2026年10月9日金曜日

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」 (使徒言行録 第 9 章) (“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied.)


さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅迫、殺害の息をはずませながら、大祭司のところに行って、
2 ダマスコの諸会堂あての添書を求めた。それは、この道の者を見つけ次第、男女の別なく縛りあげて、エルサレムにひっぱって来るためであった。
3 ところが、道を急いでダマスコの近くにきたとき、突然、天から光がさして、彼をめぐり照した。
4 彼は地に倒れたが、その時「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。
5 そこで彼は「主よ、あなたは、どなたですか」と尋ねた。すると答があった、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
6 さあ立って、町にはいって行きなさい。そうすれば、そこであなたのなすべき事が告げられるであろう」。
7 サウロの同行者たちは物も言えずに立っていて、声だけは聞えたが、だれも見えなかった。
8 サウロは地から起き上がって目を開いてみたが、何も見えなかった。そこで人々は、彼の手を引いてダマスコへ連れて行った。
9 彼は三日間、目が見えず、また食べることも飲むこともしなかった。
10 さて、ダマスコにアナニヤというひとりの弟子がいた。この人に主が幻の中に現れて、「アナニヤよ」とお呼びになった。彼は「主よ、わたしでございます」と答えた。
11 そこで主が彼に言われた、「立って、『真すぐ』という名の路地に行き、ユダの家でサウロというタルソ人を尋ねなさい。彼はいま祈っている。 (使徒言行録 第 9 章)

9 Meanwhile, Saul was still breathing out murderous threats against the Lord’s disciples. He went to the high priest 2 and asked him for letters to the synagogues in Damascus, so that if he found any there who belonged to the Way, whether men or women, he might take them as prisoners to Jerusalem. 3 As he neared Damascus on his journey, suddenly a light from heaven flashed around him. 4 He fell to the ground and heard a voice say to him, “Saul, Saul, why do you persecute me?”
5 “Who are you, Lord?” Saul asked.
“I am Jesus, whom you are persecuting,” he replied. 6 “Now get up and go into the city, and you will be told what you must do.”
7 The men traveling with Saul stood there speechless; they heard the sound but did not see anyone. 8 Saul got up from the ground, but when he opened his eyes he could see nothing. So they led him by the hand into Damascus. 9 For three days he was blind, and did not eat or drink anything.
10 In Damascus there was a disciple named Ananias. The Lord called to him in a vision, “Ananias!”
“Yes, Lord,” he answered.
11 The Lord told him, “Go to the house of Judas on Straight Street and ask for a man from Tarsus named Saul, for he is praying.

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これは、「パウロの回心」と呼ばれる、サウロと呼ばれた人間が、初期キリスト教徒に対する迫害者から、イエス・キリストを信じる者へと変貌する時に、イエスの霊の声を聞いたという聖書で有名な箇所です。

AIでは、「この回心は、敵対から宣教へという大転換を示します。後のパウロは、自らをキリストの使徒として語り、各地へ福音を伝える中心人物になっていきます。日本聖書協会の新約聖書解説でも、使徒言行録はパウロらを通して福音が広がる過程を描く書だと説明されています(bible.or.jp)」とされている。

人がキリスト教徒になるきっかけは、ある意味で劇的なこともあるが(「パウロの回心」のように)、欧米では親がキリスト教徒だったということが多い。ただし、毎週日曜に教会に行く人口は減少傾向にある。

Yahooの知恵袋によれば、「この記事の中で、「1週間に1回(それ以上も含む)教会に行く人の比率」が最も高いのは、マルタの75%で、ポーランドの63%、アイルランドの53%が続いています。最も低いのは、デンマークの3%です。主要国は、フランスとドイツは10%以下(具体的な数値は不明)、スペインは21%、イタリアは31%、となっています。英国は、10~15%の範囲内に入っており、上記のBBCの記事ともあわせて考えると、この調査の数字も、“無宗教”の人も含めた全体に対する「週一回以上行く人の比率」を示しているのだと思います。(でないと、英国の数値は15%を超えてしまったでしょうから…)」。

また、「2009年の調査ですが、「1週間に1回以上教会に行く人の比率」は、アメリカ全体では41%で、州別では、ミシシッピ州の63%が最高で、ヴァーモント州の23%が最低でした。尚、記事の中の分析で「西岸、北東岸、中西部での、教会に行く人の比率が低いのは、無宗教の人が多いからだろう」といった事が書いてあること、また、質問自体が「教会でもシナゴーグでもモスクでも…」といった聞き方である事の二点から、無宗教や他宗教の信徒も含めた全体に対する割合を示しているものと推測します。因みに、アメリカでのキリスト教の比率は、国勢調査局のWebに載っているある調査機関の調査(全文は↓)によると、2008年時点で、自らをキリスト教徒と回答した人の比率は、76%、無宗教が15%、キリスト教以外が4%でした(残りの5%は無回答)
http://www.census.gov/compendia/statab/2012/tables/12s0075.pdf」とされている。

さらに、AIでは、「Pew Research Centerの2025年公表データでは、世界の宗教構成はキリスト教徒28.8パーセント、イスラム教徒25.6パーセント、無宗教24.2パーセントとされています。2010年のキリスト教徒割合は30.6パーセントだったため、2020年にはやや低下しています (pewresearch.org)」とされている。

しかし、イエス・キリストの名前を知らない大人は、世界中でほとんどいないと思われる。イスラム教の教祖や仏教の始祖のブッダより有名だと思われる。

日本でも、キリスト教徒でなくても、欧米の宗教はキリスト教だということは、よく知られており、子供でもイエス・キリストの名前は知っている。特に、明治以降、欧米の方が日本より科学・技術が進んでいることを認めた日本人は欧米の文化の吸収に努め、ノーベル賞を目標に努力して来た。文化の面でもキリスト教の価値を認めるようになったが、宗教的には、欧米のキリスト教を全面的に受け入れるようにはなっていない。

