2018年11月24日土曜日

ヨーロッパとアジアの文化の衝突


マックス・ウェーバーによれば、「善行を働いても救われるとは限らない。また、自分が救われているかどうかをあらかじめ知ることもできない。そして、もし選ばれていなかったら自分は永遠の地獄に落ち、二度と救済されることがない。このような予定説の恐るべき論理は、人間に恐怖と激しい精神的緊張を強いる。そして、人々は、そこから逃れるために、「神によって救われている人間ならば(因)、神の御心に適うことを行うはずだ(果)」という、因と果が逆転した論理を生み出した。・・・・人々は、世俗内において、信仰と労働に禁欲的に励むことによって、社会に貢献した。そして、この世に神の栄光をあらわすことによって、ようやく自分が救われているという確信を持つことができるようになった」とされている。

つまり、これが資本主義の基盤になったということだ。その歴史的根源は、この精神に基づいて、西欧の修道院では修道士たちが規律ある生産的な生活を行うことに象徴されているとされている。仏教でも修行僧は禁欲的に規律ある生活を行っているが、それは解脱、悟りを目指しての行だとされている。仏教では最終的に静的な瞑想などが目標とされているが、キリスト教では活動を通して神に信仰をアピールするのが目標だとされている。これが東洋と西洋の違いを象徴するものとなっている。

このような2 つの文化が衝突すると何が生じるのか、という問題が歴史に現れている。その結果は欧米によるアジアの植民地化だ。積極的な活動を正当化し、征服的な活動を正当化する思想に駆り立てられた西欧勢力の前には、厭世的な仏教などの思想に基盤を置くアジア勢力は無力であったというのが20世紀の前半までの歴史の流れの本質だ。

そして、この関係が明治維新以降の日本の歴史を理解する鍵でもある。なぜ、わずか数隻の黒船が東京湾に現れただけで日本中が大騒ぎし、幕府の権威が吹っ飛び、維新後の明治政府が積極的に欧米化を図ったのかという点もこれで理解できる。また、近代化・西欧化を果たした日本の行動が、いかに朝鮮・中国にとって脅威になったのかも、これで理解できる。

平和主義的な東アジアに、好戦的な西欧諸国が進出したとき、中国も朝鮮も無力であったのに、日本だけがうまく対応したというのがその本質だ。この事情を理解できない朝鮮・中国は西欧の侵略的な活動に対する非難を日本に向けることになるが、日本人は世界の流れに対応しただけという思いがあるから、本心ではその侵略的であった過去を反省しない。これが不幸な過去の戦争に対する理解の違いに現れている。

しかし、戦後は新たな経済のグローバル化の中で、朝鮮・中国も日本をみならって西欧の行動や思想を受け入れる。これが現在の東アジアの経済的発展につながった。それでも、アメリカ・ヨーロッパの自然な流れの中の資本主義の発展と、東アジアのある意味で強いられた資本主義の発展とでは本質が異なる。西洋では、行き過ぎた資本主義に対抗して、ユダヤ教の影響を受けた社会主義・共産主義が生み出される。そして、アジアではその社会主義・共産主義ですら、西洋から輸入せざるを得ない。しかし、そのようなイデオロギーは本質的に非アジア的な歴史の流れで生まれたものだから、これも本当は根につかない。これは、共産党独裁といいながら資本主義化する中国や、社会主義を掲げながら儒教的な独裁主義に走る北朝鮮、どうしても勢力を伸ばせない日本の社会主義・共産主義勢力に現れている。東アジア各国の経済発展も西洋発の資本主義を追っているだけだとも言える。

この点から、アメリカはヨーロッパで発生したキリスト教と資本主義の直接的な延長にあり、いわば心の底から資本主義を信じ、また、ある意味では社会主義的な人道主義の必要性も理解している。日本は30年前のバブル期にアメリカ経済に迫ったけれど、結局、世界経済をリードできなかったのも、こういう本質的な宗教・思想と文化の違いにある。今は、中国が経済規模を拡大しているが、その基本には西洋のような宗教につながるような文化的基本はない。実際、中国は今、古典帝国の時代の栄光を求めて国力の拡張を続けている。しかし、日本のようにその発展には限界があるのは間違いない。

ユダヤ教の現実主義とプロテスタントの精神に基づくアメリカの資本主義は、ユダヤ教を敬遠し、カトリックが主流のヨーロッパよりも一層、経済のグローバル化には適した文化構造を持っている。アメリカの主導の世界の経済発展は今後も変わらない。豊かな国土と、世界中からの移民による多様な文化のメリットを享受しているのも長所だ。

問題はイスラム世界だ。何よりも神への尊崇を求めるこの宗教は信者の思考・生活・行動に大きな制約を課す。とても、世界経済を主導する社会は生まれて来ないと思われる。実際に1500年以降、イスラム世界は欧米の風下に置かれている。しかし、経済でユダヤ教・キリスト教世界にリードされたからと言って、イスラム教が廃れるわけではない。これは、如何にムスリムがその宗教の真実性に確信を持っているかを示している。

最近は、トランプ大統領が自由貿易に背を向け、アメリカの利己主義的な経済利益を追求しているのが話題になっているが、これはあくまで短絡的な発想と、近視眼的な政治的な動機に基づくものであり、アメリカの文化、政治と経済の本質は変わらない。しかし、アメリカの宗教性の基盤のプロテスタントの精神が生み出した、経済のグローバル化がアメリカのプロテスタントである一般白人の労働者に不利益に働くという点は重要だ。東アジア発展の原動力となった日本も、こういう一神教的発想への理解が求められる。

