2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。
6 聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう。
7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。 (マタイによる福音書 第 7 章)
7 “Do not judge, or you too will be judged. 2 For in the same way you judge others, you will be judged, and with the measure you use, it will be measured to you.
3 “Why do you look at the speck of sawdust in your brother’s eye and pay no attention to the plank in your own eye? 4 How can you say to your brother, ‘Let me take the speck out of your eye,’ when all the time there is a plank in your own eye? 5 You hypocrite, first take the plank out of your own eye, and then you will see clearly to remove the speck from your brother’s eye.
6 “Do not give dogs what is sacred; do not throw your pearls to pigs. If you do, they may trample them under their feet, and turn and tear you to pieces.
7 “Ask and it will be given to you; seek and you will find; knock and the door will be opened to you. 8 For everyone who asks receives; the one who seeks finds; and to the one who knocks, the door will be opened.
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これは、イエス・キリストによる教えの中でも、基本となる印象的な言葉です。
しかし、「人をさばくな。自分がさばかれないためである」という簡単な教えすら、守って生きているキリスト教徒はほとんどいないのが現状です。実際、現代社会で裁判制度を支持しないキリスト教徒はいない。
法律的な問題でなくても、人間には、必ず自分の思いが叶わないことがある。そして、その阻害要因が他人にあると判断すれば、その他人を恨み、できれば復讐しようとする。そして、復讐された側は、それを恨みに思い、逆に復讐しようとする。逆襲された側は、再度、相手を攻撃する。この復讐の連鎖はどこまでも続く。この復讐劇の出発点は、最初に「人をさばいた」ことにある。だから、イエスは「人を裁くな」と仰ったのです。
特に、悪魔は、人間に間違った判断をさせ、無実の人間を攻撃させることを好む。そして、人間社会を混乱させようとしているから、それを避けるために、軽々しく人を裁くな、ということも意味する。
また、兄弟に非があると判断すれば、兄弟げんかが始まる。たいていは、兄弟の過ちを過大に評価し、責任を兄弟になすりつける。しかし、公平に見れば、兄弟の非は目の中の「ちりやほこり」程度のものであり、自分の方には建物の大きな「はり」ほどの責任があることも多い。だから、「塵や埃」よりも大きな「梁」を見よと教えておられる。つまり、兄弟を責めてはならない、ということです。
「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな」というのは、動物と人間の霊格の違いを明らかにしている。本能に従って生きる動物には善悪の区別はない。また、清濁の区別もない。さらに、聖邪の区別もない。ただ、暴力的な力と食欲の大きさだけが理解できる。従って、動物の霊格は決して人間の上にはならない。特に家畜やペットは。人間によって思い通りに飼いならされるが、飼い主を道徳的に判断することもできない。
そのような、動物に「聖なるもの」を与えても無意味だし、「真珠」のような宝物を与えても感謝しない。また、人間には心が腐敗・堕落し、動物なみの心を持っ者もいる。そのような状態の人間に、聖なるものを与えたり、宝物を与えるのは無駄であり、また、時には有害となる。だから、「犬」や「豚」なみの心しかない人間には、宗教的な教えが分かったり。経済的な本当の価値が理解できると思ってはならない、ということです。
むしろ、逆に「犬」や「豚」は、「それらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう」と述べて、恩を仇で返すようなことをする、と教えておられる。つまり、「犬」や「豚」の心に悪霊が入り込み、心を許した人間を攻撃する。だから、信仰心のない人間には聖なる話や、救いの言葉をかけてはいけない、という教えになる。そのような動物並みの心しかない人間は警戒せよということです。自然に生きる動物は、聖なるものや人間の宝物には無関心だが、人間の世界に入り込んだ家畜やペットは、むしろ、自然の中にはない人間の宗教や宝物に反感を持つ、ということであり、悪魔に魂を売った人間は聖なるものには反感をもつということです。ただし、これは動物虐待のような取り扱いを認めるものではない。自然を愛する人間の心は、動物にも向けられるべきです。それでも、イエスや弟子たちが、動物のペットを持っていなかったことを忘れてはならない。
つまり、不信仰者を扱うには、専門の宗教的訓練を受けた聖職者が必要になる。「犬使い」や「豚使い」のような専門家が必要です。これは、教育を受ける子供たちには、専門の教師が必要なことに通じる。また、根っからの悪人を扱うには、専門の取締官が必要になる。要するに、人間を軽々しく扱ってはならないのです。子供を育てることの重要さは、この問題に関係する。
しかし、イエスの教えは、人々に希望を与えるものであり、人生訓のような忠告のあとに、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」と述べて、信仰者が神様に願えば、願えごとは叶うと教えておられる。また、「門をたたけ、そうすれば、あけてもらえる」と、信仰者は積極的に生きていくべきことを教えておられる。
「求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえる」というのは、信仰者だけでなく。全ての人間の共通の運命なのです。つまり、人間は心をこめて求めれば、それに世の中がこたえるようにできているのです。人間の意欲、想念のもつ力は大きいのです。ただし、信仰心がなければ、与えらえたことも理解できないし、門を開けてもらったことにも気が付かないことがある。
「求める」エネルギーや「探す」エネルギーは、周辺の状況に働きかけ、それに対応するように環境が変わるのです。そもそも、子供が食事を求めるのを無視するような親はいない。学生が志望して入学してくれば、それにこたえるのが学校です。また、仕事を求めて入社してきた人間には、仕事を与えるのが会社なのです。一人の人間の精神的エネルギーは、この世や霊界を動かすほどの力を持つのです。その例が、世界宗教を打ち立てたイエス・キリストの心なのです。
また、人間が、この世で信仰心に従って、生きようという意欲を見せれば、それに応えるのが神様、聖霊、天使なのです。
このイエス・キリストの前半の教えや忠告に従う信者には、後半の希望の言葉が与えられるのです。
ただし、悪の世界も同様です。悪事を愛する者には、悪魔が扉を開いてくれる。善や愛を憎むものには、腐敗や堕落への道が開き、地獄への道が開くのです。悪魔も大きな想念を持っている。これは、警戒すべきです。ただし、天使の力の前には悪魔は無力です。
要するに、天国を愛する者には、天国への道が開かれ、地獄を愛する者には、地獄への道が開かれるのです。この世は、天国を願う者と地獄を好む者が混在する世界なのです。ただし、死後は両者の世界は明確に分かれ、合い交わることはない。神様は、悪魔と同じところにはおられないのです。