「湯川博士、原爆投下を知っていたのですか」という本がある(著者「藤原章生」、新潮社)。1945年8月6日の、米軍による広島への原爆投下の数か月前に、戦後ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士(1907-1981)が、その原爆投下情報を知っていた可能性を示唆する本です。
1945年5月5日に、京大のある学生が、工学部のある教授に呼ばれて教授の部屋に行ってみると、「広島に通常の爆弾ではない爆弾による空襲があるから、広島の家族を疎開させよ」と忠告されたが、その席に湯川博士もいたという。
その工学部の教授と湯川博士は高校の同窓生であり、その学生は広島出身だったことを、工学部の教授は知っていたとされている。だから、個人的に忠告したとされている。ただし、なぜか同席した湯川博士は無言だったとされている。それで、その学生は急遽、広島に帰省して家族を広島から疎開させ家族は原爆から助かった。
しかし、日米戦争末期の日本に、アメリカからの原爆情報がどのようにして入って来たのかは謎だとされている。電話も傍受され、郵便も検閲されている。だから、その学生は、それは謎だとしている。しかし、その学生の友人で、同じく広島出身の別の学生は湯川博士にもっと近い関係にあったが、その友人自身は湯川博士からそのような忠告は受けていない。そして、その家族は原爆で死亡した。それで、その学生の友人が戦後、湯川博士が亡くなってからも真実を知ろうとしたというのが、本書の内容です。ただし、真相究明には至っていない。謎のままです。特に、戦後は湯川博士がその友人学生に、さまざまな恩義をはかり、原爆情報を知らせなかった償いをしたように思えることが鍵となっている。
つまり、戦前すでに国際的に著名であった湯川博士は、アメリカの原爆開発について情報を持ち、アメリカの政府/学会関係者と秘密の連絡ルートを持っていたとも考えられる。
なお、当時、日本はベラスコというスペイン人をスパイとして使い、アメリカの軍事情報を得ていたことも知られている。この情報が日本政府に伝えられたとき、原子力の専門家だった湯川博士に相談したことも考えられる。日本軍も原爆を開発しようとしており、湯川博士は重要な地位にあったことも知られている。
1944年に入って、アメリカは日本によるパープル暗号を解読した事によって、マドリードからの東機関による情報を把握する様になった。同年7月には、上述した原爆に関する情報の収拾を担当していたベラスコの配下である青年スパイが、ラスベガスでCIAの工作員と思われる人物に射殺された事をきっかけに、東機関の実態が本格的に把握される様になった。ベラスコも、自身がアメリカから暗殺の標的にされた事を察した事によって、ドイツへ亡命し、これに伴う形で東機関は、事実上の壊滅に追い込まれた。(Wiki)
ベラスコからの原爆情報を得た日本政府は、物理学者の湯川博士に内容の照会を行った可能性がある。その秘密情報の意味に気付いた湯川博士は友人の工学部の教授に話し、工学部の教授が広島出身の学生に家族の疎開を忠告したという可能性はある。
しかし、別のルートも考えられる。例えば、アメリカにいたアインシュタインなどは具体的な原爆投下情報を得ていた可能性があり、中立国のスイスやバチカンなどの外交ルートを通して、日本の著名な科学者の湯川博士に科学情報を装って知らせた可能性もある。優秀な湯川博士の命を原爆から守ろうとした可能性もあるということです。
いずれにしても、広島の原爆投下の数か月前に日本政府がその情報を得ており、湯川博士にその内容の照会(原爆とは何かなど)をした可能性はあるし、別の海外との学術的/外交的ルートから密かに湯川博士にその情報が与えられていた可能性もある。しかし、戦時中はほとんど鎖国状態であり、その真実は謎のままです。当時は、インターネットもスマホもなかった。
それでも、これが真実なら、湯川博士が沈黙したことで、何万人もの広島市民が原爆で死んだことを意味する。せめて、湯川博士が当時の日本政府に原爆投下の前にアメリカに降伏するように勧告していれば、何万人もの広島/長崎市民等は死なずにすんだことになる。
しかし、当時の日本政府を支配していたのは軍部であり、軍部は本土決戦で全国民が戦死してもよいという狂った考えに取りつかれていた。実は、天皇はそういう軍部の狂気に気が付いてからは、本気でアメリカへの降伏を模索し始めたと思われる。軍部のような玉砕思想は天皇家の伝統にはない。戦争で死ぬことなど天皇には受け入れられない。天皇家の存続が天皇にとって至上の課題なのです。実際、戦後は天皇家は旧日本軍ではなく、アメリカ占領軍に庇護を求める生き方をしている。従って、日本の官僚・政治家もアメリカ追随を至上の課題としてきた。
いずれにしても、湯川博士が事前に広島原爆投下情報を得ていても、それを公表すれば軍部に拘束され、情報漏洩の罪で裁かれた可能性がある。しかし、戦後すぐにノーベル賞を受賞したということは、アメリカの湯川博士に対する信用が高かったことを意味する。戦前にプリンストンを訪問した湯川博士が、アインシュタインと散歩をしている写真も残っている。
日本人の中には、湯川博士のようにアメリカ政府やアメリカの学会から高く評価されている人物がいる。彼らも自分の命が大事だろうが、やはり日本人としての義務はある。湯川博士も原爆/広島情報を得ていても、日米両政府ともその情報の非公開を望んで入れば、沈黙せざるを得ない。それでも、原爆投下の前に日本政府が降伏していれば、何十万人の日本人が助かっていたはずです。やはり、湯川博士はアメリカが本気で原爆を使うことを知ったときには、終戦活動を行うべきだったろう・・・
なお、湯川博士は大病を得て苦しんで死んだとされている。神は湯川博士の責任は追及しないと思われるが、因果を感じさせるものがある。