古事記は和銅5年(712年)に太安万侶が編纂し、元明天皇に献上され、神話時代から推古天皇(~628)までを扱い、和化漢文で書かれている。日本書紀は養老4年(720年)に完成し、神代から持統天皇(~702)の時代までを扱い、漢文・編年体にて記述されている。
古事記は、その写本で最古のものは真福寺の僧・賢瑜によって1372年に写された真福寺本『古事記』三帖(国宝)であるとされています。日本書紀では、現存する最古のものは平安極初期のものとされています。中国人作者も参加して漢文で書かれた日本書紀は、完成後から日本語で読むための講義が朝廷で開かれている。しかし、古事記は長らく表に出ず、一時は偽書説まで出ていた。
古事記で特徴的なのは量が日本書紀の10分の1であるにも関わらず、その3分の1が神話時代であり出雲神話が重視されているのに、日本書紀では神話は30巻中2巻であり、神話のエピソードは少ない。そこで、古事記は天皇家の私的な歴史書であるとされてきた。
古事記と日本書紀の関係は、藤原京と平城京の関係にあるように思われる。藤原京は694年から710年までの都であり古代中国の周礼に従って建設され、平城京は710年から784年までの都であり唐の長安にならって建設されたとされている。藤原京から平城京への遷都は天皇の意志ではなく、藤原不比等主導のものであったことも詔に記されている。これ以降、聖武天皇の死後、貴族の争いを始め、道鏡といった仏教僧が政治に介入したため、平安京に遷都(794~)され藤原氏の摂関政治が興隆を極める。
要するに、白村江の戦い、壬申の乱で権力をにぎった天武天皇はあらためてその権威を過去の歴史に求める必要があった。そこで、史書を書かせたが、貴族たちは中国との関係から漢文の国史を求めた。その貴族の中でも藤原氏が勢力を伸ばし、都も藤原京の構成は唐の長安に反するとして平城京に移させる。即ち、古事記・藤原京は神話の時代に遡る天皇家のルーツ・権威を明確にするものであったのに、日本書紀・平城京は貴族・藤原氏の国政への進出を象徴するものであった。古事記は飛鳥時代を尊重して後ろ向きであり、日本書紀は平安京・摂関政治・藤原氏の支配に向けて未来的であった。歴史は、天皇家と豪族による支配から、藤原氏を中心とする貴族による支配となり、やがて武士の支配へと続き、そして、町人文化が栄える江戸時代となり、明治維新を迎える。
天皇家は過去のものかも知れない。ユダヤ人の旧訳聖書に相当するのが日本では古事記と天皇家であると言えるかもしれない。
天皇家は過去のものかも知れない。ユダヤ人の旧訳聖書に相当するのが日本では古事記と天皇家であると言えるかもしれない。