救世主イエス・キリストは、貧乏人の味方だった!
これが、本来のキリスト教の最大の特徴です。
ただし、いつの時代も人間の大部分は貧乏人だったので、過去の成功した宗教は、みな貧乏人の救済も目指していた。しかし、仏教は「貧乏人」の救済ではなく、「人間」の救済を目指した。ユダヤ教は「ユダヤ民族」の救済であり、イスラム教は「マホメットに従うアラブ人信者」の救済だった。ところが、キリストは、「貧乏人」への神の愛を述べ伝えるために、神によってこの世に派遣された神の子だと公言して、その教えを広めた。本来のキリストの教えは、「貧乏人」に向けられたものだった。そして、いつの時代にも、どの国でも貧乏人がいるので、キリストの教えは、いつでも、どこでも伝えられるべき宗教になった。
仏教も、人間である限り、誰もが学ぶべき教えだが、いつの時代でも、どこでも富裕層・エリート・幸福な人間は、自分の人生を楽しむのに忙しくて、ブッダの教えなどには振り向かない。
この世の貧乏人は、この世で希望のない生活を強いられる。しかも、富裕層・エリート・幸福な人間は、貧乏人を洗脳して自分たちに有利な体制に従わさせようとする。そして、富裕層・エリート・幸福な人間の頂点には、悪魔がいる。そもそも、勝ち組と負け組に別れるのが人間社会であり、階層があり、階級・格差がある。そういう体制を打破しようと言う動きもキリストの教えにつながる。民主主義は、キリスト教を背景とする西洋社会から生まれた理由もここにある。民主主義は、貧乏人を救済しようとするキリストの愛が出発点になっている。
しかし、キリストは、暴力革命や民主革命で貧乏人を救済しようとしたわけではない。「貧乏人は、死後、天国で幸福になり、金持ちは、死後、地獄に落ちる」という簡単な教え(福音)で救済しようとした。
悪魔が影響を及ぼす人間社会では、必ず、階層が生じ、階級・格差が生まれる。つまり、必ず貧乏人が生じる。しかし、人間は誰でも死ぬ。そして、みな霊界に行く。この世での人生は短いが、霊界では神様が霊に永遠の命を与えることができる。そして、キリストは「神様が貧乏人には永遠の命を与え、金持ちは地獄で滅ぼす」と宣言したのです。つまり、この世で幸福になるための教えではなく、死後に幸福になるための教えが本来のキリスト教だということになる。
貧富の差が、善悪と関係し、善を愛する神様が貧乏人を死後、救済する。これが、イエスの教えの基本になる。ただし、人間の眼には貧しくても悪い人間がいるし、金持ちでも善良な人間がいるように見える。しかし、金持ちも貧乏人を愛すれば、貧乏人にカネを与え、自分も貧しくなる。「多く与えられた者は、多く要求される」と、キリスト言っている。貧しい人間も、善を無視し、手段を選ばず富を追求すれば、そこそこの金持ちになれる。しかし、「そこまでは、できない」から貧乏のままになっている。そのような心の奥底の判断は、他の人間には分からない。まさに、神様のみがご存知だということになる。「人を裁いてはならない」ともキリスト言っている。
ただし、全ての前提条件として、神の教えに従うこと、又は、イエス・キリストの教えに従うことが前提とされている。悪魔でも、人を金持ちにしたり、貧乏にしたりできる。そうすると、分かりやすいのは「貧しい信仰者は天国に行き、その他は地獄に行く」ということになる。しかし、憐れみ深い神様は、貧乏人は全て天国に入れて、その後、神様を愛さない者は天国から追放する、と考えれば、キリストの教えも納得できる。
「貧乏人なら、死後は、無条件でいったんは天国に入る」という教えを、権威のある聖者(神の子、イエス・キリスト)から聞けば、どんな貧乏人でも喜ぶ。
ただし、悪魔に洗脳された富裕層、支配層、上流階級、エリートは、この教えに反感を持つ。悪魔はヴァチカンなどの教会に浸透し、働きかけ、支配し、この教えを曖昧にする。だから、教会は死後の世界、霊界などについては「おとぎ話」のようにしか教えない。
この世の貧富と、霊界の秩序(天国と地獄の違い)を結びつけたのが、本来のイエス・キリストの教えなのです。