日本人の仏教や神道などに対する愛着は強く、日本人の霊性の中心には、まだ、キリスト教の教えは入っていないが、人類はアフリカで生まれたことを、日本人は認めているように、世界の霊性の中心として、宗教ではなく、霊的にイエス・キリストを尊敬する日本人は多い。

ただし、世界の文化、文明の主流は、ユダヤ教、キリスト教、回教などのアブラハムを始祖とするキリスト教の旧約聖書などを聖典とする一神教です(経典の民と呼ぶ)。神様は「唯一、絶対のお方」だというのが人類の主流の考え方です。

神様は、この世の「物質界」の上の「霊界」に存在するお方であり、「人間の魂は霊界から物質界の肉体に入り、心を生み出して、人間となる」という心霊的な見方が正しい。死後の世界、霊界を認め、なおかつ、信者には「清貧生活」を求めるのがキリスト教であり、清貧生活を伝統的に推奨する日本の霊性は、キリスト教の教義と一致している。

宗教的には、一神教から遠くても、霊界を認め、さまざまな神仏を認める日本人の心は、「霊界の万物の創造主である最高神」として、キリスト教の神様を認めれば、霊的なキリスト教になる。ブッダも日本神話の神々も、霊界に存在する大きな霊の一人だと考えれば、仏教徒でも神道や修験道の信徒、行者でも、イエス・キリストの教えを受け入れられる。多神教というのは、一神教に至る中途段階の宗教だと考えるべきです。ただし、日本ような信心中心(宗教中心ではない)の多神教は、普遍的な一神教に最も近い。

ただし、世界の一神教は、物質文明の発展と共に停滞し、腐敗し、アメリカ以外では衰退している。キリスト教のカトリックのバチカンも欧米での過去の権威はない。ただし、それでもアメリカの大統領は聖書に手を置いて、就任式を行い、ヨーロッパの国王や元首はキリスト教徒なのが普通です。死後は、霊界の天国に入りたいというのが、欧米のキリスト教なのです。

なお、日本の神道のリーダーの一人である天皇が、キリスト教国のイギリスに留学していたことは、天皇がキリスト教文化を受け入れ、イギリス国教会の権威を認めたことになり、日本の伝統的な文化・宗教の代表として相応しくない、という議論もある。皇后もキリスト教国のアメリカに留学しており、戦前の感覚から言えば、神道の本家の天皇家は日本人のリーダーの地位を失っていることになる。

実際、先の第二次大戦の中の太平洋戦争で、大日本帝国がアメリカに敗戦したことは、霊力でも日本はキリスト教国のアメリカに負けたことになり、日本の霊的な状況に深刻な影響を与えている。2千年前に、ユダヤ人がローマ帝国に敗戦し、ローマ帝国はやがてキリスト教国になったのと似ているが、ローマ帝国(現欧米の先祖)とユダヤ人、キリスト教の関係と、日本人、アメリカ、世界の一神教の関係は、やや異なる。

しかし、キリスト教世界の中でユダヤ教が生き残れたように、仏教や神道を崇めながら、キリスト教を理解することは可能なのです。

それは、宗教の問題ではなく、人間の霊性、信心、神様への信仰心の問題となる。

人間は、日本人のようにさまざまな大霊を信じるのは当然であり、その中の最上位の霊である万物の創造主である、キリスト教の神様を信じるのが当然なのです。

つまり、仏教徒のキリスト教徒であっても矛盾はない。これが、霊的なキリスト教なのです。

旧来の狭い信仰心ではなく、もっと広く人類共通の普遍的な信仰心を持てば、日本人も世界のリーダーになれる。ノーベル賞を出すような国にもなれる。

なお、スエーデンのノーベル賞が世界で認められているのは、スエーデンがキリスト教国であり、スウェーデンボルグというキリスト教徒の神秘家が欧米で認めらているからです。スエーデンボルグは、イエス・キリストの霊によって、生きたまま霊界を見ることを許され、多くの著述を残した18世紀のニュートンの時代の科学者であり神秘家でもあった(死んで生き返ったものはいない、というが生きて霊界を見た者は少なくない)。スウェーデンボルグは生まれた時からキリスト教徒だったが、更にパウロのように、旧来のキリスト教から霊的なキリスト教に回心したのです。

つまり、イエス・キリスト、パウロの回心、キリスト教のローマ帝国の支配、キリスト教によるヨーロッパの支配、キリスト教によるアメリカの支配、キリスト教の世界支配、そして、最後に日本のキリスト教の受け入れが人類の歴史なのです。

日本人の歴史的な人類としての重要性は、ここに現れているのです。

日本人として生まれたことを、皆、神様に感謝すべきです。


2026年10月8日木曜日

こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた (ヨハネによる福音書 第 11 章) (Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!”)


