2021年12月21日火曜日

イエス・キリストの教え、「貧乏人は幸福だ」、その意味とは?

空の十字架

誰かが、「貧乏人は幸福だ」と言えば、「アタマのおかしな人間だ」と言われるのが、今の世の中です。

しかし、イエス・キリストは「貧乏人は幸福だ」と言っておられる。
ルカによる福音書第 6 章
20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。

マタイによる福音書第 5 章
3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
そして、金持ちは天国に入れないとも、イエス・キリストは言っておられる。

マタイによる福音書第 19 章
23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。


他の宗教で、このように貧乏人を賛美し、富裕層を呪った言葉が、その経典に書かれているものはない。しかし、キリスト教の牧師、聖職者、ローマ法王、信者は皆、一般人と同じように富裕層になるのを目指している。これを、イエス・キリスト様が不快に思わないはずがない。世界のキリスト教関係者が全て、ホームレスのような貧乏人になることが、イエス・キリストの教えを実践したことになる。


では、なぜイエス・キリストは「貧」を推奨し、「富」を拒絶したのか。答えは、本当は誰でも分かっているはずです。


「富」は、隣人愛の否定、冷酷な競争・選別・階層化・支配構造・利己主義・弱者の搾取・他者への不親切・小さき者への威嚇を意味するのです。要するに、「富」は「愛なき社会」に通じるのです。「富」は、「悪の容認」につながるのです。実際、日本でも富が平等に分配されれば、社会問題のほとんどが解決されます。


強者、狡猾な者、冷酷な者、利口者が「富」を支配し、弱者、正直な者、親切心のある人間、アタマの働きの鈍い者が「貧者」にされる。難しい試験で利口者を選び、官僚として政府を運営させ、その上にもっと狡猾な人間が支配層として社会の頂点に立つ、これが、どこの国でも見られる「悪による支配」の構造です。サヨク政権でも、エリートを選抜し管理的な地位に置き、その上に、もっと狡猾な人間が支配層として社会の頂点に立つのは同じです。「富」を求める限り、右翼政権でもサヨク政権でも、その支配構造は変わらないのです。


しかし、そのような「富による支配」の頂点には、「悪魔」がいるというのが本来のキリスト教です。富裕な、強力な大教団も同じです。そのような教団の頂点には「悪魔」がいるのです。


「悪魔」に魂を売らなければ、1ドルも1円も入手できない、というのが社会の構造です。従って、「富裕層」とは悪魔に従う者であり、天国には入れないのです。


神様の教えに従い、貧乏人を「愛する人間」は、自分のカネを貧乏人に与えて、自分も貧乏人になる。それが「善」なのです。従って、「愛」=>「貧」=>「善」となるのです。そして、神様、イエス・キリストは、「貧」を喜ばれることになるのです。


逆に、本当の信仰心のある宗教家とは、貧しい人間なのです。イエス・キリストも仏陀も、人間としては、ホームレスの生活をされていたのです。全ての人間が互いに貧しさを競って、天国に入ることを目指す、というのが正しい姿なのです。


なぜなら、この世の果てには霊界があり、人は死後は霊界に入り、貧乏人は天国に、富裕層は地獄に行くからです。これを信じるのが、信仰なのです・・・