なる。

本来、キリスト教は弱き者、小さき者、貧しき者を助ける教えなのです。彼らの上に立つ聖職者のためにある宗教ではありません。ただし、神父や牧師には、イエス・キリストから霊的に受け継いだ神様のご威厳とご栄光を人々に教えるという尊い任務が、イエス・キリストから与えられているので、人々から尊敬されるべきなのです。しかし、人々の上に立つ者だと考えるのは、イエスの教えに反する。むしろ、イエスのように人々の召し使いだとして行動すべきなのです。

しかし、そこまでヘリ下る神父や牧師はいない。それでも、彼らは人を導く、人より上の立場だと思っている。しかし、社会はそこまで聖職者を尊重するわけではない。教会がカネをくれるわけでもなく、生活の面倒を見てくれるわけでもなく、病を治してくれるわけでもなく、法律上の問題を解決してくれるわけでもなく、精神的な苦しさを解決してくれるわけでもなく、社会的な問題を解決してくれるわけでもない。それでも、悪魔が支配する世の中より、ましな世界だと考えて教会に通う人もいるが、教会員も人助けのために教会に来るわけではない。自分の心が安定すれば、それでよいと考える者も多い。また、キリスト教会という社会的に認められた宗教に属することにプライドを持つ者もいる。

神様やイエス・キリストの霊に導かれて教会に行っても、神父や牧師が歓迎してくれるわけではない。単に、キリスト教の宗教的知識や教会維持の管理能力を示しているだけのことも多い。

いわゆる、世間知らずの人間が教会に行ったり、教会の権威を利用しようと思う人や、イエス・キリストの教えを勘違いしている人間も教会にはいる。

悪魔は、教会の中にも入り込み、富裕層の人間を優遇する神父・牧師も多い。社会的な地位のある人が、教会の役員になることも多い。この世の宗教として、キリスト教も社会的な力に頼っている面がある。

それでも、イエス・キリストの言葉は人々を悪魔から解放する力があり、神様の愛と教えは、人々の魂に救いを与える。イエスの愛や神様の教えに救われたと思った人は、神父や牧師を全面的に尊敬しなくても、教会に通うものです。そのような、キリスト教徒がいるから、神父や牧師の生活は成り立っているのであり、教会で救われているのは、信徒ではなく、聖職者の方だとも考えられる。

聖霊によって聖職者となった人間もいるが、そのような聖職者には神様が特別な任務を与えているので、信徒一般には伺い知れない。地味で信徒からも人気のない神父・牧師の中に、そのような霊的に優れた聖職者がいるものです。

キリスト教は、本当に神様によって守られた来たものでなければ、2千年間も続かなったのです。仏教もブッダの教えに霊的な威力がなければ、2500年間も続かなかった。孔子の教えにも真実がなければ、2500年間も続かなかった。日本の神道も、日本人の霊性に即していなければ、1500年も続いていない。



真実の教えは歴史に残るが、その教えに悪魔が入り込めば、やがて人々から消えて行く。宗教の教えは、毎日がテストなのです。

上の者が、下位の者の召し使いとなって、脚を洗うというのは、王様が最下位の召し使いの召し使いとなることであり、大統領や首相が最もランクの低い官僚の召し使いとなることであり、企業のトップが最下位の社員の召し使いになることであり、学校の校長が最低の生徒の召し使いになることであり、大学の学長や教授が新入学生の召し使いになることであり、スポーツのチャンピオンが最も記録の悪い選手の召し使いになることであり、最も富裕な金持ちがホームレスの召し使いになることであり、最も優れた学者が最もできの悪い凡人の召し使いになることです。

神様の子のイエス・キリストが、その弟子にすぎない人間の足を洗うということは、それくらい革命的なことだったのです。

つまり、この世の序列は悪魔の影響で生じたものだということを理解せよ、という教えです。

死後の霊界では、この世の序列は意味を失い、誰もが平等になる。しかし、悪魔はこの世では序列を作り、人々に互いに優越感を持たせて、愛のない社会を促進している。ただし、霊界では霊格の差によってその位置が決まる。弱き者、小さき者、貧しき者が、霊界では尊重される。この世の、価値判断と霊界の価値判断は逆なのです。

この世では、自分を第一に考えるが、霊界では神様への信仰が第一に評価される。

この世の自分を捨てよ、というのがイエス・キリストの教えなのです。自分が消えれば、聖霊が表に出てきて、神様のご威光が輝く。それを、喜びとするのが、真の霊的なキリスト教徒なのです。

人々を作られた神様に敬意を払って、人々の召し使いになれ、というのがイエス・キリストの教えなのです。

これは、普通の人にできることではない。しかし、死を前にしたイエス・キリストは、最後の教えとして弟子たちに、この最高難度の教えを与えられたのです。この教えの前には、悪魔も沈黙せざるを得ないのです。

神様の子、イエス・キリストが悪魔に取り付かれた人間の召し使いとなった以上、悪魔もイエス・キリストの足を洗わなければ、たちどころに、神様によって消滅させられるのです。ただし、狂った悪魔は消滅を選ぶと思われる。あとには、救われた霊が残るのです。