33 イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた、
34 「彼をどこに置いたのか」。彼らはイエスに言った、「主よ、きて、ごらん下さい」。
35 イエスは涙を流された。
36 するとユダヤ人たちは言った、「ああ、なんと彼を愛しておられたことか」。
37 しかし、彼らのある人たちは言った、「あの盲人の目をあけたこの人でも、ラザロを死なせないようには、できなかったのか」。
38 イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。
39 イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。
40 イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。
41 人々は石を取りのけた。すると、イエスは目を天にむけて言われた、「父よ、わたしの願いをお聞き下さったことを感謝します。
42 あなたがいつでもわたしの願いを聞きいれて下さることを、よく知っています。しかし、こう申しますのは、そばに立っている人々に、あなたがわたしをつかわされたことを、信じさせるためであります」。
43 こう言いながら、大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。
44 すると、死人は手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、出てきた。イエスは人々に言われた、「彼をほどいてやって、帰らせなさい」。
45 マリヤのところにきて、イエスのなさったことを見た多くのユダヤ人たちは、イエスを信じた。(ヨハネによる福音書 第 11 章)

33 When Jesus saw her weeping, and the Jews who had come along with her also weeping, he was deeply moved in spirit and troubled. 34 “Where have you laid him?” he asked.
“Come and see, Lord,” they replied.
35 Jesus wept.
36 Then the Jews said, “See how he loved him!”
37 But some of them said, “Could not he who opened the eyes of the blind man have kept this man from dying?”
Jesus Raises Lazarus From the Dead
38 Jesus, once more deeply moved, came to the tomb. It was a cave with a stone laid across the entrance. 39 “Take away the stone,” he said.
“But, Lord,” said Martha, the sister of the dead man, “by this time there is a bad odor, for he has been there four days.”
40 Then Jesus said, “Did I not tell you that if you believe, you will see the glory of God?”
41 So they took away the stone. Then Jesus looked up and said, “Father, I thank you that you have heard me. 42 I knew that you always hear me, but I said this for the benefit of the people standing here, that they may believe that you sent me.”
43 When he had said this, Jesus called in a loud voice, “Lazarus, come out!” 44 The dead man came out, his hands and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face.
and feet wrapped with strips of linen, and a cloth around his face.
Jesus said to them, “Take off the grave clothes and let him go.”
45 Therefore many of the Jews who had come to visit Mary, and had seen what Jesus did, believed in him.
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これは、「ラザロの復活」と呼ばれる、イエス・キリストがラザロを死から生き返らせた情景です。

AIでは、「ラザロの復活は、ヨハネによる福音書11章に書かれています。ラザロは、マルタとマリアの兄弟で、ベタニアに住んでいました。イエスは病気の知らせを受けたあと現地へ向かい、すでにラザロが死んで4日たっていた場面で墓に行きます (jw.org)」と説明され、また、「イエスは墓の前で石を取りのけさせ、神に祈ったあと、ラザロに出て来るよう呼びかけました。すると、ラザロは墓から出て来ました。これが一般にラザロの復活と呼ばれる出来事です (jw.org)」とされている。

そして、「この出来事の中で、イエスはマルタに対して、自分が復活と命に関わる存在であることを示します。また、この奇跡を見て信じる人が出た一方で、宗教指導者たちがイエスをさらに警戒する流れにもつながります (bible.com)」と述べて、イエスの悲劇に向かう第一歩となったとされている。

死んだ人間が蘇るということは、稀に起こる。医学的に、まだ、完全に死んでいないのに、死だと判断される場合がある。また、短い時間、心肺停止状態にあっても、再び再起動する場合がある。そういう、臨死体験を経験する人間もいる。

立花隆などは臨死体験を研究して、本を書き、NHKでも特集されたことがある。アメリカでは、レイモンド・ムーディ(医学・哲学博士)の研究が有名です。要するに、肉体の死は、単純に判断できるものではない。また、肉体の死後に魂が肉体を離れて、自分の死体を見下ろすようになり、その時の記憶を持って生き返る人もいる。これは、脳死の判断とも関係する。

Wikipediaによれば、「ムーディは、心停止など臨床的に死に臨みながら生還した150人からの聴取と研究により、人間は死に臨んで一般的に以下の9つの経験があると結論付けた。
奇妙な音を聴く。
表現しようのない安らぎと無痛感。
体外離脱体験。
暗いトンネルを通って行く感じ。
天に上っていく感じ。
しばしば死んでいる親類に出会う。
神のような精神的な存在との遭遇。
生涯の回想。
肉体への回帰。」と解説されている。

また、アメリカのキューブラー=ロスも死に臨む人々の心理状態を研究している。

彼らの研究によれば、死は無に至るプロセスではなく、人間の魂が肉体を離れる現象だということです。ムーディは、死者の魂を呼び出す実験までしている。日本でも、青森県の恐山には女性霊媒師のイタコと呼ばれる人々がおり、死者と遺族が会話できるようにしている。欧米でも交霊会と呼ばれる、死者の魂を呼び寄せる人の集まりがある。

しかし、イエスは死者の魂を呼び寄せたのではなく、肉体ごと生きかえらせたという点で、重要です。

つまり、死者を蘇らせる力のあるイエスを殺害しても、イエスが自分自身を生き返らせれば、それは、無駄な試みだということになる。

十字架の刑でイエスを殺しても、イエスはやがて生き返ることが、このラザロの復活で予想できたのです。しかし、イエスに反発する悪魔はそれでも、イエス殺害の試みをやめなかった。たとえ、無駄でも、神様やイエス・キリストに対する嫌がらせになると悪魔は考えたのだろう。

このように、死者を蘇らせる力をもっていた人物として、イエス・キリストを捉えれば、福音書の物語りは、単純になる。また、人間は肉体が死んでも魂は、永遠に生きることを誰もが納得していれば、死を恐れたり、宗教にすがったりする必要もなくなる。人間の文化も大きな影響を受ける。

ただし、死者の霊は自由にこの世に現れるわけではない。霊媒と呼ばれる恐山のイタコのような霊媒(霊能者)が必要なことになる。魂は心という現象を通して現れるので、霊媒という霊能者の心を借りて死者の魂が現れることになる。

それでも、霊媒を介さずに、死者の霊が生きた遺族などに出現することもある。その例が幽霊です。霊界とこの世の関係については、まだ、詳しいことは解明されていない。だから、宗教や精神的な修行が必要とされる。そして、多くの文学作品や芸術の主題となっている。そのような問題を研究するのが、心霊学です。

