キリスト教の新約聖書は、他の宗教の経典や哲学書のようには難解ではない。
主に、イエス・キリストの言行を述べた福音書とその他の書簡類と、予言的な黙示禄に別れるが、中心となるのは福音書です。これは、マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの4種類ある。
福音書のイエス・キリストの言葉は。それぞれ印象的で意味深いが、次の言葉は人々に勇気を与えるものです。特に自殺を考えるほどに追い込まれた人には、良い教えです。
「そこで、私は言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。
探しなさい。そうすれば、見つかる。
叩きなさい。そうすれば、開かれる。
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、叩く者には開かれる。
あなたがたの中に、魚を欲しがる子どもに、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。
まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる。」
(ルカによる福音書 11:9~13)
要するに、自殺防止の役目を果たすものです。
イエス・キリストや神様を信じて、積極的に求め、探し、訪ねて行けば、必ず答えが得られるということです。
実は、これは、死後に入る霊界の状況を示している。霊界では、望んだことは実現する。健康な身体も、必要なものも、いや、贅沢なものでも、魂の望んだことが実現する。神様が与えてくれる聖霊によって正しい途に導かれる・・・
人間界では、物質的な願いがストレートに実現するわけでないが、物質的な解決ではなく、精神的、霊的な解決が与えられる。カネがほしくて、求めれば、カネを得て実現しようとしたことを、神様が霊的に実現してくれることになる。
昔の切支丹は、幕府によって迫害されたが、どんなに拷問されても、耐え切って信仰を捨てずに殉死した。信仰があれば、死ねば天国に入るのが分かっているので、死も恐れなくなる。神様に、「拷問の苦痛から救って下さい」と願えば、聖霊が天国での幸福を知らせるので拷問の苦痛も気にならなくなる。これが、信仰者の世界です。神様が、信徒の訴えに沈黙するわけがない。信仰者は、必ず、答えを神様から得ているのです・・・
要するに、信仰の問題は、この世の常識や通念では判断できない。
逆に、信仰の足りない者は、答えが与えられていても、それに気が付かない。答えが見つかっていても、それに気が付かない。道が開かれても、それに気が付かない。
自殺者も、問題の解決方法は、必ず与えられるているはずであり、見つかるはずであり、道も開かれているはずです。
実際、10人の人に相談すれば、一人は問題解決に親切に協力してくれるものです。それは、神様が聖霊を親切な協力者に送ってくれるからです・・・