2022年8月8日月曜日

死後の世界は、霊界の天国か地獄!

 

「人は死を恐れることはない」、というのが多くの研究者の結論です。なぜなら、人は死後、霊となって霊界で生き続けるからです。

それは、多くの臨死体験者によっても証言されています。人は生きている間は、魂の上の心が働いて自意識を持つ。死後は、魂は心を持ったまま肉体を離れ、霊となって霊界で生きるのです。

そもそも、この世の物質界は、霊界のエネルギーでビッグ・バンから宇宙が生まれたのが出発点です。つまり、この世の物質界ではなく、霊界が先に存在していたのです。そして、霊界から霊長類の人類の肉体に人間の霊が入ったことで、人間が生まれたのです。人間の霊の故郷はこの世の物質界ではなく、霊界なのです。死とは、この世の物質界から、故郷の霊界に戻ることなのです。

ただし、この世と霊界は簡単に行き来できるものではない。霊を持った人間も、この世で正しく生きることで、霊界に帰った時は、天国に入ることができるのです。しかし、この世でカネや富を得るために魂を悪魔に売った人間は、死後、霊界で地獄に落ちる。これが、全ての宗教の共通の教えなのです。なぜなら、神は完全な善だからです。この善から愛が生じるのです。

心と何か、人生とは何か、人間とは何か、この世とは何か、という問題の答えは霊界で与えられるのです。なぜなら、この世の物質界は、霊界から派生した下位の世界だからです。人間の心も、その基盤である魂を理解するには、霊界の霊の世界を知らなければ、正しい意味が理解できないのです。宗教も、この世で人間によって生み出されたものであり、その正しい意味は霊界で、天国と地獄を見て、初めて理解できるものなのです。この世で厳しい修行をしても、霊界で得られる真理と比べば、その悟りは影のような理解でしかないのです。

つまり、全ての宗教の上に、霊界とこの世を作られた「絶対の神」が存在するのです。霊界には、宗教ではなく、真理が存在するのです。ただし、この「絶対の神」に直接つなっがているのはキリスト教です。だから、本当のキリスト教徒は死を恐れることなく、死後は、霊界から天国に向かうのです。

仏教や神道も霊界の、多くの霊と結びついていますが、それが人間界では、その生活・文化・歴史の中でさまざまな形で表れていますが、その霊の本質は霊界で見なければ、完全には理解できないものです。それらの霊も「絶対の神」の下の霊的存在なのです。(仏教の無の世界、涅槃も「絶対の神」の下に存在する。)

全て存在するものは、霊でも人間でも、他の生物でも、無生物でも、その存在が許されるのはこの「絶対の神」が存在するからです。悪魔や悪霊、地獄ですら、「絶対の神」が存在するから存在するのです。

人間が死後、生きる霊界は、この世よりも広大で、複数なものであると考えられます。天国と地獄の間の霊界はさまざまな階層や、次元、領域があり、死後、霊となった人間は、もはや、この世に関わっている暇もないでしょう。霊界で真理を知るほど、この世の物質界や人間界は不完全なものであることが分かり、清浄な霊界から汚れた人間界に戻りたいと思う者は、ほとんどいないでしょう。澄んだ水を飲んだ人は、誰も泥水を飲みたいとは思わないようなものです。

ただし、この世に生きている間に、悪魔に魂を売った人間は、霊界でも地獄でしか生きられないようになる。悪と憎悪を好む人間は、自ら地獄に入り、やがて、神様によって消滅させられるのです。これが、本当の死です。つまり、この世の死後、霊界に入った後、人間の霊は天国で永遠の命を与えられるか、地獄でやがて消滅させられるかになるのです。本当の死、魂の消滅は、肉体の死後。霊界で生じるのです。ただし、地獄に落ちても、神様が救ってくれる場合もある、と言う教えも宗教にはあります。それでも、そのような霊は多くの悔い改めを求められる、とされています。

つまり、この世の人生にこだわり、幸福になるためにカネや富を求めて、悪魔に魂を売ってまでこの世の安楽・快楽・成功を求めてはならない、ということです。

霊界・天国の澄み切った世界から見れば、汚れ切ったドロだらけの人間界に戻りたいと思う霊はないでしょう。だから、死後もこの世に戻って来る霊はほとんどないのです。魂の生まれ変わりも、霊界で他人の霊から情報を得て、この世に生まれてくる霊もあり、簡単に生まれ変わりを信じることはできません。いずれにしても、霊界が主で、人間界は従なのです。

従って、この世の生にこだわったり、死を恐れる必要はないのです。死後、真理と幸福は霊界で与えられるのです・・・

そのためには、生きている間にカネや富を求めて、悪魔に魂を売らないことです。貧しく生きて、悪魔に魂を売らなければ、死後は、天国で永遠に幸福に生きれる、これが真理なのです。