2018年11月7日水曜日

人類の原罪とは? 戦争の歴史


朝鮮戦争の終結が行われるのかどうかに世界の注目が集まっている。

世界中で、アメリカ、ロシア、中国、日本が直接関係する紛争地域は朝鮮半島だけであり、この地での紛争にアメリカ、ロシア、中国、日本、韓国が巻き込まれれば、世界のGDP2分の1が影響を受ける。それに、北朝鮮のミサイル・核技術がイランに流れ、イランはロシアと一緒にシリアや反イスラエル勢力を支持する。そして、中東からの数百万人の難民がヨーロッパに流れ込み、イギリスはEU離脱を強いられる。そういう意味で北朝鮮問題は世界の最大のリスク要因なのだ。しかし、イギリスのEU離脱と北朝鮮の関係を見抜くヨーロッパ人はいない。そこには、ヨーロッパ中心の、即ち、ヨーロッパ・キリスト教世界中心の偏見が欧米にあるからだ。

世界の歴史は戦争の歴史だと言ってもいい。史上初の公式な軍事記録に残された戦争は、紀元前1286年のシリアで、古代エジプトとヒッタイトがオロンテス川一帯で戦った戦争だと言われている。これは、エジプトのラムセス2世の治世にあたり、モーゼもこの王の時代にヘブライ人の出エジプトを指揮したと言われている。そもそも、アブラハムがメソポタミアのウルを離れたのも、都市国家ウルの滅亡とアブラムの弟ハランの死が関係していたと言われる。そして、救世主キリストが現れたのは、ローマ帝国のエジプト征服、クレオパトラの死、イスラエルの属国化のあとだ。救世主キリストの出現も戦乱の果てであった。

東アジアでも、中国は春秋・戦国時代で古典文化を完成させた。それ以降は、各王朝が戦乱で亡び、新たに勃興し、中国の歴史が作られてきた。最後は、国民党と共産党の戦いだ。日本の歴史も、倭国の大乱、卑弥呼と狗古知卑呼の戦いから始まっている。ただし、白村江の戦いで日本と朝鮮半島は完全に分離し、元寇、秀吉の朝鮮出兵(対明戦争)くらいしか対外戦争はなかったが、明治維新の戊辰戦争以後、最後に太平洋戦争で原爆を落とされるまで、近代日本の歴史も戦争の歴史だった。

このように見てくると、いかに人類が戦争を好むのかが現れている。人類同士の戦いに対する抑止力は非常に小さい。これは、他の生物には見られない特徴だ。こういう同胞殺傷性向に対する最大の抑止力は宗教だ。ところが、人類は宗教のために戦争も起こす。同じキリスト教でも、異端は迫害される。同じ神を敬っていても、キリスト教徒はユダヤ教徒を迫害し、イスラム教徒を支配して植民地化する。いかに、人類が紛争、戦争を好むかが人類の歴史で現れている。

戦争の出発点は殺人だ。サル類の間には戦争はない。人類がサル類の世界を離れ、知性をもった生物になったとき、同類攻撃に対する抑止がなくなっていった。これは、エデンの園でアダムとイブが知恵の実を食べて、神によって追放されたとの記述に関係する。

「多く与えられた者は、多く要求される」という言葉が聖書にある。他の生物を征服できるような知恵、武器を手に入れた人類には、それを同胞に向けない知恵が求められた。しかし、石器時代には倒した獲物の奪い合いで人間同士が相争い、互いに武器を使う。これが戦争の取発点だ。そして、殺された仲間に復讐心が芽生え、その報復を行う。これが、人類の罪のサイクルになった。

全ての人類がこの罪のサイクルに巻き込まれたとき、民族同士の争いが当たり前になる。そうすると神は人類を見捨ててもいいところだが、アブラハムに特に目をかける。そして、その子孫のユダヤ民族に目をかける。エジプトで奴隷にされたときはモーゼを使って救う。新バビロニア王国によって滅ぼされかかったときも、ペルシャを使ってユダヤ人を救う。ペルシャの支配が強まればアレクサンダー大王によってペルシャを滅ぼす。これで、ギリシャ文明がユダヤ人にも浸透する。ローマ帝国に征服されたときはイエス・キリストを送る。その後、2000年間に渡ってヨーロッパ人に迫害されてきたユダヤ人を救い、イスラエル国を再建させる。人類が戦争志向を捨てない限り、神はユダヤ人への肩入れをやめない。

ところが、今では、イスラエルは核兵器も保有し、中東第一の軍事国家となっている。イスラエルと同程度の数のユダヤ人が生活し、有力なユダヤ人の多いアメリカは軍事超大国となっている。実際、「世の終わりに向けて、国々は互いに対立する」とイエス・キリストは予言している。人類の好戦的な特徴は最後まで治らない。

21世紀の開始前後には、もはやヨーロッパでは戦争は考えられない、と考えられていた。EUで各国は平和的に結びつき、欧州は統一され、ロシアもG7グループに加えてもいいくらいに民主化した。中東も安定し、中国も経済発展を通して民主化するだろうと考えられていた。世界経済はグローバル化し、各国は経済競争をするだけだろうと考えられていた。