近代で心霊研究で有名なのは、探偵ホームズの物語りを書いた英国人のコナン・ドイルです。ドイルは、心霊の知識を普及させるために世界を旅したことで有名です。

また、生きながら死後の霊界を見ることを、イエス・キリストの霊によって許されたという18世紀の霊能者のスウェーデンボルグの著作も有名です。日本では、9世紀初頭(平安時代初期)に成立した日本最古の仏教説話集の「日本霊異記」などで生と死の関係が描かれている。また、20世紀には俳優の丹波哲郎が霊界を論じた本を多く出版し、死後の世界を話題にした。

いづれにしても、死に対する恐怖心が人々を宗教に向かわせて来たが、仏教のブッダは、死後のことは語らないという姿勢であり、儒教の孔子も霊的なことは論じないという姿勢だった。しかし、日本人の精神的な伝統では、死後の世界を求める心があり、その伝統に道教や仏教が乗って、日本人の精神生活が造られてきた。先祖の霊を崇めるというのが、日本人の伝統なのです。

キリスト教は、明確に霊界を認め、人の死後は魂は霊界の天国や地獄に入ると認めている。しかし、近代科学の発展と共に、科学では証明されない死後の世界は否定されるようになり、宗教は無意味だとの考えも広がり、人々は物質的な考えにこだわって霊的な問題をなおざりにするようになり、欧米でもキリスト教を離れる人間が続出している。聖書の話も理解されなくなっている。

とにかく、死後の世界があることを人々が認めれば、この世の生にこだわることもなくなる。物質的に無欲になって生きる人は増えると思われる。しかし、悪魔はそのような人を迷わせ、物欲を煽って欲を追求させ、その人の魂を悪魔に売らせる。

そういう、悪魔の悪意と戦うことが、イエス・キリストの教えになる。

とにかく、イエス・キリストは死をも克服する力(霊的な力)を持っておられたことを信じるのが、霊的なキリスト教なのです。


2026年10月6日火曜日

すべての事について、感謝しなさい 。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである(テサロニケの信徒への手紙一 第 5 章) (give thanks in all circumstances; for this is God’s will for you in Christ Jesus)



14 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。
15 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
19 御霊を消してはいけない。
20 預言を軽んじてはならない。
21 すべてのものを識別して、良いものを守り、
22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。 (テサロニケの信徒への手紙一 第 5 章)

14 And we urge you, brothers and sisters, warn those who are idle and disruptive, encourage the disheartened, help the weak, be patient with everyone. 15 Make sure that nobody pays back wrong for wrong, but always strive to do what is good for each other and for everyone else.

16 Rejoice always, 17 pray continually, 18 give thanks in all circumstances; for this is God’s will for you in Christ Jesus.

19 Do not quench the Spirit. 20 Do not treat prophecies with contempt 21 but test them all; hold on to what is good, 22 reject every kind of evil.

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このテサロニケの信徒への手紙一は、AIによれば、「日本聖書協会の案内では、パウロが書いた最初の手紙として紹介されています。新約聖書の中でも非常に初期の文書として重視されています (bible.or.jp)」とされている。

「あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい」という言葉は、キリスト教徒なら誰でも知っている、キリスト教の基本です。だから、クリスチャンというのは、仏教や神道の信者と違って、真面目なかたぐるしい人だと思われることが多かった。

ギャンブルもやらず、女遊びむせず、酒にも溺れず、下品な冗談も好まない真面目な人が多く、インテリが多いという印象を与えていた。特に、戦後、米軍がキリスト教を推奨していたので、日本の中流家庭が好む宗教だとされていた。ただし、江戸時代からの隠れキリシタンの伝統のある地域では、独特の文化があった。また、明治維新の時に、江戸を追われた旧幕府の侍が、最後の徳川将軍の慶喜と共に多くが移り住んだ静岡にも、彼らが心のよりどころとしたキリスト教の伝統がある。

特に、第二次大戦後の一時期は、アメリカの教会組織からの人道支援などがあり、敗戦で心の支えを失なった多くの日本人が、各地の教会を訪れた。その残滓がまだ残っている教会もある。また、大学の教授など、戦後にアメリカ留学の機会が多かった知識人にもキリスト教を受け入れた人も多く、彼らの影響でキリスト教を受けいれたインテリもいる。特に、欧米文化を学んだインテリは、欧米人とのつきあいを通して、キリスト教文化に親しみ、キリスト教を受容する傾向が高い。つまり、日本では、キリスト教はある意味で、高学歴者やエリートの宗教になっている。

江戸幕府の時代には、「切支丹」や「耶蘇」と言われた迫害された日本のキリスト教徒も、軍国日本に対する米軍の勝利によって、真に自由を得て、発展することになった。ただし、AIによれば、「文化庁の宗教年鑑では、2025年度公表のデータで、キリスト教系の信者数は1,872,320人、全宗教系統の中では約1.1パーセントとされています。これは宗教統計調査に基づく数字です」とされている。欧米や欧米の旧植民地であったアジア・アフリカ・南米の国と比べると、日本人のキリスト教徒の比率は低い。

しかし、イエス・キリストの名は小学生でも知っており、「善を勧める、欧米の文化的な宗教」として知られている。ただし。仏教や神道のような霊能者が、日本のキリスト教から出現することは少ない。科学の進んだ欧米の宗教ということで、霊的な力とは結びつかないことが多いが、日本の弥生時代の2千年前のローマ帝国の時代に、ローマ帝国の植民地だったパレスチナから生まれたキリスト教は、仏教や神道以上に霊的な宗教なのです。

