「人間は、なぜこの世で苦しむのか」、という問題には、長い人類の歴史にわたって多くの人々が取り組んできた。そして、宗教活動が始まり、修行に入る者が現れ、神学や哲学などが研究された。しかし、世の中は変わらない・・・。むしろ、「この世は悪魔が支配しているので、人間が苦しむのは当然だ」と考えるのが正しい。
この世が天国であり、誰もが神様に愛されているのなら、苦しむはずはない。従って、この世は天国ではないし、誰もが神様に愛されているわけではない。しかし、現実にはカネがあれば、物質的に豊かな生活が送れ、苦しみの少ない生活ができると誰もが考える。
そこで、誰もがカネを求め、富を求め、そのために高い地位や、高い能力を得ようとする。結果として、貧者、弱者、無能力者を差別し、不合格とし、排斥する。そして、この世を地獄に近づける。つまり、誰もが苦しみの無い人生を求めて、その結果、この世を地獄に近づけるような生き方をする。その結果、ますます人は苦しむようになる。そこで、人々はもっと多くのカネ、富、地位、能力を求める。その結果、ますます世の中は地獄の度合いを深める。
特に、誰もが自分の利益を妨げる相手を憎むようになる。誰もが、この世の競争相手は愛さない。世の中は、自分の幸福を求める人が互いに、カネと富を奪い合う場になり、どこまでも互いの憎しみは増大する。これが、世の中の真実だということになる。つまり、人間がこの世で苦しむのは、互いに苦しめ合うという状況が存在し、そのような社会的な力が働いているからです。
ただし、表面的にはそのような憎しみは隠され、互いに他人に対する悪意は隠され、社会的なルールが作られて表面的には善人が称賛されるような雰囲気を作っているが、一皮むけば、冷酷な競争と傷つけあいの社会なのです。そのような互いの敵意を野放しにすれば、社会自体が成立せず、共通の利益が損なわれる。だから、そのような互いの敵意は隠され、世の中の競争も一定のルールの下におかれる。それでも、その本質は、他人を犠牲にしてでも、利己的な利益の追求するという世界なのです。これを、受け入れて適応する人間が、一人前の社会人だとされている。ただし、社会のルールや許容範囲の中であれば、「自分の夢を求めるのは当然だ」とされている(このこと自体が悪魔の囁きです)。勿論、このような社会的な建前では、人々の本音は解決されない。だから、さまざまな事件が起きる。
それに気づかない人は、見えない敵に苦しめられ、追い詰められ、あるいは、自分を責めるように仕向けられて破滅(自殺)させられる。これが、世の中の実態です。これを、見破ることを「悟り」だと称する人も多い。悟れば、自分の苦しみから解放されると信じる者も多い。このような人は仏教の教えに救いを求める。「所詮、人生では苦しみから逃れることはできない。せめて、自分の欲望を捨てて、競争と憎しみの世界から身を引くことだ」、との教えは、それなりに多くの人を納得させてきた。しかし、仏教も組織化され、教団組織が成立すれば、仏教世界でもこの世の悪の力が働くようになり、その教えは形骸化する。僧侶も名誉と富を求め、教義を手段に自分の幸福を求める。実際、今の世で、名僧、高僧と認められる人間で、ホームレスのような生活をする人間はいない。
他の宗教組織でも同様であり、特に新宗教では、宗教はカネ儲けの手段とされて、資産の豊富な宗教団体ほど信用され、尊敬されるという狂った状況が見られる。
つまり、「人間は、なぜこの世で苦しむのか」、という問題に対する答えは、「カネがないからだ」という悪魔の教えが、社会一般から宗教団体にまで及んでいる。
そして、それに対する解答は2千年前にイエス・キリストが与えている。「神様は金持ちを愛さない。神様は貧乏人を愛する」ということです。つまり、「金持ちは、死後、地獄に落ちるが、貧乏人は天国に受け入れられる」ということです。
言い換えれば、「悪魔に支配されたこの世では、問題は解決しない」が、「死後、霊界に入れば、この世で貧しい生活を送った人間は、天国に受け入れられて幸福に生きる」というのが、答えになる。この教えを信じれば、もはや、この世では苦しむことはなくなる、というのが本当のキリストの教えなのです。
難解な仏教の理論や、厳しい修行をすることはない。「悪魔に支配されたこの世では、問題は解決しないが、あの世では貧乏人は救われる」という単純な教えが解答なのです。