しかし、2001年の同時多発テロによって世界の平和ムードは吹っ飛び、2014年のロシアによるクリミア併合でヨーロッパ諸国のロシア観も修正を強いられた。そして、現在にいたる中国の南シナ海武力支配によって、中国に対する幻想も失われた。要するに、人類は紛争・戦争を好むDNAを持っているのだと考えざるをえない。これは、憎悪、嫉妬、憤怒、復讐心、利己主義、傲慢、無知、不信といった人間の原罪に由来すると考えるのが一神教だ。そして、一神教以外に抑止手段がないのも事実だ。一神教でない日本民族が明治維新以来、戦争に走ったのもある意味で当然だった。一神教の研究が平和への道なのだ。

2018年11月4日日曜日

日本経済の真実


1990年代から現在まで、日本は「失われた20年」、「長期デフレ」にあると言われている。そのカギは中国だ、日本政府の金融・財政政策であるというよりは。そして、その背景に「経済のグローバル化」があり、更にそのきっかけは「米国発のIT文化」なのだ。

デフレが問題なのは実質賃金の減少により、物価も伸びず、税収も伸びず、GDPも伸びないことだ。しかし、この間日本企業の内部留保は上昇を続けている。また、企業が倒産し、失業率が異常に上昇し、日本経済が壊滅したのでもない。この期間に特徴的なことは日本企業の中国進出数が増加の一途をたどり、中国のGDPが急上昇したことだ。ただし、1980年代の勢いで日本国内の工業化が進めば、日本の自然環境は破壊されていただろうが、中国に工場を移転することで日本の自然環境は守られたとも言える。




これらは全て連動している。出発点は経済のグローバル化だ。即ち、「経済のグローバル化」→「競争の激化」→「人件費削減」→「中国への進出」→「国内人件費も中国並みに」→「実質賃金の低下」→「日本のDGPの停滞、中国のGDPの増加」という流れだ。

このデフレ時代直前には日本企業がアメリカ経済を脅かし、日本がアメリカを買収するのではないかとの懸念がアメリカに生じ、「日米金融戦争」などと呼ばれる状況にあり、特にクリントン政権は日本を仮想敵国するほど日本に脅威を感じており、日本を抑えるために中国に肩入れし、中国経済を優遇しました。この流れで中国経済は活性化した。

そして、90年代にはアメリカ経済もIT化の波に乗って復活し、日本との格差を広げ、超大国の位置を確保したが、IT技術に乗ったグローバル経済のせいで金融・技術は世界中に拡散し、むしろアメリカの影響力の低下が現れた。しかし、IT化の波、即ち、インターネットの普及とスマホなどのハイテク製品、社会の高度システム化が出発点だったことは間違いない。これは、16世紀の大航海時代に匹敵する大きな歴史的出来事なのだ。

IT関連の大企業、マイクロソフト、インテル、アップル、グーグル、フェイスブック、アマゾンなどは全て米国企業だ。まさに、IT技術が米国経済を復活させたのだが、インターネット文化にはもっと深い特徴がある。単に「英語文化」でなかったために日本企業が乗り遅れたのではなく、「一神教文化」でなかった日本がIT技術文化に乗り遅れ、アメリカに抑えられたと考えるべきであり、それが「失われた20年」をもたらしたのだ。IT・インターネット先端技術の開発には文化的な側面が大きく働いたのであり、その点からも日本も一神教の理解を深めるべきなのだ。

2018年10月5日金曜日

日本の歴史的課題


「なぜ日本はデフレで20年を失ったのか」、「なぜ日本はアメリカと戦争をしたのか」、「なぜ西郷隆盛は西南戦争を起こしたのか」、「なぜ天皇家は続いたのか」こういう議論がしばしば行われる。

しかし、「なぜ、日本は戦後世界第二の経済大国になったのか」、「なぜ日清・日露戦争で勝利したのか」、「なぜ明治維新は成功したのか」、「なぜ、武家政権が成立したのか」は余り熱心に論じらない。

これは、日本民族の本質にかかわる問題だ。日本の歴史の失敗も、成功も基本的な日本人社会の構造に問題がある。そして、この構造を形作ったのは民族の社会構造と精神性だ。

稲作文化を基盤とする社会では集団的秩序が重んじられる。村落のリーダーが損得を判断する際にも、村落の秩序維持に対する配慮が、重要性の判断で大きな割合いを占める。古代には天皇家を中心とする中央の文化的卓越性に基づく権威を認めることで村落のリーダーも、その社会において優越性を維持できる。しかし、平安末期に仏教が民衆のもとに広まると、地域に根差した武家勢力が武力を背景に権威を維持することができるようになった。

この武家の社会支配が800年にわたって日本社会に影響を与えることになる。武力による社会統制は徳川幕府の儒教の採用によって主君への忠誠が絶対のものとなる。明治維新で幕府が倒れても、新政府を牛耳ったのは薩摩・長州などの下級武士だ。支配層における武家の精神は明治から昭和の敗戦まで維持される。

欧米による世界植民地時代に日本は武家の精神をもって開国したわけだ。当然、日本は武家精神をもって厳しい社会統制の下で近代化を遂行し、世界の覇権主義の潮流に出ていくわけだ。武家にとって戦は勝つことも、負けることもあるが、戦いを拒否して社会で権威と信用を失い、支配的な地位を追われるよりは、負け戦でも戦うことで武士の名誉、価値、尊敬、畏怖の念を守れるなら戦おうということになる。従って、武家精神を受け継ぐ戦前の日本の支配層にとって、戦わずにアメリカの圧力に屈するという選択肢はなかった。民衆もそういう武家の精神を基本的に支持していた。そして、真珠湾攻撃が行われ、最終的に日本は300万人の戦死者を出して敗戦する。

