日本の国旗の日の丸については、日本人はその意味を深く考えることなく、或いは、その意味は学校で教えられることもなく当然のように使われている。しかし、この日の丸には日本の国家成立の経緯が象徴されていると考えられる。それについて考えてみよう。
日の丸は太陽を表しているとされているが、「歴史的にみると、世界中で太陽を赤く描くことは少なく、一般的には黄色や金色で太陽を表し、日本でも平安時代(794年~1185年)の末期までは赤地に金丸だった」とされている(http://jpnculture.net/risingsun/)。さらに「平安時代末期の源平合戦(1180年~1185年)では、平氏が朝廷の象徴である「錦の御旗」と同じ配色の「赤地に金丸の旗」を、源氏が「白地に赤丸の旗」を掲げて戦い、源氏が勝利した・・・平家が滅亡し、源氏による武家政権が誕生すると、代々の将軍は源氏の末裔を名乗って「白地に赤丸」の日の丸を掲げ、天下統一を成し遂げた者の証として受け継がれていったといわれている。もしもこのとき平氏が勝利していたら、現在の日の丸は「赤地に金丸」になっていたかもしれません(同)」とする論がある。
しかし、この日の丸は銅鏡から来ているとするのが私の論だ。陽光を反射して輝く古代の銅鏡が日の丸のデザインにつながったと考えるのが自然。国旗はデザインであり、自然の太陽そのものを写したというものより、その陽光を反射し、太陽をシンボルとする銅鏡が国旗のデザインにつながったと考えるべきだ。太陽=>銅鏡=>日の丸、が自然な流れだ。
一般的には古墳文化を象徴する銅鏡の前には弥生の銅鐸文化があったとされている。しかし、近畿中心であった銅鐸は紀元前後と2世紀頃に集中して埋められ、3世紀には突然として制作されなくなり、古墳文化に直接つながる大和朝廷にもその存在は忘れられる。ということは銅鐸文化と大和朝廷(古墳文化)の間には別の文化時代があったことにる。どのような経緯で銅鐸文化から銅鏡文化に移ったのかということと、大和朝廷の成立には密接な関係がある。
銅鏡は大陸から伝わってきたことは明白であり、北九州が日本の銅鏡文化の出発点となっている。銅鐸も稲作とともに大陸からもたされたものだと考えられる。弥生時代はまだ中央集権の時代ではなく、西日本を中心として稲作の村が各地に成立し、村同士がゆるやかなつながりをもち、稲作宗教のシンボルとして銅鐸を受け入れた。そういうおおらかな時代感覚が、とんぼや鹿、すっぽんなどの銅鐸の装飾にも現れている。
この銅鐸分布図を見れば、朝鮮半島=>出雲=>近畿へとの流れが想像できる。特に当時奈良盆地の中央には湖があり、これが干上がる過程にあり、大規模な水田を作ることが容易であり、弥生時代末期には稲作の中心地となり、多くの人口を養うことができ、文化も生まれやすかったと考えられる。弥生後半の日本は大陸に近い北九州と、大水田地帯として魅力的な大和が2大勢力になったと考えられる。
紀元1世紀に中国の漢から金印をもらった北九州の倭の奴国が、この大水田地帯の大和を支配しようとするのが当然だ。これが、神武天皇の東征の伝説にも反映されている。
日本書紀などによれば、既に大和にはニギハヤヒの神を奉じるナガスネヒコの一族が支配していた。しかし、ニギハヤヒの一族は神武と同じ先祖(アマテラス)をもつことを知って神武に服属する。そして、大和に出雲勢力の伝統も保存される、という流れになっている。
しかし、ナガスネヒコの一族が銅鐸祭祀をしていたとは書かれていない。ということは、ナガスネヒコの一族が銅鐸文化を覆していたことになる。その時期は2世紀の後半になる。中国の史書によれば、この時期に倭国で大乱が生じたとされています。特に「女王国ではもともと男子を王としていたが70~80年を経て倭国が相争う状況となった。争乱は長く続いたが、邪馬台国の一人の女子を王とすることで国中が服した。名を卑弥呼という(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E5%A4%A7%E4%B9%B1)」とされている。
恐らく、この争乱で銅鐸文化は廃れたと考えられる。そして、卑弥呼が銅鏡を統治のシンボルにしたと考えられる。この卑弥呼の祖先がアマテラスであった、或いは、アマテラスから卑弥呼と神武が生まれたと考えると分かりやすい。卑弥呼の一方の子孫がナガスネヒコの一族であり、他方の子孫が神武の一族であったと考えられる。
さらに、紀元1世紀に中国の漢から金印をもらった北九州の倭の奴国から神武一族が出たと考えれば、出雲系の卑弥呼の先祖と北九州の倭の奴国の王ともつながっていたと考えられる。日本海をはさんで、稲作と青銅器・鉄器をもたらした朝鮮半島に面していた北九州と出雲は弥生時代からつながっていた。出雲勢力が最初に大和で大水田を開拓し、銅鐸文化を近畿以東に広め、ついで、倭国大乱で出雲の新勢力が、銅鏡がもてはやされたていた北九州とも縁のある卑弥呼を共立して、最終的にナガスネヒコの一族となった。そこに、北九州の倭の奴国に関係する一族が神武に率いられて東征し、大和を支配した。しかし、旧勢力の先祖の卑弥呼は北九州系(銅鏡崇拝)でもあり、大和の平定が順調に行われた。
このように考えれば、神武は卑弥呼のあとの人物だということになる。歴史の教科書では卑弥呼の時代は3世紀前半であり、卑弥呼の死と共に古墳時代が始まり、3世紀半ばから6世紀末までは前方後円墳の時代と呼ばれる。そして6世紀の半ばには仏教が伝わり、6世紀末には聖徳太子が現れ、日本の歴史は明確になる。そして、この間を通して天皇家の支配は確立し、大和朝廷が成立する。
この間、大和の中でも都は奈良盆地南部の飛鳥地方におかれ、唐との白村江の戦い、壬申の乱の後に藤原京が7世紀の末に創られ、8世紀にはより唐の長安に似せた平城京に遷都し、日本書紀・古事記が創られ、過去の日本の歴史が見直される。ここで、神武伝説が生まれる。
神武は、倭国の大乱後に銅鐸文化を廃した卑弥呼の一族を半ば武力で併合した人物だが、日本書紀では九州の王家から東征した人物として描かれる。しかし、銅鏡文化の卑弥呼の伝統をつぐ。そして、陽光を反射する銅鏡のイメージが自然と国家のシンボルとして人々に受け入れられ、日の丸のデザインにつながる。日本人が太陽崇拝だったからというわけではない。
ところで、道教では、正統な後継者の証に鏡と剣を二種の神宝を用いていたが、秦の始皇帝が伝国の玉璽という印鑑を使ったことから鏡と剣、玉を三種の神器を持つ者が正当な後継者と云うようになったとされている。日本には秦の徐福が到来したという伝説がある。奈良の南の紀伊半島の新宮にも徐福伝説がある。神武が徐福の子孫であり、吉野の山地を縦断して奈良に至るのに八代かかったとすると欠史八代も理解しやすい。奈良盆地でも吉野の山にへばりついた飛鳥地方が奈良盆地北部の平城京に移るまで500年間も大和朝廷の都であったのは新宮に近かったからとも考えられる。これがもう1つの大和朝廷(天皇家)の謎。