ある物理学者の考えでは、宇宙の始まりは時間も空間もなく、「無」の世界だった。そこで、彼は恐怖にかられ、仏教の教えにすがった。仏教の教えでは、人間の魂は輪廻転生を繰り返し、何度も苦に満ちた人生を繰り返すことになる。しかし、仏陀の教えに従って悟れば、この輪廻転生から解放され、もう苦に満ちた人生を繰り返すことはなくなり、永遠の静寂な世界に入れるという。その世界では時間も空間もなく、「無」の世界に近い。ただし、死後の世界は科学的に証明されてはいない。死後の世界を見て来た者はいないと、物理学者はあきらめの境地に至った。
科学が無意味となる死の恐怖、仏教が教える輪廻転生の苦の恐怖、そして、救いは「無」の世界という仏教の教えでは、人は満足できない。
これは、人間が生きる物質世界を中心とした考えです。
まず万物の創造主である「神様」の存在を認めることが、出発点でなければならない。「神様」が霊界を作り、魂を作り、霊界から物質界を作って、魂を人間の中に入れたと考えるべきです。或いは、魂に人間の形を取らせたと考えるべきです。
従って、物質(生物)としての人間が死ねば、人間の中の魂は物質界から霊界に帰る。霊界では、物質界におけるような時間と空間の制約はない。霊界で霊は、「神様」の真理と愛を求めるか、「神様」の真理と愛に反発することになる。それは、霊が物質界で苦の多い人生をどう生きたかに関係してくるからです。
物質界に生きている間に、「神様」の真理と愛に従った生き方をすれば、人間の魂は死後、霊界で天国に受け容れられる。逆に、「神様」の真理と愛に反した生き方をすれば、人間の魂は死後、霊界で地獄に進むことになる。これが、イエス・キリストの教えです。
科学でいくら物質界の真理を究めても、物質界を生み出した霊界の真実は理解できない。また、死後の世界、つまり霊界を見たと言う霊能者は、スウェーデンボルグなど、何人もいる。キリスト教でも、聖パウロが生きて霊界を見たとされている。イエス・キリストは霊界の存在を当然として教えを述べている。
仏教は、死後の世界でもカースト(身分制)はあるとするバラモン教/ヒンズー教を否定するために、死後の世界、つまり、霊界をも超越することを目標としており、「無」の世界に入ることを目指している。万物の創造主の真理と愛によって救われることは考えていない。イエス・キリストの教えでは、人間の魂は「無」を目指すのではなく、「神様」の真理と愛に近づくことで救われる。
ブッダの教えは、苦の多い人生で悩む人間の魂を救うことはできても、究極的には「無」を目指として生きることが目標とされている。しかし、万物の創造主は「無」から「有」を生み出し、霊界と物質界を作り、魂と人間を作られたのであるから、人間は死後も霊界で「神様」の真理と愛を求めることが、より正しい考えです。
なぜ、「神様」が「無」から「有」を生み出し、人間界を生み出したのかは、人間にとって謎ですが、それは「神様」が人間を愛したからだというのが、イエス・キリストの教えです。
つまり、人間の魂が究極的に目指すべきは、「無」ではなく、「神様」だということです。なぜなら、人間界、生物階、物質界は霊界から、「神様」が生み出したものだからです・・・