戦後は、この武家精神が批判に曝され、代わりにアメリカ式の民主主義が主流になる。しかし、同時に拝金主義のアメリカ社会の風潮も受け入れる。経済界でも愛国や民族の繁栄などという考えは消滅し、近視眼的な利益追求が当然視される。中国の人件費が安ければ、どんどん中国に進出し、あげくの果てには日本国内の人件費も中国並みに引き下げようとする。個人主義、会社主義、業界主義で内部留保は増えるが、日本社会はデフレになっても反省に必要な思想もない。かつての武家支配の強力な秩序維持の枠組みだけが残って、組織全体の利己的な拝金主義に対する反省は生まれない。

この形骸化した枠組みでも、天皇家の権威は利用される。武家が天皇家を廃さなかったように、戦後も官僚、財界、政界のエリートは天皇家の古代からの文化的・精神的権威を秩序維持に利用する。アメリカ式の民主主義、アメリカの自由主義にはキリスト教、神の権威が背後にあるが、そのような一神教のバックボーンを持たない日本は、武家の権威が第二次大戦で失墜してからは、敗戦で色褪せたとはいえ神道と結びつく天皇家の権威に頼るしかない。日本の現代の民主主義、自由主義は表面を流れる潮流だが、その底流では日本人は日本で最も古い権威の皇室を維持することで安心を得る。

日本人は武家の精神と、欧米の近代文化の威力によって日清・日露戦争に勝利したが、それゆえに天皇をかつぐ政府・軍部の利己的な判断による日米開戦には反対しなかった。明治維新以来、政府・軍部への信頼は絶大だった。まさか、真珠湾攻撃・日米戦争が城を枕にしての討ち死になるとは考えなかった。国民が300万人戦死して、アメリカに支配されるような戦争を天皇は許すはずがないと考え、当時の国民の大多数は真珠湾攻撃に喝采した。

戦後は、親米を強くアピールする皇室と共に日本人は親米になる。軍部は瓦解し、武家精神は顧みられなくなる。代わりに、アメリカ式の民主主義、アメリカの自由主義が経済を含めて社会の潮流となる。皇室も戦前の軍部から戦後はアメリカに乗り換える。皇室の権威自体は形骸化する。それでも、無力な皇室をみんなで持ち上げるしかない。

アメリカのように本当の一神教の裏付けのない日本の民主主義、自由主義には危うさがついてまわる。20年間デフレでも企業の内部留保が増えれば、財界も政治家も問題なしとする。なぜなら、それがアメリカ式の経済運営の結果だからだ。国家と民族に及ぼす悪影響は論じられない。グローバリズムもアメリカ発だから盲目的に受けいれる。

アメリカ社会、国家、国民個人の最期の拠りどころは、キリスト教と神への信仰だが、日本には一神教の精神はない。仏教は葬式専門だし、儒教は生活習慣だし、皇室崇拝は形骸化しており、本当のところ日本民族には国土のもたらす自然風土と、縄文時代からの社会的霊性しかない。とても、一神教主流の世界では通用しない。だから、基本的にアメリカ追従となる。アメリカの宗教性は人類の根本原理に近いのだから間違いではない。しかし、いつまでもアメリカの後を歩いていれば、よいというわけではない。これが、日本の課題だ。

2018年9月2日日曜日

ヨーロッパ、アメリカ、日本、インド、中国


インドと中国のGDP19世紀初頭までずっと1位か2位を占めていた。16世紀から18世紀 まで世界の圧倒的経済大国は中国とインドであった。イタリアは、紀元1年の時点では古代ローマ帝国の中心地だったが、GDPはインド、中国に続いて3位だった。

1600年の時点で中国のGDPは西欧全体のGDPを超えていたし、インドもまた同様だった。 西欧の合計がインドのGDPを超えたのは1820年、中国のGDPを超えたのは1870年のことだと言われている。


自然風土を考えれば、亜寒帯地域の多い西欧と比較して、インド・中国は亜熱帯・温帯の豊かな風土に恵まれ、農業に適していた。しかし、17世紀からの西欧科学文明の発展、18世紀からの産業革命によって欧米の優位が決定し、今日に至っている。

インド・中国の精神的背景はヒンドゥー教・仏教・儒教・道教であり、欧米はユダヤ・キリスト教だ。日本が20世紀に世界の経済大国になるまでは、欧米のエリートはキリスト教国、白人以外は無能であり、アジア・アフリカは永遠に欧米の支配を受けざるを得ないとの思想があった。ヒンドゥー教・仏教・儒教・道教は一段劣った宗教だとされていた。

今では日本に続いて中国、韓国、インドも近代科学・技術をマスターし発展している。しかし、世界の文化の主流は欧米文化であり、ノーベル賞の受賞者数でも明らかなように、人道的な分野、創造的な分野、最先端科学の分野でも欧米が世界をリードしている。いくら中国のGDPが増えても、中国の社会は事実上、共産党の独裁国家であり、民主主義も未熟だ。中国の市場を狙って欧米の企業は中国に接近するが、欧米の学者が中国から思想を学んだり、人道主義・平和主義を学んでいるわけではない。インドについても、世界の文化をリードできるような立場にはない。

現在の中国・インドはあくまで20世紀の日本の成功の影響によって、非キリスト教国でも現代科学・技術・経済を発展させることができることが証明され、その波に乗ったものであり、何も革新的な思想的影響を世界に及ぼしているわけではない。ヒンドゥー教・仏教・儒教・道教が現代社会を支え、影響力を及ぼしているわけではない。

