世界が認める宗教、即ち、キリスト教や仏教、神道などの伝統的な宗教の正式なメンバー(洗礼を受けた教会員、仏教の各派の檀家、神道の氏子など)は、国民の30%しかいない。
しかし、初詣などで神社仏閣に参る人、クリスマスなどでは教会の催しなどに参加する人は、国民の70%もいる。
若者の間でも、スピリチュアリズムや霊などを信じる人も多い。家族の老人が臨終、死の前に、「先祖の霊がお迎えに来た」と言っていたという家族も多い。
結論を言えば、日本人には、既成の宗教の範疇には入らない独特の死生観がある。基本は祖先崇拝です。死後も祖先の魂は霊界で生きているという考えが基本になっている。この縄文的な死生観の上に、神道、儒教、仏教、キリスト教が乗っかている。また、新興宗教や娯楽的なスピリチュアリズムが受け入れられるのも、そういう伝統があるからです。
ただし、現代社会は死をタブー化している。死というものを考えないように教育が行われている。現代医学にとって、死は医学の敗北を意味する。死人は、もはや社会の経済活動に参加しない。企業なども、高齢者には、死がないかのようにカネを使ってもらわなければならないから、死には背を向ける。そして、死人はさっさと処分される。企業社会では、死など考えずにカネを使うのが好ましい消費者だということになる。だから、政府も、人生の最後に気持ちよく死んでもらうための医療を提供すべき、という考えは持たない。死者とは、経済活動を行う生者の階級からすべり落ちた敗北者だとみなされている。
また、高齢化社会では葬儀ビジネスなども賑わう。資産を保有するのは、富裕増の老人です。老人は必ず死ぬ。そのカネを狙って活動するオレオレ詐欺や葬祭ビジネスは廃れることがない。
人間の細胞は最長でも120年で死ぬ。100歳まで生きる老人は、日本でも何万人もいるが、120歳を超えて生きる人間は世界にも、ほとんどいない。しかし、死を考えて、その恐怖から狂う人間もほとんどいない。結局、人間は、死は自然なことだと受け入れる。そして、生きている間に「死など忘れて、たった一度の人生を楽しもう」という考え方に落ち着く。しかし、これほど間違った考え方はない。
このような死に対する態度では、「たった一度の人生だから、どんなに悪いことをしてでも楽しめ」という悪魔の教えに洗脳されることになる。あるいは、「誰でも死ねば、その魂は霊界で幸福に生きるのだから、死を気にすることはない」、というインチキ霊能者の言葉に洗脳される。
実際、死については、キリスト教界も仏教界も曖昧なことしか言わない。宗教自体が経済主体の社会体制に組み込まれているからであり、宗教者にも正しい信仰がなく、死後の世界について確信が持てないからです。それでも、「死に不安な人は、うちの宗教にすがれば不安がなくなります」というのが、現代宗教です。
なお、欧米文明の基礎となったイエス・キリストは「死後の世界は当然、存在する。ただし、金持ちは天国には入れない」と教えている。貧乏人の魂は、死後、天国に入り、金持ちの魂は、死後、地獄に行く。この教えは、現代のキリスト教界でもほとんど無視されています。富を求める人間ばかりの社会では、その社会の宗教もこのような教えは無視する。
死の問題とは、まさに、このイエス・キリストの教えを信じるかどうか、ということです。「死んで天国に入れない人生は無である」というのが、本当の宗教の教えです。