死後は存在する。なぜなら、この物質界、この世が存在しているからであり、人間の心が存在しているからです。
物質エネルギーも心のエネルギーも、それ自身からそのものを生み出すことはできない。物質(原子・素粒子・光)を生み出す物質エネルギー(空間、時間)を生み出し、心のエネルギー(精神・魂)を生み出す「源(エネルギー)」が存在しなければなならい。
物質も心も宇宙の中で生まれている。宇宙は微小な範囲で巨大な物質エネルギーが爆発してできたとされている。しかし、そもそも宇宙(物質エネルギーと物質)が存在する前には、物質エネルギー(空間、時間)は存在しない。また、物質エネルギーや物質(原子・素粒子・光)から心が生じることも考えられない。つまり、霊的なエネルギーから、物質のエネルギーと人間の心が生じたと考えるしかない。
即ち、物質界(この世)が存在し、人間の心が存在することは、霊的なエネルギーの存在を示している。霊的なエネルギーは霊界のエネルギーであり、霊界とは人間にとっては死後の世界を意味する。だから、物質界(この世)と人間の心が存在するということは、霊界(あの世)が存在することを意味する。
「霊的エネルギー」=>「宇宙(物質エネルギー)の発生」と「人間の心(精神/意識)の発生」
つまり、「霊界」=>「物質界(宇宙)」+「精神世界(人間の心)」
霊的エネルギーは当然、霊界に存在する。霊界の霊的エネルギーから、物質エネルギーと、人の精神エネルギーが生じたことになる。宇宙は霊界から生じたと言える。人の肉体は物質エネルギーが物質化したものだが、人の精神エネルギーは霊的エネルギーそのものであり、肉体に束縛されているが、霊界とつながっている。肉体(物質)が死ねば、心(精神エネルギー)は肉体を離れて霊界に移行すると考えられる。なぜなら、心(精神エネルギー)は霊的エネルギーが本質であり、霊界に存在することができるからです。
だから、霊界の神仏への信仰心があれば、人間の心は霊界につながり、物質エネルギーに優先する霊的エネルギーを使うことが出来、物質界で、即ち、この世で、物理法則を超えた奇跡を起こすことができる。だから、精神的修行を積んだ密教僧や祈禱師、キリスト教の聖者などは、霊界のエネルギーを使って、霊界の天使や守護霊と交信することができ、奇跡も起こすことができる。或いは、生れつき心が霊的エネルギーにつながっている人間も、霊的エネルギーを使って超能力現象を起こすことができる。この世の物質界は、本来、霊的エネルギーから生まれているから、霊的エネルギーを使えれば、物質界で奇跡を起こすことができるのです。霊的エネルギーは、物質的エネルギーに優先するのです。
つまり、人間の心は、物質界のエネルギーから生まれたものではなく、霊界のエネルギーから生まれたものであり、肉体(物質)が亡びれば、即ち、死ねば、霊界に入ると考えられる。肉体の束縛を離れた死者の精神・心・魂は、死後に霊界で生きることになる。だから、全ての宗教は、死後の世界を存在するものとして教えを与えている。
ただし、このような真実を認めない人間は、「人間の肉体の死後は、心も消滅する」と主張する。「死後は無だ」と主張する有名人も多い。しかし、まともな宗教人は死後の世界や霊界の存在を信じている。
この点、イエス・キリストは聖書で明確に「あの世は存在し、死後は人間は天国か地獄に行く」と述べている。人類の過去2千年間の文明の基礎となったキリスト教は、死後の世界を信じる宗教なのです。イエス・キリストの教えが正しいことは、過去2千年間、キリスト教が消滅しなかったことが証明している。現在の人類の文化は、キリスト教を事実上の国教とする欧米の文化が主流です。だから、アメリカ人の80%は、死後の世界を信じており、イギリスも心霊主義が盛んです。バチカンも当然、天国と地獄の存在を信じている。
日本人は3割程度しか、死後の世界を信じていない。仏教や神道を本気で信じている人間は少ない。むしろ、カネの力を信じ、この世のことだけを考え、死後のことは考えないようにしている。これは、悪魔の洗脳です。死後はないから、この世で手段を選ばずカネを稼げ、ということになる。つまり、悪魔に魂を売ってカネを稼げと言うことになる。
逆に、死後の存在を信じることで、悪魔による洗脳を回避することができるのです。ただし、霊界には悪魔がいて、間違った霊界のイメージを人々にもたせようとする。この世でエリートや金持ちになっても、死後は天国に入れると悪魔は人々を洗脳する。一部の宗教団体は、悪魔に洗脳された人間が支配している。キリスト教の裏付けのない心霊主義も信用できない。霊界とこの世の創造主は、イエス・キリストの神なのです。
聖書によれば、悪魔に洗脳された人間は死後、地獄に落ちる。宗教者であっても、エリートや富裕層は死後、地獄に落ちる。死後の存在を信じることが、まさに、救いの第一歩なのです。