今の日本の知識人の中にも、キリスト教の霊的な側面を研究する者もいるが、日本固有の自然な霊性とキリスト教の霊性とは、まだ結びついていない。20世紀の末にオウム教のような新宗教が、キリスト教の一部(終末論など)を取り入れて、若者にアピールした例があるように、キリスト教にはまだ知られていない力があるのではないか、という気持ちを持っている日本人もいる。また、キリスト教の精神が作家に影響を与えた例もある。

古代中国からの影響を受けた神道、古代インドからの影響を受けた仏教と異なり、東アジアの風土とは縁遠い、地中海沿岸地方から生まれたユダヤ教、キリスト教、イスラム教は日本人の霊性とは距離があるが、風土という条件を除けば、人間の霊的な真理に最も接近した宗教だと考えられる。実際、現代文明は、欧米のキリスト教文化が基本になっている。

江戸時代の仏教や神道から現代のスマホやテレビ、自動車やジェット機、新幹線、高層マンションが生まれたわけではない。

現代物質文明を生んだのは、欧米のキリスト教文化なのです。日本人は、仏教や神道以上にユダヤ・キリスト教を研究すべきです。


あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである (ルカによる福音書 第 9 章) (it is the one who is least among you all who is the greatest)


46 弟子たちの間に、彼らのうちでだれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった。
47 イエスは彼らの心の思いを見抜き、ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ、彼らに言われた、
48 「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。そしてわたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」。
49 するとヨハネが答えて言った、「先生、わたしたちはある人があなたの名を使って悪霊を追い出しているのを見ましたが、その人はわたしたちの仲間でないので、やめさせました」。
50 イエスは彼に言われた、「やめさせないがよい。あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」。 (ルカによる福音書 第 9 章)

46 An argument started among the disciples as to which of them would be the greatest. 47 Jesus, knowing their thoughts, took a little child and had him stand beside him. 48 Then he said to them, “Whoever welcomes this little child in my name welcomes me; and whoever welcomes me welcomes the one who sent me. For it is the one who is least among you all who is the greatest.”

49 “Master,” said John, “we saw someone driving out demons in your name and we tried to stop him, because he is not one of us.”

50 “Do not stop him,” Jesus said, “for whoever is not against you is for you.”

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AIでは、「ルカによる福音書」は、「伝統的にはルカが著者とされてきました。一方で、事典類では実際の成立時期は西暦80年から90年ごろと考えられることが多く、マルコ福音書や共通資料をもとに編集されたと説明されています (kotobank.jp)」とされている。

また、「ルカによる福音書は、弱い立場の人、貧しい人、女性、罪人とされた人へのまなざしが強いことでよく知られています。また、祈り、聖霊、喜びを重視する流れも大きな特徴です (kotobank.jp)」と解説されている。

この箇所では、イエス・キリストの弟子の間で、「だれがいちばん偉いだろうかということで、議論がはじまった」とされている。

人間は、優越感を求めるものだということが良く分かる。2千年前にもその気持ちは変わらなかった。どんな人間でも、他人より少しでも上の立場にたとうとする。それに対してイエスは、「バカなことを議論するな」と叱らなかった。むしろ、「ひとりの幼な子を取りあげて自分のそばに立たせ」て彼らに、「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」と教えられた。

人間は、弱い者、貧しい者、小さな者を見下し、自分の方が価値があるものだと考える。それに対して、弱く、富もなく、小さな子を弟子たちに見せて、「この子は、お前たちより、価値があり、上に立つべきだ」という意味の事を仰ったのです。

人は、心の中で自分が世界一だと考えるものです。たとえ、その国に皇帝や、大統領や、首相がいて、政治的に自分の上にいても、ある人を皇帝、大統領、首相として認めているのは、自分の心なのです。自分の心が、ある人を皇帝や大統領、首相として認めているから、相手はその立場にいるのだと考える。つまり、心の中では相手をそう認める立場にいる自分の方が、本当は上だと考えている。

つまり、どんな分野でも、一番の人間がいるが、その人間を一番だと認める自分の方が、一番の人間より本当は上だと考える。つまり、自分を下だと認めたくないのが人間の心です。しかし、世の中は、さまざまな序列で成り立っている。そういう自己正当化ができなくなることも多い。「世の中では、あいつを一番だというが、実際は、その一番を認めてやる自分の方が優れている」と考えることが、できなくなったとき、人は絶望し、引きこもる。劣等感を認めたくなければ、社会から離れていればよい、と考えるのが普通です。だから、引きこもる。「本当は、自分の方が上だ」という、密かな自己正当化のプライドを持って普通の人間は生きている。そのような社会では、プライドを失うと生きていく気力も失せる。

だから、「上手に人をほめる」ことが、教育の成功の「こつ」になる。子供をほめて、自信をつけさせるのが、上手な育て方だといことになる。

しかし、イエス・キリストは、「上下を争うお前たちは、この幼な子よりも劣った者だ」ということを教えらえたのです。「幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれる」というのは、幼な児の背後にイエスがいることを認めよということです。イエス・キリストは、小さい子供が信仰心をもって育っていくことを愛しておられたので、弟子たちに小さな子供を尊重し、この世の上下の判断を持ち込まず、イエス・キリストが背後にいることを考えて、この世の上下の関係が無意味なことを教えられたのです。

信仰の度合いでも人より上に立ちたいというのは、信仰心が育っていない証拠だということです。

神様を理解すれば、人間は皆、神様の下にあり、偉大な神様と人間の無限の差を考えれば、人間同士のわずかな差異は、取るに足りないものであることが分かる。エヴェレスト山の麓で、それぞれのテントの高さを競っているようなものです。いや、大空の下で隣家と屋根の高さを競っているようなものです。空を仰いで、神様に礼を捧げる子供の心は、互いにいがみあう大人よりも神様に近いことになる。

