死後も人の魂は、霊界で生きる。これが、日本人の伝統的な死生観です。縄文時代以降の死生観です。
そこに仏教が導入され、浄土思想(天国/地獄思想)が根付いたのです。しかし、明治維新以降の近代化によって、この死生観が曖昧になり、宗教は形骸化し、日本人の死生観も曖昧になりました。そして、「たった一度の人生だから、何をしてもいいんだ」と言う悪魔の思想がはびこるようになったのです。
医療や終末期のケアーの現場でも、「死んだらどうなるのか?」という不安に襲われる人間も多い。「死ねば、自分の意識は完全に消滅し、無しかない」と考え、恐怖に襲われる人もいます。終末期の人間を見舞う宗教人も、曖昧な答えしかできない場合が多い。そして、死者はモノのように扱われる例も多い。それでも、無宗教者が多数だと言われる日本人でも、年末年始などでは神社仏閣に詣でる人は70%を超える。表面的には、死後の魂の存続には不安を持ちながらも、縄文時代以来の魂の不滅性を信じる心が、まだ日本人には残っている。
科学的・論理的に考えれば、万物の創造主の神の存在は否定できない。キリスト教や仏教などの伝統的な正統宗教では、魂の存在とその死後の存続の上に教義が成立している。しかし、キリスト教ですら死後の世界については特に強調しない。信じる者は天国に行けるという教義を、おとぎ話のように語るだけです。あるいは、曖昧なあの世での成仏を、誰も理解できない漢文の経典を読んで、有難がらせ、位牌を拝むだけです。
そこに、スピリチュアリズムが世に受け入れられる土壌が出来上がった。わけの分からない霊能力を信徒にアピールする新興宗教や、霊視や生まれ変わり説で人々の興味を引き付ける霊能力者がテレビなどで人気を博する。しかし、彼らが文化の主流になることはない。オカルトの世界、霊能力という特殊な世界だとみなされ、むしろ、潜在的に危険な勢力だとみなされている。世界的にも、死後の世界を盲信して自爆テロを行うイスラム急進派などのテロ、韓国でしばしば発生する新興宗教の大規模詐欺、欧米の白人優先思想を裏付ける歪んだキリスト教の一派など宗教、スピリチュアリズムに対する警戒感も強い。
それでも、死にゆく人々の魂の平安を願うのが人間的な行為です。「死んでも、魂は天国で生きるよ」と、臨死の老人、病人などを納得させれば、彼らは安らかな死を迎えることができる。問題は、そのような確信を持った魂の導き手がほとんどいないことです。牧師・神父、僧侶は理屈でそのように理解していても、自分自身は100%、その教義を信じているわけではない。霊能力者は、死後の生は信じていても、この世の金もうけに忙しい。ここに問題があるのです。
必要なのは、伝統的な正統宗教の基盤の上に、スピリチュアリズムを理解した霊能力をもった専門家だということになる。
実際、イエス・キリストはそのような霊能力者だった。伝統的なユダヤ教を理解し、霊能力で病人を癒し、天国/神の国を人々に説いたのです。「貧乏人や不幸な人は天国に入れる」という教えを聞いた多くの人々が救われたのです。
つまり、強い道徳性、人間愛を伴った霊能力者が必要なのです。死後は誰でも、霊界に入れる。だから、この世で何をしてもいいんだ、という霊能力者は悪魔(それ自身が霊的存在)に洗脳され、その手先にされる危険を大きいのです。
18世紀のスウェーデンボルグのようなキリスト教的な裏付けを持った霊の力者は、「悪霊は人間を破壊しようとしている」と警告する。霊界は極楽ではない。天国に入れる善霊もいるが、自ら地獄を選ぶ悪霊も多いのが霊界です。
しかし、死にゆく人が死後に霊界から天国に入れるように、正しい霊的知識を与えることも必要です。そして、そこに善悪の区別、愛と憎悪、真理と欺瞞、神聖性と堕落・腐敗の区別が必要になるのです。それを、象徴するのが、「富は邪悪につながり、貧は魂の救済につながる」というイエス・キリストの教えです。現代技術で富の蓄積に走る人間には、「富は悪」という警告が必要なのです。実際、悪魔に魂を売らずに富を蓄えることはできません。悪を容認せずに、1円でも稼ぐことはできないのです。そして、それは「完全な善」を象徴する神の受け入れるものではなく、金持ちは霊界から地獄に落ちるのです。
イエス・キリスト以前の、ギリシアの哲学者ソクラテスやプラントンは「善人は死を恐れる必要はない」と言っていますが、まさに、「善人は死後、天国に入る」という教えを信じることが、イエス・キリストや仏教の教えに本当に従うことになるのです。
つまり、ホームレスのような宗教者、霊能者のみが信用できるのです。テレビで活躍する宗教者、霊能者には、悪魔が寄り添っていると考えるべきでしょう。たとえ、霊能力があっても、地獄とつながっている霊能者もいる。宗教家の肩書をもっていても、悪魔に魂を売った牧師・神父、僧侶もいる。
結論は、「死後は誰でも霊界に入れるが、さらに天国に入って、永遠の命を得るには、善人でなければならないし、善人の証明は、生きている間は貧乏人であることだ」ということです。