22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。(コリントの信徒への手紙一 第 1 章)
22 Jews demand signs and Greeks look for wisdom, 23 but we preach Christ crucified: a stumbling block to Jews and foolishness to Gentiles, 24 but to those whom God has called, both Jews and Greeks, Christ the power of God and the wisdom of God. 25 For the foolishness of God is wiser than human wisdom, and the weakness of God is stronger than human strength.
26 Brothers and sisters, think of what you were when you were called. Not many of you were wise by human standards; not many were influential; not many were of noble birth. 27 But God chose the foolish things of the world to shame the wise; God chose the weak things of the world to shame the strong. 28 God chose the lowly things of this world and the despised things—and the things that are not—to nullify the things that are, 29 so that no one may boast before him.
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この「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という言葉も印象的です。神様を信じて愚かに見える人間の愚かさは、自分の知恵に頼って賢く振舞う人間の賢さよりも優れており、神様を信じて弱く見えるよになった人間の弱さは、自分の力に頼って強く見える人間の強さより強いということです。
そして、人間の真実の賢さや強さは神様から来るものであるというのが、この教えなのです。神様の知恵や力の前では、人間の知恵や力は取るに足りないものだ、ということを教えているのです。
また、それは「神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選」んだと述べている。つまり、神様の前で人間の賢さや、人間の強さを誇ることがないようにするためです。
神様と人間の間には比較にならない巨大な差がある。それは、富士山と近所の公園の砂山以上の差がある。そして、信仰の力があれば、そのような神様の真実の知恵と力に近づくことができる。
今の世の中で言えば、世界一だと評価されるノーベル賞受賞者よりも賢く、世界一の権力者だと認められアメリカ大統領よりも力があるのが、神様であり、その知恵や力に与るのがイエス・キリストの信仰者なのです。
また、「有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれた」というのが、信仰者の判断なのです。
仏教でも王族出身のブッダやその信徒は、乞食をして人々より愚かで弱い者として、人々から食を恵んでもらう生き方をした。この伝統で、今も仏教の僧侶は、建前上はお布施で生きるようになっている。しかし、権力と結びついた高僧などは、権力者から多くの富を得たり、生活を保障されて生きるようになり、仏教は堕落したと言われる。現在のキリスト教も信者から多額の寄付を得て、大きな資産を持つ教会もあり、カトリックのバチカンなどは、かつてのローマ皇帝のような豪華な衣装を着ており、また、ヴァチカンの資産も巨額だとされている。
人間世界でどんなに賢者だといわれても、神様の知恵と比べれば、赤子のようなものであり、人間世界で最強だと言われても、神様の前では赤子のような力しかないということを人間に思い知らさせるのが神様の意志だということになる。要するに、赤ん坊が親を敬うように、人間は神様を敬う必要があるのです。
この世も、死後の霊界も神様が作ったものであり、人間界の知恵も力も神様が人間に与えたものであり、人間は神様の前で己の存在の限界を思い知らねばならない、というこです。
むしろ、この世は、神様がその知恵と力を表すために作られたものであり、その道具として使われているのが人間なのです。この世でも霊界でも主人公は神様であり、人間や悪魔などは取るに足りない端役なのです。
だから、信者はその偉大な神様を褒め称えざるを得ない。仏教で言えば、自分の我を捨て去って法に従い、他力本願で生きよということになる。キリスト教でも、「全ては神様の思し召しのままに」と祈る。万物の創造主の全知全能、かつ、全善の神様の知恵と力と善を信じるのが、信者の義務だということになる。
だから、神様から知恵と力を善を与えられた信徒が、ノーベル賞を取り、オリンピックで金賞を取り、聖者だと崇められてもおかしくない。しかし、そのような信者は、この世的には貧しく、弱い、愚かな者だとして人々の前に現れる。信仰心のない愚かな人間は、そのような人間の聖性を認めることができず、軽蔑し、軽んじる。しかし、やがて真実の力が現れて、その愚者や弱者だと思われていた人間が、本当はこの世の王者だっというのが、聖書のイエス・キリストの物語りなのです。
実際、当時世界最強のローマ帝国の皇帝が、キリスト教を信じ、ローマ兵が十字架上で殺害したイエス・キリストの前にひれふすようになるのです。最強のローマ帝国の片隅でローマ兵に殺された無名のイエス・キリストを、ローマ帝国の皇帝が崇めるようになったのが、歴史的事実なのです。また、乞食のような姿で伝道をしていたブッダを、インドの皇帝や中国の皇帝、日本の皇室が崇めるようになったのが東アジアの歴史なのです。
今でも、ローマ法王はローマ皇帝のような衣装を着て、ある意味では皇帝のように振舞っている。そして、十字架上の罪人の姿をした弱々しいイエス・キリストの像の前にひざまずいている。世界一の宗教団体であり、世界最強のアメリカの事実上の国教のキリスト教のトップであるローマ法王が、十字架上の罪人のみすぼらしいイエス・キリストの像を崇めている。これは、乞食の姿をしたブッダの像を日本の大僧正が崇める以上に、衝撃的な姿なのです。
この世の、知恵も富も、善も、神様の知恵と力と善に比べれば、無と同然なのです。これを信じるのが、霊的なキリスト教なのです。