日本の歴史の出発点は3万年前からの石器時代、或いは1万5000年前の縄文文化からだが、有史としては紀元前200年頃からになる。問題は大和朝廷、天皇家の成立だ。
紀元前200年
中国秦帝国の徐福一行が日本に向かって出発。日本では銅鐸など青銅器が作られ始める。
紀元50年頃
「漢委奴國王」の金印が漢から北九州の奴国に下賜され、倭人は中国を宗主国と仰ぐ。
100年頃
倭国王帥升等が奴隷を連れて漢に遣使。
150年~200年頃
倭国大乱。出雲の荒神谷に銅剣、銅矛、銅鐸が埋められる。銅鐸の製造が途絶える。
250年頃
邪馬台国の卑弥呼、台与。特に卑弥呼が国内抗争に魏の援軍を求める。古墳時代が始まる。
300年代
大和王権が成立。朝鮮半島に進出
400年代
倭の五王が中国の宋王朝などに朝貢し、日本・朝鮮の支配権の認知を求める。
500年代
仏教の伝来。
600年頃
聖徳太子、遣隋使で煬帝に対等の姿勢を示す。
663年
白村江の戦い(日本と百済の連合軍は唐と新羅の連合軍に敗れる)
720年
日本書紀成立
日本史の最大のミステリーは、日本書紀の神武天皇の東征(天皇家の成立)と、確証された歴史的事実がどのように対応するかだ。
その仮説として、九州(佐賀や宮崎)に到達した徐福一行の子孫が、青銅・鉄器の使用などの文化的優越性から北九州の奴国の王となり(それでも200年もかかり、十分倭人に同化する)、当時の大水田地帯の奈良盆地、大和に向かって支配権を伸ばし、一旦は大和攻略に失敗するが、別の徐福系の住み着いた紀伊半島の新宮で新たな味方を得て、ついに大和を攻略する。これが倭国大乱(神武東征)となる。しかし、大和にはすでに出雲系の勢力や別の徐福系の一派が存在していたため、最終的には同化吸収する。しかし、北九州に残された徐福の末裔の一族や、出雲、吉備など各地の勢力との支配権の争いが生じ、卑弥呼を共立して統一を保つ。この動きの中で出雲系支配の象徴の銅鐸は破棄され、銅鏡の時代になる。卑弥呼・台与のあとは、大和王朝の権威誇示のために秦の始皇帝陵にならった古墳を作り始める。しかし、仏教の伝来によって、和人の世界観が拡大し、中国崇拝から日本民族の独立性を尊ぶ思想が生まれ、遣隋使の姿勢にも反映される。以降、唐帝国との白村江の戦いを経て、ますます中国からの独立の姿勢を強め、720年頃に平城京で成立した日本書紀では邪馬台国や卑弥呼は中国に対して余りに隷属的・追従的だとして正式には取り上げない。以後、戦後まで日本の歴史の中で徐福や卑弥呼のことは隠されていく・・・
この仮説は、大和朝廷が奈良盆地で自然に発生した勢力ではなく、北九州から大和への征服王朝であること、その支配権が永続できたのは、弥生時代の倭人(原始的な稲作文化、平和的な銅鐸文化)に対して圧倒的な文化的優越性があったと考えられることから、そのような勢力は中国からの移住者、又は、その末裔と考えるのが自然であり、それに対応する歴史的事実としては徐福の到来が最も有力であることが仮説の下敷きけとなっている。
徐福一行は分散して各地に到達したと考えられ、徐福一行以外にも、秦による中国の武力統一の戦乱を逃れて朝鮮半島経由で北九州や出雲、丹後などに到来した人々によって進んだ稲作、青銅器、鉄器も「紀元前200年頃」に日本に到来したと考えられる。特に神武が大和を支配したあとも、大和の三輪山などでは出雲系の神が祭られ続けたことも重要だ。
しかし、このような古代中国文明に対する従属的な精神も、インド発祥の仏教の到来によって大きな影響を受ける。世界は中国だけではない、仏教を生んだインドもあるということで、日本人は中国に対して独立性を強める。それが、日本書紀の精神だ。そうなると、神武天皇が徐福の末裔であった可能性、邪馬台国の卑弥呼が魏に援軍を依頼した事実などはタブー視される。そして、日本の歴史は曖昧になり、天皇家成立の謎となる。
ポイントは、青銅器も鉄器もなかった弥生時代の日本と、万里の長城や巨大な始皇帝陵を築くような当時の中国との文明の格差、及び、中国に隷属するかのような倭の五王の時代から、隋の煬帝に対等を求める外交文書を書いた聖徳太子の間には仏教伝来という大きな出来事があったことだ。歴史は文化・文明の発展の過程だ。これが日本史の謎を解く鍵だ。
世界的には、現在も主流のユダヤ・キリスト教文化の原点のアブラハムから歴史が始まったと言えるが、そのアブラハムの出自はどの文化かというのが大きな謎だ。特にアブラハムと古代メソポタミア文明との関係が人類にとって最重要な研究課題とも言える。