しかし、世界にはユダヤ・キリスト教と対立する宗教、イスラム教がある。イスラム世界も欧米の植民地支配を受け、同じ神を崇めているにも係わらず、キリスト教からは一段、劣った宗教と見られている。逆に、イスラム社会は欧米の現代社会の風潮を受け入れず、欧米文化への抵抗勢力となっている。欧米的なGDPの拡大には不向きな社会体制を維持している。

物質的な成功が重視され、商業主義が社会を支配し、ユダヤ・キリスト教の精神が軽んじられる欧米と比較して、(ドバイなどの繁栄は別として)イスラム教社会はかたくなにその宗教的伝統を保持している。その反ユダヤ・キリスト教の流れから、テロ勢力が生まれるという状況もある。実際、イスラム社会がコーランを捨てて、欧米化する可能性はない。

この歴史の流れを見ると、風土的に恵まれていたインド・中国が世界を支配することはなく、一神教の欧米が世界を支配したが、日本が欧米だけの独走を許さず、その影響でインド・中国も復活し、さらに、イスラム社会は欧米社会に対する批判勢力として存在している、ということになる。

神は欧米に強力な精神的文化を与え、物質的に世界を支配させたが、他方、日本を選んで欧米を抑え、しかも、宗教のルーツが同じ反キリスト教のイスラム社会を存続させた。神がどこまで欧米を支えているかという点から、この状況を考えるべきだ。世界中が欧米の白人中心の資本主義・商業主義に従っているわけではない。

1500年前、2000年前、4000年前の科学が未熟な時代に生まれた宗教が今も実践されているということ自体が、物質文化に対する精神文化の優位を意味するわけだが、神が人類に望んでいるのは物質的な繁栄ではなく、精神的な成長だと考えれば、今後の人類の歴史には劇的な神の介入が考えられる。そのときに、日本やイスラム社会がはたす役割が何であるのかを考えるのも有益だ。1000年後には、宗教心のある人間は世界からいなくなり、富を崇めるだけの人間ばかりになるのか、神の裁きで人類の物質文明が崩壊しているのかは誰にも予言できないとしても。

2018年6月18日月曜日

世界共通の宗教は「マネー」


ある調査によれば「神の存在について「分からない」と回答するものの多さで日本人は世界一である」という結果が出ている。


中国についてすら「現代の中国のキリスト教徒は、ブリタニカ国際年鑑の最新データによると中国の人口の7-7.5%9100-9750万人程度と記録されている。しかし、在米の中国人人権活動家や在日本の中国人ジャーナリストなどの知識人が把握している直近の状況では当局の監督下にある国家公認教会と非公認教会の合計が人口の10%を超える段階に達しており13000万人を超えているという情報が有力」(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99)とされている。

いわゆる多神教的な「八百万の神」ではなく、「唯一の神の存在を認める」のが世界の主流だ。しかし、この点、日本人は人口の5%しか、そのような神を認めていない。キリスト教徒も人口の1%程度だと考えられている。

いくら小学校から英語教育をしても、日本人が世界の宗教的、霊的な大勢に追いつけるとは思えない。世界は唯一の神を認める人々によって動かされている。日本の文化が世界で特異なのも、このような霊的な違いに存すると考えられる。

しかし、これは日本には「唯一の神の存在を認める」宗教の必要がなかったとも言える。世界の歴史は戦争の歴史であり、中国でも王朝が何度も変わっている。要するに社会には永続的なものはなく、信じられるのは、せいぜい一族、家族、個人であるというのが世界の大勢であり、その社会的環境の厳しさから「唯一の神」に頼る文化が生じる。そして、そのような認識の下に文化を発展させている。ところが、日本は有史以来、異民族の支配を受けずに独自の文化を発展させることができた。日本人は日本的環境、社会を信じて生きており、「唯一の神」に頼る必要性もなかった。それでも、経済活動、ビジネス・技術・科学の世界などでは欧米人や、世界の人々と対等以上に渡り合える。日本的霊性を捨て去る必要もない、と考えてきた。世界の人々も、基本的に宗教以外の面では日本人に何も違和感を持たない。同じ人間だと、日本人も世界の人々も考えている。

これはユダヤ民族と対極の存在だ。ユダヤ民族は現在のキリスト教、イスラム教の根源のユダヤ教を信じており、自分たちの民族の神が世界中の人々に「唯一の神」として受け入れられているのを知っている。しかし、ユダヤ人も特別な人間ではない。DNAに違いがあるわけではない。それでも、やはりその存在には特別な意味があると考えられる。ユダヤ人は世界の人口の0.2%であるのに対し、ノーベル賞受賞者のうち、ユダヤ人 が占める割合は22%にもなると言われている。要するに、他の民族と何かが100倍異なる。

現在では、世界共通の宗教は「マネー」だ。アメリカ人も中国人も、イスラム教徒も「富の支配」を信じている。これは、資本主義を超えた宗教だ。「マネー」は世界中で威力を発揮する。しかし、救世主キリストによれば「魂を悪魔に売らなければ、1円と雖も得られない」ということになっている。「神に仕えるか、富に仕えるか、2 つに1つだ」という教えがある。ということは、世界は「マネー」という悪魔教に支配されていることになる。世界の人口の0.2%のユダヤ人も、世界の大富豪のランキングの15%を占めている。他民族より70倍強力に悪魔と手を組んでいると言える。ユダヤ人も神を裏切っている。

日本人には「清貧」の思想というものがある。皆が貧しかったので貧しさを美化しただけという皮肉な見方もあるが、やはり、どこかで金銭欲の卑しさを恥じる文化がある。この点で日本は世界の中で良い意味で特異な民族であるべきなのだ。

