イエス・キリストは、人の悩みや、苦しみをよく知っていた。そして、次のような教えを述べている。
今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、あなたがたは、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い煩ってはならない。 (マタイによる福音書 6:30~31)
要するに、人間は神様が作られたものであり、神様に見守られていると信ぜよということです。
しかし、食べ物、衣服、住居などの物質的な問題に気を使って、人間は神様を忘れる。だから、人生で問題が生じればカネで問題を解決しようとする。そして、神様のことを忘れる。だから、食べ物、着るものなどにこだわってはならない、というのがイエス・キリストの教えです。
日本人でも困った時には神頼みをする。しかし、困る前から神様を信じていよ、というのがイエス・キリストの教えです。
食欲、物欲などは、人間の心を、神様から遠ざける。だから、食べ物、着るものなどにこだわってはならない、というのがイエス・キリストの教えです。
より旨い食べ物や、より格好の良い衣服を求めさせるのは、商業主義、カネもうけ主義であり、人間を堕落・腐敗させるものです。神様の与える食べ物や衣服で満足せよということです。
しかし、商業主義、カネもうけ主義の世の中では、人にカネを使わせようとして、人の欲望を刺激する。富裕層やその生活に憧れさせ、魂を悪魔に売ってでもカネを求めさせるのは悪魔であり、商業主義、カネもうけ主義の世の中の頂点には悪魔がいる。
要するに物欲を絶つことが、人間の修行と信仰の第一歩です。日本でも、伝統的に清貧の生活が重んじられ来た。日本の精神的伝統は、イエス・キリストの教えに近いのです。
1990年頃に株価が最高値をつけた後、日本は30年の経済不振に陥った。それは、当時のバブル経済で物欲を拡大させ、経済犯罪に走るものが出て来たので、神様が日本経済を抑えにかかったと考えられる。しかし、この30年の間に、リストラ、自殺、オレオレ犯罪、インチキ宗教が生じ、日本人もそれなりに反省し、神様は、もはや日本経済をこれ以上抑える意味がなくなったと、判断されているかも知れない。
政府も消費中心の体制に移るべきことを理解するようになったよ思われる。企業の内部留保を高めるのは、経済政策の目的ではないことが分かったのだろう。とにかく、国民の消費力を高めれば経済はすぐに好転し。少子化問題も解決する。ただし、物欲の消費ではなく、信仰と修行心の裏付けのある消費であるべきです。清貧生活を基礎とする消費であるべきです。
神様を信じて清貧生活をすれば、衣食住は足りるのです。カネのことで思い煩う必要はないのです。