キリスト教の教えについては誤解が多い。
欧米の宗教だから、仏教をしのぐ体系的で、深遠な哲学的な神学理論の上に打ち立てられていると考える日本人も多いが、それは、イエス・キリストのパレスチナでの宣教以来、2000年にわたってバチカン(カトリック)などの教会組織や、教会と結びついたヨーロッパの国家、神学界が展開したものであって、本来のキリストの教えとは異なるものだ。
キリストの教えは、新約聖書の彼の言葉が全てだと言っていい。バチカン(ローマ教皇庁)などは、キリストの昇天後、教会のリーダーなどに神が送られた聖霊によって示された教えがキリスト教の本質であるとしているが、2000年前のパレスチナの貧しい農夫や漁民に三位一体説などが理解できるわけもない。
キリストの教えは、要約すれば以下のようになる。
1.死後、人間の魂は霊界に入って、死後の世界を生きる。
2.善良な魂は霊界から天国に行き、邪悪な魂は霊界から地獄に落ちる。
3.貧しい人間、苦しめられた人間、不幸な人間は、善良な魂を有するとみなされ、富裕層、エリート、幸福な人間は邪悪な魂を有するとみなされる。
4.天国に入った霊は永遠の生命を与えられ、地獄に落ちた霊は神様によって抹殺される。
従って、貧しい人間、苦しめられた人間、不幸な人間には、イエス・キリストの教えは「良い知らせ」だということになる。それで、イエス・キリストの宣教から、十字架での死、そして、復活して昇天までを描いた新約聖書は「福音書」とも呼ばれる。
2000年前から現在に至るまで貧しい人間、苦しめられた人間、不幸な人間の数は、富裕層、エリート、幸福な人間の数よりもはるかに多い。従って、キリスト教は、そのような人々によって支えられてきたということになる。実際、キリストもその弟子に、「世界中に宣教して貧しい人々を救え」と命じている。
キリスト教の本質は、「貧しい人間、苦しめられた人間、不幸な人間は、善良な魂を有するとみなされ」、「富裕層、エリート、幸福な人間は邪悪な魂を有するとみなされる」という点にある。この言葉の意味を、富裕層の学者、豊かさを志向する教会の指導者などは、当然、正しく理解できない。ここに、キリスト教世界にとって最大の問題がある。
仏教のような魂の救済・苦の消滅という抽象的な精神論ではない。現実の社会に生きる人々の現実に焦点を当てた教えです。そして、悪魔に魂を売らなければ、人間は富裕層、エリート、幸福な人間にはなれないという現実の厳しさに、神の愛の光を当てるという教えです。
キリスト教徒は仏教徒より、あの世、死後の世界、霊界、天国を信じ、求める気持ちが強い。「死ねば、空のお星さまになる」というおとぎ話のレベルではなく、「死ねば、天国でイエス・キリスト様に迎えられる」と本気で信じるのがキリスト教だということになる。
ただし、バチカンのローマ法王が、ミニ国家ながらバチカン市国の元首として、大宮殿のようなサン・ピエトロ大聖堂で多くの教会関係者を召使として使って生活しており、バチカンの財政的資産は5千億円と言われるが、その保有する歴史的な芸術や資料の価値は、ほとんど無限と言っていい。神様がローマ法王を貧乏人の一人として天国に受け入れるかどうかは誰にも分からない。
イエス・キリスト自身は、悪魔につけこまれないように、無一文でホームレスの生活を送った。聖書にも、イエス・キリストがカネを使う場面の描写はない。ブッダも乞食をして、人々の施しで生活していた。信用できる宗教家はホームレスの生活レベルの宗教家だけだ、ということになる。(だから、豊かな生活を送る教祖のいる新興宗教は信用できない・・・)
欧米人なら、誰でも知っている聖書の中のイエス・キリストの言葉は、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」です。