2018年6月8日金曜日

先祖を敬え - 聖書


日本の歴史は日本という国号がどのようにして成立したか、から始まるべきかもしれない。

「倭」というのが中国人や朝鮮人が日本に最初に与えた名称だが、倭と呼ばれた民族は日本人だけではない、という説がある。しかし、この一種の卑字による名称を日本人は受け入れていた。それでも、漢字の知識が進むと、「倭」から「和」に変えようという動きがでてくる。そして大和と書いて国内では「やまと」と読ませる。

ところが中国語では大和は「たいわ」であって「やまと」とは読めない。それではと、好字を使って「矢真都」などと書いて国号とすることはしなかった。そもそも魏志倭人の条では邪馬台国と書かれていて、中国に変更を言い出しにくい。他方、「あすか」という古い地名もあるが、これは奈良の南部や大阪の一部の地名に過ぎない(古代朝鮮語の「安宿」?)。やはり、卑弥呼の時代から国名としては「やまと」の方がよく知られている。

ただし、「やまと」とは何かについては今も議論がある。本来、纒向遺跡や箸墓古墳など三輪山の麓の地域が「やまと」と呼ばれていたと考えらる。その辺りの地形を見ると、奈良東部の山地の麓になっている。従って、「山のふもと」が縮まって「やまと」になったと考えられる。そこで、今度は「上る太陽の麓」という意味から「日のふもと」、即ち、「日の本」、「日本」を国号にしたというのが私の説だ。日本の原点は「やまと」にあったということだ。これはまだ誰も主張していない。そして、この説は卑弥呼の邪馬台国の延長に今の日本があることを意味する。邪馬台も「やまと」と読むべきであり、邪馬台国は奈良の三輪山の麓にあったということになる。

アメリカはコロンブスではなく、同じ時代の探検家アメリゴ・ヴェスプッチを語源としている。それは日本を目指して大西洋を東に進み、アジア大陸の一部を発見したと信じていたコロンブスに対して、アメリゴはそれが新大陸であると主張したせいだと思われる。アメリカは新大陸であるという点が本質なのだ。バチカンの支配下に入ったことはないのだ。

イスラエルの国名は、ヤコブが兄エサウと和解するために会いに行く途中、夜に天使と取っ組み合って勝ち、その天使から「あなたは神と戦って勝ったのだからイスラエル(神に勝った者)と名乗りなさい」と言われたことに由来する。このヤコブについては「ヤコブを愛していたリベッカはヤコブをそそのかして大変卑劣な手段をもって父親のイサクをだまし、イサクからの長子の祝福をエサウから奪い取ってしまう」という物語が聖書に書かれている。ユダヤ教徒の強烈な生存の意思が現れている。しかし、古代イスラエルには神の子イエスが現れる。そして現代でもまだ神との関係は続いている。日本やアメリカは?

2018年5月8日火曜日

歴史の曖昧さ


日本史は日本書紀に始まり、日本国の歴史は神武東征に始まるというのが文献的な日本の歴史だ。しかし、神話と一体となった日本書紀は歴史書としては信用できない。特に応神天皇以前の記載は創作だとされている。

応神天皇は「宋書倭国伝」のいわゆる「倭の五王」のうちの最初の王「讃」だという説が有力だ。つまり、中国の歴史書によって日本の歴史が決定される。それ以前の日本の歴史も魏志倭人伝や、漢から与えられた志賀島の金印が古代日本の歴史的証拠となっている。

要するに、大和朝廷の成立、天皇家の成立などについては謎に包まれているという驚くべき曖昧な歴史の上に今の日本がある。日本書紀が8世紀に著されるまで日本には記録がなかった。大化の改新の時も、聖徳太子の時も、大古墳時代の5世紀にも、卑弥呼の時代にも歴史書は書かれなかった。これは、日本人のメンタリティを象徴している。ユダヤ人は旧約聖書に歴史を書き、中国では書経以降、歴史書の伝統がある。そもそも日本書紀は唐に文化国家として日本を認めてもらうために書かれたと言える。他民族との抗争もなく、王朝の交代もない日本では歴史を記録する必要もなかったと考えられる。ただし、日本書紀以降、文字文化の普及と共にさまざまな記録が残されている。

ちなみにイギリスの歴史書は9世紀のケルト系の『ブリトン人の歴史』が最も古いくらいだから、現代国家としては特に日本が遅れているわけではないが、古代文明発祥の地、中国と比較すれば1000年近く遅れている。そして、紀元前1900年頃に成立した中国の夏王朝と同じくらい、大和朝廷の成立は曖昧だ。むしろ、ある意図が働いて曖昧になるように日本書紀が創作されたと考えられる。その意図が何なのかが日本史の最大の秘密だということになる。

また、キリスト教の聖書にも曖昧さがある。歴史的なイエスの存在を知るには福音書しかないが、4福音書(マルコ、ルカ、マタイ、ヨハネ)には相違がある。福音書でもイエスの人間的/社会的な背景はどこか曖昧だ。また十字架刑についても曖昧だ。実際、福音書を読んだだけでキリスト教徒になる人間がいるとは思えないほど簡潔だ。

日本の古代史が曖昧なのは、その方が朝廷には都合が良く、武家政権になったときにはもはや検証の方法もなく、その必要も感じられなかったからだと考えられる。キリストの福音書がどこか曖昧なのは、世の終わりを前にイエスが発したメッセージを知らせることだけが大事であるとの考えや、ユダヤ教の祭司との敵対関係を明らかにすることを最優先したからかも知れない。洗脳ではなくても、意図的な曖昧さというものにも要注意だ。

