2013年6月28日金曜日

「あくせくするな」



キリストの教え 「あくせくするな」



生活のため、仕事のため、約束のために 人はあくせくする。

単に物理的に きりきりまいするのではなく、精神的に 疲弊する。

そういう生き方は やめるべき というのが神様の教え・・・

神様が、全ての帳尻が合うように面倒をみて下さる




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名僧たちの人づくり - わが師を語る

大法輪閣編集部【編】

内容説明

無欲、清貧に生き、弟子の看病、便所掃除等々を自ら身をもって実践し、人生の姿勢を弟子たちに示した名僧たちがいた。そんな、かつての良き日本の感動的な師弟関係によって、人となった仏教者の貴重な証言の数々。


目次

法隆寺勧学院での佐伯定胤先生

対照的な二人の師、橋本凝胤師と深浦正文先生

清貧の人、勝平宗達老師

給仕の際に教わった神保日慈上人の人生訓

育て上手の堀恵慶師

秦慧昭禅師片影

先師・沢木興道の報恩行

純真な人、豊田教寛師

柔軟心の木村政覚老師

会う人みな師〔ほか〕


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比叡山に「論湿寒貧」の言葉がある。「論」とは議論、討論問答、デイスカッションをいう。比叡山では昔から討論や問答が盛ん。これでお互いが研究しあうわけで、その中心道場が大講堂である。「湿」とは湿度がたいへん高いことをいう。「寒」とは海抜800mのこの山の夏は涼しいが、冬は寒さが厳しい。「貧」は清貧に甘んずるという意味。この4字をもって修行に励み、不自由、不足勝ちの環境にあって、12年籠山や千日回峰の難行苦行が育成される。宗祖伝教大師最澄は「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」と教えたが、今もなおこの「論湿寒貧」をかね備えて修学の4名物となっている


http://www9.wind.ne.jp/kitamuki/hieizan/hieizan.htm


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良寛の73年の足跡を辿りながら、良寛が求めた心の豊かさとは何かについて考えて見たいと思っている。始めに40代の良寛が厳しい寒さに耐えながら暮らした五合庵で作った漢詩を照会したい。

生涯、身を立つるに懶(ものう)く/
騰々(とうとう)、天真に任す/
嚢中(のうちゅう)、三升の米/
炉辺、一束の薪(たきぎ)/
誰か問はん、迷悟(めいご)の跡/
何ぞ知らん、名利(みょうり)の塵/
夜雨、草庵の裡(うち)/
双脚、等閒(とうかん)に伸ばす

もとは全て漢文である。訳文など記すと趣を亡くすことになるとは思うが、自分なりに表現してみると。

立身に興味もなく、生涯を棒に振ってしまい/
何とかなるだろうと、天に身を任せてきた/
今日はずだ袋には3升の米が入っている/
囲炉裏の側には一束の薪もある/
迷ったり、悟ったり、その繰り返し/
名とか金とか、そんなもの塵のようなもの/
外は雨だが、小屋に居るから大丈夫/
足を投げ出し、俺はこうして生きている


http://blogs.yahoo.co.jp/kanouyuukou/46851826.html



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■古月和尚1
  

東に白隠あり西に古月あり
古月和尚は現在の宮崎県佐土原町出身の稀代の名僧で、記録によると、1750年頃には「東に白隠あり西に古月あり」といわれる程に、全国に広くその名が知れわたる名僧であったという。また、古月はいわゆる「近寄りがたい天才」というタイプではなかったようで、いろいろなエピソードが彼の人柄の良さを今に伝えている。彼の人柄の良さをうかがい知ることができるエピソードを紹介する。

彼が佐土原から備後(広島県)、更に甲州(山梨県)へ旅をした道中のことである。道中では、宿場にさしかかると、常に郵伝(=その宿場から次の宿場までの間の荷物持ち役)が彼を待っていて同行し、さらに到着した次の宿場でも郵伝が待っており、彼に同行するという状態だったという。また通る村々では、僧侶や一般人を問わず、多くの老若男女が彼を歓迎するために集まって、彼を迎え入れたという。

