2026年10月4日日曜日

「右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」 (マタイによる福音書 第 5 章) (If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away)


27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。(マタイによる福音書 第 5 章)

27 “You have heard that it was said, ‘You shall not commit adultery.’ 28 But I tell you that anyone who looks at a woman lustfully has already committed adultery with her in his heart. 29 If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell. 30 And if your right hand causes you to stumble, cut it off and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to go into hell.

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AIによれば、「『マタイによる福音書』は、新約聖書に収められた四つの福音書の一つで、イエスを旧約の預言を成就するメシアとして描く書です。主にユダヤ人キリスト者を意識して書かれたと考えられます(bible.or.jp)」とされている。

また、Wikipediaでは、「本書の目的は、イエスこそがモーセと預言者たちによって予言され、約束されたイスラエルの救い主(キリスト)であると示すことにあり、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していると示すことであった。『マタイによる福音書』には旧約聖書(ギリシア語訳・七十人訳)の引用が多く見られるが、それらはイエスの到来を予告したものとして扱われている。旧約からの引用箇所は65箇所にも上り、43箇所は地の文でなく語りの中で引用されている。この福音書の狙いは「律法や預言者を、私は廃止するためでなく、完成するために来た(5章17節)」という言葉にもっともよく表現されている」と解説されている。

そして、特に旧約聖書でも「『姦淫するな』と言われていた」ことに注目して、人間の基本的な生き方を強調している。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をした」ことになる、というのは男性の欲望を抑えることの重要性を示している。そして、「あなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」というよく知られた教えが続く。

さらに、「あなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」というのは、この世の罪が、死後の霊界にも影響することを示している。

イエス・キリストによる基本的な教えは、物欲に駆られた人間に反省を強いるものであり、キリスト教徒は道徳的な教えを守ることが当然とされている。その教えは、ユダヤ教の旧約聖書から来ており、道徳的な教えは、キリスト教でも何んら変わらないことを示している。

これは、宗教以前の人間の基本的な道徳が、宗教の教えにかかわらず有効であることを示しており、そのようなユダヤ教の基本的な教えは当然、人間である限り尊重されるべきであり、イエス・キリストは「律法や預言者を、廃止するためでなく、完成するために来た」と述べておられる。

人類は、本能的に善悪を知っていることを意味する言葉です。日本語でも、「根っからの善人」や「根っから悪人」という言葉があるが、この基本的な教えに従って生きることの重要性をあらためてイエスは、強調している。道徳無関心や不感症というのは、人間性の基本的な欠陥だということになり、信用のできない人間だということになる。「根っからの悪人」は、「悪を愛する人間」であるから、当然、人々から敬遠される。平気で人を傷つける人間は誰でも敬遠する。そのことに気が付かない人間は、哀れな人間だということになる。人間社会では、そのような人間は当然、成功しないし、制裁を受ける。そのような人間悪(悪を愛する人間)を取り締まるのが、本来の警察の役割です。権力に逆らう人間を取り締まる以前の任務です。司法の任務は、道徳的・宗教的でなければならない。

AIでは、「悪は、ただ失敗することだけではなく、神や人への愛から外れることです。たとえば、うそ、憎しみ、暴力、傲慢、不正などが悪とされます。聖書のアダムとエバの物語は、人間が神より自分を優先してしまう姿を表すものとして読まれています (nskk.org)」とされており、神様が与えた愛の心を持っていれば、当然、人間が知っている善を愛して、悪を行わないはずだとされている。

神様は、全知全能であり「全善」である存在であり、悪より善を愛する心が神様の気持ちに叶うのです。

しかし、この心が弱い人間の心には悪魔が入り込み、悪を善よりも愛させ、人を傷つけても何も感じない人間もいる。イエスは、そのうような人間に、本来の善を尊重し、愛すべきことを改めて教えておられるのです。「善を愛することが、人間の義務」なのです。いやでも、善を尊重すべきだというのが、人間に対する神様の要求であり、悪魔を受け入れないという生き方が求められている。「悪よりも、善を愛せ」というのが、宗教以前の教えなのです。

だから、悪いキリスト教徒というものはありえず、キリスト教徒は道徳的に正しい人だとの評価が得られるのです。

従って、キリスト教徒は酒やタバコを吸わず、人を騙さず、嘘をつかない信頼できる人であり、安心してつきあえる人だとの評判を得てきたのです。要するに、節度のある人間であるべきなのです。狂って欲望を追求するようでは、キリスト教徒とは言えない。

だから、酒やタバコや富(カネへの欲望)や快楽(女性への欲望)を愛する人間は、神父や牧師にはなれず、清貧、道徳、隣人愛を愛し、何よりも、神様とイエス・キリストの教えを愛する者でなければならず、そのような人間が社会で尊敬されるのは当然なのです。社会の秩序はその上に築かれるのです。欲能丸出しの人間の集団は発展しない。

ただし、欲は誰にでもあるので、それを神様やイエス・キリストの教えに従って、抑えるのが重要なのです。「五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」というイエス・キリストの言葉は、貴重な忠告なのです。

罪を悔い改めて、罪を犯した部分を捨てれば、天国に受け入れられなくても、地獄に落ちこなくても済むのです。ありがたい情けのある言葉です。