しかし、悪魔の影響下の世の中では、誰でも上下の間隔、貧富の差、好き嫌いなどの心を持つ。自分が世界一だと心の底では思っている。一番の人間を認める立場にいる自分は一番より上だと考え、その自分の心を知っているのは、自分だけだと考え、だから、自分んが世界で真の一番だと考えるものであり、さらには、神も自分の心の中にいるので、自分は神より上だと考えるのが狂った人間です。

こういう狂った宗教観を人間に与えるのは悪魔です。また、悪魔の力で社会的に成功し、物質的に幸福になったものは、自分は神様に愛されたと狂った判断をする。悪魔は人間を物質的に成功させ、やがて、その人の心を支配し、傲慢にさせ、神様に非礼を働かせ、有頂天にさせるが、やがて、その人も神様の与えた寿命がつきて死ぬが、死んだら、この世で自分を愛して、幸運を与えてくれた神にあえると期待していると、悪魔が現れて、「オレがお前の神だ」と言って、その人間を召し使いにする。これが、霊界の実相です。多くのこの世でのエリートや富裕増、成功者で、地獄は満ちている。彼らの上にいるのが、悪魔なのです。

人に他人への優越感を与えるのは悪魔なのです。しかも、物質的な成功を人間に与える力だけでなく、霊的な力で宗教家や聖職者を支配することも悪魔にはできる。「自分は誰よりも神様に愛されている」という感じを人に与えることも悪魔にはできる。しかし、神様に愛されるには、弱き者、貧しきも、小さき者、不幸な人、差別された人を助けなければならない。さらに、悪魔と戦って人々を救わねばならない。悪魔から狂った考えを与えられて、悪魔に操られながら、自分は神様に誰よりも愛されているのだと考える聖職者や有名人もいる。

悪魔の手下になりながら、悪魔によって富や地位を与えられると、神様に愛されていると勘違いする人間もいる。そのような狂った考えをもったまま亡くなるこの世の物質的な成功者も多い。彼らは、皆、死後、地獄に行き、悪魔の奴隷となる。

イエス・キリストの弟子たちの心の中にまで悪魔が入り込んで、優越感を求めて互いに争わせたの見て、イエス・キリストは、その警告に幼子を見せて、その背後に自分がいるから、この子は誰よりも上なのだと諭したのです。

イエスより自分の方が上だと証明できなければ、弟子たちはイエス・キリストの教えを受け入れざるを得ない。イエス・キリストは、子供のような純粋な心で信仰を高めよと言われたのです。欲を捨てて、優越感を求めるなという教えです。

また、「あなたがたに反対しない者は、あなたがたの味方なのである」という言葉で、表面的な態度だけでなく、相手の心の真意を読み取れと教えておられる。魂ではイエス・キリストを信じている者は、心のレベルでイエスに反対することは避けるものだからです。

そういうように、人の魂を感じる心をもつ幼子も多い。幼い子供たちは欲がないので、人の魂まで見えるのです。大人になれば、多くの欲を克服して、修業の果てに、再び、そのような心を取り戻さなければなならい。その邪魔をするのが、悪魔なのです。人間に。「お前が一番だ」と心の中でささやいて。

神様やイエス・キリスト様の前では、皆、平等に無力なのです。悪魔以上に。或いは、幼児のように。



2026年10月4日日曜日

「右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」 (マタイによる福音書 第 5 章) (If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away)


27 『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
28 しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
29 もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。
30 もしあなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である。(マタイによる福音書 第 5 章)

27 “You have heard that it was said, ‘You shall not commit adultery.’ 28 But I tell you that anyone who looks at a woman lustfully has already committed adultery with her in his heart. 29 If your right eye causes you to stumble, gouge it out and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to be thrown into hell. 30 And if your right hand causes you to stumble, cut it off and throw it away. It is better for you to lose one part of your body than for your whole body to go into hell.

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AIによれば、「『マタイによる福音書』は、新約聖書に収められた四つの福音書の一つで、イエスを旧約の預言を成就するメシアとして描く書です。主にユダヤ人キリスト者を意識して書かれたと考えられます(bible.or.jp)」とされている。

また、Wikipediaでは、「本書の目的は、イエスこそがモーセと預言者たちによって予言され、約束されたイスラエルの救い主(キリスト)であると示すことにあり、イエスにおいて旧約聖書の預言が成就していると示すことであった。『マタイによる福音書』には旧約聖書(ギリシア語訳・七十人訳)の引用が多く見られるが、それらはイエスの到来を予告したものとして扱われている。旧約からの引用箇所は65箇所にも上り、43箇所は地の文でなく語りの中で引用されている。この福音書の狙いは「律法や預言者を、私は廃止するためでなく、完成するために来た(5章17節)」という言葉にもっともよく表現されている」と解説されている。

そして、特に旧約聖書でも「『姦淫するな』と言われていた」ことに注目して、人間の基本的な生き方を強調している。「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をした」ことになる、というのは男性の欲望を抑えることの重要性を示している。そして、「あなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい」というよく知られた教えが続く。

さらに、「あなたの右の手が罪を犯させるなら、それを切って捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」というのは、この世の罪が、死後の霊界にも影響することを示している。

イエス・キリストによる基本的な教えは、物欲に駆られた人間に反省を強いるものであり、キリスト教徒は道徳的な教えを守ることが当然とされている。その教えは、ユダヤ教の旧約聖書から来ており、道徳的な教えは、キリスト教でも何んら変わらないことを示している。

