2026年9月16日水曜日

「ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである」 ("...to others I speak in parables, so that, “‘though seeing, they may not see; though hearing, they may not understand.’")


10 そこで言われた、「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの人たちには、見ても見えず、聞いても悟られないために、譬えで話すのである。
11 この譬えはこういう意味である。種は神の言である。
12 道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。
13 岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。
14 いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。
15 良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。 (ルカによる福音書 第 8 章)

10 He said, “The knowledge of the secrets of the kingdom of God has been given to you, but to others I speak in parables, so that,

“‘though seeing, they may not see;
though hearing, they may not understand.’

11 “This is the meaning of the parable: The seed is the word of God. 12 Those along the path are the ones who hear, and then the devil comes and takes away the word from their hearts, so that they may not believe and be saved. 13 Those on the rocky ground are the ones who receive the word with joy when they hear it, but they have no root. They believe for a while, but in the time of testing they fall away. 14 The seed that fell among thorns stands for those who hear, but as they go on their way they are choked by life’s worries, riches and pleasures, and they do not mature. 15 But the seed on good soil stands for those with a noble and good heart, who hear the word, retain it, and by persevering produce a crop.

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AIによれば、「 聖書のこのたとえは、同じ神の言葉を聞いても、人の受け止め方で実りが変わることを示しています。福音書では、種は神の言葉、土はそれを聞く人の心として語られます」と説明されている。また、「種まきの比喩は、神の教えは皆に与えられるが、実を結ぶかどうかは人の心の受け止め方にかかっていることを示します」と続けている。

しかし、弟子以外には「見ても見えず、聞いても悟られない」と厳しく指摘している。イエス・キリストの譬え(たとえ)は、霊的な能力が低い一般人にも、理解させるためなのです。

「信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる」というのは、まさに、霊的な言葉です。悪魔が常に人々の周囲にいて、人々が「信じることも救われることもないように」しているのです。

「御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる」人は、信用できない人だということになる。

「聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない」とは、この世的な生活で神様の教えから離れる人のことです。

しかし、「御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る」とは、まさに、神様の言葉を生活の中心にすえて生きることを意味し、神様の力に全幅の信頼を置いて生きる人のことです。

また、これは、イエス・キリストの教えだけでなく、神様の教え全般に対する姿勢でもあります。神様の教えと言うのは、単なる道徳や処世術、人生訓などとは次元が異なるのです。人間にとって、生きるということの全てが、かかっている教えなのです。

仏教や神道の教えも有難く聞く人は多いが、そのときは畏(かしこ)まって聞いても、日常生活の中に埋没して、この世の損得、上下関係、好き嫌いの感情を優先させて生きる人は多い。要するに、自分より優れた者に従う心のない人間には、どんな教えも無駄だということです。

人間は、自分が一番大事であり、この世で一番大事な自分の心の中を知っているのは自分だけだから、自分が間違いなく一番だと考えて生きているものです。しかし、人の心の中を神様はご存知なのです。そして、人の運命を決めるのも神様なのです。つまり、この世で一番なのは自分自身ではなく神様なのです。これを、信じるのが信仰心です。

それでも、神様に逆らう狂った悪魔がいる。悪魔は、どんなに無駄でも神様に逆らいたい。だから、どこまでも人間に取り付いて、人間を神様に逆らわさせるのです。当然、人間に神様の言葉が理解できないようにしている。また、一度は理解しても、世の中を生きる忙しさの中で、神様の言葉を忘れさせる。特に、カネで欲望を満たすことを学んだ人間は、神様の教えを簡単に捨て去ることが多い。神様の言葉に従わなくても、不自由なく生きて行けると思っているからです。

しかし、神様は人間の運命を握っておられる。神様が人間に与えた自由意志は尊重されるが、自由意志で悪魔の教えを受け入れた人間を、いつまでも神様を無視した生き方をさせてはおかない。神様のご威厳にかかわる。だから、そこでは、そういう人間を罰するという法則が働く。はなはだしい場合は、神様はそのような人間を死の天使や悪魔の力に渡して、もはや彼らを守らない。これは、本当の悲劇になる。悪魔は当然、人間を助けてはくれないし、神様は厳しくなる。最後は、そういう人間は地獄で悪魔の奴隷にされる。神様の愛と真理の光を愛さないものは、地獄の闇に逃げていく。そこには悪魔がいて、そのような人間の魂を支配し、奴隷にする。狂って凶暴な悪魔と、その悪魔に喜んで従い、苦しめられる人間の魂が地獄を構成している。

これに反して、神様の言葉を有難く受け入れ、その言葉から離れず、悪魔の誘惑に乗らないで、地獄から遠ざかり、霊界の天国を目指すのが信仰者であり、イエス・キリストに従う信者なのです。

イエス・キリストの教えは、神様と悪魔の戦い(勝負は始めから神様の勝利に決まっているが)が、この世では行われていることを意識しなければ、理解できない。

これが、霊的なキリスト教なのです。