人は死ぬ、いつか、必ず死ぬ。
震災で、感染で、戦争で、事故で、事件で、病気で、老衰で、或いは、イエス・キリスト様のように悪魔の攻撃を受けて・・・
ただし、肉体は死んでも魂は霊界で生き続ける。従って、死を恐れることはない。ただし、この世の生活、人間関係、そして、この世の幸福、この世の富、この世での地位とはお別れになる。逆に、この世の不幸、この世での貧困、この世での苦労からも解放される。それでも、自殺は自分という人間を殺すことだから許されない。
しかし、「死後も魂が生き続け、意識も心も魂と共に死ぬことはない」、と知っていれば、「たった一度の人生だから、どんな悪いことをしてでも、幸福になれ」という悪魔の教えに誘惑されることはなくなる。
全ての宗教の意義は、この点にかかっている。「死後も魂は死なない、心は消えない」というのが、宗教の核なのです。
従って、宗教には、死の恐怖から人間を救うという働きがある。その上で、宗教は「肉体の死」よりも大事なことを教えようとしている。仏教では、この世に何度も生まれ変わって苦労するという輪廻転生からの解放であり、キリスト教では、生死よりも重要な神様への信仰を教えている。しかし、現代では人々は、宗教を特殊な精神関係の業界であるとみなし、その教えは文化的な教養の一要素にすぎないものとみなし、「死後の世界、天国、地獄」はおとぎ話だと見なしている。
実際に、宗教関係者の社会的な位置、宗教者としての肩書・地位を求めて、信仰もないのに牧師・神父・僧侶・神主になる者もいる。驚くべきことに、「死後の世界は信じない」、「魂など存在しない」、「霊界など理解できない」、「死ねば全ては無」と考えながら、宗教界の居心地の良さから牧師・神父・僧侶・神主を続ける者もいる。
現代日本では、多くの人々が、キリスト教は結婚業界に属し、仏教は葬儀業界に属し、神道は拝み屋業界に属すると考えている人が多く、また、牧師・神父・僧侶・神主もそのように生きている例も多い。
世界では、もはや無宗教を国の基本とする中国やロシアの不気味な存在、カトリック離れのヨーロッパ、行き過ぎの自由の中でキリスト教が商業化するアメリカや、過激派の台頭を許すイスラム世界、無力化する仏教にしがみつくチベットから南アジア、非民主主義のヒンドゥー教の中で民主主義を追求せざるを得ないインド、それでも、キリスト教に希望を置く中南米とアフリカなど、とても、「万物の創造主の神様」に従って救われる全人類とは言えない。
19世紀の欧米で出現した新たな宗教ともいうべき「スピリチュアリズム」は、まだカルト的な扱いしかされていないが、霊の存在を認め、死後の世界/霊界を認め、「万物の創造主の神様」を認める点では、単に心霊主義と言うよりは、新たな宗教の出発点だと考えるべきものです。ただし、霊界の悪魔・悪霊が、他の宗教を堕落させたように、「スピリチュアリズム」の関係者、霊能者にも憑りつくことが多い。特に、「にせイエス」や魔術師が現れれて人々を惑わすとも言われている。
そもそも。キリスト教は「霊」を認める宗教です。聖書は「おとぎ話」ではなく、不思議な霊の動きと、神様の霊を受けたイエス・キリストと地獄から来た悪魔との戦いを描いたものです。そして、全ての宗教の上にあり、全ての存在の根源である神様の存在を認め、神様を讃える書物なのです。人間のこの世での死は、死後の霊界での生活に比べれば、無に等しいものなのです。
その上で、「貧乏人は天国に入り、富裕層は地獄に落ちる」と、イエス・キリストは教えているのです。
つまり、死を恐れるべきは富裕層であり、死を恐れる必要のないのは貧乏人なのです。これが、イエス・キリストの教えなのです。