聖書では、「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい。 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう』」と記されている。
医学博士の塩谷信男は、「想念を使って世界平和を祈れば、平和は実現する」と述べている。
工学博士の政木和三は、「神仏は人の願いは一切聞かないが、過去形で祈り、その後、願ったことを忘れるようにすれば、願いは実現する」と述べている。
これは、想念の重要性を意味している。想念は、心から潜在意識に通じる心の働きです。そして、想念は言葉によって具体化される。これな、言霊(ことだま)/言葉の重要性も意味する。潜在意識や言葉は霊界ともつながる。そういう意味で、心は神仏ともつながる。
そもそも、聖書によれば、この世界は神の言葉によってできていると記されている。神様は、想念によってこの世界をイメージし、言葉で具体的にこの世を作られたと考えられる。逆に、人間は言葉と想念で神様とつながることが出来るのです。つまり、正しいイメージを持ち、正しい言葉を使えば、人の思いは神様に達するのです。ただし、邪悪な思いや言葉は、悪魔や地獄とつながる。霊界には、神や天使ばかりでなく、悪魔や悪霊がいる。
ただし、願ったことは「すでに実現した」と過去形で信じれば、神様への願いは実際に実現する、ということは少し説明が必要です。これは、霊界では願ったことは全て実現するからであり、霊界で実現したことは、この世でも実現するからです。従って、「霊界で願いが実現した」と考え、この世での欲を捨てれば、神様が霊界からこの世に影響力を及ぼしてくれるのに、何の支障も、抵抗もなくなるということです。人間の欲は、神様の働きの邪魔になるので、願ったことを忘れれば、人間の欲が霊界ではなくなり、霊界から人間界に神様の力が円滑に働くからです。ただし、人間の欲に基づく願いは、霊界でも実現しないので、「欲を捨てれば、願いは霊界で実現し、霊界から人間界にその効果が及ぶ」と考えるのが正しい。
そもそも、神仏に願いの実現を求める場合、人間の欲に基づいた願いは当然、受け入れられない。神様がこの世を作ったときの、神様の心、意志、想念に合った願いでなければならない。神様は愛と真実を実現するために、この世を作ったのであるから、愛と真実のない願いは神様が受け入れてくれるはずはないのです。
金持ちや富裕層の願いは、この世の欲に基づくことがほとんどです。だから、彼らの願いは神仏は取り上げない。しかし、貧しい者の願いは慾にまみれたものでないことが多い。貧しい者が求める、愛に基づく願いはかなえられる。だから、神様に願う場合は、まず自分が貧しくなければならない。
しかし、金持ちや富裕層は神様ではなく、悪魔に魂を売って悪魔の教えに従って、願いを実現しようとする。また、愛のない願いを「まじない」や呪術によって実現しようとする者もいる。これでは、逆に神様の怒りを買うことになる。悪魔の別名はカネであり、カネを求める者は悪魔を求めていることになる。だから、イエス・キリストは「金持ちは天国に入れない、地獄に行く」と述べておられる。
つまり、「カネが欲しい」という願いは、「死後、地獄に落としてくれ」という意味になるので、そんな願いは神様は取り上げない。仏陀も相手にしない。しかし、「貧しい人をお救い下さい、救われたと信じます」という願いは聞き入れられることがある。
想念、願い、祈りは、人間界の心から霊界に通じるが、それが、この世界を作られた神様の心、意図、想念に合わなければ神様に相手にされない。ましてや、人を呪い、傷付けようとして、呪術を用いても神様や天使、守護霊に阻止される。精神的、霊的な願いの基本は、神様の教えにあったものであるべきなのです。
だから、伝統的なキリスト教では魔術や超能力を警戒する。仏教でも、修行から霊能力や超能力を得ることには、厳しい条件が付けられている。神道でも、修行で得た霊能力を軽々しく使えないようになっており、さまざまな儀式や作法、祝詞が定められている。
それでも、貧しい人、弱き人、小さき者は、神様に救いを求めなければならないことが多い。そこで、イエス・キリストは、「貧しい人、弱き人、小さき者は死後、天国に入る」と宣言し、彼らに安心を与えているのです。
宗教人ではなかったが、心霊研究家でもあった塩谷や政木は、「想念」や「願い」の重要性を理解し、冒頭のような結論を出している。
いずれにしても、個人的な欲を捨てることが、神様への願いや祈りが実現するポイントです。「ホームレスや貧しい人をお救い下さい」と願い、自分も貧しい生活を送っていれば、願いは叶えられることになる。
特に、「世界に平和を実現して下さい」という祈りは聞き届けられる可能性が高い。塩谷の唱えた正心調息法も、自分の健康と共に、世界平和を願うことに意味がある。政木は、腐敗した人類は21世紀中に悲劇に見舞われ、世界の人口は百分の1になると予言している。もはや、自分の欲のための願いは神仏には相手になれない。せめて、自分たちの子孫のために「今世紀の悲劇後に、世界を再興させて下さい」祈れば、神仏は願いを聞き届けられるだろう・・・