カトリックには数百人という聖者がいる。教会組織が、ある人物を聖者と認定するのは馴染めないが、神であるキリストの代理人であるローマ教皇が誰かを聖者と認定すれば聖者ということになる。もちろん、これは神様による認定ではない。バチカンの権威で誰かを聖者と認定するというのは、もしかしたら神様の権威に対する冒涜かも知れない。
日本では人々の信仰が聖者を決めている。仏教や神道の組織が誰かを聖者と認定しても、人々の間で本当に尊敬されるわけではない。しかし、人々の間で聖者として崇められている歴史上の人物もいる。聖徳太子、空海(弘法大師)、親鸞など。特に、空海は民話などで多く取り上げられている。
歴史の浅いアメリカでも、キング牧師など社会的な影響力のあったさまざまな人物を聖者扱いしている。何年かたてばオバマも聖者扱いされる可能性がある。
中国では孔子の時代に聖者が出尽くした感じがある。ただその後も日本仏教に影響を与えた著名な僧侶は出現している。しかし、共産党革命で過去の精神的な伝統は断絶したようなところもある。聖者とも呼ばれるガンジーが出たインドでは今でも多くの「聖者」が輩出しているが、彼らは皆、眉唾ものだと見られている。
極論すれば、人類に聖者は3人しかいなかったと言える。モーゼとキリストとモハメッドだ。しかし、モーゼはユダヤ人だけを救い、キリストは病人を癒しただけ、モハメッドは多くの敵を殺害した。とても、人類の聖者と呼べるようなものではない(仏陀や孔子は理屈を述べただけ?)。こう考えると、人類にはたいした聖者がいなかったことになる。
しかし、人々の心の中では聖者の出現を期待している。過去の偉人を美化し、聖者に祭り上げる、又は、宗教の教祖をことさら神聖化する。そのため日本では太子信仰や大師信仰が受け継がれている。同時に、ご利益を求めて怪しげな新興宗教も絶えることはない。
聖者というのは神の概念の反映だ。神なら人々を救う力がある。そのような力を少しでも受け継いだ聖者が現れてほしいという願いの反映だ。しかし、同時に、人々はカネが問題を解決すると信じている。現代では聖者の出現を願うより、経済発展、金融革新、ビジネスの成功への願いが主流になっている。人を救うのが聖者なら、カネが聖者だということになる。世界の富豪は崇められる。富裕層は特別視される。カネが宗教になり聖者になる。
逆に、「人はカネに仕えるか、神に仕えるかだ」という神の言葉が意味を持ってくるのだ。