2013年8月15日木曜日

「欲を捨てよ。下劣な感情を捨てよ。 悪を行うな。 静かに生きろ」






仏教の教え  「欲を捨てよ。下劣な感情を捨てよ。 悪を行うな。 静かに生きろ」


要するに静寂です。

人間精神の果てしなき向上です。

そして 一切の生きる努力の放棄です。

だからと言って、早く死ねと言うわけではない。 精神的に 高いレベルに上ってから、死を考えよということです。



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戦後 アメリカ人夫人に 英語を学んだ。

これは 恐れ多いが 昭和天皇が アメリカに 「ごまをする」 ために 考え出したことだとも言われている。

マッカーサーは 昭和天皇のこのアイデアを喜んで支持したという・・・


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福島第一の

溶融燃料の状況も分からず

汚染水の流出防止法も分からず

福島第一の収束方法も分からない

呆れた教授たちです。東大工学部は!



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昭和天皇は 軍服姿だった、いつも、1945年までは。

戦後は、天皇は 一度も軍服を着たことがない。 今上天皇も、当然。

国家元首の要件は 国軍の最高司令官です。 アメリカ大統領や中国の主席もそうだ。

日本では、従って、首相が国家元首です。

天皇は日本の元首にはなれない・・




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日本を

中国やロシアから守ろうという 愛国心のない サヨクが 政権を取っても 長続きしない。

それが 3年3ヶ月の民主党時代だった。



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なぜ あのカメレオンのような 女を オリンピック大使にするのか?

そもそも 東電のテレビCMで稼いでいたキャスターだ。 福島被災者のことを 考えれば公共の仕事はできないはずだ。

そこで 都知事夫人急死?

さまざまな企業のテレビCMに出る彼女をNHKが使う? 違反だね!



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真の戦争体験とは

米軍の戦闘機が飛来し

地上の老人、女性、子供、幼児に機銃掃射を加える。 そういう殺人を米軍が日本の民間人に平気で行う、これが真の戦争です。



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キリスト教によれば「人を裁いてはならない」

従ってヒットラー(600万人虐殺)もスターリン(2千万人処刑)も毛沢東(8千万人餓死・文革)も、金日成・金正日(5百万人餓死)もトルーマン(30万人原爆死者)も裁くことはできない

東條首相は真珠湾で数十人の米国民間人を殺害しただけ!



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昭和天皇とマッカーサーは戦後、11回にわたり会談しています。このことから親密な関係ぶりが印象付けられているように思いますが、会談の内容は平坦なものではなく、特に安全保障の面では対立の様子さえ見えます。

  マッカーサーが解任されたとき昭和天皇はアメリカ大使館を訪問し、別れの挨拶をしています。

共同通信 昭和26年4月15日
「玄関には軍装姿のマ元帥が出迎え、陛下は『ごきげんよう』のあいさつのうちに元帥と握手され、そのまま元帥と並んでパーラーに入られた、いつものように松井御用掛の通訳でお二人だけの会見であった、陛下は元帥進駐以来の日本にたいする好意に深く感謝され、また心からのお別れのあいさつをされて、終始にこやかにご歓談された」

  こうした親密な印象から反皇室思想の人はさまざまなデマゴギーを作り出しています。たとえば自分が助かるために東條らを戦犯にすることを認めたなどというのを聞いたことがあります。しかし、マッカーサー離日の日、GHQからの要請にもかかわらず、昭和天皇は見送りにいかず侍従長を派遣したのみでした。

  月日は流れ昭和39年(1964年)マッカーサーは84歳で死去。バージニア州のノーフォークにはマッカーサー記念館が建設されました。

  昭和50年(1975年)、昭和天皇は訪米されました。このときマッカーサー記念館から記念館来訪と墓参の要請がきました。しかし、昭和天皇はこれを断りました。マッカーサーの未亡人から改めての要請の手紙がきましたが宮内庁はこれを相手にしませんでした。


訪米した昭和天皇はワシントンの歓迎行事を前にウイリアムバーグで2日間の休養をとられました。この町からマッカーサー記念館まで車でわずか40分の距離にありました。それでも昭和天皇は記念館に行きませんでした。マッカーサーの未亡人は怒ってホワイトハウスの天皇歓迎ディナーの招待を断りました。



http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2012/04/post-b99a.html


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日本占領時代の支配者だった連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーの滞日中の写真には、しばしば彼の横に若くて端整な顔だちの青年が写っている。

青年はいつも軍服に身を包み、軍帽をかぶって、口を真一文字に結び、やや緊張した面もちをしている。彼の名前はフォービアン・バワーズ、来日当時28歳のアメリカ陸軍少佐だった。マッカーサーの副官として日本語通訳を務めた。

マッカーサーと同じ赤坂のアメリカ大使館に住み、総司令部ではマッカーサーの執務室の隣に部屋をあてがわれて、四六時中、最高司令官と行動をともにした側近だった。

バワーズの許可なしには、日本の政府高官も総司令部幹部も、マッカーサーと面会することはできなかった。バワーズは日本語通訳とともに秘書役を兼ねていたので、敗戦直後の日本のいくつかの歴史的事件に立ち会った。その最大のものは天皇とマッカーサーの初会見だった。

だが、バワーズの名前が戦後の日本で記憶されるようになったのは、マッカーサーの副官としてよりも、むしろ歌舞伎の救済者としてだった。彼は日本人顔負けの歌舞伎通であり、同時に歌舞伎の研究者だった。歌舞伎役者で、バワーズの名前を知らない者は少なかろう。

マッカーサー司令部は占領政策に着手すると、日本の民主化の妨げになるとして、いち早く歌舞伎を追放した。主君への忠誠、切腹、仇討ちなど、封建道徳の讃美を許さなかった。

500を超える歌舞伎脚本のうち、舞踊劇や罪のない恋愛劇を除き、3分の2を上演禁止にした。『仮名手本忠臣蔵』『菅原伝授手習鑑』『勧進帳』など、時代物と呼ばれる古典の名作をことごとく追放処分にした。

それを全面復活させたのが、フォービアン・バワーズだった。マッカーサー司令部の枢要な地位にいた青年が、マッカーサー司令部の文化政策に反逆し、2年がかりで歌舞伎の取り扱いに関する方針を根本から覆したのだ。


http://spiritofjapan.iza.ne.jp/blog/entry/1943369/


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皇居前