その場合、「自分も世界も偶然、存在している」と考えるしかない。ましてや、「死後の世界など分かるわけがない」、と考えている。それなら、「この世で生きている間に、手段を選ばず幸福に生きよう」ということになる。こういう人間の背後には悪魔がいる、というのが正しい宗教の教えです。
人間は、「自分の力で存在するようになったのではない」、と考えれば、神様が人間を存在させるようになったと考えるしかない。全く偶然に、この大宇宙で人間が生まれてくる可能性は、ほとんどゼロです。それほど多くの複雑な自然条件が重なって、この地球で人類が生じたのです。しかし、人間の心は、単にその自然の延長にあるわけではない。「この自然の宇宙の外側の霊界から、物理的な自然の体内に霊魂が入り、心が生じた」と考えるしかない。
心が単に自然の延長であれば、人間には神様を考える力など不要なのです。人間は偶然に生じ、自然に死んで行くものであれば、人間は死など恐れず、あるいは、死など理解できずに、何も考えずに動物のように死を迎えるはずです。そうであるなら、宗教など生まれるはずがないのです。
この世に宗教が存在し、霊魂の存在を信じる人間が多くいること自体が、人間が単に自然の物理的な存在ではなく、目に見えない霊界とつながる存在であることを示しているのです。もし霊界は存在せず、何故か分からないが偶然に存在するこの世に、偶然存在するのが人間であれば、人間が宗教を生み出したり、精神的な悟りを求めたり、神様を崇めたりするようになる必要はないのです。自然の向こうに神様の力を感じることはないはずです。しかし、「人間の心は、霊界と結びついた霊魂から生じたものである」と考えれば、人間が霊界の主である神様を崇めるのは理解できるのです。
「この世の向こうに霊界があり、人間の心は霊界から生じた霊魂の働きによるものである」と考えれば、「肉体が死んでも、霊魂は死なない」ということが理解できます。昔から「霊魂の不滅」と言われますが、まさに、この言葉は「霊魂は、この世では死なない」ということを意味しているのです。「この世で肉体が死んだ後、死者の霊魂は霊界に帰る」、という真理に基づいてキリスト教や仏教は打ち建てられたのです。
そもそも、人間が自然から偶然生まれたものであれば、人類はさまざまな武器を作り出して他の動物を征服したときに、それ以上進化する必要がなくなり、その後の精神文化を生み出す必要もなかったのです。百獣の王となった人類は、その段階で進化も、文明の発展も止まってしまったはずです。しかし、その後も精神文化を発展させ、宗教を生み出してきたこと自体が、「人間の本質である霊魂はこの世の自然界から生じたものではなく、霊界からきたものである」ことを示しているのです。
従って、霊魂に重きを置く、心霊主義やスピリチュアリズム、それを売り物にする新宗教が人々にアピールするのも理解できます。しかし、キリスト教や仏教、神道も本来、霊的な意味をもっていたのです。伝統的な宗教も、この世に生きる人間を、その霊魂と霊界と結びつけることで、人間の存在を本来の姿に戻し、霊界を正しく認識させることで、間違った死生観、世界観から救おうという働きをもっていたのです。ただし、現在のキリスト教も仏教も、霊的問題を軽んじる傾向にあります。
霊能力を持った人間もいますが、その能力に思い上がって、自分が神だと主張する場合もあります。心霊界の悪霊や悪魔は、霊能力者の心に入り込んで、狂わそうとします。自分の守護霊は仏陀やキリストだと主張する霊能力者には要注意です。霊能力者が「自分は神だ、あなたも神になれる」などと言い出すのは危険な兆候です。
確かに死後の世界、霊界は存在しますが、霊界には「悪魔や悪霊」も存在します。神様が人間を守ろうとしないなら、人間は悪魔や悪霊に滅ぼされれることになります。まず、聖書や仏典を読んで、正統の教えを学び、その後、霊性を高めるべきなのです。そして、霊界を認めるということは、神様の存在を認めることなのです。
「たった一度の人生だから、どんなに悪い事をしてでも」などとと考えるのではなく、「死後には、あの世や霊界があるのだから」と考えて、神様の教えに従うことが正しい生き方なのです。