民主主義というのは神学に支えられている。バチカンでも法皇は枢機卿の投票によって選ばれる。人間は皆、神の前に平等である、従って、誰でもリーダーに立候補する権利があると考える。しかし、また誰にでもリーダーを選ぶ資格がある。よって、自由立候補、自由投票が正しいと考えられる。
しかし、古代にはギリシアやローマの共和制の例があるが、もっぱら優れた指導者に部族、国家の運命を託すのが最良であると考えられることが多かった。ユダヤ人ではまず部族の長であるアブラハムなどがリーダーになりました。そして、その子供たちに神の恵みが現れるとその権威は確立する。しかし、モーゼのように神が特別に選ばれる者もリーダーになる。キリストはリーダーとして神によって選ばれ、モハメットも神によって選ばれる。
バチカンはキリストが選んだペテロを初代法皇として成立された。しかし、その後、神が直接法皇を選ぶことはなかった。イスラムの世界でも、モハメットの後継者は神が選ぶことはなく、人間に委ねられた。これは、むしろ神の人間世界への介入については、民主主義は関係ないということだろう。神が人間の主人であるという考え方によれば、神が誰を選ぶのも勝手だということになる。
最初は優れた人間が王になっても、その子孫が優れた人間とは限らない。社会の発展とともに優劣の差もなくなる。ヨーロッパでもアジアでも王制は廃止され、或いは、形骸化し象徴的存在になる。しかし、選挙が万能ではないことはヒットラーの例などでも明らかだ。それでも、アメリカなどのように選挙プロセスを厳しいものとし、半端な人間は生き残れないようなシステムにするのが最善だということになる。
支配者グループの一員、又は、その代理人が選挙でも優位を占める。現代ではそのような候補者のイメージ作りを専門とする組織もある。政治・経済の支配グループがメディアを駆使して有力な候補者を作り上げる。それでも、民意を得ようとする以上、民主主義の統制下にある。中国のような非民主主義体制でも民意は最重要な因子だ。
しかし、古代イスラエルでは宗教知識、宗教儀式を独占した祭司や律法学者が人々に君臨する。神の名において絶対的な独裁をふるう。これが最悪だ。宗教も洗脳の一種だと言えるが、商業主義も人々を洗脳する。大金持ちのトランプがアメリカ大統領になり、アベノミクスを売り物にする安倍首相が信任されるのは要注意だ。