2018年4月20日金曜日

21世紀の意義


21世紀はニューヨーク/ワシントンの同時多発テロで始まった。冷戦に勝利し、ITバブルで浮かれていた米国や、デフレの中で利己的な経済活動に走る大企業主導の日本、キリスト教の2000年祭りで浮かれるヨーロッパにとって晴天のへきれきだった。その結果、イスラム過激派のテロが日常茶飯事になり、アメリカは巨額の国防予算を計上し、その陰でロシア、中国、北朝鮮が軍事体制を強化するという現在に至る潮流が生まれた。

まず、イラクが戦火に巻き込まれるが、イラクはメソポタミア文明発祥の地であり、4000年前にアブラハムの一族が出た土地だ。サダム追放後にISが恐怖支配を始める。他方、アフガニスタンには米軍が侵攻しイスラム原理派のタリバンと泥沼の戦争に入る。アフガニスタンはアレキサンダー大王のアジア遠征の到達点だった。やがて、アラブの春が始まり、カダフィが殺害され、エジプトのムバラクが失墜し、そして、シリアで内戦が始まる。シリアはローマ帝国の中東支配の根拠地だった。こう見てくると、4千年から2千年前の世界の中心・紛争地域が21世紀になって再び紛争地帯となって浮かび上がってくる。最大の要因はイスラム過激派とアメリカだ。アメリカは、ヨーロッパでキリスト教が停滞する中で最もこの宗教が活発に活動する国となっている。人類の4000年の歴史の鍵となった地域が、イスラム過激派とキリスト教のアメリカの激突を通して浮かび上がった。

2005年には21世紀の後半から30年近くも教皇の座にあったヨハネ・パウロ2世が亡くなり、後任のベネディクト16世は8年で生前退位し、1200年ぶりにヨーロッパ以外の地域出身のローマ教皇が選出された。バチカンも21世紀に入って大変革を迫られている。

このような世界史の過去を揺さぶる状況の中でロシア、中国、北朝鮮といった世界史の傍流の地域も自国の勢力拡大に走る。2001年の同時多発テロ以前には考えられなかった状況だ。また、イギリスがEUを離脱し、アメリカもトランプ政権下で核軍備を強化する。そして、日本は2011年の大震災と福島第一事故で天から警告を与えられている。これを単なる1000年に一度の大震災と考えるか、4000年の歴史を反省させる大変動が21世紀の世界で生じたように、日本にもその物質的な繁栄を反省させるきっかけを神が与えたと考えるかで大きな違いが出てくる。世界的には2001年、日本では2011年が神の警告だ。

世界では今でもメソポタミア文明の発祥地域、アレキサンダー大王やローマ帝国が戦った地域で戦争が続いており、4000年の人類の発展に疑いがもたれている。やがて、イスラエルにも戦火が飛び火する可能性がある。そうすれば、ユダヤ教・キリスト教の発祥の地で再び血が流される。世界で信仰が揺らぐ一方、日本は大震災を通して拝金主義からの離脱を迫られている。そう考えるか否かで日本人の運命も変わってくる。

2018年4月8日日曜日

歴史と戦争


歴史は戦争によって作られる、とも言える。(特にアメリカは戦争によって作られた国だ。ブッシュも、トランプもうまくアメリカ人の好戦的愛国心に訴えてきた。)

日本では白村江の戦い(663年)、元寇防衛戦(12741281)、秀吉朝鮮出兵(15921598)、日清(1894)・日露戦争(1904~1905)、日中戦争(1937~1945)、太平洋戦争(1941~1945)があった。これは、世界の大国としては数が少ない。明治維新までは3度戦争しただけだ。島国であり、異民族とは隔離されていたのが日本の特徴だ。

この戦争はそれぞれ、天皇体制の確立・強化(白村江)、武家政権の確立・強化(元寇)、武家支配下における近代へ向けての民力の発展(朝鮮出兵)、国家の近代化・産業化(日清・日露)、アジアの覇権(日中)、太平洋の覇権(太平洋戦争)を象徴する戦争だった。

しかし、これらの戦いは世界の歴史と連動している。白村江の戦いはイスラムの勃興と同時期であり、元寇は十字軍の時代であり、朝鮮出兵はアメリカ発見などのヨーロッパ人の大航海時代であり、日清戦争から太平洋戦争は産業革命から白人の世界植民地化の時代だった。

特に、太平洋戦争は世界の第二次世界大戦の一部となり、アジア人対欧米人の戦いであると同時に、反ユダヤ・キリスト教的・反社会主義的・反民主主義の勢力に日本も組み込まれてしまった。戦争の結果、ユダヤ・キリスト教世界、社会主義勢力、民主主義が世界の主流となり、さらに、冷戦・ベトナム戦争・ソ連崩壊・中国の開放路線を通して今日のように資本主義・商業主義・科学技術主義の時代が訪れた。

日本では、世界の国々は資本主義・商業主義・科学技術主義でビジネス的に競争するだけであり、国々が戦争する必要などなくなったという考えが出てきた。しかし、現実には世界はそうなっていない。イスラム世界の危険な動向、中国の危険な戦略、ロシアの野心、絶えない世界の貧困と犯罪などとても世界は平和な商業主義社会になったとは言えない。

宗教的には、キリスト教の権威が低下し、欧米人がキリスト教の原則にこだわらなくなった分だけユダヤ教に対する偏見がなくなった。しかし、欧米人の一部となったユダヤ人とは異なり、イスラム教徒は非ヨーロッパ系であり、欧米化の後進地域であり、ユダヤ・キリスト教とは異なった価値観と生活観を持っている。非宗教性を強めるユダヤ・キリスト教徒とは際立った対照を示している。おまけに、中国・インドも欧米のユダヤ・キリスト教の伝統はない。まだ、大戦争に匹敵する事件が生じてもおかしくない。神が唯一の存在であるなら、日本も含めて人類の宗教も1つのはずであり、いずれ、全てが収束するとしても・・・

2018年2月27日火曜日

聖者とは?


