世界の歴史で特異なのはユダヤ教徒の存在だ。どのような民族も「民族の神」という概念を持っていたから、ユダヤ民族が自分たちの神を持っているのは当然だが、その神がキリスト教徒の神となり、イスラム教徒の神となり、事実上、現在全人類の神となったという点でユダヤ教徒は特異な存在だ。
しかし、なぜ神がユダヤ民族を選ばれたかについて研究した例は欧米にも余りない。ピラミッドのエジプト人、最初の都市文明のシュメール人、インダス文明や仏教のインド人、東アジアで古代文明を築いた漢民族、現代につながる哲学発祥のギリシア人、南米独自の文明を発達させたインカ帝国などではなく、神は特にユダヤ民族に目をかけられた。そして、神の子、イエス・キリストをユダヤ民族に送られた、それには絶対的な理由があるはずだ。
その理由の1つは、ユダヤ教がモーゼの十戒などに象徴されるように倫理的なレベルが高かったことだと思われる。その民族の聖典に「『殺すな、盗むな、姦淫するな』と神に命じられた」と書くような民族は他に例がない。
キリスト教も倫理規範をその柱とする宗教であり、ユダヤ教、キリスト教に次ぐイスラム教も、基本的に倫理的戒律を述べたコーランを持ってる。このため、現在では神とは「宇宙の創造者」と「倫理・道徳・善の推進者」という2 つの顔があることが常識になっている。
このような神概念は、神がユダヤ教徒を4000年前に選ばれたことによって、現在実現したと考えられる。
しかし、なぜ神は日本人を選ばなかったのかという点は、日本人として考えるべきだ。
エルサレムを中心とした世界地図で見れば、世界の東の果てにあるのが日本だ。自然に恵まれた日本列島には北はシベリア、中国東北部から南は中国南部、東南アジアなどからさまざまな民族が流入し、多様なDNAが合わさって日本民族が生み出されている。そして、比較的温暖な風土の中で他民族との闘争のない島国で1万年にわたって平和な時代を過ごした日本民族には、世界で求められる、又は、世界と共通する普遍的な文化意識、宗教、世界観が生まれなかった。要するに、厳しい倫理規定の必要のない恵まれた環境だった。
こういう日本の特質に意味をユダヤ人との比較で考えることが、まず第一歩だ。