これは、宗教以前の人間の基本的な道徳が、宗教の教えにかかわらず有効であることを示しており、そのようなユダヤ教の基本的な教えは当然、人間である限り尊重されるべきであり、イエス・キリストは「律法や預言者を、廃止するためでなく、完成するために来た」と述べておられる。

人類は、本能的に善悪を知っていることを意味する言葉です。日本語でも、「根っからの善人」や「根っから悪人」という言葉があるが、この基本的な教えに従って生きることの重要性をあらためてイエスは、強調している。道徳無関心や不感症というのは、人間性の基本的な欠陥だということになり、信用のできない人間だということになる。「根っからの悪人」は、「悪を愛する人間」であるから、当然、人々から敬遠される。平気で人を傷つける人間は誰でも敬遠する。そのことに気が付かない人間は、哀れな人間だということになる。人間社会では、そのような人間は当然、成功しないし、制裁を受ける。そのような人間悪(悪を愛する人間)を取り締まるのが、本来の警察の役割です。権力に逆らう人間を取り締まる以前の任務です。司法の任務は、道徳的・宗教的でなければならない。

AIでは、「悪は、ただ失敗することだけではなく、神や人への愛から外れることです。たとえば、うそ、憎しみ、暴力、傲慢、不正などが悪とされます。聖書のアダムとエバの物語は、人間が神より自分を優先してしまう姿を表すものとして読まれています (nskk.org)」とされており、神様が与えた愛の心を持っていれば、当然、人間が知っている善を愛して、悪を行わないはずだとされている。

神様は、全知全能であり「全善」である存在であり、悪より善を愛する心が神様の気持ちに叶うのです。

しかし、この心が弱い人間の心には悪魔が入り込み、悪を善よりも愛させ、人を傷つけても何も感じない人間もいる。イエスは、そのうような人間に、本来の善を尊重し、愛すべきことを改めて教えておられるのです。「善を愛することが、人間の義務」なのです。いやでも、善を尊重すべきだというのが、人間に対する神様の要求であり、悪魔を受け入れないという生き方が求められている。「悪よりも、善を愛せ」というのが、宗教以前の教えなのです。

だから、悪いキリスト教徒というものはありえず、キリスト教徒は道徳的に正しい人だとの評価が得られるのです。

従って、キリスト教徒は酒やタバコを吸わず、人を騙さず、嘘をつかない信頼できる人であり、安心してつきあえる人だとの評判を得てきたのです。要するに、節度のある人間であるべきなのです。狂って欲望を追求するようでは、キリスト教徒とは言えない。

だから、酒やタバコや富(カネへの欲望)や快楽(女性への欲望)を愛する人間は、神父や牧師にはなれず、清貧、道徳、隣人愛を愛し、何よりも、神様とイエス・キリストの教えを愛する者でなければならず、そのような人間が社会で尊敬されるのは当然なのです。社会の秩序はその上に築かれるのです。欲能丸出しの人間の集団は発展しない。

ただし、欲は誰にでもあるので、それを神様やイエス・キリストの教えに従って、抑えるのが重要なのです。「五体の一部を失っても、全身が地獄に落ち込まない方が、あなたにとって益である」というイエス・キリストの言葉は、貴重な忠告なのです。

罪を悔い改めて、罪を犯した部分を捨てれば、天国に受け入れられなくても、地獄に落ちこなくても済むのです。ありがたい情けのある言葉です。

2026年10月3日土曜日

彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる (コリントの信徒への手紙二 第 6 章) (Come out from them and be separate, says the Lord.)


13 わたしは子供たちに対するように言うが、どうかあなたがたの方でも心を広くして、わたしに応じてほしい。
14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。
17 だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。 (コリントの信徒への手紙二 第 6 章)

13 As a fair exchange—I speak as to my children—open wide your hearts also.
14 Do not be yoked together with unbelievers. For what do righteousness and wickedness have in common? Or what fellowship can light have with darkness? 15 What harmony is there between Christ and Belial? Or what does a believer have in common with an unbeliever? 16 What agreement is there between the temple of God and idols? For we are the temple of the living God. As God has said:

“I will live with them
and walk among them,
and I will be their God,
and they will be my people.”

17 Therefore,

“Come out from them
and be separate,
says the Lord.
Touch no unclean thing,
and I will receive you.”

18 And,

“I will be a Father to you,
and you will be my sons and daughters,
says the Lord Almighty.”

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「コリントの信徒への手紙二」について、AIは、「この手紙では、パウロが自分の思いや苦しみをかなり率直に語っています。特に、弱さの中にこそ神の力が現れることや、信徒どうしの和解の大切さが強く語られます (paulineletters.com)」と解説している。

特に、「神がこう仰せになっている、/「わたしは彼らの間に住み、/かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となるであろう」。だから、「彼らの間から出て行き、/彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。そしてわたしは、あなたがたの父となり、/あなたがたは、/わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」と述べて、神様の言葉を引用して、強い信仰心を示している。

これは、「信仰と不信仰となんの関係があるか」という言葉に、パウロの強い信仰心が現れている。信仰を持ったことのない人間には言えない言葉です。「神の宮と偶像となんの一致があるか」というのも、偶像崇拝がはびこる世の中を責めた言葉です。

この世は、カネを崇め、拝金主義の世の中になっているが、真の神様へ信仰と拝金主義は相容れないものであることを、パウロは述べているのです。カネを崇める姿勢こそ、偶像崇拝なのです。仏教の仏像崇拝とは異なって、異常な崇拝です。

悪魔はカネを小道具として使って、人々に物質的な欲を満たすには、カネが必要だと信じさせ、カネが物質的な幸福をもたらす神だとの間違った信仰を持たせ、そのカネという神を支配する悪魔を崇拝するように洗脳している。

