聖書が優れているのは、神様が言葉で物質界を作ったことを明確にしている点です。
誰が、どのようにしてこの世を作ったのかは、人間として知っておくべき基本的常識です。そして、聖書は「神様が言葉で物質界を作った」と明確に記している。聖書の作者は霊感に従って、そう書いたものと考えられる。人間の心ではなく、霊がそう書かせたと考えられる。
誰が、どのようにしてこの世を作ったのかは、人間には関係ない、この世で人間が救われるにはどうすれば良いかを人間は考えるべきだ、という考え方もあるが、衣食住を満たされれば、誰が、どのようにしてこの世を作ったのかを考えるのが自然です。要するに最低限の文化生活ができるようになったとき、この世は誰がどのようにして作ったのかを考えるのが人間なのです。人間以外の動物には、この能力はない。
現在の文明の成果を踏まえて言えば、「物質界は霊界から、神様が霊的エネルギーとイメージ力と言葉で作った」と考えられる。さまざまな宗教も、概ねこの見解を支持するものになっている。
神様=>霊界=>霊的エネルギー/イメージ力/言葉=>物質界=>人間界、という流れで神様が人間界も生み出したと考えるべきです。そして、神様は人間の運命も支配している。だから、人間は願い事がかなうように神様に祈るのです。人間の祈りは、物質界を超え、精神を通して霊界に到達し、霊界の上にある神様の世界につながる、と人間は伝統的に考えて来た。宗教はこの考えに沿って生み出されて来たのです。
従って、今も物質界や人間界で霊的エネルギーは働いていると考えられる。このエネルギーを宇宙力と呼ぶ人もいるが、正体は霊界からの霊的エネルギーです。そのエネルギーとつながった人間が霊能力者や超能力者になる。イエス・キリストのように心霊治療もできるようになり、奇跡も起こせるようになる。空海のように天気も左右できる。
日本の空海のような優れた僧侶、安倍晴明などの神道系の行者も、修行を通して精神を鍛えて霊的エネルギーにつながったと考えられる。あるいは、生まれながらに霊的エネルギーとつながる心をもって生きている霊能者や超能力者もいる。欧米のキリスト教世界でも、信仰力を通して霊的エネルギーにつながり、霊能力や超能力を発揮した修道士、修道女、神父がいる。それを、聖霊に満たされたとキリスト教では言うが、ヨーロッパ文化の基本はキリスト教の霊性にある。
重要なことは、物質界は霊界から生まれたということです。物質より精神が優越するのは当然です。物質界の人間より、霊界の天使や聖霊が当然、力を持っているのです。霊界やあの世は、人間が考え出したものではなく、そこから宇宙、地球、人間界が生まれたのです。
つまり、霊的エネルギーにつながれば、人間は霊能力や超能力を発揮できる。ただし、どのような心を持てば良いのかは誰も明確にしていない。だから、修行をして精神を高めるか、生れつきの能力を持つか、臨死体験のような特殊な経験をして、精神が霊界につながるしかない。
しかし、イエス・キリストは弟子に、霊的能力を与えて世の中で伝道させたことは聖書に書かれている。つまり、弟子は神様とキリストへの信仰心で霊能力を得たことになる。ただし、今のキリスト教界はそのような霊能力を失いつつある。物質文明の影響です。カネの力に汚染されているからです。(カネは悪魔が姿を変えたものです。)
それでも、聖書には霊的な力がある。2千年前のイエス・キリストの言葉が示されているからです。だから、聖書を読んで神様とイエス・キリストを理解し、信じれば、誰でも霊界につながることでき、霊能力を発揮できるようになる。これが、本来のキリスト教です。今のローマ法王、神父、牧師などは霊能力がないので、世界を救えない。(日本の天皇家も霊能力を失っている。)
教会を否定することはできないが、聖書の威力が教会の基礎であることも忘れるべきではない。日本の仏教徒も神道の信者も、聖書を読んで霊界の本流につながるべきです。仏教や神道を通して霊界につながることもできるが、聖書の威力はこの2千年の世界の歴史で証明されている。
貧困、病気、人間関係、社会的問題などで苦しむ者は、聖書を読めば霊界とつながり、霊的エネルギーが使えるようになり、さまざまな問題を解決できるようになる。だから、キリスト教の過去の修道士や神父は貧困、病気、人間関係、社会的問題などを霊能力で解決し、キリスト教を伝道することができたのです。
だから、清貧主義に生き、聖書を読むことが人間の救いになるのです・・・
(ただし、霊界には悪魔もいるので、宗教の保護のない人間が霊界とつながるのは危険な場合がある。聖書は、イエス・キリストと悪魔の戦いの記録でもある。)