聖書で最も有名な言葉は、次のイエスの教えです。
「心の貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである。
その人たちは慰められる。
へりくだった人々は、幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである。
その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである。
その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。
平和を造る人々は、幸いである。
その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害された人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。」
(マタイによる福音書 5:1~10)
「心の貧しい人々」、「悲しむ人々、へりくだった人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を造る人々」、「義のために迫害された人々」は、神様の憐れみを受け、幸福になるということです。
なお、「心の貧しい人々」とは、単に「貧しい人々」を意味することだと考えるのが正しい。貧しくても、信仰によって心の豊かな人はいるが、「心の貧しい人々」という表現にこだわれば、彼らは、「心が豊かな」ために、信仰心があっても神様の恵みを受けられないことになる。これは、おかしな教えです。
また、「貧しければ、心も貧しくなる」ことは、多くの人が実感している。
「金持ち」は、多くの本を買い、芸術に親しむことができ、余暇や休暇でさまざまな体験を積むことができ、豊かな心を育むことができる。そういう意味で確かに「金持ち」には、「心の貧しい人」は、ほとんどいない。
逆に、貧乏人なのに教養豊かな、魅力的な「心の豊かな人」は、ほとんどいない。ただし、貧乏人には、「悲しむ人々、へりくだった人々」、「義に飢え渇く人々」、「憐れみ深い人々」、「心の清い人々」、「平和を造る人々」、「義のために迫害された人々」が多い。しかし、貧しくても、教養や宗教心を高めて「豊かな心」を持った人は、天国に入れないことになる。これは、おかしな教えだということになる。
金持ちに多いのは、「卑しい心の人」、「卑劣な人」、「傲慢な人」、「冷酷な人」、「狡猾な人」などです。ただし、宗教心がないために、「心の貧しい金持ち」もいる。利己的で心が狭くなった、「心の貧しい金持ち」もいる。しかし、そういう「心の貧しい金持ち」は天国に入れることになる。これは、おかしな教えです。
つまり、「心の貧しい人々」などと、わざわざ「心の」を付ける必要はないのです。「心の」を付けたのは悪魔だと考えられる。
「貧しい人々は、幸いである。
天の国はその人たちのものである。」
これだけで十分なのです。
「心の貧しい人々」などと、わざわざ「心の」が付いているので、「貧乏人だからといって、天国に入れるわけではない」、との主張につながる。あるいは、「金持ちでも、信仰が足りずに「心の貧しい人々」は、天国に入れるのだ」、などという狂った考えが生まれてくる。
悪魔は、このように聖書の中に入り込み、イエス・キリストの教えを混乱させている。それは、何世紀にもわたって、原文を翻訳し、解釈する中で入り込んだと思われる。あるいは、「金持ちだからといって天国に入れないわけではない、心の貧しさが問題なのだ」と、金持ちに媚びるような教えを作り上げ、金持ちからの経済的援助を得ようとする教会幹部の裏切りによる。
つまり、悪魔は聖書の中にも入り込んでる。そして、イエス・キリストの言葉を改ざんしているのです・・・
「貧乏人は、死後、天国に入り、金持ちは、死後、地獄に落ちる」、これが、イエス・キリストの教えの基本なのです。本来、貧乏人を無条件に愛するのがキリスト教なのです。イエス・キリストは、「心の貧しい人」を救おうとしたのではなく、単に「貧しい人」を救おうとしたのです・・・