あの世からこの世が生まれた。従って、死後の世界は当然、存在する。これが、真実です。
つまり、霊界からこの物質宇宙が生まれたのです。この世の物質は、全て霊界的エネルギーが物質的エネルギーとなって、素粒子、原子、分子となって生まれたのです。ただし、人間の心は、霊界の霊が脳に入って魂となり、その動きで生じたものです。だから、物質である肉体が死んだあとは、心は魂と共に霊となって霊界に帰るのです。つまり、肉体の死後も人間の心は霊として霊界(あの世)で生き続けるのです。
これが、全ての宗教が共通に意味するところです。だから、イエス・キリストは「死を恐れずに、神を恐れよ」と言っている。霊界も物質界も神様が作ったものだからです。
問題は、死後、天国に入れるか、地獄に落ちるかです。ここに、善悪の問題が関わって来る。善悪の問題というのは、生死の問題より重要なのです。聖書によれば、「神は全知全能かつ全善である」とされている。つまり、この世も、あの世も、善を求める神様によって作られたのです。当然、善人と認められた人の魂のみが天国に入れる。
また、この世は霊界から霊的エネルギーで作られたので、この世でも霊的エネルギーは働く。この霊的エネルギーは、物質の法則や物理的な法則には従わない。この霊的エネルギーが使えれば、イエス・キリストのようにさまざまな奇跡を起こせる。スプーンを念力で曲げ、心霊治療もできる。また、空海のように天候も変えることができる。だから、過去には多くの僧侶、修験者、行者、巫女などが、修行を通して、この霊能力を得ようとして来た。また、日本で超能力ブームが起きたとき、疑いを知らない幼児などが素直に精神力でスプーン曲げを行っていた。また、神仏や先祖を強く信仰していた霊能力者は、心霊治療も行っている。彼らは、全て、この霊的エネルギーを使っていたのです。
ただし、霊界には悪霊や悪魔がいる。彼らも、霊的エネルギーを使って、この世で奇跡を起こすことができる。だから、バチカンは奇跡は悪魔が起こしたものか、信者が信仰心で起こしたものかを厳しく調査する。悪魔が憑りついた人間も、奇跡を起こすことができるからです。最悪の場合、呪術で他人を苦しめることもできる。だから、まともな霊能者は、霊的エネルギーの乱用を戒めている。新興宗教の中には、霊的エネルギーを悪用しようとしたものもある。しかし、神様はそのような動きを抑えることができる。これが、1995年のオウム真理教事件の真実です。
一方、ユリ・ゲラーなどは、霊的エネルギーによるスプーン曲げを娯楽ショーにしてカネを稼いでいる。特殊な精神構造を持ったゲラーは、霊的エネルギーを使えるが、新興宗教ではなく、罪の少ない超能力ショーで成功するこを選んだ。
気功や念力、密教の業なども、全てこの霊的エネルギーの使用を基本としている。物質界は霊界から生まれたので、霊的エネルギーは物質界の自然の法則を超えた奇跡を起こすことができるからです。
つまり、究極的には、善のために霊的エネルギーを使う天使や善霊と、悪のために霊的エネルギーを使う悪魔や悪霊の戦いが、霊界だけでなく、この世でも行われているのです。従って、霊的問題に取り組む人は、神様を選ぶか、悪魔を選ばなければならない。
ただし、悪魔はカネに姿を変えて人々を誘惑する。物質文明の快適性、快楽性、快感に中毒した人間は、皆、神様よりカネを選ぶ。つまり、現在の物質文明の下では、ほとんどの人がカネ(即ち、悪魔)を神だとして崇拝している。だから、神様は今の人間が霊的エネルギーを使うことは許していない。
それでも、信仰心の高い人間は、霊的エネルギーを使う能力を得ることができる。また、死後は、霊界で誰でも霊的エネルギーを使うことが出来る。ただし、その信仰心の高さによって霊格の違いができ、霊界で何でも実現できるわけではない。そして、信仰心を高めるのは、物質界での人生で行わなければならない。それを、邪魔するのが悪霊や悪魔なのです。
悪魔の誘惑に陥らずに、清貧主義で生きることが、人間には求められている。つまり、カネを求めず、富裕層にならず、また、エリートにもならない生活を求められているのです。
実際、霊的エネルギーを使えた僧侶や修行者、超能力者は皆、物質的欲望を捨てた人たちだった。それを見倣えば、我々もやがて霊的エネルギーを使えるようになり、心霊治療や貧困からの脱出も可能になる。