この世の全ての問題、人間社会の全ての問題はこの悪魔の影響下にあるということから生じている。人の病も、貧困も、不幸も、悪魔の影響から生じている。人間が欲を持たず、自然の法則に従って、神様への信仰心をもって生きていれば、欲望の充足を求めて不自然で、不信仰な、自然に反した生活をして、肉体的にも、精神的にも無理をし、隣人を敵視し、神様の愛と真理を無視して、破滅に突っ走ることになる。それが、大部分の人間の人生です。

だから、そのような悪魔の支配下にある人間とは「分離せよ」と神様は言っておられる。また、「汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう」と神様は人間への憐みを述べておられる。

このパウロの気持ちと共感し、その言葉を受け入れるのが、伝統的なキリスト教なのです。

ただし、18世紀の神秘家のキリスト教徒のスエーデンボルグは、パウロを批判し、AIでは、「スウェーデンボルグは、パウロ書簡を福音書や預言書と同じ意味での聖言とは見なさない立場を示しました。要するに、パウロは霊感を受けて語ったとしても、預言者のように一語一句が天から与えられたのとは違う、と区別しています (en.wikipedia.org) 」と説明されている。

しかし、歴史を鑑みても、聖霊がパウロに下ったのは事実だと思われる。キリスト教の研究には、パウロの書簡が含まれる聖書の研究が不可欠です。


2026年10月2日金曜日

わたしが弱い時にこそ、わたしは強い (コリントの信徒への手紙二 第 12 章) (my power is made perfect in weakness)


9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。
11 わたしは愚か者となった。あなたがたが、むりにわたしをそうしてしまったのだ。実際は、あなたがたから推薦されるべきであった。というのは、たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがないからである。
12 わたしは、使徒たるの実を、しるしと奇跡と力あるわざとにより、忍耐をつくして、あなたがたの間であらわしてきた。
13 いったい、あなたがたが他の教会よりも劣っている点は何か。ただ、このわたしがあなたがたに負担をかけなかったことだけではないか。この不義は、どうか、ゆるしてもらいたい。
14 さて、わたしは今、三度目にあなたがたの所に行く用意をしている。しかし、負担はかけないつもりである。わたしの求めているのは、あなたがたの持ち物ではなく、あなたがた自身なのだから。いったい、子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである。 (コリントの信徒への手紙二 第 12 章)

9 But he said to me, “My grace is sufficient for you, for my power is made perfect in weakness.” Therefore I will boast all the more gladly about my weaknesses, so that Christ’s power may rest on me. 10 That is why, for Christ’s sake, I delight in weaknesses, in insults, in hardships, in persecutions, in difficulties. For when I am weak, then I am strong.
11 I have made a fool of myself, but you drove me to it. I ought to have been commended by you, for I am not in the least inferior to the “super-apostles,” even though I am nothing. 12 I persevered in demonstrating among you the marks of a true apostle, including signs, wonders and miracles. 13 How were you inferior to the other churches, except that I was never a burden to you? Forgive me this wrong!
14 Now I am ready to visit you for the third time, and I will not be a burden to you, because what I want is not your possessions but you. After all, children should not have to save up for their parents, but parents for their children.

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AIでは、「この手紙では、苦しみの中での慰め、和解、使徒としてのパウロの務めなどが強く語られます。特に冒頭では、神が苦しみの中にいる人を慰めてくださる方として述べられています。 (bible.or.jp)」と説明されている。

また、Wikipediaでは、「第12章では「第三天まであげられた」という神秘体験について、自分に与えられた「とげ」について述べられている。この書簡では他のどれよりもパウロが自分自身について多く語っている」とされている。

ダマスカスでの途上で、イエスの霊の出現によって回心したパウロは、イエス・キリストの教えの伝道を開始したが、そのパウロの伝道生活での教えが現れれている。

「子供は親のために財をたくわえて置く必要はなく、親が子供のためにたくわえて置くべきである」というのは、神様への信仰において、親の立場にある人間が、子の立場にある人間より、責任を担わなければならない、ことを教えている。

イエス・キリストの霊や聖霊によって、信仰心を高められた人間は、まだそうでない人間より、多くの責任がある。信仰者としての模範を示すべきだということです。

それは、「キリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘ん」ずるという、信仰者の覚悟につながるのです。

世の中では、自分を守るために強く出たり、相手を抑えるために侮辱し、敵を迫害し、追い込む人間が多い。それは、イエスの教えに反している以上、信仰者は「弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まり」を甘んじて受けるべきだと述べているのです。

つまり、悪魔の影響下の世の中で、信仰者は弱者の立場に甘んじなければならない。しかし、その時、霊界から天使たちが信仰者を助けてくれて、この世的な意味ではなく、霊的な意味で信仰者は強い立場に立つことができるのです。その結果、「わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」という立場を得ることができる。信仰によって弱い立場になった時に、天使たちが霊界から助けてくれて、強い立場になるということです。

神様は、自分の信者を見捨てられることはなく、信者を助けるために、天使を遣わされるのです。しかし、悪魔はいつでもその手先となった人間を見捨てるものです。悪魔の力を借りて強者だと思っていた者も、悪魔に見捨てられ、弱者の立場に落とされ、その姿を見て悪魔は笑うのです。

つまり、本当は強い親が、そのような信仰者としての模範を示すことで、後に続く子供の立場の人間は、信仰の意味を悟るのです。

そして、「たといわたしは取るに足りない者だとしても、あの大使徒たちにはなんら劣るところがない」という信仰者の自信を持てるようになるのです。

パウロは、イエス・キリストの霊によって助けられているとの自信があったので、この世では弱者の立場になることも恐れなかったのです。