カトリックには数百人という聖者がいる。教会組織が、ある人物を聖者と認定するのは馴染めないが、神であるキリストの代理人であるローマ教皇が誰かを聖者と認定すれば聖者ということになる。もちろん、これは神様による認定ではない。バチカンの権威で誰かを聖者と認定するというのは、もしかしたら神様の権威に対する冒涜かも知れない。

日本では人々の信仰が聖者を決めている。仏教や神道の組織が誰かを聖者と認定しても、人々の間で本当に尊敬されるわけではない。しかし、人々の間で聖者として崇められている歴史上の人物もいる。聖徳太子、空海(弘法大師)、親鸞など。特に、空海は民話などで多く取り上げられている。

歴史の浅いアメリカでも、キング牧師など社会的な影響力のあったさまざまな人物を聖者扱いしている。何年かたてばオバマも聖者扱いされる可能性がある。

中国では孔子の時代に聖者が出尽くした感じがある。ただその後も日本仏教に影響を与えた著名な僧侶は出現している。しかし、共産党革命で過去の精神的な伝統は断絶したようなところもある。聖者とも呼ばれるガンジーが出たインドでは今でも多くの「聖者」が輩出しているが、彼らは皆、眉唾ものだと見られている。

極論すれば、人類に聖者は3人しかいなかったと言える。モーゼとキリストとモハメッドだ。しかし、モーゼはユダヤ人だけを救い、キリストは病人を癒しただけ、モハメッドは多くの敵を殺害した。とても、人類の聖者と呼べるようなものではない(仏陀や孔子は理屈を述べただけ?)。こう考えると、人類にはたいした聖者がいなかったことになる。

しかし、人々の心の中では聖者の出現を期待している。過去の偉人を美化し、聖者に祭り上げる、又は、宗教の教祖をことさら神聖化する。そのため日本では太子信仰や大師信仰が受け継がれている。同時に、ご利益を求めて怪しげな新興宗教も絶えることはない。

聖者というのは神の概念の反映だ。神なら人々を救う力がある。そのような力を少しでも受け継いだ聖者が現れてほしいという願いの反映だ。しかし、同時に、人々はカネが問題を解決すると信じている。現代では聖者の出現を願うより、経済発展、金融革新、ビジネスの成功への願いが主流になっている。人を救うのが聖者なら、カネが聖者だということになる。世界の富豪は崇められる。富裕層は特別視される。カネが宗教になり聖者になる。

逆に、「人はカネに仕えるか、神に仕えるかだ」という神の言葉が意味を持ってくるのだ。

2018年2月19日月曜日

ユニークな日本

2017年のノーベル賞には日本国籍者は一人も出なかったが、日本系のイギリス人が文学賞を受賞した。1901年からの国別上位授賞者数は次のようになっている。
(1)アメリカ265人、(2)イギリス84人、(3)ドイツ81人、(4)フランス51人、(5)ロシア34人、(6)スエーデン29人、(7)日本 25人、(8)オランダ18人、(9)イタリア17人、(9)スイス17人。

この中で、非欧米、非キリスト教国は日本だけ。欧米はギリシア・ローマ文明の伝統とキリスト教の伝統によって近代文明の発祥の地になっている。現在の世界の主流は欧米発の文明であり、エジプトやインド、中国の伝統ではない。それを可能にした精神文化の核はユダヤ・キリスト教だ。ニュートンは聖書研究者でもあり、アインシュタインはユダヤ人だった。旧約聖書、新約聖書を2000年間読んできたキリスト教徒(ユダヤ教徒)が産業革命を起こし、近代科学・技術を発展させることができたわけだ。

他方、エジプトのピラミッドを4600年間見ていても、インドの哲学書を3000年間読んでいても、中国の仏典や論語を2500年間読んでいても近代文明は生み出せない。しかし、日本はその西欧文明に伍すことができた。そのカギとなるような聖典は日本にあったのかということになる。

そもそも、1万年以上続いた縄文時代の土器芸術に象徴される古代日本人の芸術性が鍵となったのかも知れない。あるいは、現在も日本全国に存在する8万以上の神社が象徴するような民族の霊性が基盤になったのかも知れない。あるいは、聖徳太子以来の仏教の伝統が日本人の知的水準を高めていたのは間違いない。そして、日本書紀や古事記が日本人の精神性に与えた影響、万葉集が日本人の文化性に与えた影響は我々が思っているより大きかったかも知れない。


しかし、最も大きかったのはこの日本列島の風土的な恩恵と、海外からの侵略には合わなかったという歴史的な安定性が大きい。その中で縄文以来の霊性、精神性、文化性が発揮されたことになる。そして、ユニークな日本という国、日本人ができあがった。その象徴としての天皇家には意味があるが、もっと基本的には富士山や桜の花が日本のユニークさの象徴だということになる。あるいは、正月などを祝う風習自体が象徴だ。