神様の存在を信じない人間でも、自分の存在は信じる。
しかし、ウイルスも人間の細胞の存在は信じていても、人間そのものは理解できず、人間が存在するとは信じていないかも知れない。自分の存在は信じても、神様を理解できず、神様の存在を信じられない人間は、人間の細胞中に寄生するウイルスのようなものかも知れない。
存在するものには、必ずその源がある。この宇宙に存在する全てのものには、その源がある。源もなく、理由もなく、この精妙な大宇宙と人間とその精神が偶然に、無目的的に存在する確率はゼロです。あるいは、永遠の無限の試行の果てに存在するようになる。ということは、この精妙な大宇宙と人間とその精神が偶然に、無目的的に存在することは、現実に生じない。今でも、又は、いつでもその無限の試行は完了していないはずだからです。
神様ではなく、ランダムな、無秩序的なメカニズムがこの精妙な大宇宙と人間とその精神を作ったのなら、大宇宙と人間やその精神には精妙な秩序ではなく、ランダム性、無秩序性がその本質に含まれるはずだが、大宇宙や自然、人間とその精神には、法則性、秩序と、倫理性がそれらの本質として含まれる。例えば、多くの数学の定理が成立するように、この宇宙と人間の精神は作られている。要するに、神様がそのように精妙に大宇宙と人間精神を作られたと考えるのが適切であり、正しい。
人間と言うちっぽけな存在でも、存在するくらいだから、神様と言う偉大な存在は当然存在すると考えるのが、正しい考え方です。ちっぽけな犬や猫と言うペットが存在するくらいだから、もっと偉大な飼い主という人間は当然存在するのです。
さて、万物の創造主の神様の存在を信じたからと言って、「自分と神様の間に何の関係がある? 神様なんか関係ない!」と考えたがる人間もいる。「神様が存在しても、人間を救ってくれるわけでもない。自分の人生と神様は何の関係もない!」と考えたがる人間もいる。
しかし、生まれつき神様を信じ、神様を尊敬し、神様に従おうと言う人間もいる。あるいは、人生経験を積んで、やっぱり神様を信じるのが正しいと考える人間もいる。もしくは、死後の世界のことを考えて、自分の魂を死後、天国で生かしてくれるのは神様だと気が付いて、神様を信仰する者もいる。
救世主と言われるイエス・キリストは、「神様を信じ、私の教えを信じる者の魂は、死後、天国で永遠の命を得る」と言っておられる。
つまり、魂の存在、死後の世界と霊界や天国の存在、永遠の命を信じる者は、「その魂は、死後、天国で永遠の命を得る」ということになる。
ただし、条件がある。「金持ちであってはならない、貧乏人であるべき」なのです。なぜなら、金持ちになろうとする人間、又は、金持ちである人間は、必ず、悪魔に魂を売り、神様を裏切るからです。カネは悪魔の化身です。
神様を信じ、貧しく生きることが、死後、天国で永遠の命を得る条件なのです。従って、信仰心のある貧しい人間は、ソクラテスやプラトンが言うように、死を恐れる必要はないのです。これが、神様の子と言われる救世主イエス・キリストの教えです。
なお、ブッダは万物の創造主である神様の存在を認めなかったので、死後の天国での永遠の命という考えは持たなかった。精神を超高度化すれば、全ての肉体的かつ精神的な苦しみから解放され、死後の天国など考える必要がないというのが仏教の本来の考えです。
神様を信じないのは自由であり、ブッダの教えを信じるのも自由であり、神様やイエス・キリストを信じるのも自由です。しかし、自分が悪魔に苦しめられていると考える人は、死後は天国で救われたいと考えるのが自然です・・・