11 パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。
12 イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。
13 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、学んできなさい。わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」。(マタイによる福音書 第 9 章)
10 While Jesus was having dinner at Matthew’s house, many tax collectors and sinners came and ate with him and his disciples. 11 When the Pharisees saw this, they asked his disciples, “Why does your teacher eat with tax collectors and sinners?”
12 On hearing this, Jesus said, “It is not the healthy who need a doctor, but the sick. 13 But go and learn what this means: ‘I desire mercy, not sacrifice.’ For I have not come to call the righteous, but sinners.”
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これも、イエス・キリストの有名な言葉です。「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」という教えは、浄土真宗での「悪人こそが阿弥陀仏の救いの第一の対象である」と説く教えと一致する。
義人と呼ばれる人は、自分が正しい生き方をしていることを意識しており、そのような人は、あらてめて神様に救わなれければならない、という意識はない。しかし、悪人と呼ばれる人は、自分が罪をおかしているのを意識しており、神様に救われたいと心の底では望んでいるものである。そのような人を救うのが、イエス・キリストの任務だということです。
つまり、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である」という言葉で、罪人を病人にたとえ、ご自分を医者にたとえておられる。
人が罪をおかすのは、その人の心に悪霊が入って、魔が差して罪をなすことが普通です。その罪を解消し、正しい心を持たせるには、まず悪霊をその人から追い出さなければならない。イエスは、その霊能力で悪霊を人の心から追い出すことができるので、人の心に、人間本来が持つ善性を取り戻すのを助けることができるのです。
悪霊が心に入り、罪をなした人は、罪や悪が何であるかを理解している。悪人や罪人は、悪や罪と知りながら、悪霊の誘いに乗って悪や罪を実行する。問題は、そのときに、自分を見失って悪や罪をなすか、或いは、悪や罪を愛して実行することが多い。要するに、夢中で悪や罪をなすか、承知の上で悪や罪をなすものです。それは、人間の弱さの表れだといわれることが多い。
多くの場合、悪霊が心に入り込んで欲望を刺激し、その欲を満たすために、悪や罪をすることが多い。そのとき、悪霊に対抗する心の強さがなければ、人間は悪や罪をおかしてしまう。その意味では、悪や罪をおかす人間は、悪霊の犠牲者だということになる。
しかし、自分が悪霊の犠牲にならなかった人は、悪人や罪人を、自己責任だとして裁く。これを見て喜ぶのは、悪魔です。悪人や罪人は誰からも救われないことになる。しかし、悪人や罪人は、その経験から悪や罪の意味をより深く理解し、普通の人間以上に、この世の仕組みを理解することが多い。また、それだけに神様による救いを心の底では求めているが、普通の人間や聖職者は悪人や罪人を敬遠することが多い。だから、悪人や罪人が、どんなに悪や罪を後悔して悔やんでも、彼らに救いの手を差し伸べる人はいない。
ましてや、自分が悪や罪を行っていないと考える普通の人や義人と呼ばれる人は、悪人や罪人は自分たちより劣った人間で、危険な人間だと考えて軽蔑する。それが、本当の神様の意図から外れていることを、イエス・キリストは述べられたのです。
悪魔は巧妙で陰険で、図太く、どんな人間の心にも入り込み、欲望を刺激し、惑わし、神様の教えから遠ざける。その悪魔のやり口を理解して、後悔するのが悪人や罪人なのです。だから、悪や罪をおかしたものでなければ、理解できない悪魔のやり口は、広く一般人に知られることはない。そういう、悪魔の罠にはまり、絶望の中にいる人の心の中もご存知なのが、イエス・キリストなのです。
悪や罪をおかした人は、心の底から後悔して、二度と悪や罪をおかさないと考えることが多い。そのような、人こそ神様に救われるべきだというのがイエス・キリストの教えなのです。悪や罪を犯した人は、悪や罪の意味、そこに導く悪魔のやり口、無関心で冷淡な社会の人々などを、直感的に理解している。彼らが、神様の憐みによって救われれば、大きな信仰心や神様への感謝を持ち、一般人への参考になり、また、警告となる。悪人やb罪人が許されれば、普通の信者よりも、深く強い信仰心を持つようになることが多い。そのような、人間こそ救いに値するというのが、イエス・キリストの教えなのです。
そもそも、善悪、正邪、聖俗の違いは、神様が与える魂に刻み込まれたものなのです。全知全能で全善の神様は、少しでも回心の可能性のある心を持つ人間はお見捨てにはならないのです。
死後の霊界では、この世で善人や義人と呼ばれた人よりも、悔い改めた悪人や罪人が高く評価される場合もある。
イエス・キリストは、死後、霊界の地獄に入って多くの罪人を救ったと言われている。地獄に落ちても、まだ救われる機会があるということは、まさに、神様の愛と憐みなのです。
つまり、一人でも多くの人間の魂を地獄に連れ込みたいという悪魔を負かすには、できるだけ多くの罪人に罪を悔い改めさせて、地獄から救い出すことが、神様のお気持ちなのです。