2017年10月9日月曜日

聖書 「最初に言葉があった」ー 日本の歴史の始まり

聖書 「最初に言葉があった」ー 日本の歴史の始まり


歴史は歴史書によって作られる、という考え方がある。なお、聖書も歴史書である。

しかし、日本では文字もなく1万年続いた縄文時代には歴史がなかったことになる(?)。日本の最古のでき事が世界の歴史書で報告されているのは5世紀の中国で書かれた後漢書の「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」という記述だ。そして、有名なのが邪馬台国の卑弥呼を記した3世紀末の魏志倭人伝。

この邪馬台国・卑弥呼論争が日本史の最大の謎の1つだ。これは皇室の先祖にかかわる問題である。他方、日本の歴史書の日本書紀は8世紀前半(720年)の成立。そして日本書紀の最大のトピックは神武東遷と神功皇后。神功皇后の項は他の天皇と同格の独立した章立てになっている。そして、本文の注記に魏志倭人伝が引用されている。
「即位39年。この年、太己未。 
魏志によると、明帝の景初三年六月に倭の女王が大夫の難斗米などを派遣して、郡に行き、天子に会おうと朝献した。太守の鄧夏は吏を派遣して、京都に詣でた。
即位40年。 
魏志によると、正始の元年に、建忠校尉梯携たちを派遣して詔書印綬を奉り、倭国にもたらした。
即位43年。 
魏志によると、正始4年、倭王は使者の大夫の伊聲者掖耶約たち8人を派遣して献上した。」

このように自国(日本)の歴史書に中国の歴史書を引用するのは異例。

そもそも、漢文で書かれた日本書紀は一般日本人向けに書かれたものではなく、中国の唐と白村江で戦って敗戦し(663)、その後、日本の国威再興のために書かれたと思われる。従って、中国の朝廷の眼を意識して書かれたと考えられる。そのとき、中国の権威ある史書と整合性の取れないことを書けば、「たわごと」と軽んじられる。従って、中国の史書、魏志倭人伝に書かれた内容との整合性を示す必要があった。


ポイントは、当時の大和政権が「邪馬台国は九州で、卑弥呼は地方の女酋長」として無視することはせずに、神功皇后と関係づけたということ。これは日本の歴史解明に重要な意味をもつ。大和朝廷の記憶は、数百年前に遡って確かなものであるはずだからだ。古代人の記憶力は現代人以上なのだ。