甲州からの帰りに立ち寄った江戸では、佐土原藩主島津惟久のもとに1ヶ月滞在した。その間、教えを求める者が彼のもとに昼夜を問わず訪れたが、彼はその訪れた者全員に嫌な顔ひとつせずに丁寧な問答をしたという。


http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den018.htm


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■一休 宗純 (1394-1481)室町時代の禅僧

 一休宗純は、応永元年(1394)、後小松天皇を父として生まれたとされ、幼少から禅寺に入り、清貧のうちに厳しい修行を行なって悟りを開いた。とんち話で知られる「一休さん」は、その修業時代の逸話の一端をあらわすものである。壮年以後は、戒律を破り、形式を否定した数々の奇行が知られている。それは、堕落した当時の世相への一休なりの警鐘であり、禅本来の心を追い求めた結果なのかも知れない。

 文明6年(1474)、勅命によって京都・大徳寺四十七世になり、応仁の乱によって焼失した大徳寺の復興を果たした。一休は多くの文化人と交わったが、中でも茶道の開祖・村田珠光に教えを授け「わび茶」の精神に大きな影響を与えたことは有名である。文明13年(1481)、京都の酬恩庵で88歳で入寂。しかし、その生涯は未だ謎につつまれている部分が多い。



http://www.image.shogakukan.co.jp/art/kyosyou.html


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沢庵さんは実在した日本歴史上屈指の名僧(禅)である。
戦国時代末期から江戸初期にかけて活躍した。

沢庵さんは、死後に墓を作らないでくれ、お経も不要。野に穴を掘って埋めてくれ、伝記を書かないでくれと言い残している。数百年後の我々は、その存在すらも不確かだと考えたかもしれない。しかし弟子は余りの高徳を後世に残さないわけにはゆかないと、禁を破ってその記録を残しておいてくれたおかげで、我々はその実在と事績を知ることができる。

 弟子の書いた記録を我々は、ほとんど読めないのでこれを現代風に書き直してくれたのが作家・水上勉さんの「沢庵」という本である。25年も前のことだ。ところがこの本でも私などが読むのはきわめて難解なことなのである。半分程度しか理解できない。

 沢庵さんは、生前に「国師」の称号を授けられようとしているが何度も辞退している。また死後も「禅師」と呼んではならないと言い残している。従って表題も沢庵さんとした。

 宮本武蔵の小説やドラマで沢庵さんは有名だったことを回想しているが、両者の接点はなく、あくまで著者の吉川英治さんは創作であると語っていた。

 ただ、柳生宗矩とは接触があり、晩年の沢庵を3代将軍家光に紹介している。家光の帰依するところ大きく、沢庵の寺を江戸に建立するが、次々と大名などが教えを乞いにきて窮屈な生活だったという。その寺を沢庵開基として永続するよう後継者を家光が求めたが、沢庵は応じなかった。
 昼食を求めた将軍に出したのが、沢庵漬とご飯だった。

 墓の位置は、もちろん明確ではないが、交通の要衝となっている品川近傍の鉄道と国道に挟まれたところに名もない大きな石があるのだという。沢庵石とでも呼ぶのだろうか!。



http://kaisou.exblog.jp/14521668/


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東京電力のテレビ コマーシャルで稼いでいた 

民放の女性キャスターを NHKが これみよがしに使う? 

東京都が オリンピック大使に使う? 

パナソニックも CMに使って 売上減だった! 

不吉なキャスーターで 皆 壊滅!



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C級右翼でも 中韓くらいは罵ることができる。 


B級右翼財界は 裏では 中韓ビジネスで大儲け! 

A級愛国は、米国での変質者増加に眉をひそめる・・・  

A級愛国者は 絶対に 子供はアメリカ・イギリスに留学させない! 皇族は?



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国会議員の定数が 減れば、 国会の買収が容易になる。 


参議院などは120人程度 買収すれば、主導権を握れる。 衆議院もこれ以上減れば、半数は簡単に買収できるようになる。 

むしろ、千人くらいの 議員がいれば、買収や偏りがなくなる。 議員報酬を減らすことが 議員の痛みです!




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歴史: 


幕末、黒船のペリー提督は 帰国後、 

「日本人は 全ての基本的な分野で 中国人よりも優れているように見える」 と書いた・・・ 

ペリーの日本人に対する評価は 非常に高かった・・・



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橋下は

 「欲望を克服して 文化活動、社会的活動、スポーツに 精進する」 という 基本が身についていない。 

まあ、橋下の妻も 物欲女王の気配が・・・




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皇居前広場から東京駅方面