マタイの福音書によれば、「マタイ5:3 こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」とされている。
これが、単純に「貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」とされなかったのはなぜか、ということはこれまで専門家にたちによって多く議論されている。
答えは、その言葉の後段にある。
「5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
このイエス・キリストの言葉の趣旨は、貧しき者、正しき者、愛のある者、イエスに従う者、信仰心のある者は、この世で苦しめられても、死後、天国では幸福を与えられるということです。
逆に、富裕層、エリート、信仰心のない者は、天国に入れない、ということです。富裕層、エリートは通常、高度の教育を受け、豊かな経験を積み、高い教養を持っている。また、信仰心のない者は、信仰の代わりに世の中の知恵、生きるための悪知恵で相当豊かな精神能力を持っている。彼らは、「こころの貧しい人たち」ではない。しかし、物質的に貧しければ、高度の教育を受けられず、豊かな経験も積めず、「こころの貧しい人たち」になる。従って、「物質的に貧しい人たち」は、「こころの貧しい人たち」でもある。だから、わざわざ「こころの貧しい人たち」とせず、単に「貧しい人たち」でよいことになる。
しかし、教会の幹部、特に、バチカンのローマ法王や枢機卿は、誰が見ても豊かな人たちです。しかし、聖書に単に「貧しい人たち」と聖書に書かれていれば、彼らも富を捨てて、貧民の仲間にならなければならない。しかし、やや意味が曖昧な「こころの貧しい人たち」なら、物質的に豊かな彼らも信仰心があるので(これは、誰にも証明できないが、否定もできない)、天国に入れてもらえると主張できることになる。つまり、教会の幹部が富裕層であることの正当化のために、聖書の編集の際に「こころの貧しい人たち」という表現を採用したと考えられるのです。
2千年前の貧乏人にイエス・キリストが教えを述べたとき、意味が曖昧な「こころの貧しい人たち」という表現ではなく、単に「貧しい人たち」という表現を使ったと考えるのが自然です。
イエス・キリストは、貧乏人の味方だった、というのが聖書の理解の基本です。曖昧な表現の「こころの貧しい人」の味方ではなく、単純に「物質的に貧しい人」の見方ですが、「物質的に貧しい人」とは、「こころの貧しい人」でもあります。従って、「こころの貧しい人」と言っても、意味は変わらない。ただし、富裕層の中にも「こころの貧しい人」はいるかも知れない。富裕層だが「欲心のない人」などです。そのような人は、富を捨てて貧乏人になる。つまり、彼らも究極的には単純な貧乏人になる。
結論を言えば、「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」は「物質的に貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と考えるべきです。
こういう議論が生じるから、悪魔は教会に入り込んで、信徒を惑わすと言われるのです。バチカンにも、悪魔が入り込んだと思われる事件が過去に何度もあった。いまだに、ローマ法王が、「イエス・キリストは金持ちではなく、貧乏人を愛した」と宣言し、人々に富を捨てるように勧告しないことからも、悪魔の影響が見て取れるのです。
イエス・キリストは、貧乏人の味方であり、神様も金持ちではなく、貧乏人を愛されるのです。これが、聖書の精神です。